第48話 帰還の決意
暫くして、何とか『天下無双』の看板を見つけ出した。
賑やかなその居酒屋は、澪が夢幻通りを進み始めた方向とは逆の方向にあった。澪はほっと安堵の息をつき、その隣の民家に目を向ける。
ひっそりと佇む、木造の建物。いつか来た時は固く閉じられていた玄関の戸が、僅かに開いていた。
それを目にした途端、澪の心臓が跳ね上がった。思わず駆け寄り、玄関の戸に手をかけてみる。戸は派手な音をたてる事も無く、からからと難なく開いた。
(開いた……‼)
その瞬間、それまで押さえつけていたものが、怒涛の如く溢れ出してきた。いてもたってもいられず、澪は靴を脱ぎ捨てると、家の中に勢いよく駆け込んだ。
中は暗く、静まり返っている。手探りで柱や襖を伝いながら、廊下を奥へと進み、小声で愛花の名を繰り返した。
「……愛花! いないの、愛花?」
「………澪?」
暗くてよく見えないが、部屋の奥から小さな返事が聞こえる。畳で足を滑らせるのにも構わず、澪は声のする方向へ駆けった。
「愛花! 愛花、どこ?」
「ここだよ澪!」
人影が部屋の隅に設置してあった屏風の後ろから飛び出してきた。澪は驚きのあまり、悲鳴を上げそうになる。そして、光源となるものを何も持ってこなかった事を後悔した。これでは愛花がいたとしても、互いの顔も確認できない。
すると、相手は携帯電話を取り出した。その人工的で鮮明な明かりが、二人の顔を照らしあげる。
闇の中に浮かび上がったのは、正真正銘の愛花の姿だった。澪と同じ、城南高校の制服を身に纏っている。
余程不安だったのだろう、滅多に見せたことのない弱気な表情で、瞳は頼りなく潤んでいた。愛花もまた澪の姿をしげしげと見つめると、くしゃっと表情を歪め、抱き付かんばかりの勢いで、近寄ってくる。
「良かった、愛花……本当にいた……!」
差し出された彼女の手に触れた途端、澪も胸が詰まって泣きそうになった。
「うん、ホントに良かった! あたし、一人だったらどうしようもなかったよ……!」
愛花も言葉を詰まらせながらそう言った。
二人は真っ暗な部屋の中で、手に手を取って喜んだ。ずっとスポーツをしてきたからだろう、愛花の女の子にしては皮の厚い。がっしりした手が澪の手と重なる。
友達と再会できたのだという実感が全身を包み、澪は懐かしいような泣きたくなるような、不思議な気持ちになった。
ああ、愛花だ。本物の愛花だ。夢や幻じゃない。あれほど会いたかった大切な友達に、本当に再会することができたのだ。
ひとしきり喜び合った後、二人は手を握り合ったまま、部屋の隅に座った。
畳の上に並んで座り込んだ後も、愛花は尚も興奮していた。よほど澪と再会したことが嬉しいのだろう。暫くして愛花が落ち着いてから、澪は彼女に尋ねた。
「後頭部を殴られたんでしょ。大丈夫?」
「うん……瘤はしっかりできてるけど。ちょっと痛いくらい。大丈夫だよ」
愛花はおどけて後頭部を擦って見せる。彼女はとても死者であるようには見えない。死者にしては、不安や恐怖と言った感情が強すぎる。つまり、愛花は殴られた弾みで気を失い、生きたまま幻朧街に迷い込んだという事なのだろう。
澪は慎重に質問を重ねる。
「あたしね、最初にこの街に来た時、ここで目が覚めたの。愛花もそうだったの?」
「ううん、違う。ここは二度目に目が覚めた時に、移動してた場所。最初は何だか……神社みたいな場所にいた。真っ赤な鳥居と、狛犬……って言うのかな、あれ。そこで目が覚めて、すぐにまた気を失ったんだ。そしたらここにいた。間違いないよ」
澪は、しめ縄で幾重にも封じられた鳥居と、その両脇に鎮座していた気味の悪い狛犬を思い出す。夢幻通りの向こうにあった、小高い山の麓にある神社だ。
