球心力の臨界点
海賊船ランドラグの反応が索敵圏から消えてから、アークは再びエルダン星系へ向けて航行を続けていた。
目的地は惑星スメラ。だが、MIRAが示した航路は直線ではない。星図上で大きく弧を描き、ある領域を避けるように設定されている。
カイトは操縦席で、その不自然な迂回をしばらく眺めていた。
「なあMIRA。やっぱりこれ、ずいぶん遠回りじゃないか?」
「遠回りではなく安全航路よ。この先には巨大ブラックホールがあるの。エルダン星系へ向かう船は、すべてこの領域を避ける」
MIRAが星図を拡大すると、航路の内側に広大な危険領域が表示された。
「直進すれば?」
「当然、短いわ。でも誰も通らない。近づきすぎれば脱出できなくなるもの」
カイトは返事をせず、その領域を見つめた。
NOVAが横からその顔を覗く。
「また何か考えているわね」
「まだ何も言ってないぞ」
「あなたの場合、言う前の方が危険なのよ」
レイナが笑った。
「それはちょっと分かる」
「お前まで言うな」
カノンだけは星図を見ながら首を傾げていた。
「ブラックホールとは、それほど危険なものですの?」
「危険という言葉では足りないくらいね」
MIRAが答えた。
「質量が極端に集中して形成された天体よ。周囲の時空そのものを大きく歪め、ある境界を越えれば光さえ外へ出られない」
「光まで?」
「ええ」
カイトが振り向いた。
「今、なんて言った?」
「光さえ脱出できない、と言ったの」
「そこじゃない。その前だ。質量が極端に集中するってところ」
MIRAが怪訝そうにカイトを見る。
「それが?」
「……見てみたい」
「却下」
NOVAが即答した。
「遠くからだよ」
「却下」
「見るだけだぞ」
「その言葉を何度聞いたと思ってるの?」
「まだそんなに付き合い長くないだろ」
「十分よ」
結局、アークは安全限界を越えない範囲で航路をわずかに変更した。
数時間後、前方の星空に異変が現れた。
最初に気づいたのはレイナだった。
「……あれ」
星々の光が歪んでいる。
何もないはずの空間を避けるように光が曲がり、その中心を取り囲むように奇妙な輪郭を作っていた。
カノンが席を立つ。
「どこにありますの?」
「見えている黒いものがブラックホールじゃないわ。周囲の光が曲げられているの。その中心にある」
MIRAが観測装置を起動すると、空間に解析画像が浮かび上がった。
カイトは黙ってそれを見ていた。
巨大な質量。
中心へ向かう場。
近づくほど急激に強くなる収束。
「……これだ」
「何が?」
レイナが尋ねたが、カイトは画面から目を離さなかった。
「球心力だよ」
NOVAが小さく息を吐いた。
「やっぱりそこへ行くのね」
「だって見てみろよ。全部が中心へ向かってる。周囲にあるものを取り込んで、一つの巨大な場になってるんだ」
「一般には重力場と呼ぶわ」
MIRAが言った。
「俺には球心場にしか見えない」
カイトは解析画像へ近づいた。
「小さな球心場が集まれば、もっと大きな球心場になる。物質の中にも球心場があって、それが集まれば、より大きな一つの球心場として振る舞う」
MIRAは黙って聞いている。
「水滴でも、惑星でも、恒星でも基本は同じだ。でも恒星がさらに巨大になって、しかも中心へ圧縮され続けたらどうなる?」
「重力崩壊が起きるわ」
「それを球心力で考えるんだよ」
カイトは両手で球を作るような仕草をした。
「球心場が周囲の球心場を巻き込み続ける。大きくなればなるほど、さらに多くの球心場を一つにする。でも、いつまでも同じ状態でいられるとは思えない」
MIRAの表情が変わった。
「臨界点?」
「ああ」
カイトはブラックホールを指した。
「こいつは球心力がなくなったんじゃない。逆だ。球心場がある限界を突破して、収束が止まらなくなった状態なんじゃないか?」
しばらく誰も喋らなかった。
やがてMIRAが空中に新しい表示を開いた。
「待って。あなたの考えを、既存のブラックホール理論と照らし合わせてみる」
光の文字が並び始める。
χ =(2 × G × M)÷(R × c²)
「質量をM、天体の半径をRとする。これは天体がどれだけ強く圧縮されているかを表す無次元量として使えるわ。あなたの言葉に合わせるなら、ひとまず『球心集中度』として見てみましょう」
カイトが式を見上げた。
「密度は?」
「もちろん入れられるわ。球の平均密度をρとすれば……」
ρ =(3 × M)÷(4 × π × R³)
「この式から質量Mを取り出すと……」
M =(4 × π × R³ × ρ)÷ 3
MIRAが最初の式のMを、その値に置き換えた。
