第42話 花園と秘められた恋⑥
澪は川に飛び込んだせいで、全身ずぶ濡れだった。着物だけではなく、髪の毛先も濡れそぼっている。
紙片と化した言伝を回収する時に、バシャバシャと水面を掻き回し、跳ねた飛沫がかかってしまったのだ。けれど、その作業をしている時には、それに構っている余裕は全くなかった。
どっぷりと濡れた着物の端から水滴が滴り落ち、石畳に転々と染みを作っている。しかも、澪はショックのあまりひどく塞ぎ込んで、幽幻と覇王丸の顔を見上げることもできなかった。
さすがに澪の様子を不審に思ったのか、幽幻と覇王丸は戸惑いつつ、互いに顔を見合わせる。そして、まず覇王丸が駆け寄ってきた。
「おい……どうしたんだ。何があった? ずぶ濡れじゃねーか!」
「どう、しよう……。こ、言伝……。仙堂寺櫻子さんの言伝、こんなになっちゃった……!」
澪は寒さとショックで震える両手を差し出す。そこには水を吸った半紙の切れが小さな山になっていた。無残な姿へと変わり果てた言伝。すっかり意気消沈して肩を落とした澪。覇王丸に続いて澪へと歩み寄ってきた幽幻は、それを交互に見やった後、微かに眉根を寄せた。
「……何があったのですか?」
澪は櫻子が言伝屋の店先にやって来て様子を窺っていたことや、その時、既に櫻子が《獏》になりかけていたこと、時間があまり残っていないと焦り、勝手に奥の間から言伝を持ち出したこと、そして櫻子に言伝を手渡したものの、破かれてしまった事などをできるだけ詳しく話す。
「うあー、入れ違いになってたのかよ!」
覇王丸はグシャグシャと頭を掻きながら呻いた。覇王丸は幽幻の言った通り、朝から櫻子を探していたそうだ。けれど、街中で見つけ出すことは、できなかったのだという。あの時は幽幻も留守だったし、澪と櫻子はすこぶる間の悪い時に再会してしまったのだろう。
澪は黒い霧を撒き散らしながら通路の奥へと去っていった、櫻子の後ろ姿を思い浮かべた。明らかに、彼女にはもう時間が残されていない。
「櫻子さん、どうなるの?」
答えを聞くのが怖くて、小声で尋ねる。幽幻は目を伏せ、静かな声で言った。
「………。《獏》になってしまうかもしれません」
ああ、やはり。澪は衝撃を受けずにはいられなかった。いくら分かりきっていたこととは言え、幽幻の口から告げられるとそれは生々しい実感を伴った。
櫻子が《獏》になってしまう。感情も意思も、人らしいものは何一つ感じさせない。哀れで、身の毛もよだつ存在に成り果ててしまうのか。
「ど、どうして……櫻子さんは甚五郎さんのことが好きだっただけだよ! それだけだよ!」
澪はあまりにも動揺し、我を忘れてそう叫んでいた。しかし覇王丸は首を振る。
「澪、俺達は客の為に何でもしてやれるわけじゃないんだ。そういう事もある」
「でも……あたしの所為だよね? あたしが勝手なことをしたから……幽さんだったら、櫻子さんもちゃんと納得したかもしれないのに……!」
今思えば、自分のしたことは説得にすらなっていなかった。言葉が足らなかったし、櫻子に言伝を渡そうという気持ちが先走り過ぎていた。だから櫻子は、中身を読む気が全く無かったのに、渋々言伝を受け取らざるを得ず、結果として破り捨ててしまったのだろう。
ただでさえ、死者は生きている人間とは違う。彼らには《未練》がある。
《未練》とは、それぞれの死者の最も根幹を成す欲望や願望だ。死んでも尚、捨てられなかったもの。諦めきれなかったもの。常人ではあり得ないほどの、強い執着――おそらく、それらの中にややこしい事情や繊細な問題も多々含まれるだろう。
そういったものを抱え、彼らは幻朧街にやって来る。
だからこそ、対応には極力注意を払わなければならないのだ。幽幻がいつもそうしているように。澪は改めてそのことを思い知らされた。
「――それは……分かりません。覇王丸の言う通りです。……私達に出来ることは限られますから」
幽幻はそう言ったが、澪の気持ちは収まらなかった。
「……違う。あたしの……あたしの所為だよ……!」
唇を強く噛み占めると、視界が揺れ、大粒の涙が零れ落ちた。泣いちゃ駄目だ、自分にはその資格などない――そう思うけれど、涙は次々と溢れて止まらない。
「澪……」
