第43話 花園と秘められた恋⑦
「伝えたい……人………受け取るべき、想い……」
しかし櫻子は、もはや声を出すのも億劫な様子だった。まるで居眠りをする子供のように、力なくかくんと項垂れると、そのまま動かなくなってしまった。
周囲には白濁した濃い霧が立ち込め、今や足元も見えないほどだ。それらから漂ってくるじっとりした臭いもむっと濃くなり、魚の腐ったような臭いに変わり始めている。
そのうち、櫻子の体を覆っていた闇の粒子に変化が起きた。濃淡を繰り返し、櫻子の全身を這っていた粒子の群れは、ぞわり、ぞわりと数度、蠢くと、あっという間に移動を始める。櫻子の身体からそれを支える幽幻の腕へ、まるで新たな獲物を求める昆虫の群れのように、侵蝕していく。
瞬く間に、幽幻の両腕は真っ黒の霧に覆われていった。
「幽さん、腕が!」
澪は悲鳴を上げた。このままでは幽幻まで、櫻子もろとも《獏》になってしまう。しかし、幽幻は櫻子の身体から手を離さない。
「……私の事はいいのです!」
幽幻は何とか櫻子の頭部を仰向けると、「仙堂寺さん、気をしっかり持つのです!」と叫びながら、そのぼんやりとした表情の顔を二、三度軽く叩く。
しかし、櫻子からの反応は無い。うっすらと見開かれた瞳には輝きがなく、どことも知れぬ方向を見つめている。
幽幻の額に汗が滲んだ。綺麗に分けられたストレートの黒髪が、乱れて細面の顔にかかる。
「幽さん……」
澪は少々、意外な面持ちで声を荒げる幽幻の姿を見つめた。
幽幻はいつだって、『お客さん』に対し、一定の距離を保って接していた。敢えて冷たく突き放すことこそ稀だったが、どこか深入りするのは避けているようでもあった。
だから、こういう風に必死な幽幻の姿は、澪にとって新鮮であり驚きだった。
それなのにどうして急に、危険を押してでも櫻子を救い出そうと考えたのだろうか。幽幻の考え方を変えたのは何なのだろうか。
(もしかして……あたしのため……?)
幽幻は櫻子を救いたいというよりはむしろ、澪の為に、彼女の《獏》化を阻止しようとしているのではないか。澪はずっと櫻子を心配して追いかけたり、引き千切られた言伝を組み上げたりと、何かと気を懸けていた。そういった澪の努力を無意味にしないために、幽幻はこうやって櫻子の《獏》化を食い止めようとしてくれているのではないか。
そう思うのは、思い上がりだろうか。
(もしそうなら……少しだけ嬉しい。だって、幽さんがあたしの事、ほんの僅かでも認めてくれたという事だから……)
でも、そのせいで幽幻が危険を冒しているのだと考えたら、申し訳なさで潰れそうだった。自分の失敗のつけを幽幻に払わせているのは、間違いないのだから。
だが、そうしている間にも、状況は深刻さを増していく。
櫻子はもう、殆ど《獏》へとなりかけていた。髪型、服装といった体の特徴はどんどん削られ、立体感や質感も容赦なく失われて、ぼんやりとした人影へと変わりつつある。
先ほどまでは辛うじて体の輪郭が浮かび上がっていたが、今はそれらもあやふやになり、どこからどう見ても《獏》にしか見えない状態だ。
澪の胸の内で、もう駄目だという絶望感が、加速度的に膨らんでいった。櫻子はとても助かるような状況ではない。もう、顔も髪型も、体型すらも分らないほど、ぼんやりとした影になっているのだ。櫻子と共に現れた霧も、どんどん濃くなり、周囲を覆っていく。このままではいたずらに幽幻を危険に巻き込むだけだ。
自分が事態をこじらせたのは間違いない。軽々しく口にするべきではないと分かっている。
しかし―――――――――
幽さん、もうやめて。これ以上は危ないよ。諦めるしかない――――
そんな言葉が喉元まで出かかった時だった。
路地の向こうから覇王丸が走ってくるのが見えた。覇王丸は、今や真っ黒な影となってしまった櫻子に目を留めると、きっと眦を吊り上げた。いつも朗らかな覇王丸が、まるで獰猛な獣のような形相だ。
「幽! どけ!」
そして覇王丸はそう叫ぶと、澪たち三人の近くまで全速力で駆け寄ってくる。
「覇王丸?」
澪はそのあまりの剣幕に、呆気にとられた。何をするつもりなのだろうと、反射的にその場から飛び退き、成り行きを見守る。
一方、幽幻は覇王丸が近づいてきたのを見てとると、言われた通り櫻子から手を離した。殆ど意志を持たぬ影となった櫻子は、その場にがくりと膝をつく。覇王丸はその櫻子を、睨みつけるように見下ろした。
「踏ん張れよ!」
