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幻籠街の言伝屋  作者: 天野地人
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第41話 花園と秘められた恋⑤

 もしかしたら、単に気づかなかっただけかもしれない。


 ただ、でもこの街は、何もかもがおぼろげで、あると思っていたものが忽然と無くなっていたり、そうかと思うとなかったものが或る日突然、現れたり、そういった不可思議な現象が頻繁に起こる。だから、突然この近くに川が現れたのだとしても、今更、驚いたりはしない。


 周囲を見回すと、民家と民家の間に、細い通路が伸びていた。水音は、その向こうから聞こえてくるようだ。


 その先には、石畳から下へと下りる階段が続いている。それを進んでいくと、視界が開け、石垣で固められた川が流れているのが見えてきた。


「やっぱり、川があったんだ。いつの間に……」


 澪は思わず呟いていた。川の水は濃い緑色だ。底が見えないほど濃厚で、決して水質が劣悪なわけではないが、一体どれくらいの深さがあるのかは分からない。両岸は不規則な石で固められ、柳の木が等間隔に並んでいる。

 そこには遊歩道も設けられていた。辺りは静まり返っており、川のせせらぎが心地よく感じる。


 そこに櫻子の姿はあった。最初に言伝屋を訪れた時と同じく、矢絣(やがすり)の着物と海老茶色の袴に身を包み、川岸に設置された大きな石に腰掛けている。

 その姿は、一枚の絵のように美しい。しかし、やはり見間違いなどではなく、櫻子の体はところどころ墨で汚れたように黒くなっていた。


 本人は気づいているのかいないのか。


 澪は言伝を握りしめ、ゆっくりと櫻子に近付いていく。

「あの……櫻子さん」


「あなたは、《言伝屋》の……。やはり見られていたのですね。お恥ずかしい」


 櫻子は少しだけ笑って澪を見上げたが、その仕種にはどことなく気怠さが漂っていた。本人はそうとは気づいていないようだが、かなり疲弊しているようだった。


「これ、持って来ました。どうぞ」

 澪は櫻子に向かって言伝を差し出す。しかし、やはり櫻子は未だにそれを受け取る気になれないのか、言伝を見た途端、表情を曇らせた。


「………。言った筈です。それは受け取れません」

「でも……そんなの良くありません! 好きなんでしょう? 今でも甚五郎さんの事……」

「ええ……そうかもしれません。でも、だからこそ受け取れないのです」


 櫻子はきっぱりと言い放つ。そのあまりの鋭さに、澪は驚き、言葉を呑み込んだ。どうしてそうまでして、この言伝を拒むのか。どうして、そこまで昔の恋を否定するのか。


 すると次の瞬間、櫻子は悲しそうに俯く。

「確かに……甚五郎さんはわたくしの初恋の相手でした。その恋は身も心も燃えるように激しく、そしてだからこそ同時に、とてもにがくて辛い思いもたくさんしました。わたくしがそれほど、熱に浮かされたように誰かを想ったことは、それが最初で最後だったかもしれません」


「だったら……!」


「でもね、お嬢さん。どれほど激しく輝いていたとしても、その思い出だけがわたくしの全てではないのですよ」

 櫻子は再び澪を見上げた。その端正な顔には、気高い櫻子らしからぬ、弱々しい微笑がうかんでいた。


「甚五郎さんが姿を消した後、わたくしは両親の望み通り、縁談を受け入れました」

「富裕層の御子息との結婚……ですね?」


「ええ。東藤(とうどう)茂允(しげのぶ)さんと仰る方でした。いかにもおぼっちゃまといった方で、甚五郎さんのように豊かな感性をお持ちであるわけでもなかったし、庭の植木を瞬く間に生き返らせるような妙技をお持ちでも無かった。けれど、わたくしの事をとても大切にしてくださいました。わたくしと茂允さんは家庭を持ち、一男一女を授かったのです。


 大きな戦争もありましたし、新しい時代を迎えるころには、仙堂寺の家も東藤のお家もすっかり財産を失ってしまい、以前ほど裕福な暮らしはできなくなっていました。結局、わたくしの生まれ育ったあのお屋敷や庭園も失われてしまいましたけれど、それでもわたくしはそれなりに幸せでした。


 小さな家に、二人の子供たちと夫、四人で慎ましく暮らし、ひ孫の顔まで見ることが出来たのです。それというのも全て、茂允さんという優しい伴侶に出会うことが出来たからですわ。それなのに……死んだからと言って、その茂允さんをあなたは裏切るべきだと仰るの?」


