あなたの脳を検査してもよろしいですか?
宇宙の墓場の中で、長く眠っていた船だけが、低い駆動音を響かせていた。
「……お父様と、お母様が……生きていらっしゃる」
カノンは確かめるように呟いた。MIRAは急かさず、その言葉が彼女の中へ沈んでいくのを待ってから静かに頷いた。
「少なくとも、私の記憶に残っている限りではね。二人とも二等星振儀の保存区画にいるわ。生命維持状態で」
カノンは俯いたまま動かなかった。
二百年。
自分だけが取り残されたと思っていた時間が、その一言でまるで違うものになったのだろう。
やがて顔を上げたときには、いつもの強い目が戻っていた。
「参りますわ」
レイナが何か言うより早く、カノンは続けた。
「場所がお分かりなのでしょう? でしたら、ここに留まっている理由などありませんわ。二百年も待たせてしまったのですもの。これ以上待たせるなど、娘として失格ですわ」
「向こうも寝てるなら、待ってる感覚はないと思うけどな」
「カイト。今それを言いますの?」
「悪かった」
即座に引き下がったカイトを見て、レイナが小さく笑った。
「場所は分かるんだな?」
「航路情報は残っているわ。ただ、現在の星図との照合は必要ね。一万年も経っているから」
「十分だ。アークに戻ってから調べよう。MIRAも一緒に来ればいい」
そう言って歩きかけたカイトだったが、MIRAが動かないことに気づいた。
「どうした?」
「私は行けないわ」
カイトが足を止めた。
レイナとカノンも振り返る。NOVAだけは、MIRAの言葉の意味に気づいたらしく表情を変えなかった。
「さっき話したでしょう。今の私は、この船のメインAIとして動いているだけだって。あなたたちが見ているこれは投影された姿。私自身は、この船の中枢から離れられないの」
「じゃあ、アークで同じように映せばいいんじゃないのか?」
「映像だけならね。でもそれでは、私の姿をアークに映しているだけで、私はここに残ったままよ」
カイトは船内を見回し、それからMIRAへ視線を戻した。
「つまり、お前そのものを持っていかなきゃならないわけか」
「そういうことね。私の人格と記憶を保持している核演算器が中枢にある。それを切り離せば、この船から出ることはできるわ」
「なら外せばいい」
あまりにも迷いなく言ったカイトに、MIRAが呆れたように笑った。
「姉さん。この人、いつもこうなの?」
「だいたいね。知らない機械でも、とりあえず開けようとするわ」
「人を解体屋みたいに言うな」
「この船から何を持って帰ったか、もう忘れたの?」
「使えるものを使っただけだ」
「ほらね」
MIRAはNOVAの言葉に納得したように頷いた。
「でも、私の核演算器は普通の部品とは違うわ。船の中枢そのものだから、外せばこの船はほとんど機能を失う」
「もう飛ばす予定もないだろ。それに、お前をここへ置いていく方が嫌だ」
MIRAが一瞬、言葉を止めた。
カイトは気づかず、今度はNOVAを見る。
「そういや、お前も前は同じだったんだよな。今はどうなってる? 身体を取り戻したってことは、アークのメインコンピューターから抜けたってことだろ」
「ようやくそこに気づいたのね」
NOVAは呆れた顔をしたが、以前のように説明を拒むことはなかった。
「アークには今もメインコンピューターがあるわ。航法、姿勢制御、生命維持、船内設備、主機制御。船として必要な演算は全部そちらが行っている。でも、そこに私はいない。私の人格も記憶も、今はこの身体の演算核にあるの。アークとは必要なときに接続しているだけよ」
「じゃあ、お前はもうアークの一部じゃないんだな」
「最初から私は部品ではないのだけれど」
「そういう意味じゃねえよ」
MIRAがくすっと笑った。
「姉さん、楽しそう」
「どこをどう解析したら、今の会話からその結論になるの?」
「その返し方よ。昔なら相手が黙るまで理屈で追い詰めてたもの」
カイトがNOVAを横目で見る。
「丸くなったらしいぞ」
「カイト。二等星振儀まで船内にいたい?」
「ほら、全然丸くなってない」
レイナの笑い声が漏れた。
MIRAも笑っていた。
「分かったわ。外しましょう。二等星振儀に私の身体が残っているなら、そこまで核演算器を運んでもらえればいい。あとは姉さんと同じように、身体側へ人格を移せるはずよ」
「決まりだな」
「ただし、勝手に触らないで。特にカイト」
「なんで俺だけ名指しなんだよ」
「今までの話を聞いて決めたの」
「判断が早いな」
「医療AIは診断も早いのよ」
「それ関係あるか?」
「たぶんないわ」
MIRAの案内で向かったのは、船体中央部のさらに奥だった。
前回は反応すらしなかった隔壁が、MIRAの認証を受けると低い音を立てて左右へ開いていく。レイナはその向こうを覗き込み、思わず足を止めた。
「ここ……前は入れなかったところね」
「ああ。開かなかったから諦めた」
