三等星振儀
第十八話 三等星振儀
夜が明ける前に、カイトたちは宿を出た。王都はまだ眠っていたが、昨日までとは空気が違っている。大通りの交差点には兵士が増え、上空を巡回する監視機も明らかに多い。通りの入口では何台もの車が止められ、乗員の顔を一人ずつ確認していた。
「ずいぶん早起きな国ですこと」
フードを深く被ったカノンが、路地の奥から検問を眺めた。
「お前を探してるんじゃないのか」
「わたくしはまだ何もしておりませんわ」
「いるだけで問題なんだろ」
「失礼ですわね」
「二百年ぶりに帰ってきた皇女が王都を歩いてるんだ。向こうからすりゃ十分だ」
カノンは言い返そうとしてやめた。悔しいが、その通りだった。
NOVAが青白いホログラムの身体を小さくし、カイトの肩の横へ浮かぶ。
「王宮直属の警備隊が昨夜から市内へ展開しているわ。表向きは古代遺産の密輸捜査。宿泊施設と宇宙港、地上交通の記録を順番に洗ってる」
「ここも来る?」
レイナが振り返る。
「時間の問題ね」
「なら急ごう」
カイトはカノンを見る。
「場所は分かるんだな」
「王都がどれほど変わっていても、聖域そのものは動きませんわ」
「入口は?」
「それが問題ですの」
カノンは路地の先へ見える王宮を指した。
「皇宮の地下ですわ」
「……先に言え」
「聞かれませんでしたもの」
「一番大事なところだろ」
「三等星振儀の場所を軽々しく話す皇族がどこにおりますの」
レイナが二人の間へ顔を出した。
「それで? 王宮へ正面から入って、『地下の秘密の部屋へ行かせてください』って頼む?」
「通してくれるなら楽なんだが」
「そのまま牢屋へ通してくれるわよ」
「宿代は浮くな」
「食事も出ますわね」
NOVAが首を傾ける。
「意外と前向きね、あなたたち」
カノンは王宮を見ながら少し考え、それから首を横へ振った。
「王宮から入る必要はありませんわ。皇族には別の道がありましたもの」
四人が向かったのは、王宮とは反対側だった。
古い街区を抜け、まだ店も開いていない市場を通り、やがて王都を流れる川へ出る。高層建築の間を縫うように流れる川を見た瞬間、カノンの足が止まった。
「ここですわ」
目の前にあるのは何の変哲もない石造りの護岸だった。川沿いには遊歩道が整備され、早朝から走っている者もいる。
カイトが壁を見る。
「入口なんかないぞ」
「二百年前にも見えませんでしたわ」
カノンは護岸に沿って歩き始めた。何度か立ち止まり、周囲の建物と川の流れを見比べる。二百年の都市開発で景色は完全に変わっている。それでも川だけは同じ場所を流れていた。
「この辺りに、小さな橋がありましたの」
「橋なら三本見えるけど」
「全部違いますわ」
「二百年だからな」
「分かっています!」
カノンは少し苛立った声を上げ、すぐに黙った。
焦っている。
カイトにもそれは分かった。
記憶の中にある街と、目の前の街が一致しない。自分しか知らない道なのに、自分が見つけられなければ全員が動けなくなる。
レイナが護岸へ手を当てた。
「昔の構造物が残ってるなら、地上じゃなくて地下を見た方が早いんじゃない?」
NOVAがすぐに反応した。
「なるほど。現在の都市図から地下設備だけ分離するわ」
青白い立体図が空中へ浮かぶ。
上下水道、地下交通路、通信設備、共同溝。そのさらに下へ、古い構造物がいくつも埋まっている。
カノンが身を乗り出した。
「これですわ」
指した先に、川から王宮方向へ伸びる細い空洞があった。
現在の都市図では用途不明。
途中から記録そのものが消えている。
「入口は?」
「そこ」
NOVAが遊歩道の先を示した。
そこには公衆設備の小さな管理棟が建っていた。