 櫻子から問いを突き付けられた澪は、言葉を失ったまま、その顔を見つめ返すしかなかった。櫻子の言っていた「裏切り」とは東藤(とうどう)茂允(しげのぶ)――夫の事だったのだ。


茂允(しげのぶ)さんとの結婚は、確かに家の決めたことです。けれど、彼との間に愛がなかったかと言うと、決してそんなことはありませんでした。


 ……それは甚五郎さんに対す愛情とは別物かもしれません。瑞々しく、燃える様な青春時代の恋とは違うものだったかもしれない。


 けれど、わたくしは茂允さんと出会えて幸せでした。本当に、心からそう思っているのです。わたくしにとって、甚五郎さんとの恋は、忘れられない出来事でしたけれど、もう遠い過去の事なのです」


「………」

 澪は言葉が見つからなかった。


 櫻子は東藤茂允という婚約者の事を愛していたのだろう。それは本人の言う通り、津田甚五郎に対する恋慕とは別種の感情だったかもしれない。でも、共に生活をし、家庭を持てば、情も湧くだろう。櫻子が茂允と添い遂げた己の人生を幸せだったと思うなら、尚更だ。


 最初に恋愛感情ありきではなかったからと言って、愛情が生まれ得ないと決めつけることはできない。


 夫の事を大事に思っているからこそ、櫻子は甚五郎の言伝を受け取るまいと決めたのではないか。


(どうしたらいいんだろう……?)


 澪は途方に暮れてしまった。個人的には、必要とされない言伝を無理に渡す必要はないような気もする。受け取って誰も幸せにならないようなら、そういう選択もあるのではないか、と。


 しかし、ここは幻朧街だ。澪の常識や感覚は通用しない。 


 おまけに、気付いてしまったのだ。櫻子の姿がどんどん薄い墨を被ったかのように黒ずんでいく事に。櫻子は現在進行形で《獏》になりつつある。それはまるで、櫻子の迷いや苦しみが、そのまま黒い霧となって彼女の体を覆っていくかのようだった。


 このままでは、櫻子は本当に《獏》となってしまうのではないか。甚五郎を好きだったという感情も、東藤茂允と共に生きた思い出も、全てを失って、たださ迷い歩くだけの幽鬼になり果ててしまうのではないか。

 そう思うと、俄かに焦燥感が込み上げてきて、澪はいてもたってもいられなくなった。


「櫻子さんの言ってることは分かります。でも、あたしは結婚もしてないし、子供もいないからきちんと理解はしてないかもしれない。ただ……何ていうか、そういう責任感も大事だとは思うけど、もっと自分の気持ちを大事にしたらいいのにって思います。生きてる間はそういう縛りがあったのかもしれないけど、今は――死んでるし。きっと、言伝ってそういう人たちの為にあるんじゃないかって思うから」


 現世では、様々な理由で伝えられなかった、たくさんの想い。でも、この街ならそれが伝えられる。現世とは離れたところにあるからこそ、立場や名誉、わだかまり、ありとあらゆるしがらみに縛られることなく、純粋な気持ちが伝えられるのだ。


 櫻子と甚五郎の関係もそれと同じだ。現世では何かしら事情があって、甚五郎は櫻子の前から姿を消したのだろう。けれど、この幻朧街なら、互いの気持ちを確かめ合うことが出来るのではないか。


 しかし、それを聞いた櫻子は、低い声でぽつりと呟いた。

「でしたら……本当にわたくしのことを想うのなら、甚五郎さんは言伝を残すべきではなかったわ。本当に、ずるい方……!」


「え……?」

 冷ややかで突き放すような口調に困惑し、澪は櫻子を見つめる。


「あなたは若いのね。愛が永遠だと信じてる。でも、わたくしはもう……あなたのように無邪気で自由にはなれないの」


 櫻子は、つと視線を伏せた。そこには常に気品を保ち、毅然としていた櫻子の姿は無い。控えめでありながらも強い意志を宿していた瞳は暗く濁り、別人のようにやつれた表情になっていた。


「わたくし、甚五郎さんを恨んだわ。そして、失望し、軽蔑した。確かにわたくしのお願いは、身勝手な小娘の戯言でしたわ。でも、無理なら無理、できないならできないと仰ってくだされば良かった。馬鹿馬鹿しいと思うなら、そうお笑いになれば良かったのです。そうすれば、わたくしもすっぱりと甚五郎さんへの恋心を断つことが出来たでしょう。


 けれどあの方は答えをお出しにならなかった。この世で最も残酷で、非情なやり方ですわ。そうでしょう? わたくしがどれほど傷ついたか、どれほど苦しんだか……あなたに想像できて?」