χ =(8 × π × G × ρ × R²)÷(3 × c²)
「式が変わったように見えるけれど、質量Mを密度ρと半径Rで書き直しただけ。同じ条件よ」
「なるほど。密度だけじゃないのか」
「ええ。同じ密度でも、その密度を持つ天体の大きさによってχは変わる。あなたが言う球心場の臨界を考えるなら、密度だけを見るのでは足りないことになる」
カイトは二つの式を見比べた。
「密度と、球心場そのものの大きさか」
「そういう見方はできるわ。そして、このχが1になるところを見れば……」
χ = 1
MIRAが最初の式へ戻し、計算を進める。
R =(2 × G × M)÷ c²
その指が止まった。
NOVAが妹を見る。
「どうしたの?」
「シュヴァルツシルト半径よ」
「つまり?」
カイトが尋ねると、MIRAは式を見つめたまま答えた。
「ブラックホールの事象の地平面を表す既知の条件と一致する。ただし勘違いしないで。今は既存理論の式を、あなたの球心場という考え方に対応させて読み替えているだけ。これで球心力が証明されたわけではないわ」
「でも、矛盾はしてない?」
MIRAはもう一度計算結果を確認した。
「少なくとも、この条件については矛盾していないわね」
カイトは遠くのブラックホールへ視線を戻した。
「じゃあ、球心場が巨大化していけば、どこかで臨界点に達する。そこを越えた瞬間、自分で自分を収束させ続ける」
「あなたの仮説としては、そういうことになるわね」
「それがブラックホール……」
カイトはそこで黙った。
だが、考えるのをやめたわけではなかった。
NOVAがその横顔を見る。
「まだ何かあるの?」
「逆だよ」
「逆?」
「巨大化する方向に臨界点があるなら、反対にもあるんじゃないか?」
MIRAが眉を寄せた。
「小さくなる方向?」
「ああ。球心場をどんどん小さくしていって、その安定構造を壊す。そこにも臨界点があるとしたら?」
レイナが先に気づいた。
「……核?」
カイトが頷いた。
「原子核だ」
MIRAの表情が再び変わった。
空中に別の式が現れる。
E = Δm × c²
「核反応では、反応前後の質量差Δmに相当するエネルギーが、この関係で現れる」
「そこにも光速がある」
「正確には光速の二乗ね」
「ブラックホールの式にも同じc²が入ってる」
MIRAは二つの式を並べた。
片方は、巨大な天体がブラックホールとなる境界。
もう片方は、質量とエネルギーを結びつける関係。
まるで違う現象なのに、その両方に同じcが現れている。
「球心速度……」
カイトが呟いた。
「俺が考えていた、球心場の基本速度だ」
MIRAはすぐには頷かなかった。
「同じcが現れるからといって、同じ原理だとはまだ言えないわ」
「分かってる。でも、偶然で片づけるには面白すぎるだろ」
「それは認めるわ」
MIRAは二つの式を見比べた。
「巨大側には収束の臨界がある。そしてあなたは、極小側にも球心場の安定構造が崩れる臨界があるのではないかと考えている」
「たぶんな」
「でも、どちらも勝手には起きない」
NOVAが言った。
カイトが振り向く。
「どういうことだ?」
「恒星は存在した瞬間からブラックホールになるわけじゃない。内部の平衡が崩れるというきっかけが必要になるでしょう? 原子核だって同じよ」
MIRAが頷いた。
「臨界点を越えるためのトリガーが必要ということね」
「ああ……」
カイトの目が再びブラックホールへ向いた。
「でも一度越えたら、トリガーそのものが全部のエネルギーを出してるわけじゃない」
レイナが腕を組んだ。
「核分裂なら、一個の中性子がきっかけになって連鎖反応が始まる」
「そう。きっかけは扉を開けるだけだ」
カイトは空中に浮かぶ二つの式を見た。
「その向こうにある力は、最初からそこにある」
誰もすぐには答えなかった。
遠くでは巨大ブラックホールが、星々の光を静かに歪ませ続けている。
「面白いな」
カイトが呟いた。
「私は少し怖くなってきたわ」
MIRAが言った。
「何が?」
「あなたよ」
NOVAがすぐに頷く。
「それは正しい判断ね」
「姉さんが言うと説得力があるわ」
「お前らな……」
カノンがくすくす笑った。
やがてアークはブラックホールから距離を取り、本来の航路へ戻り始めた。
目的地はまだ遠い。
エルダン星系、惑星スメラ。
だがカイトの頭から、先ほどの二つの式は消えていなかった。
巨大化した先にある、収束の臨界。
極小の世界にあるかもしれない、もう一つの臨界。
そして、その両方に現れる光速。
ブラックホールを見に来ただけだったはずが、カイトの中で球心力という考えは、また一つ大きな謎を抱え込んでいた。




