帰って来た星
第十五話 帰ってきた星
惑星オルテシアが肉眼で見える距離まで近づいたのは、出航から二日と少しが過ぎた頃だった。
操縦席の正面いっぱいに、青と緑の球体が浮かんでいる。雲の帯がゆっくりと大陸を横切り、その向こうには深い海が陽光を反射していた。宇宙から見る限り、二百年前と何も変わっていない。
カノンはいつからそこに立っていたのか、誰も知らなかった。カイトが目を覚まして操縦席へ来た時には、すでに後部座席の前に立ち、窓の向こうを見つめていた。
「眠ってないのか」
「眠りましたわ」
「何時間?」
「必要なだけです」
答えになっていない。
カイトはそれ以上聞かず、自分の席へ腰を下ろした。
NOVAが操縦席の左上へ浮かび、惑星周辺の航行情報を展開する。
「惑星軌道へ進入。現地管制圏まで四十三分。予定どおり旧採掘港側から降下するなら、十二分後に主要航路を外れる必要があるわ」
レイナは整備主任席で外部センサーを切り替えながら、惑星を見た。
「思ったより普通の星ね」
その言葉に、カノンがほんの少しだけ笑った。
「何を期待していましたの?」
「もっとこう、滅びた皇国らしく雲が黒いとか、雷がずっと鳴ってるとか」
「国が滅びても天気までは付き合ってくれませんわ」
「それはそうね」
何でもない会話だった。
だがカイトには、その短いやり取りがカノンを少しだけ現在へ引き戻したように見えた。
NOVAが大陸図を拡大する。
「旧皇都はこの位置。現在の王都ゲルモアも、ほぼ同じ場所にあるわ。都市圏は二百年前より三・七倍に拡大。人口はおよそ九百八十万人」
カノンの目が細くなる。
「皇都が……そんなに」
「発展した、と見るべきでしょうね」
レイナが言った。
カノンはすぐには答えなかった。
発展。
その言葉をどう受け止めればいいのか、自分でも分からないのだろう。
父と母の国を滅ぼした者たちが、その土地を豊かにしたのなら。
あるいは、豊かに見えるだけなら。
どちらにせよ、二百年前の記憶だけで判断できることではない。
「王都へ直接降りるのはやめて正解だったな」
カイトが言うと、NOVAが首を傾けた。
「あなたが正面から入れば、入国管理官が喜ぶでしょうね。古代文明製の船、未登録航法、正体不明の船体材質、二百年前の皇女付き」
「歓迎されそうだな」
「展示品としてならね」
レイナが笑った。
「少なくとも駐船料は無料になるんじゃない?」
「帰れなくなるだろ」
「永久駐船ね」
カノンが二人を見た。
「わたくしも展示品の中に入っていますの?」
「一番高い」
カイトが即答する。
「何を基準に値段を付けていますの!」
「希少性だな」
「皇女を骨董品のように扱わないでくださいませ!」
いつもの声が戻った。
NOVAは満足そうに笑みを浮かべ、そのまま航路を切り替える。
アークは主要航路から外れ、惑星の夜側へ回り込んだ。
降下地点は旧採掘港。
二百年前には鉱石輸送で使われていたが、現在は大型貨物船の航路から外れ、利用記録もほとんどない。監視網が完全に消えているわけではないが、王都の宇宙港に比べれば格段に薄い。
大気圏へ入る直前、船体の周囲へ淡い光が走った。
通常の宇宙船なら耐熱シールドが必要になる領域だが、アークの外板は温度変化をほとんど示さない。
レイナが外板温度を確認し、呆れたように数字を指で弾いた。
「ほんと、腹立つ材質ね」
「またか」
「大気圏突入して三十二度よ。工房で昼寝してるのと変わらないじゃない」
「船が熱くならないのはいいことだろ」
「技術者には、分からないものが平然と正常動作する方が精神衛生に悪いの」
NOVAが横から口を挟む。
「レイナ、あなたはカイトの隣で長生きできそうね。理解できないものには慣れるはずよ」
「慣れる気はないわ。全部調べる」
「船より先に寿命が尽きるわよ」
「その時は続きをあなたにやらせる」
NOVAの表情が一瞬止まった。
「……ずいぶん重い遺言を軽く投げるのね」
「AIは長生きでしょう?」
「今のところ、あなたよりは」
カイトは二人を聞き流しながら降下角を調整した。
大気が濃くなるにつれ、眼下の景色がはっきりしてくる。
山脈。川。湖。農地。都市。
カノンは窓へ近づいた。
「……あの川」
指先が、小さく震えた。
「知ってるのか」
「アルセリア川ですわ。皇都の北から流れて……」
言葉が止まる。
川は同じ場所を流れていた。
だが、その両岸には見覚えのない都市が広がっている。高層建築と工業区、幾本もの交通路。二百年前なら森だった場所まで建物に覆われていた。
「本当に……二百年ですのね」
誰も返さなかった。
数字で聞く二百年と、故郷の地形を見ながら理解する二百年は違う。
アークはさらに高度を落とす。
旧採掘港が見えてきた。
山裾を削って作られた巨大な採掘施設は、半分以上が森に飲み込まれていた。輸送用の軌道は赤茶色に錆び、倉庫の屋根には穴が開いている。ただ、施設そのものが完全に死んでいるわけではない。端の方では小型貨物車が動き、数棟の建物から薄い煙が上がっている。
「廃港じゃないぞ」
カイトが言う。
NOVAが生命反応を拾う。
「居住者百四十二名。登録上は採掘設備保守区。鉱山自体は十九年前に正式閉鎖されているわ」
「閉鎖されてるのに百四十二人?」
レイナが眉を寄せる。
「保守だけでそんなに要らないでしょう」
NOVAは公開記録を追った。
「作業員の家族、旧鉱山従事者、それから住所登録だけ残している者もいるみたい。王都ほど監視は厳しくないわね」
「むしろ好都合だ」
カイトは港の外れに残る大きな格納庫を見つけた。
屋根の半分が落ちているが、アークを隠すには十分な大きさがある。
「そこへ降りるぞ」
「着陸許可は?」
「誰に取るってんだ」
「一応、私が常識を確認してみただけよ」
レイナは肩をすくめた。
アークは高度を落とした。
姿勢制御用の小型メビウスリングコイルが一つずつ立ち上がる。
ブオーンッ!