「それは……」


 いや、櫻子の抱く感情が普通だろう。澪だって、もし好きな男の子に告白して、何の返答も無かったら、ごめんなさいと言われた時より、もっと傷つくだろう。

 駄目なら、駄目でもいい。その日から、新たな出会いを探せばいいのだから。少なくとも、そう切り替える機会は得られる。しかし、答えをもらえないという事は、その新たなスタートを切ることすらできないという事だ。


「……心からお慕いし、信じていた甚五郎さんに裏切られたわたくしは、くる日もくる日も泣いて過ごしましたわ。そして自分の幼さと愚かさ、家の為にわが身を捧げなければならない運命の無慈悲さ、それから甚五郎さんの薄情さを、心の底から恨んだのです。

 

 あまりにも気分が塞ぎ、死を考えたこともあった。あれほど恋焦がれた人に、これほど苦しめられることになるだなんて……甚五郎さんと出会った頃は思いもしませんでした。


 そしてその様に甚五郎さんを恨めば恨むほど、そういったどす黒い感情に支配されてしまう自分が、嫌で恥ずかしくて、仕方なかったのです」


 櫻子は、ふと微笑んだ。とても二十歳の若者には見えないほど、疲れきった顔だった。その瞳は、所在無げに、川面の水面へと投げられている。


「人を愛すると言うのは残酷な事ですわね。真剣であればあるほど、忘れられない。相手や周りを傷つけてしまう。自分の醜くて、目を背けたくなるような弱い部分も、これでもかと言うほど突きつけられる。決して綺麗な事ではないのよ。


 ……今思うと、わたくしが愛したのは、津田甚五郎さん本人ではなかったのだと思います。わたくしはきっと、若さゆえの幻を追い求めていたのですわ。恋愛という幻に恋をし、そうして恋に溺れる自分に陶酔していたのです。そして、そうであるなら……この言伝の中にあるものも、きっとただの幻想に違いないのです」


「そんな事……!」


「わたくしは……あんな惨めな思いは、もう二度としたくないのです」


 やはりと言うべきか、櫻子の意思は強固だった。おそらくそれは、澪が思っているよりもずっと揺るぎのないものだ。生半可な事では決して言伝を受け取ることは無いだろう。

 東藤茂允に対する義理や愛情、そして甚五郎の所業に対する怒り。そう言ったものが複雑に絡み合って、彼女を言伝から遠ざけているのだ。


 けれど、その本心は違う。櫻子はきっと、心のどこかで、甚五郎に対する《未練》を抱いている。そうであるからこそ、彼女はこの幻朧街にやって来たのだ。どうしたら、それを櫻子本人に気づいてもらえるのだろう。


 澪は必死で言葉を探した。櫻子の本心を言い表す言葉を。


「……もしかして、櫻子さんは知るのが怖いんじゃないですか? 本当は津田甚五郎さんが何を考えていたのかを」

「……!」櫻子の表情が、さっと険しくなった。


(あたしの推測、当たってるんだ……!)

 そう確信を抱いた澪は、更に畳みかける。


「この言伝を読むのが怖くて、でも本当は知りたくて……だからこの街を離れられないんじゃないですか?」


「そ……そんな事ありませんわ! おかしな言いがかりをつけるのは、およしになってちょうだい!」 


 櫻子は、怒りを隠そうともせず、そう声を荒げた。もはや、言い繕う余裕もないのかもしれない。顔を青ざめさせ、さくらんぼのような可憐な唇をきつく噛み締める。


「わたくしは……わたくしは、絶対にその言伝を受け取るわけにはいかないのです。受け取ったら、わたくしのその後の人生を否定することになる……未だに未練を引き摺っていて、甚五郎さんに捨てられた自分自身を無様でつまらない存在だと、自ら認めてしまう事になる!」 


 そして、膝の上で両の拳を固めると、それをぶるぶると震わせて吐き捨てた。

「……ふざけないでちょうだい! わたくしにだって、矜持というものがありますわ!」


「櫻子さん……!」


 どうしよう、怒らせるつもりは無かったのに。澪は櫻子に本心を気付かせるどころか、思い切り地雷を踏んでしまったようだ。

 どうしたらいいのだろうか。どう説得すれば、言伝を受け取ってくれるのだろうか。幽幻がこの場にいたなら、どう話しかけたのだろう。


 しかし、どんなに願っても、いまこの場に幽幻はいない。澪ひとりきりだ。だから、自分一人で何とかしなければ。


 澪は半ば泣き出しそうな心境に陥りながら必死で言葉を探し続けた。

「でも……櫻子さんは言伝を受け取るべきです! 自分では分かってないかもだけど……このままじゃ絶対良くないよ! お願いです! ただ……ただ、受け取ってくれれば………!」


