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幻籠街の言伝屋  作者: 天野地人
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第49話 窮地①

 一方、《言伝屋》の母屋は変わらず静まり返っていた。


 雲間から月が現れ、再び姿を消していく。その度に《言伝屋》の建物も、母屋や小さな庭も、闇の中から浮かび上がり、そして再び消えていくのだった。


 庭からは蛙の鳴く声が幾重にも響き渡っている。


 その時、幽幻の自室と縁側を仕切る障子に、ふと人影が映った。


「……幽、起きてるか。澪の気配がしねえ。《言伝屋》から居なくなっちまってる」


 焦りを含んだ声。覇王丸だった。幽幻はすぐに障子をあける。寝間着ではなく、いつもの着物姿だった。覇王丸は驚いたように目を見開く。


「起きてたのか」

「ええ。……嫌な予感がしたもので」


 何となく胸騒ぎがして、寝付けなかったのだ。だから、覇王丸に澪がいなくなったと告げられた時も、驚きより、やはり――という気持ちの方が強かった。


 ここ数日、彼女の態度は明らかにおかしかった。いつか何かをしでかすだろうと、そういう予感を抱かされるほどに。


 覇王丸は眉をひそめ、声を落とした。

「どうする。追うか?」

「当然です。すぐにでも連れ戻さなければ。……このままでは手遅れになる」


 幽幻は厳しい表情をし、片手で眼鏡を押し上げる。このまま、澪を放っておくわけにはいかない。覇王丸も同感なのか、力強く頷いた。


(それにしても……何故、彼女は今ごろになって出て行ったのだろう……?)

 幽幻は訝しく思わずにはいられなかった。


 最近は言伝屋での表情も明るかったし、幽幻や覇王丸にも心を開いている様子だった。突飛な行動を取ったとしても、それはあくまでも言伝屋やお客さんのためで、こういう風に訳の分からない無謀な行動を取ることは無かった。


 それなのに、どうして今になって、しかもこんな夜更けに、言伝屋を飛び出したのだろう。


 ひょっとして――気づかれたのだろうか。


 あのことに、勘付かれたのか。


(まさか……)


 そのことに思い当たった瞬間、自分でも驚くほど、ぎくりと体が強張った。思わず、母屋の廊下に立ち止まる。まるで全身の細胞が、脳の命令に逆らい、彼女の捜索を全力で拒んでいるかのようでもあった。


 不審に思ったのか、覇王丸が幽幻の方を振り返る。

「……幽? 大丈夫か?」


「ええ。……急ぎましょう」


 とにかく、今は澪を連れ戻さなければ。そして幽幻は重たい体を引き摺るようにして再び歩き出す。そして覇王丸と共に、《言伝屋》の外、幻朧街の中へと向かったのだった。


 まずは、夢幻通りだ。



◇◆◇




 幽幻と覇王丸が動き出した頃、澪と愛花は既に神社の入り口まで辿り着いていた。


 ここまでは不思議なほど何事も無く、難なく歩を進めることができた。夢幻通りのモノノケたちに絡まれることも無ければ、《獏》と出くわすことも無い。


 もっとも、問題はこれからなのだが。


 澪は不安な面持ちで神社を見上げた。小高い山は、今は暗闇に紛れ、不吉なほど黒々としている。まるで神社というより、何かの要塞のようだった。今にも押し潰されてしまいそうだ。


 それから改めて入り口にある、朱塗りの鮮やかな鳥居に視線を向けた。しかし、澪はすぐに異変が起こっていることに気付く。

 入り口を幾重にも封じていたしめ縄が、みな跡形もなく無くなっていたのだ。


「……この先だよ。行こう」


 愛花は澪の前に立ち、山頂へと続く石段を迷うことなく登っていく。


 しかし澪は躊躇し、入り口で足を止めた。愛花の進む石段の先は、圧倒的な漆黒の世界が広がっていた。石段の両側から迫り出した木々の枝は、まるで侵入者を引き摺り込もうと待ち構えている怪物の手のようだ。


 湿気を伴った冷気が山の斜面に沿って降りて来て、容赦なく体に吹き付ける。余りの不気味さに、思わず身震いした。


 こうして実際に目の当たりにすると、神社の存在感は記憶にあるもの以上だった。夜だから、余計に恐ろしく感じるのだろう。とても軽々しく足を踏み入れる気にはなれない。目の前の狛犬でさえ、これほど不気味なのだ。山頂には一体何が待ち受けているというのだろう。


 どうしよう、閻魔大王の御殿みたいな、とんでもない建物が聳え立っていたら。いや、もしかしたら、夢幻通りのモノノケたちなんて可愛く思えてくるほど、凶悪な妖怪が待ち構えているかもしれない。