低い音が船体を包み、すぐに静けさへ消える。
推進炎も噴射もない、十二メートルの船体が、落下ではなく床へ置かれるようにゆっくり降りていく。
地表まで五十メートル。
三十。十。
最後の数メートルで船体がふわりと止まり、そのまま格納庫の床へ沈むように着地した。
土埃すらほとんど舞わなかった。
レイナは計器を確認した。
「着陸脚荷重、正常。姿勢偏差〇・〇二。悔しいけど綺麗ね」
「誰と競ってるんだ」
「あなたの設計」
「俺が勝ったな」
「次はもっと良くする」
「負けを認めろ」
「技術者に勝敗はないの。次の改良だけよ」
NOVAが感心したように頷く。
「負けを言い換える語彙は豊富ね」
カイトは主系統を待機状態へ落とした。
船体の奥で残っていた低い振動が、完全に消える。
ハッチを開く前にNOVAが周囲を走査する。
「半径五百メートル以内に武装反応なし。人間二十七名。こちらへ向かってくる者はいないわ」
「よし」
カイトが席を立つ。
その時、カノンが動かなかった。
「行かないのか?」
彼女は閉じたハッチを見つめている。
たった一枚の扉。
それを開けば、二百年後の故郷がある。
カノンは小さく息を吸った。
「参りますわ」
自分へ言い聞かせるような声だった。
ハッチが開く。
外の空気が船内へ流れ込んだ。
土。草。古い金属の匂い。
そして、どこか遠くで燃やされている木の煙。
カノンの顔が変わった。
「……この匂い」
「何だ」
「同じですわ」
カノンはゆっくりとタラップを降りた。
靴が惑星オルテシアの地面へ触れる。
二百年ぶりだった。
彼女はその場に立ち、目を閉じた。
風が髪を揺らす。
遠くで鳥の声がした。
国は消えた。
旗も変わった。
王も違う。
それでも、大地まで別のものになったわけではなかった。
「帰って……きましたのね」
小さな声だった。
カイトたちは何も言わなかった。
しばらくして、カノンが目を開く。
その目には涙があったが、落ちなかった。
「王都へ参りましょう」
レイナが格納庫の出口から外を確認する。
「徒歩?」
「まさか」
カイトが周囲を見回した。
格納庫の端に、一台の古い地上車が放置されている。前輪の一つが潰れ、外板には錆が浮いていた。
レイナも同じ物を見た。
「まさかと思うけど」
「直るか?」
「あなた、惑星へ着いて最初にすることが車泥棒なの?」
「借りるだけだ」
「所有者がいたら?」
「返す」
「壊れてたら?」
「今より良くして返す」
レイナはしばらくカイトを見たあと、工具箱を取りにアークへ戻った。
「十分ちょうだい」
カノンが呆れた顔をする。
「あなた方は、本当にどこへ行っても変わりませんのね」
NOVAが彼女の横へ浮かんだ。
「安心したでしょう?」
カノンは少し考えたあと、笑った。
「……少しだけ」
十分後。
二百年ぶりに故郷へ戻った皇女は、盗んだのか借りたのか最後まで判然としない古い地上車に乗り、かつて皇都と呼ばれた街へ向かうことになった。
その頃、王都ゲルモアでは、一つの古い監視装置が静かに目を覚ましていた。
旧採掘港。
未登録船。
船体材質、解析不能。
自動照合は何度も失敗したあと、最後に一件だけ、二百年前の封印記録を検索結果へ表示した。
照合候補。オルテシア皇国特別管理船。
そしてその情報は、王宮直属の古代遺産管理局へ送られた。