そしてその大きな右の掌を一杯に開くと、大きく振りかぶった。よく見ると、その大きな掌全体が淡く白光している。じんわりとした、温かい光りだ。冬の林の中で差し込む、木漏れ日に似ている。
それはまるで《言伝屋》の中にいる様な温もりを感じさせた。包み込んで守られているような、とても不思議な感じだ。
そして、覇王丸はそのまま、自分の掌を櫻子の背中に激しく叩きつけた。
バシンという、びっくりするほど大きな音がした。櫻子の体は反動で大きく跳ね上がる。
次の瞬間、真っ黒な霧が櫻子の身体から吹き上がった。櫻子の背中、ちょうど覇王丸が掌を叩きつけたその部分からだ。
風船の空気が抜ける様な、鋭い音がし、黒々とした霧が後から後から溢れ出してくる。そして櫻子の体から噴出した黒霧は、何メートルにも亘って盛大に吹き上がった。
見ようによっては、血が噴き出しているかのような、不気味な光景だ。けれど澪は、空中に散った闇の粒子が細かく砕け、ふわりと舞い、風に流されて消えていくのに気づいた。
それは太陽の光を反射し、砂金のようにキラキラと煌めいている。
「きれい………」
澪は思わずその光景に見惚れていた。その黒い粒子が《獏》のものと同じだという事実を忘れてしまいそうになるほど、全ての輝きが眩しく、美しかった。
(《獏》って、何なんだろう……?)
あれほど恐ろしくておぞましい影が、どうしてこんな美しい光を発するのだろう。幻朧街の中を彷徨っている《獏》たちも、こんな夜空の星々のような、美しい煌きを発するのだろうか。澪にはまだ、分からないことだらけだ。
(分からないと言えば、覇王丸も謎だらけだ)
覇王丸は櫻子に何をしたのだろう。どうして彼の右手は、光を発していたのだろうか。聞きたいことはたくさんあったが、今ここで覇王丸にそれを訪ねるのは憚られた。覇王丸はとても険しい顔をして櫻子の様子を見守っている。その様子はいつも明るい彼と全然違っていて、澪はそれを少し怖いと思ってしまったからだ。
黒い粒子が噴き出せば噴き出すほど、それと比例するかのように櫻子を覆っていた死の色は、徐々に薄らいでいく。
やがて彼女の豊かな黒髪や肌が闇の向こうからのぞいた。矢絣の模様の入った着物、海老茶色の袴、皮のブーツ。失われていたそれらも、少しずつ色やかたち、質感を取り戻していく。
ふと気温が温かくなったように感じ、澪が周囲を見渡すと、いつの間にか、店先全体に広がっていた白い濃い霧も、幻のように消え失せていた。
鼻を突く腐臭もしない。空気をごっそり入れ替えたみたいに、元通りだ。
澪は試しに深呼吸をしてみる。新鮮な空気が、肺を満たし、ああ、もう《獏》の気配はどこにもないのだと、心の底からほっとした。
櫻子はぐったりして、石畳の上に力なく座り込んだままだった。しかし今や、彼女を包んでいた黒い靄は、すっかり消えて無くなっていた。《獏》になる寸前だった櫻子は、辛うじて人に戻る事ができたのだ。幽幻の呼びかけと、覇王丸の不思議な力によって。
「あたし……何もできなかった……」
結局は、幽幻と覇王丸の二人に助けてもらってしまった。本当であれば、澪が責任を取るべきだったのに。悄然として呟くと、覇王丸はにかっと笑った。先ほどの猛獣みたいな雰囲気はすっかり消え失せて、いつもの向日葵みたいな笑顔に戻っている。
「気にすんなって。こういうのは、あれだ。適材適所って奴だ。幽幻と澪は言伝屋を切り盛りし、俺はそれを守る。……な? 幽幻と俺、そして澪……三人揃っての言伝屋だろ?」
「覇王丸……!」
そして覇王丸は、ウインクをして見せる。今の澪にはその心遣いがとても有難かった。覇王丸は優しい。しかも、その優しさが重さにならないように、いつも明るく振舞ってくれる。
あれこれと教えてくれて、時にはきちんと叱ってくれる幽幻と、朗らかで温かく守ってくれる覇王丸。澪は二人にいつも助けられ、守られている。
そう考えると、心の底からじんわりと安心感を覚えるのだった。
この店で、幽幻と覇王丸に出会えてよかった。もし一人なら、とっくの昔にこの幻朧街に押し潰されていただろう。
(でも……そこに甘えてちゃ駄目だ)
二人の優しさには感謝している。でも、守られているだけの自分は情けなくて嫌いだ。優しくしてもらった分だけ、強くならなければ。それが無理なら、せめてしっかりしなければ。
二人に頼り切るのではなく、ただ守られるのでもなく、彼らの傍に、しっかりと胸を張って立っていたいから。
(そうだ……幽さん!)