 おどろおどろしい想像がいくつも浮かび上がり、なかなかその場から動きだす事ができなかった。


 愛花は石段をいくつか登ったところで、立ち止まった澪に気づき、怪訝な表情で後ろを振り返った。


 すると丁度その時、愛花の携帯が軽快な着信音を奏で始める。愛花はそれを操作し、耳に当てる。彼女の携帯電話は、時おり、誰かの話声が勝手に聞こえてくるらしい。今も何かが聞こえているのだろうか、すぐに顔を強張らせた。


「あの男の人達……あたし達の事、追ってきているみたい」


 澪は思わず背後を振り返る。勿論、二人の姿などそこにはない。見えるのは夜の闇に沈んだ幻朧街の街並みと、今は遠くなってしまった夢幻通りの鮮やかな明かりだけだ。


 しかしその時、怯える澪を嘲笑うかのように、風がごうと吹き抜ける。ふと、この街が澪たち二人を逃すまいとしているのではないかと感じて、澪は慄いた。


 ――――戻れ。戻れ。そして、この街の一部となるのだ。


 澪はいやいやをする子供のように、首を横に振る。


 私は、現世に戻る。このままこの街で、何一つ訳も分からぬまま、《獏》の様になって呑み込まれていくのは御免だ。


 愛花は足早に石段を降りて来ると、澪の手を強引に引っ張った。


「早く。追いつかれたら、連れ戻されちゃう!」


 そうだ。せっかくここまで来たのに、幽幻や覇王丸に追いつかれたら、言伝屋に連れ戻されてしまう。何せ彼らは、澪を身代わりにして現世へ戻ろうとしているのだから。


 澪は這い上がってくる恐怖心を振り払い、愛花と共に階段を上っていく。


 神社の石段は思いの外、急だった。おまけに、登れば登るほど、周囲は闇の濃さを増していく。幻朧街には辛うじてガス灯があったが、ここにはそれすらも無いのだ。足元すらおぼつかない。何度も石段につまずき、転びそうになった。


 余計な事を考えると、恐怖心が頭をもたげる。できるだけ頭をからっぽにするようにし、無心になって足だけを動かすように努めた。


 ただ、手をつないだ愛花の温かさが、唯一、澪を奮い立たせた。


 息を切らせながらも石段を登り切り、何とか頂上まで到達した。ここに現世へ戻る手掛かりがあるのだろうか。期待と不安がない交ぜになり、激しく胸を打った。


 一体ここには何があるというのだろうか。


 そこはぽっかりと開けた広場になっていた。周囲は木に囲まれているものの、広場の中には何も生えていない。だから、石段を上っている時には見えなかった空が、ここではよく見える。


 夜空を見上げると、星々に紛れて月が顔を出しているのが見えた。


 あたりに人の気配は全く無い。しんと静まり返っている。石段の上にも小さな鳥居があり、その向こうは草原が広がっていた。誰かがそこに足を踏み入れた様子はなく、雑草が無秩序に生い茂っている。


 その片隅に、崩れかけた小さな社が、誰からも忘れられたかのようにひっそりと佇んでいた。


 澪はじっと目を凝らす。――あるのはただ、それだけ。


(えっと……あれ、これだけ……?)


 澪の目の前に広がっているのは、誰からも気にされずに放置されている、ただの空き地だ。少なくとも、澪には何の変哲もない風景であるようにしか見えない。


(本当にここから現世へと戻れるの……?)


 想像したようなものも、期待していたものも、何もない。現世に戻る為の目印もなければ、何か特別な場所ですら無いように感じた。あまりの素っ気なさに、澪は肩透かしを食らったような気分になる。


「愛花、ここで間違いないの?」

 澪は周囲を見回しながら、愛花に念を押す。

「うん。ここだよ。そこの、社の中。こんなとこ、気持ち悪い。早く向こうの世界に帰ろう」


 月明かりの下で見る彼女は、とても頼りなく見えた。澪を引っ張ってここまで来た愛花だったが、本心ではやはり澪と同じ様に恐怖でびくびくしていたのだろう。


 澪は一つ深呼吸し、古びて崩れかかった社に近付いていく。


 この神社の社なのだろうが、本当に小さい。澪の背よりも少し高いくらいの大きさしかない。木はボロボロに朽ち果てていて、あちこち苔むしているし、屋根もところどころ剥げている。長い間、誰の手も入っていないのだろう。


 澪は斜めに歪んだ格子扉に手を伸ばし、それをゆっくりと開いてみた。


 しかし扉は金具が錆びていたらしく、ガタンと大きな音をたててそのまま地面に落下する。ぎょっとして思わず手を引っ込めたが、既に壊れてしまっていて、どうすることもできない。


