NOVAの知らない空間
新しく現れた通路へ入ってから、NOVAはほとんど口を開かなかった。
先頭を歩きながら、ときどき壁に触れ、床や天井へ視線を走らせている。
俺には、ただの白っぽい通路にしか見えない。
だが、レイナが作り直したアークの船内とは明らかに違っていた。壁には継ぎ目がなく、照明らしいものもない。それなのに通路全体が淡い光に包まれている。
それだけじゃない。
空気が流れている。
船内なら当たり前のことだが、その当たり前を作るものがどこにも見当たらなかった。
「変ね」
レイナが壁を調べながら呟いた。
「配線もダクトもない。壁の裏に隠してあるんじゃなくて、本当にないわ」
レイナは携帯端末を壁へ向け、今度は床を走査した。
「床下も同じ。空調設備も電力線も見つからない」
NOVAが立ち止まった。
「その記録を私へ」
「送ったわ」
しばらくNOVAは黙っていた。
壁面の光がその横顔を淡く照らしている。
「……面白いですね」
ようやく出てきた言葉がそれだった。
「何が?」
「何もないことが、です」
NOVAは壁へ掌を当てた。
「照明器具がない。電力線もない。空調設備もない。それでも照明は機能し、気温、気圧、酸素濃度は既存区画とほぼ同じ値を保っています。これだけなら、私の知らない方式で設備が組み込まれていると考えることもできます」
「違うのか?」
「問題は、こちらです」
NOVAがレイナから受け取った記録を空中に表示した。
アークの断面図らしい。
「これはレイナが改装時に取得した、この付近の構造データです」
俺には細かいところまでは分からないが、レイナが指を差した。
「ここがさっき開いた壁。そのすぐ後ろが外殻よ」
「つまり?」
「この通路が入る場所なんてないの」
それは聞いていた。
だがNOVAは、もう一つ別の図面を並べた。
「そして、こちらが私に残されていたアークの構造情報です」
二つの図面が重なる。
ほとんど同じ位置に、船体の外殻があった。
「……こっちにもない?」
「ありません」
NOVAは表示を消した。
「レイナがこの艦を改装した時代と、私がアークのメインAIとして稼働していた時代。その二つは大きく離れています。それにもかかわらず、どちらの記録にもこの区画は存在しない」
俺にも、ようやく意味が分かった。
レイナが見落としたわけじゃない。
NOVAが知らなかっただけでもない。
二つの違う時代で、ここには何もなかったことが確認されている。
「じゃあ、やっぱり突然増えたってことか」
「カイトらしい大胆なまとめ方ですが、否定できないところが腹立たしいですね」
「一言余計だよ」
NOVAは笑わなかった。
また通路の奥を見る。
「少なくとも、隠し部屋が開いたという説明では足りません。存在していなかった空間そのものが、何らかの方法でアーク内部へ接続された。今のところ、そう考えるのが最も自然です」
その言葉を聞いて、館長が壁へ目を向けた。
「空間そのものを作ったのか?」
「まだ断定できません。拡張したのか、別の場所から接続したのか、それとも私たちの空間に対する理解そのものが間違っているのか。残念ながら、候補だけは豊富です」
「嬉しそうだな」
俺が言うと、NOVAはようやくこちらを見た。
「自分がメインAIを務めていた艦から、知らない区画が出てきたのです。嬉しいという表現には異議があります」
「じゃあ悔しい?」
NOVAは少し考えた。
「知らないこと自体は構いません。ですが、自分の艦について知らないとなると話は別です」
そこで口元がわずかに動いた。
「少なくとも、全部調べるまでは帰りたくなくなりました」
やっぱり楽しんでるじゃないか。
通路をさらに進んだ。
しばらくして、NOVAが突然足を止めた。
「MIRA。現在位置を外部座標へ変換してください」
「実行します」
少し間があった。
MIRAが首を傾げる。
「変換できません」
「もう一度」
「結果は同じです。入口からの相対距離は取得できますが、この位置に対応する船体座標が存在しません」
俺にはさっぱり分からない。