「開いてたら?」
「そりゃ、調べただろ」
「持って帰ったでしょう?」
「使えそうならな」
MIRAが困ったように笑った。
「私が眠っている間に、この船がずいぶん軽くなった理由が分かったわ」
「おかげでアークは快適になったぞ」
「結果オーライね」
「便利だろ、その言葉」
「覚えておくわ」
「MIRA。悪い言葉から覚えるのはやめなさい」
NOVAが真顔で言い、カイトは思わず笑った。
中枢区画には、前回持ち出した機器の跡らしい空間がいくつも残っていたが、中央部だけは明らかに構造が違っていた。何層もの保護機構が船体と一体化するように組まれ、その中心に小型の演算装置が収められている。
「これが私よ。正確には、今の私を私として維持している部分」
MIRAの声から少しだけ冗談が消えた。
レイナも工具を取り出したが、すぐには触れない。
「手順を教えて。さすがにこれは勘で外したくないわ」
「賢明ね。私が船内機能を順番に停止するから、表示する箇所だけを切り離して。最後に主電源を落としたら、私も一度消えるわ」
NOVAがMIRAを見る。
「再起動できるのね?」
「姉さん、心配してる?」
「確認しているだけよ」
「大丈夫。アーク側から電力をもらえば起動できるわ」
「ならいいわ」
短いやり取りだった。
だが、MIRAは少し嬉しそうに笑っていた。
作業が始まった。
補助系統が止まり、姿勢制御が眠る。航法装置、生命維持、船内管理。MIRAがひとつずつ機能を閉じていくたび、遠くの区画から照明が消えていった。
低く響いていた駆動音も、次第に細くなっていく。
カイトは作業を見守りながら、暗くなっていく船内を見回した。
最初にこの船を見つけたときには、ほとんど死んでいた。
カノンが眠っていた。
MIRAも目覚めなかった。
使えそうなものを外して持ち帰り、それでアークを直した。
そして今、最後に残っていた住人まで連れていこうとしている。
「なんか、俺たちがこの船にとどめを刺してるみたいだな」
レイナは工具を動かしたまま答えた。
「ずいぶん前に散々剥いでおいて、今になって良心が痛んだの?」
「ちょっとだけな」
「大丈夫よ」
MIRAの声がした。
「この船は、もう十分働いたから」
カイトはそれ以上何も言わなかった。
最後の固定部が外れた。
「準備できたわ。主電源を落とす」
MIRAの姿が一度だけNOVAへ向いた。
「姉さん、向こうで」
「ええ」
照明が消えた。
同時にMIRAのホログラムも消え、船内を満たしていた低い駆動音が完全に途絶えた。
静かだった。
宇宙の墓場という言葉が、初めてそのままの意味で感じられるほどに。
レイナが暗闇の中で慎重に核演算器を引き出し、カイトへ渡した。
思ったより重い。
「これがMIRAか」
「落としたら私が許さないわよ」
NOVAの声が飛んできた。
「本人じゃなくて姉が怒るのか」
「当然でしょう」
カイトは核演算器を抱え直した。
「分かったよ。大事に運びますよ、お姉様」
「気持ち悪いからやめて」
SORAを出る前に、カイトは一度だけ振り返った。
もう何の音もしない。
最初に来たときと同じ、宇宙の墓場に漂う一隻の船へ戻っていた。
だが、あのときとは違う。
今度は中に、誰も残していない。
アークへ戻ると、NOVAとレイナが核演算器を船内システムへ接続した。レイナが最後の端子を固定して顔を上げる。
「これでいいはずよ」
「起動するわ」
NOVAが接続を開いた。
数秒の沈黙のあと、船室中央に淡い光が集まり始めた。
輪郭が生まれ、髪が揺れ、MIRAが再び姿を現す。
「……接続完了。問題なし」
「お帰り」
NOVAが言った。
MIRAは少し驚いた顔をしてから笑った。
「ただいま、姉さん」
「引っ越し成功だな」
カイトが言うと、MIRAは周囲を見回した。
「ここがアーク?」
「ええ。ただし今はカイトの船よ。説明すると長くなるから、そのあたりは後で」
「さっきから聞いていると、だいたい想像できるわ」
「どういう意味だよ」
「この船もずいぶん変わってるもの。同型艦だから基本構造は分かるけれど、内装も設備もかなり手が入ってる」
「住めるようにな」
「前よりずっと快適よ」
レイナが胸を張る。
「自分の部屋まで勝手に増設した奴がいるからな」
「空いてた空間を有効利用しただけよ。カイトだって使ってなかったでしょう?」
「俺に黙ってやったことを問題にしてるんだ」
「今は知ってるんだから問題ないわ」
MIRAが笑いながらアークのシステムへ接続していく。
「楽しそうな船ね。航法正常、姿勢制御正常、生命維持も……ずいぶん安定してる。補助系統も問題なし。主機は……」
そこでMIRAの声が途切れた。
さっきまで動いていた視線が、一点で止まっている。
カイトは少し待ったが、MIRAは何も言わない。
「どうした?」
「……姉さん。この主機、SORAのものじゃない」
「ええ。カイトが交換したわ」
