宇宙船の墓場
第3話 宇宙船の墓場
惑星の重力圏を振り切り、母星を背にしてからどれだけの時間が経っただろう。
窓の外に広がっていたのは、星々の光すらまばらな、凍てつくような漆黒の深宇宙だった。大気圏を抜けたばかりの近場なんて甘いものではない。目指す「宇宙の墓場」は、通常の航路から何光年も離れた、銀河の吹き溜まりとも言える途方もなく遠い場所にある。
長距離航行のただ中、アークの居住区画――リビングルームと呼ぶには少し狭いが、生活の匂いが染み付いたその空間では、カイトが手塩にかけて淹れたコーヒーの香りが漂っていた。
「おっと、こぼすなよ俺、狭い船内でコーヒーのシミを落とすのは一苦労なんだからな」
カイトは使い古したマグカップを片手に、リビングの小さなテーブルに腰を下ろす。幅4メートルの船内を効率よく区切ったこの空間には、簡易的な調理スペースや、かろうじて足を伸ばして座れるベンチシートが備わっている。
その隣の区画にある寝室スペースでは、折りたたみの簡易ベッドにしわくちゃの毛布が無造作に放り出されていた。数日間の過酷な航海では、このベッドに潜り込んで仮眠を取るのがカイトの数少ない休息の時間だ。
さらにその奥には、予備の工具やパーツが転がる倉庫、そしてシャワーとトイレを兼ねた最小限の水回りスペース、さらにはエンジンルームの手前に位置する小さな貨物室までしっかりと確保されている。決して広くはないが、生きるための機能がギッシリと詰め込まれた、まさにカイトの「動く隠れ家」だった。
メインモニターの端に姿を映したNOVAは、そんな船内の様子をセンサーで拾いながら、冷ややかな、しかしどこか呆れたような声を出す。
「相変わらず自分にツッコミを入れるんだね、しかし本当に、この狭い空間によくこれだけのガラクタと生活必需品を詰め込んだものだよ……まあ、君が言う通り、エンジンルームを除いてもこれだけのスペースがあれば、何日もの深宇宙の旅でも私が窒息死の心配をする必要はなさそうか」
「当たり前だ。俺が住みやすいように一から組み上げたんだからな」
カイトはコーヒーを飲み干すと、腰を上げて操縦管制室へと戻る。 その窓の向こうでは、いよいよ無限の闇の果て、すべてを飲み込む「宇宙の墓場」の影が、巨大な渦を巻いて静かに口を開けて待っていた。
アークの船底で、カイトが自力で組み上げた『メビウスリングコイル』が、青黒い熱を帯びて規則正しい光を瞬かせていた。この特製のエンジンがなければ、途中で干からびていたような過酷な道のりだ。
「おい、NOVA。あとどれくらいで、その『墓場』の領域にかかる?」
カイトは擦り切れた革張りのシートに深く体を預け、操縦桿を軽く叩いた。長旅の退屈さを紛らわせるように、コクピットには古いコーヒーの香りがかすかに漂っている。
メインモニターの端に、気だるげな表情を浮かべるNOVAのホログラムが浮かび上がった。彼女は手元の宙に浮く航法チャートを流し見しながら、小さく息をつく。
「そんなに急かさないでくれ、カイト。君の自慢のメビウスリングコイルのおかげで速度が出るとはいえ、空間跳躍の歪みを避けて安全にルートを取るにはまだ距離がある。……あと数日は、この無駄に広い宇宙の真ん中で私と過ごすことになりそうね」
NOVAは呆れたように肩をすくめると、ふとモニターの隅で点滅している小さな受信シグナルに目を留めた。
「もっとも……退屈しのぎの『ノイズ』なら、すでに拾い始めているけどね」
「ノイズだと?」
「ああ。私の船のコンピューターが捉えた微弱な波長……この先の航路上にあるはずのない、古びたエラーコードだ。まるで、はるか彼方の墓場から、何か古い磁石が私たちを引き寄せようとしているみたいにね」
遠く離れた目的地から届く、不気味で微かな共鳴。 まだ見ぬ「宇宙の墓場」と、その奥に眠る同型艦の影へ向けて、アークは孤独な闇をさらに深く進んでいく。
果てしない深宇宙を駆けること数日。母星の光さえ点のような微光へと変わり、周囲の空間から一切の航路標識が消え失せたころ、アークの進路前方にある異変が起き始めた。
「……おい、NOVA。計器の針が狂い始めたぞ。これ以上進むと、推進系が吸い込まれるように引っ張られる」
カイトは操縦桿をきつく握りしめ、船体の揺れを抑え込もうと腕に力を込めた。窓の外の漆黒は、ただの暗闇ではなくなっていた。幾重もの重力波の歪みが星々の光をグニャリと曲げ、その中心には、かつて宇宙船の墓標となった膨大なデブリの渦が、底知れぬ口を開けて広がっている。
そこが、一度足を踏み入れたら二度と普通のエンジンでは抜け出せない場所――「宇宙の墓場」だった。
「慌てないでくれ、カイト。君が手塩にかけて組み上げた『メビウスリングコイル』の出力がなければ、今頃私たちはその重力潮汐に引き裂かれてスクラップの仲間入りだったんだからね」
メインモニターの端に浮かぶNOVAのホログラムは、平然を装いながらも、細かく流れるエラーコードのウィンドウを素早くスワイプして消していく。
「それに……ただの墓場じゃない。私の方のシステムが、あの渦の深部から発せられる微弱なシグナルを完全にキャッチした。アークのコンピューターが、ずっと呼応し合っていた『古い同型艦』のメインフレームからの応答だ」
「同型艦?……あの中にあるってのか?」
カイトが視線を向けた墓場の中心。何千、何万もの朽ち果てた船の残骸が重力と磁場に囚われ、静かに渦巻くその最奥に、ぽつんと浮かぶ一つの影があった。
それは、アークと全く同じシルエットを持つ、旧式の遺物船だった。外装は宇宙の風雪にまみれて啜れているが、奇跡的に漆黒の闇の中に異様な存在感を放って生き残っている。
カイトは無言で息を整えると、メビウスリングコイルの出力を微調整し、容赦なく襲いかかる重力と磁場の嵐を切り裂くように、その沈黙する同型艦の残骸へとアークを滑り込ませた。
ガリリ、と乾いた金属音が響き渡り、アークのノーズが同型艦のドッキングポートに噛み合う。
「……接続完了だ」
カイトは操縦席から立ち上がり、腰のツールボックスを確認すると、冷え切った艦内へと続くエアロックへ歩み出した。静まり返った宇宙の墓場の底で、すべての物語が動き始める。