「二百年前は?」
「水門管理所でしたわ」
カイトが歩き出す。
「残ってるじゃないか」
「形がまったく違いますもの!」
「場所は同じだ」
「あなたは知らないから簡単に言えるのですわ!」
管理棟の裏へ回ると、古い石壁の一部だけが新しい建材に囲まれて残っていた。
カノンはその前へ立った。
表面を指でなぞる。
一度。
二度。
そして、小さな三つの窪みを見つけた。
「ありましたわ」
カノンが三つの窪みへ順番に指を触れる。
何も起きない。
「壊れてる?」
「二百年ですもの」
もう一度触れる。
やはり動かない。
カイトが石壁を覗き込んだ。
「開けるぞ」
「どうやって?」
「壊す」
「おやめなさい!」
カノンが慌ててカイトの腕を掴んだ。
「皇族の秘密通路を最初から破壊しないでくださいませ!」
「開かないだろ」
「少しは敬意というものを!」
「二百年開いてない扉には、蹴るか叩くかだ」
「あなたを連れてきたのは間違いだったかもしれませんわ」
レイナがしゃがみ込み、石壁の下を調べた。
「待って。扉は壊れてない。電源が来てないだけよ」
「直るか?」
「誰に聞いてるの?」
レイナは工具を取り出した。
「五分」
「昨日は十分だったぞ」
「これは車じゃないもの」
「そういう問題か」
「黙って見てて」
三分後、石壁の奥で何かが小さく鳴った。
カノンが窪みへ指を触れる。
今度は淡い光が三つ、順番に灯った。
ゴゴッ、と重い音が響き、石壁の一部が奥へ沈む。
湿った空気が流れ出した。
その先には、人一人がようやく通れるほどの階段が地下へ続いている。
カイトがレイナを見る。
「三分だったな」
「褒めても何も出ないわよ」
「二分余った」
「そこ?」
四人は地下へ降りた。
階段は想像以上に深かった。
地上の音が消え、代わりに靴音だけが石壁へ反響する。途中から現在の建築材が消え、壁も床も古い石造りへ変わった。
カノンの歩き方も変わった。
迷わない。
右へ曲がり、二つ目の分岐を左へ進み、さらに下へ降りる。
「覚えてるのか」
「幼い頃、一度だけ父上に連れてきてもらいましたの」
「一度?」
「本来、皇位を継ぐ者が成人した時に正式に教えられる場所ですわ。父上はなぜか、わたくしが幼い頃に一度だけ見せてくださいました」
カイトは何も言わなかった。
父親は、かなり前から何かを考えていた。
特異点宙域の観測へ娘を送り出したこと。
三等星振儀の認証キーを持たせたこと。
幼いカノンを、本来ならまだ入る必要のない聖域へ連れてきたこと。
偶然にしては揃いすぎている。
やがて通路の材質が変わった。
石ではない。
金属にも見えない。
黒に近い滑らかな壁が、光を吸い込むように続いている。
レイナが足を止めた。
「これ……」
壁へ検査器を向ける。
数秒後、表示された文字を見て黙った。
「どうした」
「解析不能」
カイトが壁へ触れる。
冷たくも温かくもない。
「アークと同じか?」
「完全に同じかは分からない。でも、検査器の反応は同じ。何も拾えない」
NOVAが動かなくなった。
「NOVA?」
返事がない。
青白いホログラムの瞳が、通路の奥だけを見ている。
「おい」
「……聞こえる」
「何が?」
「分からない」
NOVAはゆっくり前へ進んだ。
「でも、知ってる」
カノンがNOVAを見る。
「この場所を?」
「分からない。でも……」
NOVAの輪郭が一瞬だけ乱れた。
「ここへ来たことがあるような気がする」
通路の最奥に、巨大な扉があった。
装飾はない。
紋章もない。
ただ中央に、小さな窪みだけがある。
カノンはその前で立ち止まった。
「三等星振儀ですわ」
カイトが周囲を見る。