 取り敢えず今はそのままにし、中を確認してみることにした。


 心臓の鼓動が急激に加速していく。澪は背を屈め、中を覗き込んだ。


「あれ……?」


 中には何も無かった。現世への道へと通じているものはおろか、ご神体の類のものすら無い。


 完全なる、がらん洞だ。


 肩の力がすとんと抜け、何度か瞬きをした。しかし、どれだけ穴が開くほど見つめても、社に変化は無い。


 俄かに疑問が湧き上がる。本当にここから現世に戻れるのだろうか。


 何だか変だ。澪は不審に思い、愛花の方を振り返る。


「ねえ、愛花。この中……何も無いよ?」


 ――ところが。


 その時、むっとした臭いが鼻を掠めた。周囲に水気は全く無い筈なのに、その臭いはじっとりとした湿り気を伴っている。まるで、水の中で何かがずぶずぶと腐っていくような。


 覚えのあるそのすえた臭いに、澪は弾かれたように頭を上げた。そしてその時、初めて気づいたのだった。二人の周囲、その足元にうっすらと霧が立ち込め始めていることを。


 白濁した霧は、周囲の林の中のどこからともなく、次から次へと流れ込んでくる。


 全身から血の気が引き、背筋が粟立つ。慌てて愛花の傍に駆け寄った。


「愛花、下に戻ろう! ここは危ないよ!」


 しかし、愛花の反応は鈍かった。ぼんやりとし、両目の焦点が定まってない。先ほどまで、あれほどはきはきと話していたのに、今は何だか空気の抜けたゴム人形みたいだ。


「……愛花!? しっかりして、愛花‼」


 しかし、愛花の瞳は虚ろなままだ。ぶつぶつと、独り言のように何かを呟いている。


「帰ろう、澪。帰ろう……帰ろう………………」


 そして、愛花はにたりと笑った。


 いや、笑ったのではない。顔が風船のように奇妙な形に膨らんで、歪んだのだ。


 愛花の体はそのまま気体の様に透明になり、ほうっと宙に溶け、消えていった。後には愛花の身に着けていた制服や靴が、音もなくはらりと落ちる。


 押し潰されそうな静寂が周囲を包み込んだ。


 澪は目を一杯に見開き、そのまま全身を硬直させた。何が起こったのか、理解ができない。筋肉が、細胞が、澪の全てが今目にしたことを拒絶している。

 あまりの衝撃で、指一本、動かすことが出来なかった。


 分かっていることは、愛花が透明になって消えたという事、そしてこの場に残されたのが自分一人だという事。


 その間も、周囲を包む白霧はどんどん濃さを増していく。鼻をつく様な、生き物の腐った臭い。死を思わせるその臭いを嗅いだ瞬間、体の底から恐怖と不安が渦を巻いて突き上げてきた。


 心臓が早鐘を撃つ。一刻も早くこの場を立ち去らなければ。そう思って入り口の鳥居を探すが、その鳥居が見つからない。


「え……嘘………」


 気づけば、澪は林の中にただ一人取り残されていた。あるのは崩れかけた祠のみ。


 出口が忽然と消え失せ、自分がどの方向から来たのかも分からなくなってしまったのだ。


 必死で闇の中に目を凝らすが、石段はおろか、ここから見下ろせるはずの、夢幻通りの煌々とした光も、全く見えなくなっている。


 ――どうしよう。どうして、こんな事に。愛花はどこへ行ってしまったの。


 胸の中で何度も叫ぶ。しかし、何一つ確たる答えは得られなかった。あまりの異常事態に、澪は泣き喚きたい衝動に駆られる。


 誰か、何とかして。こんなの、絶対におかしい。


 その時、周囲の闇がさらに濃度を増した。月が陰ったのだ。


 ぞわりと空間が揺れる。


 眩暈のするほど濃厚な冷気。


 そして。


 木々の向こう、更に闇の濃い部分で何かが揺れた。風も吹いていないのに、小さなざわめきがさざ波のように立つ。それらはまるで増殖するかのように、ざわざわと数を増やしていく。


 澪は瞳孔を見開いた。全身に鳥肌が立つ。


 叫び出そうにも、もはや喉が痙攣して声すら出なかった。


 歯の根が震え、がちがちと乾いた音をたてる。



 ――来る。


 とうとう彼らが、姿を現す。




◇◆◇



 ドン、ドン、ドン。


 ピイヒョロロ。


 艶やかな提灯の下で、大勢の人々が楽しそうに行き交っている。笛や太鼓、三味線の奏でる賑やかな旋律は、彼らの訪問を歓迎するかのようだ。


 飲み食いをする者、賭博に興じる者。この街で知り合ったのか、それとも最初から一緒だったのか、腕を組んで歩く男女も見受けられる。


 しかし、どんなに探しても、その中に目当ての人物はいなかった。


 幽幻は夢幻通りを抜け、小道をいくつも曲がる。それでも澪は見つからなかった。手がかりもない。何故、こんな時間帯に。どこへ行ってしまったのか。しかし、探し出すには、あまりにも情報が少なすぎた。