「つまり、どういうこと?」
今度はNOVAがすぐには答えなかった。
通路を振り返り、入ってきた方向を見る。
「私たちがどれだけ歩いたかは分かります。ですが、今いる場所がアークの船首から何メートル、右舷から何メートルという形では表せないということです」
「それ、アークの中にいるって言えるのか?」
「良い質問ですね」
珍しく素直に褒められた。
「外部との通信は正常です。アーク本体との情報接続も切れていない。つまり完全な別空間へ移動したわけではありません。それなのに、外部座標上には私たちの現在位置が存在しない」
NOVAは少し考え、続けた。
「アークの中にいるという条件だけを保ったまま、船体寸法の制約から外れている。今のところ、その表現が一番近いでしょう」
「全然分からん」
「安心してください。説明した私も、あまり納得していません」
それなら安心……できるわけがない。
館長は何も言わず、NOVAを見ていた。
さっきまでの歴史家としての興奮とは少し違う。目の前で起きていることの意味を考えているようだった。
一方、レイナは別方向へ興味が向いていた。
通路の左側にいくつかの開口部が現れ、その一つへ入っていく。
俺たちも後を追った。
中は小さな部屋だった。
何もない。
棚も設備も家具もなく、固定具の跡さえない。
ただ、妙にきれいだった。
何千年も閉ざされていた場所とは思えない。埃も汚れもなく、今できたばかりと言われた方が納得できる。
レイナは壁と床を調べた後、部屋の中央に立った。
「ここ、部品置き場にちょうどいいわね」
館長が目を丸くした。
「君は、もう使うつもりなのか?」
「調査が終わって安全ならね。空けておく理由もないでしょ」
「古代文明の未知の空間だぞ」
「だからって眺めてるだけじゃ、もったいないじゃない」
館長は何か言いかけたが、結局やめた。
NOVAが横で静かに言った。
「レイナに保存という概念を理解してもらうには、少々時間が必要かもしれません」
「ちゃんと知ってるわよ」
「安心しました。では、使わないという概念から始めましょう」
「喧嘩売ってる?」
「文化交流です」
館長が吹き出した。
それくらいのやり取りで、NOVAはすぐ調査へ戻った。
小部屋は一つではなかった。
奥へ進むと、大きさの違う区画がいくつも並んでいる。
だが、どこにも用途を示すものがない。
NOVAはそれぞれを調べ、レイナの測定結果と照合していった。
そして三つ目の部屋で、また新しいことが分かった。
「レイナ。この壁の厚さを測れますか?」
「もうやってる。たぶん驚くわよ」
「聞きましょう」
「測れない」
俺は二人を見比べた。
「壁があるのに?」
「表面はある。でも、その先が取れないのよ。普通なら壁材が何センチ、その向こうに配線スペースが何センチって出る。でもこれは表面から先の距離が測定できない」
NOVAが壁へ手を触れた。
「なるほど。だから配線がないように見えたのではなく、私たちの測定そのものが壁の内部へ届いていない可能性がありますね」
「つまり、中に何かある?」
「それも分かりません。『中』が存在するのかどうかから確認が必要です」
「壁なのに?」
「カイト。先ほどから私たちは、十二メートルの船体に収まらない通路を歩いています。そろそろ壁にも常識を要求するのを諦めてください」
それはそうかもしれない。
認めたくないけど。
さらに進むと、今度は通路そのものが広くなり始めた。
そこでMIRAが新しい測定結果を出した。
「姉さん。入口から現在位置までの内部距離、二十一・四メートルです」
全員が止まった。
「二十一?」
俺は思わず聞き返した。
アークの全長は十二メートルだ。
もう二倍近い距離を船内だけで歩いている。
しかも、まだ先がある。
NOVAはしばらく何も言わなかった。
やがて、少し低い声で呟いた。
「これは空間増幅と呼んでよさそうですね」
館長が聞いた。
「どれほど増えている?」
「距離だけでは判断できません。容積を計算します」
NOVAとMIRAが測定を始め、レイナも端末を操作する。
