第50話 窮地②
澪はよろめき、後退りした。
靴の下で、地面の激しく擦れる音がする。膝が、がくりと折れそうになるが、何とか踏みとどまった。視線は前方に注いだまま、動かすことができない。
不吉で濁った腐臭を撒き散らす、白い霧の向こうから。
木々の間から滲み出す亡霊のようにして、彼らは現れた。
うごめく闇は徐々に人型を成していく。
呆けた表情のまま、澪は瞬きを何度も繰り返した。しかし、何度瞼を動かしても、眼前の光景は変わらない。
――《獏》だ。
一人、二人、三人。どんどんその数が増えていく。
ただ、その場から逃げだそうにも、澪には逃げ場所が無かった。どれだけ探しても、登ってきた石段が無い。この林の中を、どちらに向かって走ればいいのかも分からない。
ただでさえ、恐怖で足は竦み、気が動転してしまっている。
気付けば澪はいつかのように、ずらりと《獏》に囲まれていた。しかも、数はあの時よりはるかに多い。ひやりと霧の放つ冷気が立ち込める。
「な……何? 何なの……?」
思わず声が震えた。澪を取り囲んだ《獏》たちには顔がなく、のっぺらっぼうで何を考えているかも読み取れない。ただゆらゆらと体を揺らし、蠢いているのみだ。緩慢な動作だが、しかし確実に輪を狭めている。
やがて澪は、《獏》たちの頭が変化するのに気づいた。
不意に、頭部にぽつんと白い点が浮かんだのだ。どの影にも、どの影にも。それが波紋のようにみるみる広がっていく。そして目、鼻、口――と徐々に白く顔のパーツが立体的に浮かび上がった。
やがて現れたのは愛花の顔だった。澪を取り囲む何十体という《獏》の顔、その全てに愛花の白い顔が浮かび上がっていた。
どれも同じ無表情で、瞳は所在無げにあさっての方向を見つめている。それが一斉に、澪を取り囲んでいる。
まるで悪夢のような光景だった。あんなに会いたいと願っていた友人の顔が、今はおぞましい化け物にしか見えなかった。
「あ……愛花………?」
澪は顔を歪め、僅かに後退りした。
ぼんやりと虚ろな表情をした愛花の顔。みな、白粉でも塗りたくったかのように真っ白だ。瞳はどんよりと濁っていて、唇は薄い紫だった。心なしか頬もこけているように見える。
《獏》に浮かび上がった愛花の顏からは、生気がごっそりと失われていた。そこからは何も読み取れない。澪は声もなくその顔を見つめた。恐ろしいと思ったが、何故だか眼を離すことが出来ない。限界まで目を見開き、吸いつけられたように愛花の顔を凝視した。
その時。
「……そんなに戻りたいの?」
澄んだ声がした。愛花の声だった。同時に目の前に並んだ愛花の瞳が、皆一斉にぐるんと動き、澪を見つめる。
澪は驚き、びくりと肩を震わせた。あまりに異様で不気味な光景に、「ヒッ!」と短く悲鳴が漏れる。
しかしよく見ると、目の前の《獏》たちに浮かんだ愛花の口は動いてはいない。声は霧の中からするのだった。いつの間にか、濃い霧が、胸のあたりまで立ち上っている。
愛花の声は尚も続く。
「……そんなに戻りたいの、向こうに。戻ってどうするの?」
「え………」
その問いに、すぐには答える事が出来なかった。愛花の声は、今度はすぐ耳元で聞こえた。
「戻って何があるというの? 分かっているくせに。あなたは一人よ。戻ったって家族はいない。高校生活を続けられるかどうかも分からないし、友達とも元のままでいられるわけじゃないでしょう。同じなのよ。どこにいても。幻朧街にいようと、現世に戻ろうと、それは変わらない。……そうでしょう?」
澪は言葉を失った。
愛花の言葉は、正確過ぎるほど的を射ていた。そしてそれはおそらく、今まで澪自身が無意識のうちに考えないようにしていた事だった。
現世に戻る事、ただそれだけが心の支えだった。それに全てを懸けてここまで来たのだ。だから、なるだけその先を考えないようにしていた。
現世に帰ることができさえすれば、後はどうにかなる――その甘美な誘惑を前に、完全に思考停止に陥っていたのだ。
しかし、それが今、はっきりと形になって目の前に突きつけられる。
愛花の言う通りだ。今さら現世に帰って、どうなるのだろう。今や、父どころか母すらいないのに。
一人で、一体何ができるだろう。何が取り戻せるというのだろう?
