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幻籠街の言伝屋  作者: 天野地人
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第52話 それでも私は、この街で生きていく 

 幽幻の右腕は、喰いちぎられた部分から先が真っ黒になっていた。


 光を決して反射する事のない、ぬるりとした闇色。ぼんやりとした形は、時おり己の輪郭を確認するかのように、ぞわぞわと身震いする。


 それは《獏》のものと全く同じだった。


「幽さん、右手が《獏》に……!」


 澪は悲鳴を上げる。しかし、幽幻は静かに首を横に振った。 


「いいえ、逆ですよ。私は《獏》なのです」


 絶句した。


 ――いま、なんて。


「どういう……事、なの………?」


 澪は呆けた顔で幽幻を見つめた。幽幻が《獏》。あの、恐ろしくておぞましい、悲しい影たちと同じだというのか。とてもではないが、信じられない。


 だが、幽幻は苦しげに視線を逸らし、静かに唇を動かした。


「二十年近く前、この街を一人の女性が訪れました。彼女は生者でしたが、その時、既に半身が《獏》と化していたのです。その女性は身罷っており、一人の赤子を生みました。それが私です」


 幽幻は淡々と、黒い自分の右手を見つめる。


「子供の頃は、自分が人間なのか《獏》なのか分からず、形を留めることが難しかった。死者に、《獏》の時の姿を見られては恐れられたものです。彼らが恐怖を覚えて逃げ出すのだから、よほど異様だったのでしょうね」


「幽さん………」


 幽幻の声の中には、どこか自嘲するような響きがあった。それが、彼が自分自身の事をどのように捉えているかを、如実に表しているかのように感じて、澪は胸が潰れそうだった。


 やがて幽幻は、真正面から澪を見据えて言った。


「これで分かってもらえたでしょう。あなたの友人が言ったことが誤りである、と。私はそもそも、この幻朧街を出たいと思ったことなど一度も無いのですよ。この身で現世とやらに渡ったとして、普通に生きていけるとは到底思いません」


「でも……だったらどうして、あたしが一人になるなんて………」


「私たちが二人とも人で無いことが気がかりだったのですよ。生きた人間でさえ、簡単にいなくなってしまうのです。――私の師匠のように。覇王丸はいつか消えてしまうかもしれないし、私は完全な《獏》と化してしまうかもしれない。

 

 そうなる前に、あなたに身に着けて欲しいと思ったのです。この街で、一人で生きていく術を」


 そう説明する間にも、幽幻の腕は徐々に立体感を取り戻し、元の血の通った本来の肌の色を取り戻していく。それは何もない無から、腕が浮かび上がるようでもあった。


 幽幻は右腕を静かに下ろすと、どこか遠い場所を見るような目をした。


「……《獏》には意思はありません。感情やそういう類のものは一切抜け落ちているのです。あれにあるのは、ただ仲間を増やし、群れる本能の様なものだけ……。


 ただ、接する者の心の中を反映することはあります。おそらくあれらは、あなたの中にある孤独や、元の世界に帰りたいという強い思いを読み取り、それを利用してあなたを誘い出したのでしょう」


「じ……じゃあ、あたしが会ったのは本当に偽物の愛花……?」


「ええ。そして反映させていたのはあなたの心だけではなかったのかもしれません」


 澪は思わず顔を上げ、幽幻の瞳を見つめる。


「私はいつかあなたに本当の事を話さなければと思いつつ、言えずじまいでした。言えば、あなたが私の事をどう思うか……それが怖くてたまらなかった。皮肉な事に、あなたの存在が私の日常に馴染めば馴染むほど、その恐怖はより強く、大きなものになっていったのです。


 ……そして、《獏》はまさに、その心の隙につけ込んだのでしょう」


 澪はその時、初めて幽幻の左手に視線を留める。右手と違い、喰いちぎられることもなかったその腕は、いつの間にか包帯が取れていた。 


 仙堂寺櫻子の事があったのは、つい二日前だ。《獏》に触れた時に負った火傷のような傷は、人であればまだそこにはっきりと痕跡が残っている筈だった。


 しかし、幽幻の腕には、何も異変は無い。何事もなかったかのように、見事にまっさらだった。


 ――まるで、包帯など、最初から必要無かったかのように。


 彼の付いた小さな嘘に、澪は気付いた。


 雷に打たれたかのような思いだった。


 そうだったのか――疑問も不信も、怒りすらも、全てがまとまって一つに収束し、胸の中へ静かにすとんと落ちていくようだった。


 突然いなくなってしまった、師匠。まるでそれと入れ替わるかのように、現世からやって来た少女。幽幻にとっても、それはおそらく不条理な出来事だったに違いない。何の抵抗も無く、すんなりと受けいれられる事など、到底できる筈は無いだろう。