俺とカノンには何もすることがない。
「わたくしたち、完全に置いていかれていますわね」
「俺も今それ思ってた」
「少しくらい説明してくださってもよろしいのに」
「説明されても分からんぞ」
「カイトと一緒にしないでくださいませ」
「ひどくない?」
しばらくしてNOVAが顔を上げた。
「現時点で確認できた区画だけでも、従来のアークの船内容積を大きく上回っています。未確認部分を含めれば、おそらく三倍前後」
「三倍……」
その時、館長の表情が変わった。
「NOVA。その数字は確かなのか?」
「誤差はあります。ただ、二倍以下ということはないでしょう」
館長は少し考えた後、俺を見た。
「カイト。このことは当面、外では話さない方がいい」
「そんなにまずい?」
「同じ大きさの船が二倍、三倍の物資を運べる。それだけで、輸送というものの意味が変わる。今はそれだけ分かっていればいい」
さっきまでの館長とは声が違った。
歴史好きのおっちゃんじゃない。
皇帝だ。
「分かった」
「助かる」
それだけ言うと、館長は少し表情を緩めた。
「もっとも、詳しいことは帰ってから考える。今は私も続きを見たい」
「皇帝の仕事は?」
「後だ」
切り替えが早い。
だが、その先で俺たちは全員、足を止めることになった。
通路が終わっていた。
正確には、その先に大きな空間が開いていた。
NOVAが最初に入った。
俺たちも続く。
そして言葉を失った。
広い。
今までの小部屋とはまるで違う。
天井が高く、左右の壁も遠い。
倉庫と言われても納得できるくらいの空間が、十二メートルのアークの中に収まっている。
いや、収まっているという言い方そのものがおかしい。
ここはもう、外から見たアークの形とは何の関係もない。
レイナでさえ、しばらく何も言わなかった。
館長はゆっくり中央へ進み、天井を見上げている。
カノンも珍しく静かだ。
その中で、NOVAだけが一人、さらに奥へ歩いていった。
広間の中央で止まる。
ゆっくり周囲を見回した。
俺には、その背中が少し違って見えた。
驚いているというより、何かを考えている。
長い間、自分の一部だったはずの艦を、初めて見るもののように眺めていた。
「NOVA」
呼ぶと、しばらくして振り返った。
「カイト。訂正します」
「何を?」
「私は、この艦についてほとんど知っていると思っていました。推進機関も、航法も、兵装も、内部構造も。メインAIだったのですから、それを疑ったことすらありません」
NOVAは一度、広間へ視線を戻した。
「ですが、この区画は私の記録に存在しない。レイナが調べた時にも存在しなかった。内部座標は外部座標と対応せず、壁の厚さすら測れない。それでも生命維持機能は正常に働いている」
そこで、NOVAが小さく笑った。
「どうやら私は、アークのことを知っていたのではなく、アークが見せていた部分を知っていただけなのかもしれません」
その言葉には、少し悔しさが混じっていた。
でも、それ以上に楽しそうだった。
「それって、結構腹立つんじゃない?」
「ええ。非常に」
NOVAはあっさり認めた。
「ですから、決めました」
「何を?」
NOVAが広間の奥を見た。
「アークがまだ何か隠しているのなら、全部見つけます」
「全部?」
「もちろんです。私をメインAIにしておきながら、ここまで見事に隠したのですから」
NOVAは俺へ視線を戻した。
口元には、いつもの少し意地の悪い笑みが戻っていた。
「このままでは、私の面子が立ちません」
そして、また広間の奥へ歩き始める。
レイナがその後ろ姿を見て笑った。
「完全に火がついたわね」
「ああ」
俺もそう思う。
今まで俺たちは、アークを古代の戦闘艦だと思っていた。
たぶんNOVAもそう思っていた。
だけど、本当にそうなのだろうか。
十二メートルの船体の中に、三倍近い空間を隠し、メインAIにさえ存在を知らせていなかった艦。
その奥に何があるのか。
まだ分からない。
ただ一つだけ確かなのは、NOVAがそれを放っておくはずがないということだった。