気付いていなかった訳ではない。だがそれを現実として、受け入れたくなかった。そうしてしまったら、何もかもが絶たれてしまう。希望も望みも、生きる目的すらも。それは澪にとって、あまりにも残酷すぎる現実だった。
だんだん、頭がぐらぐらし始めた。足元の地面が抜け、底知れぬ闇にどこまでも落ちていくかのような感覚に囚われる。まるで、体が傾いていくかのような浮遊感。
もはや、未来など無いのだ。夢も、輝かしい明日も、そんなキラキラしたものは一片も残されてはいないのだ。
いや、そんなものは元もと、最初から無かったのかもしれない。
全部、愚かな幻だったのかもしれない―――――――――………
そんな澪を誘惑するかのように、愛花の声は優しく囁いた。
「結局同じ。向こうに戻っても、幻朧街に戻っても、あなたは一人ぼっち。
だったらここで一緒にいよう? 寂しいのは嫌でしょう?」
「そ……そんなの、嫌………!」
澪は小声で抵抗を試みる。しかしそれは弱々しく、追い詰められた小動物の様に震えを帯びていた。それを感じ取ったのか、愛花の声が喉の奥でねっとりと笑う。それは圧倒的優位に立つ強者が、弱者に向ける憐れみに似ていた。
「嫌じゃない。あなただって、本当は分かっているくせに。このままずるずると望んでもいない人生を歩み続けるの?
友達の愛花は今でも幸せな生活を送っているのに、あなたに待っているのは苦しい道だけ。きっといつか、後悔するに決まってる。だったら今だって同じでしょ?
一緒にいよう。ずっとここで一緒にいよう………」
その言葉は、澪の心を激しく抉り取っていた。
心の中にできた、ぽっかりとした空虚な部分が、急速に広がっていく。自分自身がとてつもなく、くだらないちっぽけな存在に思えてきて、澪は力なく項垂れた。
どうしようもなく惨めだった。
幻朧街にいようと現世に戻ろうと、変わらない。一人ぼっち。
変えようもない、事実。
失われたものは、戻らない。
どんなに足掻いても、努力しても、もう――二度と。
全身が激しい倦怠感に襲われた。感情も判断力も、全てが麻痺し、摩耗していく。周囲を覆う腐臭を伴った白い霧が、体の隅々まで入り込み、内臓も血液も、全てドロドロに腐らせ溶かしていくようだった。
不意に、強烈な眠気に襲われる。全身の感覚が、背中の更に後方に強く引っ張られる。いけない、と脳は警鐘を発するが、次の瞬間、どこかで、もうどうでもいいと囁く自分もいた。
どうにでもなれ、どうせ何をしても無駄なのだから、と。
愛花の顔をした《獏》はゆっくりと澪に近付くと、闇色の身体を伸ばしてきた。それが、ずぶり、と生物にあるまじき音をたて、澪の腕を締め付ける。
それは長い間、水の中に浸かって腐りかけた、ふやけた肉塊を想像させる感触だった。あまりの不快感に、眩暈がする。二の腕から背中にかけて鳥肌が立ち、思わず短い悲鳴が口を突いて出た。
しかし、澪はそれでも抗う気になれなかった。わざと抵抗をしなかったのだ。その頃には、もう何もかも、考えることすら億劫になっていた。それを見てとったのか、餌に群がる動物のように、次々と《獏》が近づいて来る。
緩慢になる思考。自分がこれからどうなるのか、もはや想像することもできなかった。自分は死ぬのだろうか。それとも、彼らと同じ《獏》になってしまうのだろうか。
しかし、今はそれもどうでも良かった。あれほど《獏》になるのは恐ろしいと感じていたのに、今は不思議なほどに何も感じない。寒気と異様な眠気に襲われ、抗うことなく静かに目を閉じる。
ところが、次の瞬間。
突然、誰かに腕を強く引っ張られた。
《獏》たちのような、この世ならざる者の手ではない。ちゃんと生きている人間の、掌が触れた感覚だ。
「澪!」
名前を呼ばれ、澪は閉じていた瞳をうっすらと開いた。すると、幽幻と覇王丸が《獏》の輪の中に飛び込んでくるのが見える。澪はぼんやりした瞳でそれを見つめた。
「……幽、さん?」
「しっかりなさい!」
幽幻は澪の体を両手で激しく揺さぶった。確かな熱を持った人間の手が、澪の眠りかけた感覚を叩き起こす。それに伴って、徐々に意識がクリアになり、判断力が戻って来る。
澪の意識は、今度ははっきりと幽幻の姿を捉えた。向こうには覇王丸もいる。助けに来てくれたのだろうか。そう思いついた澪は、次の瞬間にいや違う、と思い直す。
二人が澪のことを助けに来るわけがない。二人は澪を騙し、代わりに幻朧街を脱出しようとしているのだから。