 幽幻の半身が《獏》であったのなら、尚更だ。その事実はおそらく幽幻にとって、最も他人に知られたくなかった事であっただろうから。


 それでも幽幻は、澪を受け入れようとしてくれた。そこにあった葛藤がどれほどのものだったか。幽幻の変化に、無邪気に一喜一憂していた澪は、いかに幼稚な少女だったか。


 そう、一変したのは、何も澪の生活だけではなかった。


 どうして今まで気付かなかったのだろうか。


 いや、分かったような気になっていただけだ。一番苦しいのも、一番可哀想なのも自分だと思っていた。しかし、そう思い込むことで自ら「壁」を作り、本当の事を知る努力を怠っていた。機会はいくらでもあった筈なのに。怖いからと目を背け続けていた。


 それが結果として、澪自身や幽幻をここまで追い詰めてしまったのではないか。


(あたし、何も見えていなかった。何も見ようとしていなかったんだ) 


 この世とあの世の狭間にある街。死者が訪れ、そして去っていく街。入り込む者は何でも鷹揚に受け入れるこの街は、同じように誰にとっても残酷なのかもしれなかった。


 

 朝日が昇り始める。灰色の瓦が、柔らかくその光を反射した。街が徐々に白壁と木造の色を取り戻していく。ゆっくりと目覚めの時を迎えた街の景色は、妙に清廉で、厳かに見えた。


「……私達は幻朧街で生きていくしかないのです。どんなにそれが受け入れ難い事実であっても……そうするしかないのです」


 冷たさを帯びた朝の日の光が、《言伝屋》の看板をくっきりと照らし、その下にいた三人の姿をも浮かび上がらせた。


 その下で見る幽幻の双眸は、どうしようもなく深い哀しみに満ちていた。


 

 ずっと分からないと思っていた、不知火幽幻という人の、それが本当の姿だった。







 澪は疲れた足取りで二階に戻った。


 頭の芯が痺れ、思考がうまく回らない。何も考えられなかったし、考えようという意欲すら湧かなかった。


 体全体が鉛の様になり、激しい倦怠感を訴える。それを引き摺るようにして階段を上った。


 二階の自室は、布団が敷いたままで、つい数時間前までいた場所の筈なのに、どこかよそよそしい感じがした。既に日の光が帯状になって、障子の隙間から差し込み始めている。その中で古い柱時計の秒針が、乾いた音で時を刻んでいた。


 ふと自分が、制服のポケットに両手をつっこんでいるのに気づく。無意識のうちに携帯電話を探していたのだ。そしてすぐに、山の頂上で《獏》に投げつけたことを思い出す。


 携帯電話はもう無い。しかし、不思議なほど、落胆も後悔も無かった。むしろ、それで良かったのかもしれない、とすら思う。


 お守りのつもりで持ち歩いていたが、今にして思えば逆に縛られていたのかもしれない。そしてそれはいつの間にか、己の首をじわりじわりと絞めてつけていたのかもしれない。


 膝から力が抜け、倒れ込むようにして布団に膝をついた。視線がふと、文机の上の言伝を捕らえる。


 それは亡き父からの手紙だった。


 今度は躊躇しなかった。澪は中身を取り出し、半紙を広げる。


 そして、中を読み始めた。




《亜季へ


 こうやって手紙を書くのは初めてだね。メールのやり取りは何度もしたけど、直筆の手紙は初めてだったと思う。何だか妙に照れくさいのは気のせいだろうか。


 信じられるかい? 


 今、僕は幻籠街という街にいるんだ。あの世とこの世の狭間にある街、らしい。出会って結婚した時は、こんな事になるとは夢にも思わなかった。まさか、僕がこんなに早く死ぬことになるなんて。別れはもっと後になるものだと思っていた。


 自分が死ぬなんて、考えもしなかった。人生は、本当に何が起こるか分からない。


 筆を動かしていると、君との思い出をたくさん思い出すよ。


 初めて大学の講義室で会った事。君は覚えていないかもしれないけど、僕は良く覚えている。文学部の人間からすれば、ただでさえ法学部の学生は頭が良さそうに見えるものだけど、君は特に輝いていたよ。これは決してお世辞じゃない。告白してO.K.を貰った時、君にはクールに接していたけど、本当は昇天してしまうんじゃないかと思うくらいうれしかった。懐かしいな。


 初めてのデートは公園だった。互いに苦学生だったからね。刺激にはやや欠けたかも知れないけど、僕達にはそれくらいがちょうど良かった。大学を卒業し、君は弁護士になって僕は出版社で働くようになった。あまり会えなかったあの頃は、確かにちょっと疎遠になったりもした。でも、会えなかったからこそ、君の存在の大切さを実感することも出来たんだと思う。


 むしろあのままずっと一緒にいたら、結婚することは無かったかもしれない。


 それでも、プロポーズはかなり緊張したけどね。


 澪が生まれた時は、何だか恥ずかしいようなくすぐったいような、妙な気持ちだった。僕は全然父親らしくないのに、君はどんどん母親になっていく。せめて僕も父親らしいことをしたかった。だから、君とのじゃんけんに勝って、澪の命名権を得た時は、本当にうれしかったんだ。今思うと、ちょっと子供っぽかったね。とても、反省している。


