再び宇宙の墓場へ
三等星振儀を出る頃には、NOVAの歩き方もだいぶ人間らしくなっていた。もっとも、本人にはその自覚が薄いらしく、段差を見るたびに一瞬だけ身体がふわりと浮きかける。そのたびレイナが横目で見るので、とうとうNOVAの方から口を開いた。
「何よ」
「別に。身体を手に入れたばかりの人が、歩くという基本動作を毎回ショートカットしようとしてるのが面白いだけ」
「今まで床なんて気にしたことがなかったのよ。文明って、どうしてこんなに障害物が多いのかしら」
「壁と床を障害物扱いする人に、文明を語られたくないわね」
「あなたたちは二次元にこだわりすぎなのよ」
カイトは前を歩いたまま笑った。
「喋れるなら問題なさそうだな」
「それが健康診断なら、あなたは毎日要再検査よ」
カノンが小さく吹き出した。父と母の記録を見た直後とは思えないほど、ほんの少しだけいつもの空気が戻っている。それが今はありがたかった。
地上へ出ると、王都の朝はすでに騒がしくなっていた。上空には監視機が増え、幹線道路では王宮警備隊の車両が何台も行き交っている。三等星振儀が起動したことまで掴まれているかは分からないが、少なくともカイトたちを探していることだけは間違いなかった。
「ここから旧採掘場まで歩く気なら、私は身体を返すわ」
NOVAが遠くの山並みを見て言った。
「誰も歩くとは言ってない」
レイナは周囲を見回し、旧皇族庭園の管理区画へ目を向けた。半地下の車庫に、灰色の業務用地上車が二台並んでいる。
「ちょうどいいのがあるわね」
「借りるか」
カイトが言うと、カノンが即座に顔をしかめた。
「その言葉、あなたの場合だけ意味が広すぎませんこと?」
「返せば借り物だ」
「所有者の同意という大切な工程が抜けていますわ」
「今から取る時間あるか?」
その瞬間、遠くで警備車両のサイレンが鳴った。
カノンは車庫を見た。
「……あとで丁重にお返ししますわ」
「適応が早いな」
「あなた方と旅をしていると、道徳の基準が少しずつ削られていく気がします」
レイナが車両のロックを調べる。
「安心して。壊してはいないわ。非常時の公用解錠コードが残ってる」
「それを勝手に使うのは?」
「技術的には適正使用」
「法的には?」
「聞かない方が優雅よ」
数分後、四人は王都西側の道路を抜けていた。運転はレイナ。カイトは助手席で監視網を確認し、後部座席にはカノンとNOVAが並んでいる。
NOVAは座った瞬間から妙な顔をしていた。
「何よ、これ」
「座席ですわ」
「それくらい知ってるわ。どうして身体を得た初日に、私は揺れる箱へ詰め込まれてるのかって聞いてるの」
レイナが前を向いたまま答える。
「人間社会へようこそ。まず腰から慣れて」
「返品できる?」
「身体を?」
「文明を」
カノンが横からすぐに返した。
「わたくしの故郷を文明ごと返品なさらないでくださる?」
「では一部返金で」
「国政を通販のように扱わないでくださいませ!」
カイトは窓の外を見たまま言った。
「元気だな」
「あなた、面白がってるでしょう」
「少し」
「少しでその顔なら、全部出したら相当ひどいわね」
王都を抜けるにつれ、道は少しずつ荒れていった。舗装の継ぎ目を越えるたび、車体が小さく跳ねる。NOVAはそのたびに座席の縁を掴み、何とも言えない顔をした。
「これが振動……」
「初体験?」
レイナが聞く。
「データでは知ってたわ。でも、身体で感じると随分図々しいのね」
「振動に性格をつける人、初めて見た」
「あなたは機械にすぐ性格つけるでしょう」
「それは壊れ方に個性があるから」
NOVAはしばらく黙って座っていたが、途中で突然窓を開けた。
「何してる」
カイトが振り返る。
「風」
髪が一気に乱れる。
NOVAは目を細めた。
「……これも知ってた」
「でも?」