「二人とも……どうしてここにいるの? あたしを連れ戻しに来たの?」
愛花の携帯電話の向こうから聞こえて来た不吉な会話を思い出し、澪は震える声で尋ねた。
「説明は後です!」
幽幻はそう叫ぶと、周囲の《獏》を睨んだ。《獏》たちは一瞬、怯んだものの、幽幻が加わったところで恐るるに足らずとでも思っているのか、再びゆらゆらと澪たちに近寄ってくる。
すると、澪と幽幻の二人を庇うように、覇王丸が《獏》の群れの前に立ち塞がった。両腕を胸の前で組むと、バキバキと豪快に関節を鳴らして見せる。
「てめえら……よくもやりやがったな!」
覇王丸は憤怒の形相でくわっと口を開いた。双眼がギラリと凶悪な光を湛え、口元の真っ白い犬歯が剥き出しになる。
圧倒されそうなほどの、凄まじい気迫だった。背後にいる澪も、思わずぎょっとしてしまうほどだ。
その巨体が、毛を逆立てるようにぞわりと揺れる。そして澪が絶句して見つめる中、覇王丸の顔は見る見るうちに毛深くなっていった。
澪は、息を詰めて覇王丸を凝視する。顔も、首も、腕も、地の肌が見えないほどの毛で覆われていく。
指には鋭く尖った爪。口の端から覗く犬歯も、獣のような大きな牙へと変貌を遂げている。どうやら体格まで変化し始めた様だ。背が丸くなり、手足が短く太くなって、二足歩行から四つ這いに―――――
次の瞬間、突風が吹いた。そこに立つ全ての者を吹き飛ばすほどの、激しい風が容赦なく地に叩きつけられる。澪は反射的に目を瞑り、両腕で頭を庇った。ひとしきり風が吹き荒れたあと、それが止んでから、恐るおそる両眼を見開く。
そこにいたはずの覇王丸は、いつの間にかいなくなっていた。代わりにあったのは、びっくりするほど大きな虎の姿。
真っ白い毛に黒々と刻まれた模様、アイスブルーの鮮やかな瞳――白虎だ。雪の様な豊かな毛並みに、黒で刻まれた虎特有のしま模様が、息を呑むほど美しかった。普通の虎より、一回り近くも大きい。
「あれは……もしかして、覇王丸……?」
澪は思わず、そう呟いていた。するとその疑問を肯定するかのように、白虎は巨体を仰け反らせる。そして空気を大きく吸い込むと、それを一気に外に向かって迸らせた。
――グワオオオオォォォォン‼
白虎の地鳴りのような咆哮が空気を切り裂いた。そして、それが開戦の合図だった。
覇王丸は地を蹴ると、《獏》たちに飛び掛かっていく。凶器の様に鋭利な牙を閃かせ、漆黒の胴体にかぶりつく。そしてそれをそのまま力任せに引き千切った。
その瞬間、耳を覆いたくなるような断末魔の叫びが、霧の向こうから上がった。澪は息を呑んだ。それは以前にも耳にしたことがある。《獏》たちのあげる悲鳴の声だ。
その声は年を取っているようでもあり、若いようでもあり、男性の声にも女性の声であるようにも聞こえる。何度聞いても、耳を塞ぎたくなるほど不快で気味の悪い叫び声だ。
そして覇王丸に食い千切られた《獏》の身体から、黒い霧が勢い良く吹き上がった。その光景は何故だか、人間の血液を想像させ、妙な生々しさを伴った。薄ら寒い感覚に捕われ、澪は思わず両腕を抱きしめる。
白虎と化した覇王丸は一切迷う事無く、手当たり次第、片端から《獏》を食い千切っていく。地面を覆う白い霧の向こうから、絶叫が幾重にも響き渡った。
やがて、《獏》たちに浮かんだ愛花の表情に、初めて変化があった。それまでずっと無表情だった白い顔に浮かんでいるのは、激しい恐怖だ。彼女たちの顔はみな、覇王丸というこれ以上ない恐怖に、恐れ慄いている。体から黒い霧を、あたかも血の様に噴出させながら、ゆらゆらと逃げ惑う。
周囲は混乱と狂気の渦に呑まれたかのような騒ぎと化した。しかしそのおかげか、《獏》の包囲網が完全に崩れかかっている。逃げるなら、今しかない。
幽玄は再度、澪の手を掴んで、強く引っ張った。
「とにかくここを離れましょう」
だが、澪もまた、激しく混乱していた。いやいやをするように、小さく横に首を振る。
「待って! 愛花を置いていけない!」
「その様な者は最初からここにはいなかったのです! ……分かっているでしょう!」
幽幻に怒鳴られ、澪は今までの事をはっきりと思い出す。
一緒にここまでやって来た愛花は、煙のように膨らみ、透明になって消えてしまった。今でも、自分の目にしたことが信じられない。しかし、唯一はっきりしていることもある。愛花と手を握った時の、あの感触――あの温もりは本物だった。手が、まだはっきりと彼女の熱を覚えている。
(愛花……愛花!)