「これが?」
「正確には、この先が聖域です」
カノンは窪みへ目を落とした。
「認証キーを」
カイトは上着の内側へ手を入れた。
アークを出る前、隠し部屋から取り出しておいた小さな認証キー。それをカノンへ差し出す。
「ちゃんと持ってたぞ」
カノンは受け取った。
「……知っていますわ」
「確認しなかっただろ」
「あなたが捨てるとは思っていませんもの」
それだけ言って、カノンは扉へ向き直った。
認証キーを窪みへ差し込む。
何も起きない。
レイナが眉を上げる。
「また電源?」
「違いますわ」
カノンは一歩前へ出た。
扉の中央へ手を置く。
その瞬間だった。
低い音が、地下全体を走った。
ブゥン……。
認証キーから細い光が伸び、カノンの手の周囲へ三つの輪を描く。
赤。
青。
白。
三つの光が重なった瞬間、扉の奥から声が響いた。
『皇族生体認証、確認』
カノンが息を呑む。
『認証個体、カノン・アル・オルテシア』
二百年間、一度も呼ばれなかった名前が聖域に響いた。
『三等星振儀、封印解除』
壁が光った。
一本。
二本。
無数の光が通路を走り、足元から天井まで一気に広がっていく。
レイナが思わず後ろへ下がった。
「二百年止まってたのよね?」
「そのはずですわ」
「止まってた機械の起動じゃないわよ、これ」
扉が音もなく左右へ開いた。
その先には、暗闇があった。
だが一歩踏み込んだ瞬間、床から光が広がった。
巨大な空間だった。
円形の床。
壁も天井も見えないほど広い。
中央には三つの輪を組み合わせた巨大な装置が浮かび、その周囲を無数の小さな光が星のように巡っている。
カノンも言葉を失っていた。
幼い頃に見た三等星振儀とは違う。
いや、あの時は眠っていたのだ。
今、初めて完全に目覚めた。
その時、NOVAが床へ膝をついた。
「NOVA!」
レイナが駆け寄る。
青白い身体が激しく明滅していた。
「触らないで」
NOVAの声が震える。
「何か……入ってくる」
「外部アクセスか?」
カイトが周囲を見る。
「違う」
NOVAは両手で頭を押さえた。
「外からじゃない。私の中から……」
中央の三つの輪がゆっくり回転を始めた。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
三つの輪が重なった瞬間、NOVAの背後へ膨大な文字列が噴き出した。
レイナの端末が一瞬で処理限界を超える。
「何、このデータ量……!」
NOVAが顔を上げた。
青白かった瞳の奥に、一瞬だけ金色の光が走る。
「……知ってる」
カイトがNOVAを見る。
「何を?」
「この文字」
壁一面へ、誰にも読めない文字が浮かんでいる。
NOVAだけが読んでいた。
「この装置も……この認証方式も……」
彼女の声が止まる。
表情が変わった。
いつもの皮肉も、余裕も消えている。
「違う」
「何が違う?」
「私は、この場所を知ってるんじゃない」
NOVAはゆっくり立ち上がった。
中央の三つの輪を見上げる。
「私は……ここにいた」
カノンが息を止めた。
「NOVA……?」
次の瞬間、三等星振儀の中央から一本の光が立ち上がった。
人影が現れる。
一人ではない。
男と女。
カノンの顔から血の気が引いた。
「……父上」
光の中に立つ男は、二百年前のオルテシア皇帝だった。
その隣には、母。
カノンの唇が震える。
「母上……」
ホログラムの皇帝が、ゆっくり顔を上げた。
『カノン』
記録の中の父が、娘の名を呼んだ。
『もし、この記録を見ているのなら……』
カノンは一歩も動けなかった。
二百年間止まっていた時間が、ようやく続きを語り始めた。