幽幻と覇王丸が途方に暮れているのが分かった。こうなってしまったら、櫻子を救う方法は殆ど残されていないのかもしれない。それをどうやって澪に伝えたものか、悩んでいる様子でもあった。
何とかしなければ。澪はそう思った。櫻子と別れたのはつい先ほどだ。今ならまだ近くにいるだろう。
「あたし、櫻子さん助けたい……探してくる!」
澪が踵を返し、走り出しそうとした時だった。
「待ちなさい」
幽幻の言葉がそれを制止した。どうして止めるのか。澪は焦りを何とか抑え、振り返る。しかし、幽幻はあくまで淡々とした口調で言った。
「濡れたままで行くのですか? 風邪を引きますよ。それに彼女と会ったところで、言伝はもう無いのです」
「じゃあ、このまま放っておくの? 櫻子さんが《獏》になってもいいって言うの?」
思わず言い返していた。状況は一刻を争う。それなのに、幽幻はまるでそんな事は関係ないと言わんばかりの素っ気ない口調だ。確かにその通りかもしれない。もう、言伝は無い。それでも澪は、幽幻の言葉に強い反発を覚えていた。
しかし、幽幻は冷然と澪を見据え、言った。
「あなたが行っても街の中で迷うだけでしょう。自分のこともきちんとできないのに、誰を助けると言うのですか」
「幽さん……」
思いの外、厳しい言葉を突きつけられ、澪は茫然とした。何かを言おうと口を開くが、何も言い返せないのに気づいた。そのまま、力なく項垂れる。
「おい、幽……!」
覇王丸が澪を庇ってくれたが、幽幻は顔色一つ変えなかった。
「覇王丸、風呂の用意をお願いします」
母屋の風呂は、薪で湯を沸かすという前時代極まりないもので、そのための薪割りをしたり湯を沸かしたりするのは覇王丸の仕事だった。だから、幽幻は覇王丸にそう頼んだのだ。
「風邪をひいては元も子もないでしょう。夕餉の前に、まずは体を温めなさい」
それだけ言うと、幽幻は《言伝屋》に入っていく。気づけば、日が傾き夕方になっていた。路地を囲む民家の影が、長い尾を引いている。
それを見ると、改めて幽幻の言う事は正しいと思う。このまま櫻子を探しに行ったとしても、見つかる保証はない。それどころか街の中に迷い込み、そこで夜を迎えたことだろう。頭に血が登ってすっかり冷静な判断が出来なくなっていた。
澪は項垂れたまま、覇王丸と共に店に戻った。
母屋の風呂は丁度いい湯加減だったし、川の水で冷え切った体には生き返るようだったか、落ち込んだ気分は全く晴れなかった。
食卓にはいつものように、幽幻の作ってくれた品々が並ぶが、食欲が無く、飯も喉を通らない。幽幻はあれ以降、怒った素振も見せずいつも通りだったし、覇王丸もあれこれと気にかけてくれたが、澪はろくに返事も出来ない状態だった。
自分の起こした行動が原因で、誰かが《獏》になってしまう。それがとてつもなく恐ろしかった。櫻子は澪を恨むだろうか。《獏》は感情を持たない。一度なってしまえば、そういった感情すら抜け落ちてしまうのだという。
津田甚五郎の事も、夫の東藤茂允の存在も忘れ、己が何であるかすら忘れ去って、いつ終わるとも知れない時を彷徨うだけの影になってしまうのだろう。
櫻子は死者であり、ただの客――言伝を渡すだけの間柄だ。澪が幻朧街に迷い込んでいなければ、おそらく接点など永遠に無かっただろう。
それでも澪は、彼女の理知的な雰囲気、控えめな中にも確かに存在する芯の強さには、好感と敬意を抱いていた。櫻子には《獏》になって欲しくない。
今まで《言伝屋》を訪れた客人には様々な者がいた。しかし、いずれにせよその多くが最期にはどこか満足した表情で店を去っていった。このままだと、櫻子には永久にその時が訪れない事になる。それではあまりに櫻子が可哀想だ。
何かしたい。せめて、己の失敗を取り返したい。
ところが、澪には何もできる事はないのだ。街中に出て、櫻子を探し出すことすらできない。無力だった。どうしようもなく非力で、自分の未熟さを痛感する。それで余計に落ち込むのだった。
夕食をすませ、《言伝屋》の二階に戻る。その時ふと、津田甚五郎の言伝が目に入った。部屋の隅に、濡れた着物と共に置かれた紙きれは、やはりバラバラなままだったが、水分が抜けて乾き始めていた。そこでふとある事を思いつく。
