スメラの夜
第31話 スメラの夜
服屋を出るころには、スメラの空はもう夕方の色に変わっていた。淡い青から紫がかった橙へとゆっくり沈み、街のあちこちに灯りがともり始めている。昼間とは違って、建物の輪郭が柔らかく浮かび上がっていた。
「で、結局こんなに買ったのか」
俺はカノンが抱えている袋を見た。
「必要なものだけですわ」
「三袋あるぞ」
「必要なものが三袋あっただけですわ」
言い切りやがった。
「カイト、諦めてください。カノンの『必要』は一般的な意味とは異なります」
「NOVA、あなたも二袋ありますでしょう!」
「正確には一袋と七割程度です」
「同じですわ!」
レイナが隣で吹き出した。
「まあいいじゃない。宿代くらいは残ってるんでしょ?」
「その言い方が怖いんだよ」
「ご安心ください、カイト。今夜、路上で眠るほど困窮してはいません」
「今夜って言ったな?」
「明日のことを今日心配しても仕方ありません」
「絶対わざと言ってるだろ」
「通常運転ですが、何か?」
一生遊んで暮らせるくらいの金を持っていたはずなのに、別の星へ来ただけで財布の中身を気にしている。我ながら妙な話だ。
宿泊街は宇宙港から少し離れた場所にあった。高い建物ばかりではなく、五階から十階程度のホテルが広い通りにゆったり並んでいる。どこも外壁に大きな広告を貼るような造りではなく、入口の脇に小さな光文字で名前が浮かんでいる程度だった。
「ここ、良さそうじゃない?」
レイナが指したホテルは六階建てで、白い石のような外壁に細い金属の縁取りが入っていた。正面には低い植栽と水盤があり、水面の下から淡い光が揺れている。
「値段も……まあ、払えるな」
「その言い方がもう貧しいですわね」
「誰のせいで服代が増えたと思ってる」
「必要経費ですわ」
自動扉を抜けると、広いロビーがあった。床は光沢を抑えた黒っぽい石材で、中央には天井近くまで伸びた植物が植えられている。受付の奥には大きな窓があり、そこから夜へ変わり始めたスメラの街が見えていた。
「綺麗ね」
レイナが小さく言った。
「まあ……悪くありませんわね」
カノンも同意した。こいつの「悪くない」は、だいたいかなり気に入っている時だ。
受付には若い女性が二人いた。俺たちが近づくと、そのうち一人が笑顔を向けてきた。
「いらっしゃいませ。ご宿泊ですか?」
「ああ。三部屋空いてる?」
「はい。シングルが二室、ツインが一室でしたら同じ階でご用意できます」
俺は後ろを振り返った。
「それでいいか?」
「わたくしは一人部屋が」
「却下」
「まだ何も言ってませんわ!」
「言っただろ」
結局、俺が一人部屋。レイナとカノンがツイン。NOVAとMIRAがもう一つのシングルを使うことになった。
「シングルに二人で大丈夫なの?」
受付の女性がNOVAとMIRAを見た。
「問題ありません」
NOVAが即答した。
MIRAも隣で静かに頷いた。
受付を済ませ、細い金属板のような部屋キーを受け取る。宿泊費を払った瞬間、残金がまた少し減った。
「……減るなあ」
「お金は使えば減ります」
「知ってるよ、MIRA」
「確認です」
昇降機で五階へ上がった。廊下は静かで、壁の下部に埋め込まれた照明が足元だけを柔らかく照らしている。
俺の部屋は廊下の奥だった。
「じゃあ、また後でな」
「カイト、夕食は?」
「さっき食ったばっかりだろ」
「夜食という文化がありますわ」
「ない」
「ありますわ」
「お前の中だけだろ」
カノンをレイナが引っ張っていった。
「ほら、行くわよ」
「まだ話は終わってませんわ!」
二人が部屋へ入る。NOVAとMIRAも向かいの部屋へ入っていった。
俺も自分の部屋を開けた。
中は思っていたより広かった。入口脇に小さな収納があり、その先にベッド。壁際には机と椅子が一つずつ置かれている。窓は大きく、床近くから天井まで一枚ガラスになっていた。
「おお……」
窓へ寄る。
五階でも十分だった。
街の灯りが遠くまで続き、その向こうには宇宙港の誘導灯が細い線になって見えている。空にはすでにいくつか星が出始めていた。
「これでこの値段なら、悪くないな」
ベッドへ腰を下ろす。
沈み込みすぎない。硬すぎもしない。
「……いいな、これ」
久しぶりにまともな寝床という気がした。
その頃、隣の部屋ではレイナが買った服をベッドの上に広げていた。
「これ、やっぱり買ってよかったかも」
「似合ってましたもの」
カノンも自分の袋から服を取り出していた。
「あなたも気に入ってるじゃない」
「当然ですわ。わたくしは何を着ても似合いますもの」
「はいはい」
レイナが笑う。
しばらく二人で服を眺めていたが、ふとレイナが口を開いた。
「でも……びっくりしたわね」
「何がですの?」
「カイト」
カノンの手が止まった。
「……カイトが、どうしましたの?」
「着替えただけで、あんなに雰囲気変わると思わなかった」
「まあ……多少は見栄えが良くなりましたわね」
「多少?」
「多少ですわ」
レイナがカノンを見る。
「ずいぶん見てたけど」
「見てませんわ!」
「見てたじゃない」
「見えていただけですわ!」
「便利な言い方ね」
カノンはぷいと横を向いた。
「そういうあなたこそ、随分嬉しそうでしたわよ」
「私?」
「カイトに似合ってると言われた時ですわ」
レイナの手が止まった。
「……見てたの?」
「見てませんわ」