「そうだったんだ……あの神社が………!」
あまりにも異様で、底知れぬ雰囲気。軽々しく足を踏み入れてはならない何かが、あの神社にはあった。その為、一度訪れてからというもの、近づかない様にしていたのだ。
夢幻通りですら恐ろしくてたまらないのだから、それより向こうには、結局、一度しか足を踏み入れていない。
しかし、愛花にそう言われてみると、その言葉はすとんと腑に落ちた。どうして思いつかなかったのだろう。言われてみれば、あの神社ほど怪しい場所は他には無い。
気味の悪い狛犬も、まるで入るなと言わんばかりのしめ縄も、その向こうに何かが隠されているからこそではないのか。
愛花は澪の方に顔を寄せると、目を爛爛と光らせて囁いた。
「ねえ、これからそこに行ってみようよ。あたしも一人だったら怖いけど……澪と二人なら心強いし」
「でも………」
あの神社はかなり不気味だった。できるなら、今でも近づきたくはない。おまけにまだ深夜だ。幻朧街でなくたって、女の子二人が歩き回るには危険な時間帯だと言えた。
それでも夢幻通りは明るいから、どうにかここまで来れたが、神社の周りには明かりとなるようなものも殆ど無かった。せめて、日が昇るのを待つべきだろう。
理性的に考えればそれが妥当だ。でも、澪の中で同時に別の考えも頭をもたげる。
もし――もし本当に、現世に戻れるなら。一刻も早く出発したい。そして、すぐにでも幻朧街を脱出したい。もう二度と、手遅れになったり、どうにもならないと思い知らされるのはご免だ。
澪の気持ちは、理性と感情の間で激しく揺れ動く。
その様子を察したのか、愛花は少しきつい口調になって言った。
「澪……もしかしてこのおかしな街から出たくないの? それとも、《言伝屋》とかいうところの人達と仲良くなった?」
「愛花………」
「いい? 眼を覚まして。澪は騙されているんだよ。これ、あたしのケータイ」
愛花はそういうと、先ほど光源として利用した自身の携帯電話を取り出して、澪へと見せる。
不思議な事に、愛花の携帯電話は幻朧街でも難なく動くようだった。澪の携帯電話がほとんど真っ暗で自分の意志では操作できないのに比べ、愛花のそれは今でも煌々とした光を放っている。
どうしてこのような違いが生まれるのだろう。携帯電話の機種の違いだろうか。澪はしきりと首を捻る。
「これ不思議なんだ。時々、勝手にいろんな話声が聞こえて来るの。聞いてみて」
そう言って、愛花は携帯電話を差し出してきた。画面を見ると、通話状態になっている。澪は愛花の携帯を耳に押し当てた。すると、聞き覚えのある男性の声が二つ聞こえて来た。
淡々とした口調と、それに答える威勢のいい声。幽幻と覇王丸だった。
「……何といっても女の子がいるってのは華やかでいい。師匠は退屈しない性格だったけど、女って感じじゃなかったからなあ。……お前、あんま張り切って澪をしごくなよ」
「そういう訳にはいきませんよ。私たちがいなくなったら、彼女一人で《言伝屋》を背負っていかなければならないのですから。急がなければなりません」
(これ……昨日の二人の会話だ。あたしが居間の廊下で立ち聞きした……)
確かにそれは澪も聞いた覚えのある会話の内容だった。しかし《言伝屋》には携帯はおろか普通の電話も無かった筈だ。愛花の携帯電話はどうして二人の会話をこうして拾っているのだろうか。
それにもし仮に盗聴器などを用いていたとしても、この会話は昨日のものだ。今頃二人は《言伝屋》で静かに寝ているだろう。この時間のずれを、どう説明するのか。
ただ、幻朧街が奇妙な街であることも確かだ。普通では考えられない事もここでは当たり前のように起る。携帯電話も、必ずしも正常に作用するとは限らないのかもしれない。