そう言えば、《獏》になりかけた櫻子の体に、直に触れた幽幻の手は無事なのだろうか。澪は俄かにその事に気づき、心配になった。見たところ、幽幻は痛がる素振りも見せず、平然としているが、自分が《獏》に捕まれた時のことを考えると、決して楽観はできない。
「幽さん、手……大丈夫?」
「……ええ」
「でも、《獏》に触れたら、火傷みたいな痣ができるんじゃ……?」
「心配ありませんよ」
幽幻はそう返事をしたものの、さりげない動作でそのまま腕全体を着物の中に隠してしまう。だから、澪には彼の手がどうなっているのか、全く見えなかった。
澪は自分が《獏》に掴まれた時の事を思い出す。あの時は、ただ腕を鷲掴みにされただけで、火傷の様な黒いみみず腫れができ、その後何日も痛みと共に跡が残った。
幽幻は肘のあたりまで《獏》の黒い霧に覆われてしまったのだ。ただで済む筈が無い。そう考えると、いても経ってもいられず、澪は幽幻の着物の袖を撮んで引っ張った。
「本当に、大丈夫? 無理……してない?」
幽幻は僅かに目を見開いてこちらを見た。かちりとぶつかる視線。しかし、すぐについと、外されてしまう。
「大丈夫、ですから」
幽幻の横顔は、やはりいつもと変わらず、平然さを保っていた。いつもの抑揚に欠いた、淡々とした反応だ。
だが、澪は何となくわざと距離をとられた様に感じ、戸惑ってしまう。幽幻が澪を避けているように感じるのは気のせいだろうか。
一方、《獏》化の収まった櫻子は、長い眠りから覚めたかのような表情で、ゆっくりと顔を上げる。
「ここは……」
「《言伝屋》だよ、櫻子さん」
澪はそう答えたが、櫻子の反応は鈍い。自分の身に起こった事を全く覚えていないのか、戸惑った様子で周囲を見回している。
幽幻はこれまでの事を丁寧に説明した。櫻子が殆ど《獏》と化し、意識も朦朧とした状態で言伝屋にやって来たこと。覇王丸や幽幻、澪が、櫻子を《獏》から元の状態に戻したこと。
「そうですか……ご迷惑をおかけしました。この期に及んで……自分が情けないです」
すべてを聞き終わった後、櫻子は己を恥じるかのように俯いた。
「わたくしはどうしたらいいんでしょう? どうしたら甚五郎さんの事を忘れられるんでしょうか……!」
溜め息と共にそう吐きだすと、両手で顔を覆い、うずくまる。進むことも引くことも出来ず、身動きが取れない。櫻子はまさにそういう状況に陥っていた。津田甚五郎と夫の東藤茂允、二人に対する想いの間で行ったり来たりし、答えの出ないまま底なし沼にずぶずぶとはまっていく。
櫻子の吐き出した呟きは、諦めと疲れが濃く入り混じり、もはやその沼から抜け出すことを放棄しているようにも感じた。
「櫻子さん……」
澪が何と声をかけてよいか分からずに櫻子を見つめていると、その身体から再び煤のような黒い粉が僅かに吹き出すのが目に入った。いったんは無くなったはずの闇の粒子が、俄かにその数を増やし始めている。櫻子が未練を晴らせず、幻朧街に留まったままだと、いずれまた《獏》になってしまうだろう。せっかく元に戻ったのに、このままでは何度でも同じことを繰り返してしまう。
澪は思わず叫んでいた。
「櫻子さん、甚五郎さんが姿を消したのは、そうせざるを得ない理由があったからだよ‼」
「え……?」
「……甚五郎さんは、どんなに努力しても、決して櫻子さんとは結ばれることはなかったの。何故なら……」
澪は、少しだけ言い淀んだが、結局、それを口にすることにした。
「甚五郎さんは櫻子さんの……血の繋がった、実のお兄さんだったから」
櫻子はぽかんと目を見開いた後、何を告げれたのか分からないといった様子で、訝しげに眉根を寄せた。
「な……何を……言っているの……?」
「これ……甚五郎さんの言伝に、そう書いてあったんです」
澪は櫻子に言伝を差し出す。
櫻子はびくりと身を強張らせると、眼を大きく見開き、顔を上げた。そして、次にその四枚の半紙を見て、今度こそ呆気にとられた表情になった。
