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幻籠街の言伝屋  作者: 天野地人
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第53話 終幕 

 いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。


 目を覚ますと、すっかり朝になっていた。


 柱時計に目をやると、八時を三十分過ぎたところだ。澪は慌てて起き上がる。


 明らかに寝不足で、軽く頭痛もした。しかし、だからといって休んではいられない。いつ言伝屋に、お客さんが来るともしれないのだ。


 澪だけのんびりしていたのでは、幽幻や覇王丸に申し訳ない。


 澪は父からの言伝を大切に海老茶色の封筒に戻す。それを再び丁寧に文机の引き出しに仕舞った。布団を押入れに畳んで入れ、いつもの着物に着替えると、手際よく帯を締める。


 そして、店の一階に降りた。外は、清々しいほど晴れている。日差しもかなり強く、空気が蒸し暑い。梅雨に差し掛かっているせいだろう。


 そうであるなら、この晴れ間も、長くは続かないかもしれない。


 店には、既に覇王丸がいた。店先に出て、深い藍色の暖簾を掲げている。二階から降りてくる澪に気づくと、にっと笑った。昨日の疲れは、さほど見えない。


「よう、おはようさん」


 少しだけ、ほっとした。幽幻や覇王丸にどんな顔をして接すればいいのか。少しだけ不安だったからだ。でも、覇王丸は何のてらいもなく、澪に笑いかけてくれる。だから澪も、笑顔を返した。


「おはよ。今日は何をするの?」

「どうすっかなあ。梅雨が近づいてるから、屋根でも見とくか」

 頭を掻きながら、天井を見上げる覇王丸。


「屋根?」

 澪もつられて上を見上げる。


「古いだけあって、あちこちガタが来てる。雨漏りがひどくて困ったことがあったんだよな」

「え、ホント? ……大丈夫なの?」

 ぎょっとした。二階には、澪の部屋もある。覇王丸も渋面をつくり、顎に手を当てて唸った。

「いやあ、以前、雨漏りをした時にはどえらい騒ぎだった。あれはいつだったか……」


「一昨年ですよ。師匠が怒って、無理やり屋根に上らされたでしょう」


 奥の間から姿を現した幽幻がそう言葉を挟む。いつもの通り、きっちりと着物を着こなした彼には、一分の隙も無かった。幽幻もやはり、いつも通りだ。澪は密かに、それに救われたような心地になる。互いに、声に出せない想いはたくさんあるだろう。でも今は、『いつも通り』が身に染みて有難いと感じる。


 覇王丸は幽幻の指摘を受け、急に思い出したように指をぱちんと鳴らす。

「そうだった、思い出した! 土砂降りだってのに空穂の奴、容赦なく、ど突きやがって……」


 澪はその光景を想像して、くすりと笑った。母屋の部屋にあった写真を思い出す。空穂という人物は、女優の様にとても美しかったが、どうやらかなり豪胆な性格であったようだ。


「じゃあ、やっぱり見ておいた方がいいのかもね。手伝おっか?」

「そうだなあ、じゃあ、一緒にやるか」

 澪と覇王丸は顔を見合わせて頷き合う。すると、幽幻が口を開いた。

「……屋根から落ちない様に気をつけてください。釘を打つときは手元を誤らないように」


「そんなに言わなくても分かってるって。まるで母ちゃんみてえだな」

 顔をしかめ、呆れる覇王丸に、幽幻は事も無げに言った。

「あなたに言っているわけではありません。澪に言っているのです」

「あ、ひでえ! グレてやる!」

 大袈裟なリアクションを返す覇王丸に、幽幻は素っ気なく答える。


「何を言っているのですか、子供じゃあるまいし。……それにあなたが素行不良になってしまったら困ります」

「お、そうか。そうだよな。やっぱ俺、頼りになるもんな」

「違います。師匠と一緒にべろんべろんになるまで焼酎を飲み倒し、文字通り虎になったあなた達を毎回誰が介抱していたと思うのですか」

「いいじゃねーか! 一人で虎になるのも、二人で虎になるのも、大して変わんねーだろ! ……なあ、澪?」


 澪は笑った。最初はくすぐられた時のように小さく、だんだんと大きい笑い声になっていく。幽幻と覇王丸のやり取りがおかしかったから、だけではない。何だか、心の底から笑いたい気持ちだった。 


 これでいいんだ、と思った。幽幻がいて、覇王丸がいて、他愛もないやり取りをする。時々、言伝を求めたお客さんがやって来る。中にはいい人もいるし、変な人も困った人も、複雑な事情を抱えた人もいる。


 そういう人に言伝を渡し、或いは受け取って一日が終わる。


 それでいいのだ、と。


 幻朧街に来て初めて、澪は大きな声で笑った。


 幽幻と覇王丸は目を瞬かせて澪を見ていたが、やがて互いに顔を見合わせ、頬を緩める。 


「……まずは朝餉にしましょう」

 幽幻がそう言うと、覇王丸も盛大に伸びをした。

「そうだな。まずは食わねえと始まらねえ」


 母屋へと向かう二人を追って母屋に向かいかけ、澪はふと店先を振り返る。


「どうかしましたか」

 澪に気づいて、幽幻も足を止めた。


「今日も……お客さん、来るのかな」

 澪はぽつりと呟いた。


「……ええ、きっと」

 幽幻も静かに答える。



 暖簾の間から見える街並みは、今日も変わらず静かで、ぞっとする程美しかった。






 ――ここは幻朧街。


 夢と現の狭間、此方と彼方、此岸と彼岸の狭間にある街。


 死者が訪れ、去っていく街。



 そして、生者がひっそりと生きる街。










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