「知ってるのと、触られるのは違うわね」
その言葉だけは、誰も茶化さなかった。
少しして、道沿いの小さな食堂から焼いた肉の匂いが流れてきた。NOVAがまた反応する。
「今度は?」
カノンが聞く。
「匂い」
「それも初めてですの?」
「データはあるわよ」
「それはもう知ってます」
NOVAは鼻先をわずかに動かした。
「……悪くない」
「食べる?」
レイナが言う。
NOVAの顔が止まった。
「私、食べる必要あるの?」
「知らないの?」
「今日見つけた身体よ!」
「自分の身体でしょう」
「だから余計に腹が立つのよ!」
カイトが前を向いたまま言う。
「腹が減れば分かるだろ」
「あなたの人生、だいたい空腹を基準に回ってるのね」
「困ったことはない」
「それが一番困るのよ」
旧採掘場へ戻ったのは、昼をかなり過ぎてからだった。王都から少し離れた程度ではない。農業地帯と山間部を抜け、長い道のりを戻ってようやく、森に半ば呑まれた採掘施設が見えてきた。
格納庫の奥では、アークが出発した時と同じ姿で静かに待っている。
レイナが車を止める。
「ようやく帰ってきた」
NOVAはすぐには降りなかった。
アークを見つめたまま、何かを確かめているようだった。
「どうした」
カイトが聞く。
「変なの」
「何が?」
「ずっと、あそこにいたはずなのに」
NOVAは車を降り、ゆっくりアークへ近づいた。
「今は、外から見てる」
誰も答えない。
彼女は船体へ手を伸ばした。
解明不能な超古代文明の外板。
今まで何千回も見て、内部構造も知り尽くしていた。それでも、一度も触ったことはなかった。
掌が船体へ触れる。
「……硬い」
カイトが呆れたように見る。
「今さらか」
「今さらよ。触れなかったんだから」
レイナも近づいた。
「どう?」
「何が?」
「自分と同じ時代の物に触る気分」
NOVAはしばらく考えた。
「変ね。懐かしい感じはする。でも、理由が分からない」
「記憶?」
「たぶん」
NOVAは外板から手を離した。
「まだ、そこまでしか出てこない」
ハッチが開く。
カイトが先に入った。
レイナとカノンが続き、最後にNOVAがタラップへ足を置く。
一段目。
二段目。
三段目。
船内へ入った瞬間、NOVAは立ち止まった。
「……狭い」
カイトが振り返る。
「今まで壁を抜けてたからな」
「人間って、こんなに空間へ制限されて生きてるの?」
レイナが肩をすくめる。
「だから部屋を広くしたくなるのよ」
「あなたは勝手に部屋を増やしただけでしょう」
「合理化よ」
「領土拡張を合理化って呼ぶの、どこかの王国みたいね」
カノンがすぐに反応する。
「わたくしの前でその例えを使わないでくださいませ」
NOVAは笑いながら通路を進んだ。ところが自動扉の前で止まる。
「開かない」
「待てば開く」
「昨日まで扉の存在なんて気にしたことなかったのに」
レイナが横から言う。
「肉体を得て最初に学んだのが、ドアの不便さ?」
「人類が進化の途中で壁という概念を捨てなかったのが不思議だわ」
「一週間後には自分の部屋に鍵付けてると思う」
「それはプライバシー」
「適応早いわね」
操縦席へ入ると、NOVAはさらに長く立ち止まった。
見慣れた場所だった。
だが、今までとは目線が違う。
いつもならカイトの肩越しに浮かび、必要なら天井近くへ上がり、計器の上を横切ることさえできた。
今は床に立っている。
「世界が低い」
「お前が下りただけだ」
「詩情がないわね」
NOVAは補助席へ腰を下ろした。
座席が身体を受け止める。
背もたれへ体重を預け、何度か座り直す。
「椅子って、悪くないわね」
レイナが得意げに言う。
「その席、私が調整したのよ」
NOVAが即座に立ち上がった。
「急に居心地が悪くなった」
「降りなさい」
カノンが笑った。