 知らず知らずのうちに、包帯を巻いた手を握りしめる。後悔が大きな波のように押し寄せてきた。


 こんなことになると分かっていたなら、この様な浅ましい真似をするのではなかった―――――


(私は逃げている。己に嘘をつき、彼女を欺き、卑怯な行いをしている。……これはそのツケだ。全部、自分自身が招いたことなのだ……!)


 それは痛いほど自覚していた。けれど、分かっていながら、その意思を行動に移すだけの勇気が持てなかった。


 自分はこんなに弱かっただろうか。これほどまでに、意気地がなかっただろうか。


 今となっては、どれだけ悔やんだところで後の祭りだ。


 一人でいた時は何も考えなくて良かった。澪や覇王丸と食卓を囲んでいる時のような、賑やかさを感じることも無かった代わりに、これほどまでに情けない心境になることも無かった。


 ただ、店の座敷で、空穂の帰りを待っていさえすれば良かったのだ。


 でもその空穂も、おそらくはもう、言伝屋には戻って来ない。それどころか、今や澪までもがこの街で行方不明になろうとしている。


 何もかも失って、傍には何も残らない。何故なのだろう。自分が『普通』ではないからか。持って生まれた『業』は、誰にも変えられないという事なのか。


 いや、今はそのように自分を憐れんでいる場合ではない。


(もしかしたら、写真館の方へ向かっているかもしれない……)


 澪は写真館の主・飯室蒼次郎や、その助手である神薙昴流と仲良くなり、ずいぶん打ち解けていたようだった。ひょっとすると、そちらへ行っているのではないか。


 しかし幽幻は、すぐさま自らの考えを否定した。写真館に向かうのであれば、何もわざわざこんな夜更けに、言伝屋から忍び出る必要は無いだろう。そもそも蒼次郎や昴流だって、この時間帯は眠っている筈だ。


(では、一体どこへ……? 一体、何のためにこんなことを)


 分からない。現世などという異世界からやって来た少女の事など、幽幻に分かる筈もない。理解できるよう自分なりに努力したつもりではあるが、だからと言って簡単に通じ合えるわけでもない。


(どうして彼女はこの街にやって来てしまったのだろう……)


 どうして言伝屋に姿を現したのが空穂ではなく、澪だったのだろう。


 今まで幾度となく、その事について考えてきた。でも、答えは見いだせない。最初はそれが受け入れられず、恨めしく思ったこともあった。澪の存在が受け入れられず、冷たく突き放してしまったこともあった。


 ただ、今は澪に対してそういった薄暗い感情はほとんど無い。それを恨めしく思うには、彼女の存在が幽幻にとって身近な存在になり過ぎてしまったからだろう。


 いつの間にか、澪が傍にいることが当たり前になっていた。良いか悪いかではない、幽幻にとって、それはもう日常の一部なのだ。


 だがいずれにせよ、答えが出ないのは同じだった。全てはこの街――幻朧街が決めることだ。幽幻にできることは、それをただ受け入れるだけ。そこで起こる事象を、ただありのままに受け入れる事だけだ。


「とにかく、澪を探し出さなければ……!」

 

 すると、通りの向こうから覇王丸が人ごみを掻き分け、走って来るのが見えた。

「幽、ここにいたか!」

「覇王丸! ……澪はいましたか?」


「いいや。ただ……神社のしめ縄が無くなっていたぞ」


 幽幻は眉間にしわを寄せる。幻朧街で神社といえば、一か所しかない。


 でも、あそこは確か、何もなかった筈だ。小高い山の上には社があるが、とうに崩れかけ、中に祀られていたご神体も失われている。幽幻が物心ついた時には、すでにそうなっていた。


 ――それなのに、何故そんなところに。


「まさか……いくら何でもあそこに踏み込むとは思えませんが」


「いいや、これだけ探しても見つからねえんだ。可能性はある。それに……奴らの臭いがするぞ」


 覇王丸はくっきりとした双眸を光らせる。覇王丸がそう言うなら、それは確かだ。何せ、覇王丸は鼻がいい。それに何より、『彼ら』の存在を察知し、それを祓う事が覇王丸の役目なのだから。


 幽幻はさっと表情を強張らせた。


「………、行きましょう」


 急がなければ、本当に手遅れになってしまう。


 幽幻と覇王丸は、共に神社に向かって走り出した。 




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