そんなことを考えていると、携帯電話の向こうから耳障りなノイズ音が聞こえてきて、すぐに二人の会話は別の話題に映った。
「澪、何か変だったな」
「………。そうですね」
「……お、やっぱ幽から見てもおかしかったか。こりゃあ余程だな。お前、何かいらんこと言ったりしたりしてねえよな?」
少し間があって、幽幻の言葉が続く。
「私は……何も覚えはありませんが。それに原因は私とは限らないでしょう」
「いいや。澪を怒らせるのは十中八九、お前だ」
「怒っているとは限らないでしょう」
「じゃあ、何だってんだ」
「それは分かりません。ただ、何か……避けられているのは間違いないのですが」
ばしん、と豪快な音がした。まるで、何かを叩くかのような音。
澪はその音に驚くが、再び耳を電話にあてる。
「気にすんなって。ばれちゃいねえよ。澪だってちょっと機嫌が悪いだけだ。それに……今更逃げたりしねえだろうよ。……大体、慎重にやって来たんだろ?」
「ええ。……そうだと思いますが」
澪は息を呑んでそれを聞いていた。胸がどうしようもなく、ざわざわとする。
二人の言っている事の意味が分からない。逃げるって何だろう。慎重にやってきた、とはどういうことなのか。
やはり二人は澪に隠し事をしていたのだろうか。嘘をついていたのだろうか。
でも何の為に―――――?
そして次の瞬間、澪は信じられない台詞を耳にする。
「そう……今更、澪に逃げられる訳にはいかねえ。何せ、澪が来てくれたおかげで、俺達は幻朧街を出て現世に戻る事が出来るんだからな」
「分かっています。《言伝屋》に来た生者はこの店に縛られ、現世に戻る事ができなくなる。しかしそれも『変わり』がいれば話は別です。澪にはうまく私たちの身代わりを務めてもらわなければ」
「お前、絶対に気づかれるなよ。あいつはうまく俺達に懐いているんだ」
「本当に……何も知らないという事は可哀想なことですね。全く……これでようやく向こうに戻る事が出来ます」
――向こう。『向こう』って何? どこへ戻るというの。
まるで澪のその疑問に答えるかのように、幽幻がポツリと呟く。
「……ああ、これで現世へ戻れる」
頭の中が真っ白になった。
どっどっ、どっどっ。
心臓の音がどんどん駆け出し、耳の裏で大きく鳴り響く。
「うそ…………」
衝撃のあまり手が震え、その弾みで愛花の携帯電話を落としてしまった。愛花はそれを拾い上げながら、どこか冷ややかに口を開く。
「澪……だから言ったでしょ。信じちゃ駄目だって。これが本当の事なんだよ」
愛花の言葉が鋭く胸に突き刺さる。しかし、何も言葉を返すことができなかった。
澪は頭の中でぐるぐると幽幻と覇王丸の会話の内容を反芻した。
二人の密やかな声。生々しい会話の内容。何も知らない澪を、どこかあざ笑っている様にすら感じた。
嘘をついていたどころの騒ぎではない。二人は澪を騙していたのだ。澪を身代わりにして、二人で現世に戻る算段を立てていたのだ。
そう考えると、様々な事の辻褄が合う。何故、二人は行く当てのなかった澪を何事もなく受け入れたのか。何故、幽幻は《言伝屋》の仕事を熱心に澪に教え込んだのか。
理由はただ一つ――全てを澪に押し付け、幻朧街を出る為だったのだ。
「どうして……?」
どうして、そんなことを。
信じた自分が馬鹿だったのだろうか。最初からもっと警戒し、幽幻たちと距離を取って、下手に心を許したりしなければ良かったのだろうか。
写真館の主人、飯室蒼次郎は澪に言った。「言伝屋さんは、僕たちとは違う」、と。その忠告を、大人しく聞いておくべきだったのか。
(あたし……好きになりかけていたのに。幽さんのことや覇王丸のこと、この言伝屋の事。少しずつだけど、好きになり始めていたのに……!)