「仲がよろしいですわね」
二人が同時に振り向く。
「どこが?」
「息は合っておりますわ」
カイトはそれ以上聞かず、主系統を起動した。
操縦席の真下で、主メビウスリングコイルが目を覚ます。
ブオッ。
低い唸りが船体を巡り、補助リング、姿勢制御リングへ順に広がる。出力が揃うにつれて音は細くなり、やがて静けさへ収束した。
NOVAの表情が変わった。
「……これ」
「どうした」
「前より分かる」
レイナの目が輝く。
「身体で?」
「ええ」
NOVAは床へ両足を置いた。
「主コイルの低い共振。左前の補助リング。右舷姿勢制御のわずかな遅れ……全部、別々に感じる」
カイトが口元を上げる。
「便利になったな」
「今、私を測定器として見たでしょう」
「使えるなら使う」
「身体を得て半日で扱いが雑になりすぎじゃない?」
「前から雑だった」
「認めるところじゃないわ」
NOVAはそう言いながら、しばらく床から伝わる振動を感じていた。
そして突然、動きを止めた。
瞳の奥に細い金色の輪が浮かぶ。
「カイト」
「今度は何だ」
「星図を出して」
NOVAの声から、いつもの軽さが消えた。
カイトが航路図を開く。
NOVAは立ち上がり、そこへ近づいた。
今までならホログラムの指で触れていた場所へ、今は本物の指先を置く。
一つの座標が拡大された。
カイトには見覚えがあった。
「宇宙の墓場?」
「ええ」
カノンが振り返る。
「また、あそこへ戻るのですの?」
NOVAは答えようとして、少しだけ目を閉じた。
断片が浮かぶ。
暗い船内。
古いコンソール。
眠る何か。
そして、自分を呼ぶ声。
「三等星振儀で、少しだけ記憶が戻った」
レイナも黙って聞いている。
「何を思い出したの?」
「まだ、はっきりとは言えない」
NOVAは座標を見つめた。
「でも、宇宙の墓場に置いてきたものがある」
カイトが言う。
「ジャンクなら俺も置いてきたぞ」
NOVAが横目で見る。
「あなたと一緒にしないで」
「じゃあ何だ」
NOVAの表情から笑みが消えた。
「……誰か」
カノンの目がわずかに開く。
NOVAはまだ、その名を思い出せない。
ただ、そこに何かが残っていることだけは分かる。
今度は、拾うためではない。
呼び戻すために行く。
カイトが航路計算を始めた。
「戻るぞ」
NOVAが彼を見る。
「いいの?」
「ここまで聞いて行かない方が気持ち悪い」
レイナもすでに機関状態を確認している。
「主コイル正常。補助リング正常。今度は目的地もある。前より一歩進歩したわね」
「俺を何だと思ってる」
「船を直してから行き先を考える人」
「事実を並べるな」
カノンも自分の席へ座った。
「わたくしも参りますわ」
「誰も置いていかん」
「それを先に言ってくだされば、少し格好がつきましたのに」
「必要ないだろ」
「そういうところですわ」
NOVAは三人を見た。
つい昨日まで、自分はこの船のどこにでもいた。
今は、一度に一か所にしかいられない。
扉もある。
床もある。
重さもある。
それでも、不思議と窮屈には感じなかった。
「カイト」
「何だ」
NOVAは正面の星々を見た。
「帰りましょう」
カイトが眉を上げる。
「帰る?」
NOVAは少し考えたあと、静かに笑った。
「ええ」
瞳の奥で、金色の輪がかすかに輝いた。
「たぶん、私にとってはね」
カイトが出力レバーを押し込む。
主メビウスリングコイルが低く唸り、その音はすぐ一つの静けさへ収束した。
アークは惑星オルテシアを離れ、もう一度、宇宙の墓場へ船首を向けた。
そこには二百年前、カノンが眠っていた同型艦が残されている。
だが今のNOVAは、まだその船の名を思い出していない。
そこに眠る存在の名も。
ただ一つだけ分かっていた。
あの場所に、置いてきてはいけなかった誰かがいる。