あれが嘘だったというのだろうか。最初から全て幻だったというのか。そんな話、とてもではないが信じられない。
澪がぐずぐずと拒んでいると、幽幻は焦りを滲ませた声で叫んだ。
「……澪‼」
あの時――夢幻通りにある民家で、携帯電話の向こうから聞こえて来た、幽幻と覇王丸の密やかな会話。騙されているんだよ、と澪を責めたてるかのような愛花の冷たい声。
何が本物で何が偽物かなど、分からない。この街に来てから、ずっとそうだった。確かなこと、安心できることなんて、何一つなかった。このままでは頭がおかしくなりそうだ。これ以上、訳の分からないことに振り回されるのは耐えられない。
「嫌……幻朧街には戻らない!」
澪は幽幻の手を振りほどく。
「澪………」
幽幻は怪訝な表情で澪を振り返った。澪は叫ぶ。
「訳の分からないことを言われるのはもう沢山だよ! 誰も信用できない……だったらあたし、このままずっと一人でもいい!」
誰も私の苦しみを分かりはしない。それなら、放って置いて。どうせ、もう何も無いのだから。
このままずるずると生きていたって、意味などないのだから。
幽幻の表情に、戸惑いと苛立ちが混じる。
「何を言って………」
その時、一体の《獏》が混乱の渦の中から躍り出た。辛うじて手足と分かる四肢で四つ這いになり、覇王丸の爪と牙をくにゃりとした動きでかわすと、白い霧の中を蛇行し、《獏》とは思えないほどの凄まじい勢いで澪と幽幻の方に接近して来る。
それはぬるぬるとした動きで、木陰に潜む爬虫類を連想させた。身をくねらせ、あっという間に澪に近付くと、ぐんと身を起こす。そして、愛花の顔をした《獏》は、くぱあ、と大口を開ける。
ドロリと見開かれた眼球が澪の姿を捕らえた。唾液の絡まった、生々しい歯。その向こうで、飢えたようにぞろりと舌が這いずり回る。噛みつかれる――そう思った瞬間、澪は幽幻に突き飛ばされた。
「幽さ……!」
地面に倒れ込んだ澪が、振り向いたその時。
幽幻の右腕が包帯ごと食い千切られた。
「うそっ……!?」
さすがの幽幻も、激しく顔を歪ませた。反射的に右腕を抑えるが、その先にある筈の部分は完全に消失し、ただ着物の袖が頼りなくはためいているだけだ。
一方、《獏》によって食い千切られた腕は、流麗な放物線を描いて飛んでいき、どさりと地に落ちた。
「いやああああああっ‼」
気付いたときには、澪は甲高い悲鳴を上げていた。顔から血の気が引いていく。
「ゆ……幽さん、腕……!」
手が足が、がくがくと震えた。眼前で平然と繰り広げられた暴力的な光景を、すぐには受け入れる事ができない。自分の目の前で、人の腕がこうも容易く、食いちぎられるなんて。
幽幻が庇ってくれなかったら、今ごろ地面に落ちていたのは間違いなく澪の腕だ。しかし、そんな事は想像するのも怖ろしく思えた。
もう、何も考えられない。これからどうなるのか、この場から逃げ出すことすらも。
その時、ふと幽幻の腕をかみちぎった《獏》と目が合った。そこに浮かんだ愛花の顔が、にたあ、と澪に笑いかける。
――そう。澪はそれでいいんだよ。
愛花の目はそう言っていた。
そうやって、思う存分甘ったるい感傷に浸っていればいい。自分は不幸だ、生きる希望なんてない、そう言って気の済むまで嘆いたらいい。
私はそんなあなたの、ずっとそばにいる。
……逃がさないから。絶対に、逃がさないから。
澪は愕然として、目を見開いた。頬を引っ叩かれたような衝撃が走る。
「あ……あたし……! うそ……愛花……‼」