言伝は台紙に糊で張り合わせてあり、ごわごわになってしまっていた。しかもところどころ欠けており、破れ目や川水で晒されたせいで、ひどい有様だ。どうにか組み合わせてあるが、その組み合わせが正しいのかどうかも判別しづらい状態だった。
でも、辛うじて薄っすらと残った字は、どうにかこうにか読める。
澪は泣き出したい気持ちを何とか抑え、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい! 何とか元通りにしたくて、パズルみたいに組み合わせたんですけど、その過程で、その……言伝の中身が見えてしまって……!」
しかし、櫻子はもはや澪の言葉など聞こえていないかのように、硬直して身動ぎ一つしなかった。櫻子の一切の感情が抜け落ちた空虚な瞳は、ただ一心に四枚の灰色の紙へと注がれている。糸が切れた操り人形のように全身の力が抜け、ピクリとも動かない。
長い沈黙が降りた。
どれほど経っただろう。
やがて、その両目の筋肉がふっと弛緩した。櫻子は一瞬泣き崩れたかのように表情を歪めると、引き攣った笑いを洩らし始める。
「嘘……でしょう……? 父も母も、一言もそんな事……!」
「そのことも、全てこの言伝の中に記してあります」
澪は再度、櫻子に言伝を差し出した。津田甚五郎のしたためた文の内容を思い出しながら。
櫻子は震える手でそれを受け取ると、文面に目を通し始める。最初こそ、恐るおそるといった様相だったが、すぐに一心不乱で内容を読み耽っていった。
『櫻子お嬢さんへ』――そういった、ごく普通の書き出し手で始まる言伝には、次いで時節の挨拶や自分が幻朧街に来た時の様子などが綴られており、それに連なるようにして謝罪の言葉が記してあった。
『――櫻子お嬢さん、私はあなたに謝らなければなりません。私はあなたを裏切りました。あなたの真剣で情熱的な告白に答えを出さず、そのまま行方を眩ましてしまった。
どれだけ卑怯で心無い行為だったか。あなたがどれほど失望し、私を軽蔑したか。全て分かっているつもりです。
けれど、それでも私の気持ちを知って欲しくて……いえ、今となっては何を書き残したところで欺瞞にすぎないのでしょう。それは十分、理解しているつもりです。それでも、あなたに伝えたかった。死後にあるというこの街なら、或いはそれが許されるのではないかと思ったのです。
私がどうしてあなたの前から去ったのか、どうしてあなたの想いに応えられなかったのか。その理由をお伝えするには、まず私の父と母の事から説明しなければなりません』
時は、櫻子が生まれる三年前に遡る。
当時、櫻子の父、仙堂寺大伍には、想いを通わせている女性がいた。津田和子――仙堂寺家の女中を務めていた女性だ。
仙堂寺の跡取りだった彼にとって、和子への想いは身分違いの恋――だがそれでも、仙堂寺大伍は本気で彼女と一緒になりたいと思っていた。
けれど、その想いは結局、叶う事がなかった。仙堂寺大伍もまた、櫻子と同様、親の決めた縁組に従う事を強要されたのだ。男性も女性も、自由な恋愛など許されず、家の論理に従うしかなかった。そういう時代だったのだ。
そして、仙堂寺大伍は良家のお嬢様と結婚した。それが櫻子の母、百合子だ。
一方、津田和子は女中を辞め、仙堂寺家から姿を消した。その時、仙堂寺大伍は知る由も無かったが、彼女は子を身籠っていた。仙堂寺大伍との間にできた子だった。それが津田甚五郎だった。
彼女が何故、仙堂寺大伍に子の存在を明かさなかったのかは分からない。かつての恋人に迷惑をかけたくなかったのかもしれないし、仙堂寺大伍と愛を交わしたことに対して、やましいところは何もないのだというプライドがそうさせたのかもしれない。
しかし、津田甚五郎は母親である和子が死ぬまでその事実を知らなかったのだという。