「これ……元に戻せないかな?」
言伝の紙面に書かれた墨は川の水に流されて脱色し、紙自体も濁った緑色に変色している。仮に元通りにしたとして、以前のようにきちんと読めるかどうか――
でも、このまま何もせず、無為に夜を過ごすなど耐えられなかった。
「やってみよう……」
澪は掻き集めた言伝の紙片を広げ、ジグゾーパズルの様にして組み立て始めた。
ただでさえ、水にさらされて薄くなった文字は読みづらく、紙も濡れてすっかり変形してしまっている。作業は困難を極めたが、澪は粘り強く作業を続けた。
どうにかこうにか四枚分の言伝を組み立て終わった頃には、空の向こうが僅かに白み始めていた。
翌日、澪は眠い目をこすりながら《言伝屋》の店先に立った。
言伝は何とか組みあがったが、お世辞にも読みやすいとは言えない。文字が掠れて読み取れないところもあるし、紙片が欠けていて、飛び飛びになっている部分もある。
それでも、できるだけの事はした。後はどうにかして、これを櫻子に渡すことが出来たら良いのだが、やはり彼女の姿は見えなかった。
昨日のこともある。彼女はおそらく言伝屋には二度と近づかないだろう。
暫くして、澪は覇王丸の姿も見えないことに気づく。言伝屋の中はもちろん、母屋にも、中庭にもいない。
「幽さん……覇王丸、どこに行っちゃったの?」
おずおずと尋ねると、幽幻はいつもの様子で答えた。
「覇王丸は仙堂寺櫻子さんを探しに行っています」
そう言えば昨日の夜遅く、誰かが外に出ていく物音が聞こえた気がする。あれが覇王丸だったのなら、それ以降ずっと櫻子の捜索に出たままなのだろうか。
「まさか……一晩中?」
澪は驚いて声を上げた。
「覇王丸は比較的自由に街を動けますから」
しかしそうは言っても、夜を徹しての捜索は決して楽なものではないだろう。覇王丸に対して申し訳ないという気持ちが湧き上がった。澪がここまで事態をこじらせてしまったがために、覇王丸には本来不必要だった負担を強いてしまったのだから。
一方で、澪は心のどこかで安堵してもいた。幽幻たちは決して櫻子の事を見限ったわけではなかったのだ。
幽幻も履物を履き、店の外へと向かった。
「私も仙堂寺櫻子さんを探してきます。三十分おきに戻りますから。もし櫻子さんや他のお客人がここに来たら、待ってもらってください。入れ違いになると困るので、あなたはこの店から離れないように」
「うん……分かった」
そして、幽幻は出かけていく。
一方の澪はテーブルを拭いたり、カウンターを掃除したり。普段以上にあれこれと働くが、ちっとも落ち着かない。時間の流れがいつもの何倍にも遅く感じられる。つい、櫻子が来ているのではないかと店の外へ視線を走らせてしまう。
じりじりと全身が焦げ付くような感覚に、何度も襲われる。
幽幻は何度か店に戻って来た。店を覗き、異常が無い事を確かめては再び街に出ていく。
幸いなことに他に客は来なかった。天気もいい。梅雨の中休みなのか、ここ最近の雨天が嘘のように、爽やかな太陽が顔を出している。
ぐずぐずと荒れ模様である澪の心中とは真逆に、とても過ごしやすい日だった。
その太陽が真上に上った頃。
カウンターで食器を洗っていた澪は、俄かに違和感を覚え、顔を上げた。
先ほどまであれほど天気が良かったのに、突然、日が陰ったような気がしたのだ。
同時に、冷やりとした寒気が漂ってきて、気温も急激に下がった様に感じる。それに続いて、微かに生臭い臭いが鼻先を掠めた。
湿ったような、黴臭い臭い。高校の校庭の隅にあった、冬のプールを連想させる。
そして、それらは全て、澪の思い過ごしというわけではないようだった。店の出入り口に目を向けると、地面から燃え上がるようにして、白濁した霧が立ち上っているのが見えた。それがぶわりと店内に流れ込んで来たのだ。
はっとして、店の外に飛び出した。霧は合図だ。――彼らが姿を現す時の。
澪は店の周囲を素早く見回した。そして右手の方向に目を向け、ぎょっとした。路地の向こうから、ゆらゆらと蠢く黒い人影がこちらにゆっくりと近づいてくる。
両手を胸のあたりまで持ち上げ、所在無げに空を掻く、独特の仕草。何かを乞い求め、それを掴もうとするかのような―――
(これは……《獏》……!?)