 いま、一番気になっているのは君と澪のことだ。結果的に、澪の事を君に丸投げしてしまう形になった。これからの困難を考えると、謝っても謝りきれない。


 澪はどんな女の子になるんだろうか。どんな未来を選ぶんだろうか。


 彼女を待っているのは、いいことばかりではないだろう。こんなご時世だ。いじめに遭うかもしれないし、学校を卒業しても仕事が見つからないかもしれない。そんな時、僕は彼女の傍で支えてあげることも出来ないんだね。


 でも、どんなに苦しい状況でも、例え本人が望まない境遇に陥ったとしても、澪には立ち向かって欲しい。まるで無責任なようだけど、生きていって欲しいんだ。だって澪は、僕たちの大切な娘なんだから。例え彼女が一人ぼっちになったとしても、僕達は澪を信じる。僕達だけは味方だ。


 そうだろう?


 何だか長々と書いてしまったね。亜季、最後に一つだけ言わせて欲しい。


 ありがとう。


 そして、さようなら。


 一足先に向こうへ行って、君を待っているよ。

                               舞阪 零児》




 澪は言伝を何度も読んだ。両目から涙が零れ、そのまま頬を伝って滴となって落ちる。後から後から、幾筋も。


 ずっと心のどこかで、この現実を受け入れる事ができなかった。

 

 現世に戻っても、居場所が無いことくらい分かっていた。それでも、望みもしない場所に連れて来られ、訳の分からない存在に怯えて生きねばならないことにどこかで強い反発があった。


 愛花は今頃、何も恐れることなく、あるべき高校生活を当然の様に楽しんでいるのだろう。友達と学校の宿題に文句を言ったり、好きな男の子の事を考えたり、家族とくだらない軽口を言い合ったり。そして努力すれば、それ相応の望んだ未来を手に入れられると信じ、そこに一片の疑いを挟むことなく過ごしているのだろう。


 愛花だけではない。普通の高校生は、当たり前のように送っている日常だ。


 そして、澪には二度と、触れる事すら出来ないもの。


 何故自分だけがそれを手に入れられないのか。何故、自分だけこんな事になってしまったのか。何も悪い事はしていない筈なのに、何故。


 それが堪らなく辛かった。昼間は《言伝屋》でどんなに明るく振る舞っても、夜一人になれば、その事を考えずにいられなかった。どす黒い感情は、くすぶった焚火の様に火花を散らしながら徐々に膨れ上がり、決して消えることは無かった。 


 しかし今は、はっきりとわかる。手に入れられないと分かっているものに過度に執着し、自分が絶望の塊になっていたことに。


 みんなと同じになりたい。その「みんな」が何なのかもよく考えず、漠然と想像する圧倒的多数の一員になりたいと、願望ばかりが膨らんでいった。


 それはまるで《獏》と同じだった。ただ仲間を求め、数だけを増やし、それが本当に良いのかどうかも判断しないまま、何となく群れて彷徨うだけ。そんな憐れな影たちと同じ存在になってしまっていた。


 だから、あの偽物の愛花は現れたのだろう。


 彼らは――《獏》は仲間を増やしたがる。同じ性質を持った者を、求めているのだ。


 そのあまりにも深い孤独を、救いようのない虚無を、少しでも埋める為に。


 そして。


 再び澪は言伝に目を落とす。父の言伝はそれらの感情を、じくじくとした痛みと共に、全て柔らかく包んでくれるようだった。


 おそらく、父の零児は澪がこの言伝を読むことを想定して書いたのではなかっただろう。まさか娘が生きたまま幻朧街に迷い込むことになるなど、想像もしていなかったに違いない。しかしそこには、かつて澪を包んでくれた愛情が、そのままの形でそこにあった。


 そして、母の亜季もこの手紙を読んだ。澪に宛てた手紙ではなかったにもかかわらず、亜季は澪に、「この言伝はあなたが持っていなさい」と、手渡してくれた。澪のためを思って――澪がどこかでつまづいた時、この手紙を読んでもう一度、頑張ろうと思えるように、と。 


 この言伝は、父の零児と母の亜季、二人が残してくれた言葉(メッセージ)だ。例え二人が側には居なくても、この言伝が自分をあるべき場所へ導いてくれる。そんな気がした。


 ――澪は、僕たちの大切な娘なんだから。例え彼女が一人ぼっちになったとしても、僕達は澪を信じる。僕達だけは味方だ。……そうだろう?


「お父さん、お母さん……ありがとう………!」


 澪は母が残してくれた、父からの言伝を握りしめ、顔を埋めて泣いた。


 一人ではない。そう思った。例え一人、置いていかれてしまったのだとしても、その温もりを、愛情を思い出すことは出来る。この言伝を胸に抱いて、前に踏み出すことは出来る。


 この街で生きていこうと決めた。何一つ思い通りにならず、存在さえ確かでないひどく残酷な街だけど、それでも私は、この街で生きていく。――父や母がそうであって欲しいと願ったように。


 それは決して投げやりな気持ちからくる諦めなどではなかった。


 朝の静謐な空気のように、清々しい、静かな決意だった。



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