第51話 窮地③
いや、これは愛花ではない。愛花であるわけがない。
足から背中、頭へと全身を氷の様な冷気這ってくる。それは何も、この白い霧のせいだけではないだろう。
この街では、軽々しく自暴自棄になったり、悲運に酔ったりすることすら許されないのだ。そうやって諦めた者から、容赦なく呑み込まれていく。
そのことを、はっきりと思い知らされていた。
それは息を潜め、かぱあと口を開けて常に澪を狙っている。隙を見せれば容赦なく、即座に捕われてしまうのだ。そして咀嚼し、しゃぶり尽くされた後、その腸へと引き摺りこまれてしまうだろう。
そういう場所に、自分は立っている。
希望があるかどうかなど、関係は無い。抗わなければ、全てが毟り取られる様に、奪われるだけだ。そして終焉は、澪が思っているよりも、ずっと簡単に訪れるものなのだろう。
そう、呆気なく地面に落下した、幽幻の右腕のように。
「そんなの、嫌……」
澪の中で、何かが爆発した。それは身を捩って暴れ回り、巨大な奔流となって全身を覆っていく。目の奥で星が瞬き、ちかちかとした。気を失いそうなほど昂っているのに、妙に神経が研ぎ澄まされていく。
他の《獏》達が後に続けとばかりに、覇王丸の攻撃をすり抜け、次々と澪や幽幻に向かって襲いかかってくる。澪は無我夢中で、お守りのように大切にしていた自分の携帯電話を《獏》の群れに向かって投げつけた。
「近づかないで! あたしはあんた達と一緒には行かない……あんた達と一緒にはならない! 愛花の姿をして、そんな風に笑わないで!
……幽さんの腕を返してよ‼」
怒鳴ってから気付いた。これは怒りだ。血が沸騰するほどの、激しくて大きな怒りだった。《獏》に対する怒り、この街に対する怒り、自分自身に対する怒り――様々な怒りがエネルギーとなり、紅蓮の炎となって燃え盛った。
こんなところで、死にたくない。諦めたくない。
自分が《獏》の餌食になるなんて絶対に嫌だし、自分の代わりに幽幻が犠牲になるのも、絶対にごめんだった。
澪にはっきりと拒絶され、《獏》たちは微かに怯んだようだった。その動きがほんの僅かなの間、ぴたりと大人しくなる。
幽幻はその隙を見逃さなかった。
「今のうちに……さあ!」
幽幻は残った左の腕で澪の手を引っ張った。澪は、はっと我に返り、幽幻の顔を見つめる。
彼の腕はどうなってしまったのだろうか。それが例え致命傷ではなくても、出血多量で死ぬこともある。実際、右腕は今も地面に転がったままだ。
しかし若干緊迫した様子ではあるものの、幽幻の表情に特に変わった様子は無い。痛がる素振りも無ければ、苦悶の表情を浮かべることも無い。
澪は不思議に思った。腕を噛み千切られたのだ。普通はもっと悲鳴を上げたり、悶絶したりするものなのではないだろうか。
しかしそれを確かめている余裕は無かった。いつまた《獏》が襲いかかるとも知れない。覇王丸はかなりの《獏》を喰いちぎって退けていたが、蠢く闇の集団は、木々の向こうから次々と現れる。これでは、際限がない。
《獏》の数が少なくなった僅かな間隙を狙い、白虎の姿と化した覇王丸は身を翻した。そしてそのまま、澪と幽幻の方に駆け寄って来て、大喝する。
「乗れ!」
幽幻は頷くと、覇王丸の背中に飛び乗った。そしてすぐに残った方の手を澪に向かって差し出す。澪もその時は迷わなかった。差し出された幽幻の手を掴むと、その後ろに乗り込んだ。
覇王丸は自らの背中に澪と幽幻が乗ったことを確認すると、迫る《獏》たちを蹴散らすかのように咆哮をあげる。そして地を蹴り、宙に駈け出した。
澪と幽幻を乗せた巨躯がふわりと浮き、太い四肢が夜空を駆ける。地上はみるみる遠のいていった。
澪は背後を振り返り、地上にいる《獏》たちを見つめた。
《獏》たちは澪たちには目もくれず、一か所に集まって群がっていた。澪は少しだけ拍子抜けする。てっきり追いかけられるのではないかと思ったからだ。
何をしているのだろうと、じっと目を凝らす。
しかし、すぐに彼らが何をしているかに気付いた。《獏》たちは地面に落ちた幽幻の腕に、我さきと喰らいつきあっているのだ。
それを悟った瞬間、言い知れぬ嫌悪感が湧き上がってきた。ぞわりと胃が引き攣り、吐き気さえ覚えるほどに。
――もしあのまま、されるがままになっていたら、自分はどうなっていたのだろうか。
考えるまでも無いその答えに、今更ながらに戦慄する。
震え上がる澪を乗せ、宙を駆ける覇王丸は、ぐんとスピードを上げた。
蠢く《獏》たちも、神社の鳥居も、みるみる小さくなっていく。
東の空が白み始めていた。幻朧街の街並みを彩る、原色の色をした提灯が、吹き消された蝋燭の様に次々と消えていく。