 受け取ってくれさえすれば、櫻子も心境が変わるかもしれない。ひょっとしたら、中身を読んでみようかという気持ちが湧き上がって来るかもしれない。その可能性に一縷の望みをかけ、澪は再度、言伝を差し出した。


 必死で食い下がる澪と、差し出された言伝の両方を、交互に見つめていた櫻子は、困惑を浮かべながらもしばし考え込む。そして、ぽつりと呟いた。


「そう……そうなの。今まで思いつかなかったけれど、あなたたちにはあなたたちの都合が、きっとあるのですわね。分かりましたわ。これ以上ごねてご迷惑をおかけするのも、申し訳ないですもの。あなたの持っていらした言伝、お受け取りします」


 そういうと、これまでの葛藤が嘘のように、呆気なく右手を差し出して来た。


 澪は櫻子の唐突な心変わりに驚いた。あまりにも急転直下の展開に、渡してもいいのだろうかと、動揺してしまうほどだった。


 しかしどの道、これ以上長引かせるのは良くない。何より、櫻子にとっては《獏》化が進むことへの負担がかかるだけだ。


「迷惑なんかじゃありません。でも、この街では未練を残してはいけないんだそうです。あたしは……仙堂寺さんに幸せになって欲しいんです。ただ、それだけです」


 澪はそう言いながら言伝を差し出す。櫻子はそれを受け取り、複雑な表情で見つめた。


「ありがとう。でも――ごめんなさい」

 そう言うと、受け取った言伝を持ち替え、両腕に力を込める。


 そして。


 次の瞬間、封筒ごと一気にびりびりに破いて、川に投げ捨ててしまったのだ。


「言伝が……!」

 澪は真っ青になった。切り裂かれた紙切れが花吹雪のように舞い、川面に落下していく。あまりにも突然の凶行で、止める暇すらなかった。


「ごめんなさい。でもやはり、わたくしは――――――……」


 しかし櫻子が言い終わる前に澪は川に飛び込んでいた。幸い、川面はひざ下ほどで、水深はさほど深くなく、流れも緩やかだ。だから、澪が押し流されるようなことは無かったが、千々に破けた言伝の紙片はどんどん水流に流されていく。


 澪は着物が濡れるのも構わず、破れた言伝を掻き集めた。

 この言伝を失ってはいけない、失えば、櫻子が《獏》になってしまう――それだけは何としても避けなければならないという、その一心だった。


 櫻子は呆気にとられたような表情で澪の行動を見ていた。言伝の為に、そこまでするとは思っていなかったのだろう。困惑し、次に悔恨にも似た表情を浮かべ、澪に何か声を掛けようと口を開くが、苦しそうに顔を歪めると身を翻してその場を走り去っていく。


「櫻子さん!」


 澪の声も空しく櫻子は石段を駆け登り、細い通路の奥へと姿を消した。澪は一瞬、櫻子の後を追うべきかどうか悩んだ。しかしそうする間にも、バラバラになった言伝が容赦なく水に流されていく。今を逃せば、甚五郎の言伝は永久に失われてしまうだろう。

 結局、ばらばらになった言伝の回収を優先させることにした。


(どうしよう、言伝バラバラになっちゃった……! どうしてこんなことに……櫻子さん、どうなるんだろう……?)


 気温は蒸し暑くなりつつとはいえ、川の水はまだ冷たい。長く浸かっていると、手足が刺すような痛みを訴え始める。それでも、言伝の切れ端を一片でも逃すまいと、その痛みに耐え、回収作業に集中した。


 どうしてこんな事になってしまったのだろう。自分はどこで、何を間違えてしまったのだろうか。


 ただ、櫻子に言伝を渡したかっただけなのに。


 ボロボロになった言伝を書き集めていると、だんだん自分が途轍もなく惨めで愚か者であるように思えてきて、澪は唇をきつく噛み、こみ上げてくる涙を必死で堪えたのだった。






 《言伝屋》に戻ると、店の前には幽幻と覇王丸の姿があった。どうやら二人して澪を探していたようだ。戻ってみたら店に澪の姿がないので、心配していたのだろう。近づいていくと、揃ってほっとしたような安堵の表情を浮かべた。


「お、澪。戻ったか」

「どこに行っていたのですか」


 しかし二人は、すぐに澪の異常に気付いたらしく、足を止める。


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