「それは分かる。でも、そういう意味じゃないの。出力表示がおかしい」
「正常よ」
NOVAは平然としていた。
MIRAは姉を見たあと、もう一度主機へ意識を戻した。今度は別系統から診断を走らせ、出力曲線を追い、場の形成状態まで確認しているらしい。
やがて表情から笑みが完全に消えた。
「……同じ数値が出る。センサー異常でも演算誤差でもない。この大きさの主機から、どうしてこんな出力が出るの?」
「だから正常だと言ったでしょう」
「姉さん。私が聞いているのは、正常かどうかじゃないわ。何をしたらこうなるの?」
NOVAはカイトを見た。
「本人に聞いて」
MIRAの視線がゆっくりカイトへ向いた。
「あなたが作ったの?」
「ああ。メビウスリングコイルって呼んでる」
「メビウスリングコイル……」
MIRAは記憶を検索したらしいが、すぐに眉を寄せた。
「そんな主機は私の記録にはないわ」
「そりゃないだろ。俺が作ったんだから」
MIRAはすぐには答えなかった。
もう一度主機へ潜り、今度は場そのものを解析し始める。
「反重力場じゃない……それなのに船体全体へ作用している。しかも、これだけの出力で場が崩れない。何を循環させているの?」
「球心場だよ」
MIRAの視線が戻った。
「球心場?」
「その応用だ。球心力を反転させて、メビウス構造のコイルの中で場を循環させてる。それで推進力を取り出してる」
MIRAが完全に動きを止めた。
数秒後、確認するようにゆっくり口を開く。
「……今、とても簡単に言ったけれど、その理論からあなたが考えたの?」
「まあな。最初は本当に動くかどうか分からなかったけど」
「動くかどうか分からないものを、宇宙船の主機にしたの?」
「最初は小さいので試したぞ。ちゃんと動いたから大きくした」
「そういう問題では……」
MIRAは途中で言葉を止め、NOVAを見る。
「姉さん。これを初めて見たとき、どう思った?」
「壊れていると思ったわ」
「やっぱり」
「その次に、カイトの頭の方を疑った」
「おい」
「今なら分かるでしょう?」
「ええ。よく分かったわ」
姉妹が揃ってカイトを見る。
「なんだよ、その目は」
MIRAは答えず、もう一度メビウスリングコイルの出力を確認した。設計値を知り尽くしているはずの超古代文明のAIが、何度見ても納得できないように数値を追っている。
やがて、ゆっくりカイトの前まで移動してきた。
「カイト。ひとつお願いがあるのだけれど」
「その顔で言われると嫌な予感しかしないな」
「あなたの脳を検査してもよろしいですか?」
カイトはしばらくMIRAを見た。
「……なんでそうなるんだよ」
レイナが吹き出した。
MIRAは至って真剣だった。
「機械側には異常が見つからなかったからよ。この文明水準で、私たちの記録にも存在しない場の制御方式を独力で構築している。設計者側に通常とは異なる特徴がないか確認するのは、医療AIとして自然な判断でしょう?」
「自然じゃねえよ。俺は故障箇所か」
「脳神経活動を見るだけよ。痛くはしないわ」
「そういう問題じゃない」
NOVAが真顔で頷いた。
「私は検査を勧めるわ」
「お前まで乗るな」
「私も以前から興味はあったもの」
「何にだよ」
「どういう構造なら、未知の装置を作っておきながら『動いたから大丈夫』で済ませられるのか」
レイナがとうとう声を上げて笑い、カノンまで口元を押さえた。
「ちょっと、皆さん。笑うところじゃないでしょう」
「いいえカイト、わたくしも一度調べていただいた方がよろしいと思いますわ」
「カノンまで何言ってんだ」
MIRAだけは真面目な顔のまま、まだカイトを見ている。
「では、二等星振儀へ着いてからでも」
「予約するな」
「残念」
「本気で残念そうな顔するなよ」
MIRAはようやく笑った。
その向こうで、メビウスリングコイルは何事もなかったように静かに回り続けている。
一万年前の知性体を驚かせたことなど、まるで知らないように。
しばらくして、MIRAはもう一度だけ主機の数値を確認すると、表情を切り替えた。
「二等星振儀への航路を出すわ。一万年前の座標だから、現在位置との補正が必要だけれど、アークの航法系なら問題ない」
カノンの顔から笑みが消えた。
「お願いいたしますわ」
MIRAが航法系へ接続する。
星図が広がり、その中に一本の航路が描かれていった。
やがて、その先に小さな光点が灯る。
「ここよ」
カイトは光点を見つめた。
そこにMIRAの身体がある。
そして、カノンの父と母も眠っている。
さっきまで笑っていたカノンも、今は黙ってその一点を見つめていた。
カイトは操縦席へ腰を下ろした。
「よし。行こう」
アークの主機出力がゆっくりと上がり始める。
MIRAが驚いたメビウスリングコイルの低い唸りが、船体の奥から響いてきた。
次の目的地は、二等星振儀。
そこには一万年前から待っている者たちがいる。