そして闇の中から浮かびかがるように、街がゆっくりとその輪郭を現し始めていた。
夜明けが近づいていた。
覇王丸は《言伝屋》の前まで戻って来ると、音もなく地に下り立った。そして、背に乗っていた澪と幽幻をその場に下ろす。
その間も澪の頭からは、幽幻の腕の事が離れなかった。
「幽さん、腕………」
声が震える。すると、振り向きざま、幽幻の残った左腕が宙を舞い、澪の頬を打った。
乾いた、ぺちんという音がやけに大きく聞こえた。
「幽さん……」
澪は呆気にとられて幽幻の顔を見つめる。痛くは無かった。だが、頬を打たれたという事実に、咄嗟には反応できなかった。
覇王丸も驚いたように言葉を呑み込んでいる。
幽幻は厳しい表情のまま、口を開いた。
「……どういうつもりですか。あれほど言ったでしょう、この街は危険だと!」
声もはっきりとした怒気を孕んでいる。幽幻がこれほどまで感情を顕わにしたのを澪は見たことが無かった。
「だ、だって……」
「あなたは死ぬかも知れなかったのですよ!」
澪はびくりと身を竦ませた。幽幻がそのような大声を出したことに呆気にとられ、今更のように体が震え出す。
「で……でも、だって……戻りたかったんだもん……! 愛花が現世に戻れるって言ったから、だから……‼」
「それほどまでに……それほどまでに、受け入れられないというのですか! 私や覇王丸や、この言伝屋の存在が! それほどまでに耐えられないというのですか‼」
幽幻は、いつもは無表情であるはずのその顔に、激しい怒りと共に、深い苦悩を浮かび上がらせていた。
それを見た澪は悟った。自分が幽幻を傷つけてしまったことを。
そして、幽幻が澪を受け入れようとしていた、その全ての努力を、裏切ってしまったのだ、という事を。
今さら何を言っても、幽幻には白々しく聞こえるかもしれない。それでも澪は、どうしても分かって欲しくて、必死で首を振った。
「ち……違う! そうじゃないよ! 幽さんや覇王丸が嫌なわけじゃない……でも、あたしにとっては元の世界のことも大切だったから……! 普通に起きて、食事して、学校に行って……友達と喋って、テニスの練習して、帰ったら家にお母さんがいて……‼ そういう、特別な事なんて何もない何の変哲もない日常が、あたしにはとても、とても大切だったから……‼」
そう訴える間も、次から次へと涙が溢れる。
「だから、戻りたかったの! どんなことをしてでも、取り戻したかったの……‼」
大切だった、現世での生活。いつの間にか両手の間からすり抜けてしまい、もう二度と掴むことは叶わない、幸せだった過去。どうして、どうしてあたしが失わなければならないの。何も悪いことはしていないのに、どうして……。
どれだけ幻籠街の生活に慣れても、忘れる事など出来なかった。こうなったからには仕方ないと、無かった事にすることなど、できなかったのだ。
「澪……」
覇王丸が悲しげな瞳で澪を見上げる。
「どうしても……諦めきれなかったの……‼」
澪は、震えを帯びたか細い声で、最後にそう付け加えた。声も体も、自分の全てがくしゃくしゃに丸められて小さくなっていくような、悲鳴のような言葉だった。
「………」
怒っているのだろうか、それとも呆れているのだろうか。幽幻は澪から視線を逸らし、一言も発さず、宙を睨みつけている。
もしかしたら澪とはもう、言葉も交わしたくないと思っているのかもしれない。そう思われても当然だ。澪は居た堪れなくなって、視線を落とした。すると、幽幻の着物の袖が視界を掠める。
幽幻の右腕は失われたまま、着物の袖だけがひらりと揺れていた。そこにあるべき右腕は、着物の上からでも、存在していないのだという事が、はっきりと分かる。
それを目にした瞬間、改めて取り返しのつかない事をしてしまったのだと気づき、澪の両目から涙が溢れた。
《獏》に喰いちぎられた幽幻の右腕は、二度と元に戻らないだろう。澪が現世に帰りたい一心で、危険な場所に足を踏み入れたからだ。だから幽幻は澪を庇い、襲い来る《獏》に右腕を引き千切られてしまった。全て、自分のせいなのだ。
自分の身勝手さと現世への執着がこのような事態を引き起こしたのだと思うと、自分自身が汚らわしくて、恐ろしく、嫌悪感でいっぱいになった。澪は最早どうすることもできず、無様に泣きじゃくるしかできない。
それでもせめて、理由を知って欲しかった。幽幻にとっては、言い訳にしかすぎないであろうことは分かっていたが、必死の思いで愛花の事を説明する。
「ご、ごめ……なさ……本当に、ごめんなさい……! 突然、電話がかかってきて……相手が、高校の同級生で………!」