そう思って身構えるが、彼らにしては体を覆う闇の色が薄い。時々、月夜にたなびく雲の様に、その濃度が変化する。
途轍もなく濃いかと思うと、ふと薄くなったり。そして、薄くなった瞬間だけ、ほんの僅かに体の輪郭が見える。立ち止まって目を凝らしていると、頭部の濃度が明るくなった。
その向こうからうっすらと覗いたのは、櫻子の顔だった。
「櫻子さん!」
櫻子は殆ど《獏》と化していた。意思を失いかけた、一個の影。澪に気づいた様に足を止めると、ふらふらとその場に座り込む。
澪は口元を手で覆った。慌てて駆け寄り、櫻子を助け起こそうとその腕を掴む。
しかし、澪の差し出した手はずぶりと彼女の腕にめり込んだ。それは、人体とは思えないような異様な感触だった。澪はぎょっとして、反射的に手を引っ込める。
それはかつて、《獏》に掴まれた時の感触と酷似していた。液体でも、固体でもない。肌に吸いつくほどぬるぬるとしているが、温かさは微塵も感じられない。それなのに、火傷のような痣としつこい痛みを残す、あの身の毛もよだつような感触。
澪は《獏》から受けたその痣と痛みの為に、一週間近くも高熱を出して寝込んだ。幽幻は確か、それを呪いのようなものだと言っていたっけ。
(櫻子さんは本当に《獏》になってしまったの……? もう、何もかも手遅れだっていうの!?)
その櫻子は、眠たそうな顔でぼんやりと虚空を見つめ、呟いた。
「誰かに……ここで待っていると言われた様な気がしたのですけれど……。ああ、でも誰だったっけ……? わたくしは……何をしなければならなかったんだろう………」
「櫻子さん、しっかりして! このままじゃ《獏》になっちゃう!」
澪は必死でそう呼びかけた。初めて《獏》と接触した時の恐怖がぶり返してきて、焦りとなり背中を這い上がってくる。
このままでは絶対にいけない。早く何とかしなければ、本当に手遅れになってしまう。櫻子は完全に《獏》となってしまって、二度と元には戻らないだろう。
しかし、澪にできることは何もなかった。ただ、おろおろと、櫻子に声をかけるくらいの事しかできない。そうしている間にも、周囲を包む白い霧はどんどん広がり、櫻子を覆う死の闇は濃さを増す一方だ。
「澪!」
その時、幽幻が通りの向こうから店先に戻って来るのが見えた。
「ゆ……幽さん!」
「これは……いけない!」
幽幻はすぐに、澪の傍にいる黒い塊――櫻子の存在に気づくと、一瞬でそうと分かるほど表情を険しくする。そして澪の傍まで走り寄ってくると、《獏》になりかけて蹲る櫻子から、庇うようにして澪を抱き寄せた。
「……澪! 怪我はありませんか!?」
「う……うん。あたしは平気……でも……!」
澪は、櫻子へと視線を向ける。彼女の華奢な身体はどんどん闇色を増してゆき、時おり、ぶすぶすと真っ黒な墨の粉を振りまいている。澪は青ざめ、小さな子供のように、幽幻の腕にしがみついた。
「ゆ……幽さん……どうしよう……! 櫻子さんが、《獏》になっちゃう……あたしのせいで、《獏》になっちゃう……‼」
澪の瞳はどす黒く染まる櫻子の身体から離れなかった。全身から血の気が引き、ぶるぶると震え始めるのを抑えることができない。立っているのが精いっぱいで、支えてくれる幽幻の腕がなければ、今にもそこにへたり込んでしまいそうだった。
櫻子が《獏》になってしまう。ここまで《獏》化が進んでしまっては、もう容易には止められないだろう。結果的に自分もそれに加担してしまったのだと思うと、罪悪感と恐ろしさで、気が遠くなりそうだった。
幽幻はがくがくと震える澪と、どんどん《獏》の進む櫻子を交互に見つめていた。そして、何かを決意したのかのように、澪を庇って抱きしめる手に少しだけ力を籠めると、その体を引き離した。そして静かに口を開く。
「……安心しなさい。その様な事には、私がさせません」
「幽さん……?」
一体、何をするつもりなのか。澪が困惑しつつその背中を見つめていると、幽幻は櫻子へ近づいていき、躊躇なく彼女の両腕をがしっと掴んだ。
「仙堂寺さん、しっかりなさい! 思い出すのです!」
澪は驚きのあまり息を呑んだ。幽幻がそれほどまで大きな声を張り上げるのを初めて聞いたからだ。しかし、肝心の櫻子の反応はない。ぼんやりとしたまま、うつらうつらとし、今にも眠りに落ちそうだ。
「あ……あなたは、誰……? お……思い出すって……何を………?」
「あなたの未練(想い)です! 伝えたい人……そして受け取るべき想いがあるでしょう?」