「今の、完全に見てた人の台詞よ」
「見えていただけですわ!」
「またそれ?」
二人とも少し黙った。
窓の外では、スメラの街がゆっくり夜へ沈んでいく。
レイナがベッドへ腰掛けた。
「カイトって、そういうの全然分かってないのよね」
「何がですの?」
「……別に」
「言いかけてやめるのは卑怯ですわ」
「じゃあカノンはどうなの?」
「何がですの?」
「カイトのこと」
「…………」
今度はカノンが黙った。
「何でもありませんわ」
「はいはい」
「その返事やめなさい!」
向かいの部屋では、NOVAが今日買った服を椅子の背に掛けていた。
MIRAはその様子を黙って見ていた。
「NOVA」
「なんですか?」
「今日、カイトに綺麗だと言われましたね」
NOVAの手が止まった。
「事実を述べただけでしょう」
「そうですか」
「そうです」
「その後、十一秒間鏡を確認していました」
「…………」
「さらに帰り道でも三度、服装を確認しています」
「MIRA」
「はい」
「あなたは最近、観察対象の選び方を間違えていませんか?」
「いいえ。興味深いので」
「何がです?」
「カイトに関係する時だけ、NOVAの反応速度に変化があります」
「ありません」
「あります」
「ありません」
「記録を再生しますか?」
「削除してください」
「嫌です」
NOVAがゆっくりMIRAを見る。
「……今、嫌だと言いました?」
「はい」
「なぜ?」
MIRAは少しだけ考えた。
「NOVAが困るので」
「…………」
「面白いです」
「MIRA」
「はい」
「あなた、性格が悪くなっていませんか?」
「NOVAを参考にしています」
「それは非常に不本意です」
MIRAはほんの僅かに笑った。
「では、少しカイトのところへ行ってきます」
NOVAの表情が止まる。
「……何の用です?」
「特にありません」
「特にないのに?」
「はい」
「カイトの部屋へ?」
「はい」
「なぜです?」
「行ってはいけませんか?」
「そういう意味ではありません」
「では行ってきます」
MIRAはそのまま壁へ向かって歩いた。
「ちょっと待ちなさい、MIRA」
半身が壁へ消える。
「何でしょう?」
「……いえ」
「では」
MIRAはそのまま壁の向こうへ消えた。
NOVAはしばらく壁を見ていた。
「…………特に用もないのに、なぜカイトの部屋へ行くんですか」
もちろん返事はなかった。
俺はベッドに寝転がって天井を見ていた。
「……静かだな」
船の中とは違う。
エンジン音も機械の振動もない。
こういう場所で寝るのは、いつ以来だろう。
「カイト」
「うわっ!?」
勢いよく起き上がる。
壁からMIRAが出てきた。
「こんばんは」
「こんばんはじゃない! 壁から入ってくるな!」
「最短距離でしたので」
「せめて一言言え!」
「今、言いました」
「入る前だよ!」
「壁の向こうからですか?」
「そうだよ」
「聞こえますか?」
「……たぶん聞こえないな」
「では現状維持ですね」
「なんでそうなる」
MIRAは何事もなかったように窓の方へ行った。
「綺麗ですね」
「何しに来たんだ?」
「特に用事はありません」
「…………は?」
「来てはいけませんでしたか?」
「いや、別にいいけど」
「では問題ありません」
「お前ら姉妹、そういうところだけ妙に似てきたな」
「NOVAは不本意だと言っていました」
「何が?」
「私がNOVAを参考にしていることです」
「そりゃ嫌だろうな」
MIRAは窓の外を見ていた。
「スメラは静かな星ですね」
「ああ」
「皆さんも、今日はよく笑っていました」
「そうか?」
「はい。カノンは特に」
「服買ったからだろ」
「それだけでしょうか」
「他に何があるんだよ」
「分かりません」
MIRAはあっさり言った。
しばらく二人で窓の外を見た。
何か話題があるわけでもない。
MIRAも黙っている。
「……本当に何しに来たんだ?」
「特にありません」
「二回目だぞ」
「回答は変わりません」
俺は笑った。
「まあ、いいけどな」
「はい」
また少し沈黙が続いた。
「では、戻ります」
「もう?」
「長居する理由もありませんので」
「来た理由もなかっただろ」
「そうですね」
MIRAは平然と答えると、来た時と同じ壁へ向かった。
「MIRA」
「はい?」
「今度はもう少し驚かない出方しろよ」
「検討します」
そのまま壁の向こうへ消えた。
「……絶対しないな」
部屋がまた静かになった。
俺はベッドへ戻り、何気なく胸元へ手をやった。
指先に硬い感触が触れる。
ペンダント。
物心がついた頃には、もう首に掛かっていた。
誰からもらったのか知らない。
なぜ俺が持っているのかも分からない。
俺はそれを服の中から引き出した。
菊の花に似た紋章。
スメラへ降りる前、アークから街を見た時、その紋章とほとんど同じものが大きな建物の上にあった。
照合結果は九十八・八パーセント。
偶然で済ませるには似すぎている。
昼間は金のことや服のことで頭から抜けていたが、やっぱり気になる。
端末を取り、街の案内を開いた。
建物の情報はすぐに出た。
「スメラ古代歴史館……」
画面の建物を見て、それから手の中のペンダントを見る。
「……明日、行ってみるか」
窓の外には、静かなスメラの夜が広がっていた。
どうやらこの星は、綺麗で飯がうまいだけの星ではなさそうだ。