愛花から突然電話がかかってきた事。彼女が取り乱していた様子だったので、二人で会った事。そして神社へ行こうと誘われた事。
「そいつは多分、《獏》の奴らの仕業だな。澪は騙されたんだ」
白虎の姿の覇王丸は、唸るように言った。しかし、澪は首を横に振る。
「でも、あれは愛花だったよ。ちゃんと手を繋いだし、温かかった!」
怯えた彼女の顔は生々しく、とても作り物だとは思えなかった。それに再会した時、どれだけ嬉しかった事か。互いに手を握り合い、その温かさにどれほど安堵したことか。あれが《獏》の仕業だなど、澪にはどうしても信じられなかった。
「それに……あたし聞いたの! 幽さんと覇王丸の会話で……二人が幻朧街を出るためにはあたしを囮にしなきゃいけないんだって!」
「馬鹿な。そんなことなどあり得ませんよ」
幽幻は即座に否定する。
「本当? でも二人だって、あたしに隠している事があるんでしょう?」
澪がそう尋ねると、幽幻は彼にしては珍しく、これでもかと顔を強張らせ、言葉を詰まらせた。幽幻がそんな反応をするとは夢にも思っていなかった澪は、逆にひどく驚き、狼狽する。
すると、覇王丸が幽幻を気遣うように、慌てて口を開いた。
「そ……それは、まあ俺も見ての通り人間じゃねえからな。下手に澪を驚かせたくなかったんだ」
「……覇王丸は人間じゃないの?」
ただの人間で無い事はうっすらと感じていた。しかしてっきり、人から虎へと変身したのだと思っていた。そうではないのだろうか。
「まあな。俺は人間のガードマンだ。一般には式神とか、護法神とか呼ばれているな。四神の白虎ってのをモチーフに、まじないで作られた存在だ。他に三人いたんだが、みんなどこかに行っちまった。こっちの、獣の体が本来の姿だな」
覇王丸はそう言うと、どこか誇らしげに体を揺らした。思えば、覇王丸だけは単独行動が多かった。人間でないからこそ、幻朧街を自由に歩き回る事も出来るのだろう。
仙堂寺櫻子を助ける時に覇王丸が用いた不思議な力、あれもきっと護法神としての覇王丸の力の一つなのだ。
「で、でも……あたしが《言伝屋》を背負っていかなきゃならないんだって……二人でそう話してた。聞いちゃったの。幽さんと覇王丸はどこかへ行ってしまうつもりなの? あたし、誰の言葉を信じていいか分からないよ!」
それは澪がずっと聞きたくても聞けなかった事だった。知るのが怖かったという事もあるし、幽幻と覇王丸の様子から、聞いてはいけない事のような気がしたというのもある。
澪は、幽幻や覇王丸を信じたい。言伝屋でたくさんの時間を共に過ごしてきて、幽幻も覇王丸も、悪い人ではないのだと――信じるに足る人達だと分かったからだ。だから、ずっと、自ら進んで信じようと努力してきた。
だがそうして気づかされたのは、澪と、取り分け幽幻の間には、間違いなく深い溝がある、という事だった。
澪が幽幻に近づけば近づくほど、幽幻は何故かそれを拒絶し、壁を作ってしまう。澪が幽幻の事を知りたいと思えば思うほど、決して踏み込ませてはもらえない領域があるのだと思い知らされ、打ちのめされる。
その原因が澪にあるのか、それとも幽幻自身の問題なのか。それすらも、澪には分からないのだ。
「……」
幽玄は溜め息をつく。それがどこか、震えているように感じたのは、気のせいだろうか。
澪は幽幻を見つめた。すると幽幻は、何かを諦めたような、或いは決心したかのような顔で、ぽつりと言った。
「私は……私はあなたに、謝らなければなりません」
「幽、さん……?」
「あなたは、何も悪くありません。非があるのは私です。……私はあなたを欺いた。嘘と偽りで、本来、説明しなければならなかったことを、都合よく誤魔化そうとしたのです」
「どういう……こと……?」
澪が尋ねると、幽幻は微かに瞳を揺らす。暫く、互いに無言だった。幽幻はそれを説明するのに、かなりの勇気を必要とするようだったし、かと言って澪も、進んで根掘り葉掘り聞き出すような勇気はなかった。やがて幽幻は意を決したように、再び口を開く。
「……澪。私たちが自ら選んで幻朧街を出ることはあり得ませんよ」
「おい、幽……!」
覇王丸が驚いたように幽幻を見上げる。しかし幽幻はそれを目線で制した。
「いいのです、覇王丸。澪、あなたの友人の方が間違っているのですよ。その証拠がこれです」
幽幻は着物の右そでを捲った。そして今まで着物の中に隠していた右手を初めて外気に晒した。
《獏》に喰いちぎられた、幽幻の右腕。失われた筈のそれが、いつの間にか再びそこにあった。
しかし、元通り――ではない。