何となく、上手くやっていけそうだと、そう安心していたのに。
たくさんの死者と接し、彼らに言伝を渡すという言伝屋の仕事を手伝ったことも大きいだろう。彼らの事情や、言伝を手にした時の変化を目の当たりにし、この理不尽な幻朧街という街の事も、ほんの少しだけ受け入れられたような気がしていた。
もちろん、閉じ込められていることを理不尽だと感じる気持ちが、全く無くなるわけではない。ただ、この街のおかげで心を救われる人たちもいる。
その事実に、ほんの少しだけ心を動かされ始めていた。
――それなのに。
今となっては、自分が甘かったのだとしか思えない。この街は決して優しくもないし、温かくもない。心を救われる人がいたとしても、それはただ、一つの結果に過ぎないのだ。
何という事はない。最初からそうだったではないか。
この街に毒され、言伝屋での生活に慣れ切ってしまって、澪はすっかり忘れていた。自分がどこへ戻るべきか、居場所はどこにあるのか。少なくともそれは、この幻朧街の中には無いのだ。
そう考えると、全身がずたずたに引き裂かれそうだった。
裏切られたという思いは、すぐに怒りに変わり、次いで恐怖になった。
このままでは本当に幻朧街から出られなくなってしまう。幽幻と覇王丸が《言伝屋》からいなくなったら、澪は正真正銘、この街で一人ぼっちになってしまう。
それを想像すると、恐怖しかなかった。あの言伝屋で、たった一人で生きていかなければならないのか。時おりやって来る死者に、言伝を手渡し、或いは受け取るだけの毎日。
どんなに感情移入しても、彼らは幻朧街から去って行ってしまう。澪はただ一人、この街の取り残されるのだ。
そんな生活、考えただけでも気が狂いそうだった。
もしかしたら、愛花と一緒にいる今が、最後のチャンスかもしれない。
澪は縋るようにしてそう思った。澪は幻朧街から出る術を何も知らないが、愛花にはどうやらその心当たりがあると言う。先ほど愛花が言った通り、二人なら何とかしてこの街から脱出することができるかもしれない。
ただ、それも確実かどうかは分からない。愛花の示す場所が〈入り口〉だったとして、そこから本当に、無事に現世に戻れるのだろうか。
そもそもここから神社まで、無事に辿り着けるかどうかも分からない。頭がこんがらがって、苛々した。
どうしたらいいのだろうか。何が最良なのだろうか。
――分からない。
分からないが、もう、うんざりだった。
訳の分からないこの街も、理不尽なこの状況にも。
夢幻通りのモノノケ達にびくびくして過ごさなければならないことに嫌気がさしていたし、意味の分からない街のルールに振り回されるのもうんざりだった。
そして何より、一刻も早く帰りたかったのだ。帰って、自分の未来は安心なのだと――もう何も不安に思う必要は無いのだと、その手ごたえが欲しかった。
何も疑問に思わなくても、何も特別なことなんて無くても、毎日が幸せだったあの頃に戻りたかった。
危険なのは分かっている。でも、選ばなければ――決断しなければ、望むものは何一つ手に入らない。
澪は決意を固め、愛花に向かって頷いた。
「……行こう、愛花。あたしも早く、この街から出たい」
愛花は心から嬉しそうに微笑むと、片手を差し出してきた。澪はその手に、自分の手を重ね合わせる。すると、愛花はぎゅっと澪の掌を握りしめた。彼女の掌の温かさが、澪を力強く励まし、勇気づけてくれた。
これでいいのだ。
これから澪は、愛花と共に、幻朧街を出る。
そしてあるべき日常を取り戻すのが、最善の選択なのだ。
二人は離れ離れにならないようにしっかりと手を繋いだ。互いに顔を見合わせ、一つ頷く。もはや、言葉など不要だ。
そしてついに、薄暗い空き家から出て、雑多な繁華街へと身を躍らせた。はぐれない様に人の波を掻き分けながら、ただひたすら神社を目指す。
帰ろう、あるべき場所へ。
帰ろう、元あった私たちの世界へ―――――――




