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幻籠街の言伝屋  作者: 天野地人
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第40話 花園と秘められた恋④ 

 櫻子が店を去ってからは、言伝屋に新たな来客は無かった。櫻子も言伝屋へと戻ってくる気配はなく、幽幻はいつも通り、暗くなると暖簾を下げて店じまいをする。


 それから夕食を迎え、いつものように幽幻や覇王丸と食卓を囲んだ。


 居間のちゃぶ台には、煮物に茶碗蒸し、牛肉のたたきといったメニューが並んでいる。牛肉のたたきには青菜やトマトも添えてあり、栄養のバランスも良く、味付けもいつもの如く完璧だ。


 澪は絶妙な火加減のたたきを口に運びつつ、ふと今頃、仙堂寺櫻子はどうしているだろうかと考えた。


 夢幻通りに行けば、宿はたくさんある。物の怪たちの営んでいる宿ではあるが、死者である彼女は難なく宿泊できるだろうし、金銭的な見返りを要求されることもないだろう。


 でもきっと、どこで何をしていたとしても、甚五郎の言伝を受け取るべきかどうか、葛藤を重ねているに違いない。


 そんな事を考えていると、覇王丸が「どうした、澪? 何かあったか?」と、声をかけてくる。


 見かけは大らかで、些細なことなど全く頓着しないように見える覇王丸だが、こう見えて気遣いは結構、細かいところがある。そこで澪は、仙堂寺櫻子の話をしてみることにした。


「初恋ねえ……」

 覇王丸は枝豆をつまみながら、そう呟いた。どうやらこの手の話題にはあまり興味が無いらしく、あまりピンとこない様子だ。


「覇王丸はあんまり興味ないの、こういう話?」

 尋ねると、覇王丸は腕組みをし、うーん、と呻る。


「興味ないっつーか……あんまりそういう、恋愛云々って話は今まで無かったなあ。空穂も女だったけど、色恋沙汰はさっぱりだったし。むしろ澪みたいな感性は俺らに取っちゃ新鮮だよ。……なあ?」


「まあ……確かにそうですね」

 覇王丸から会話の矛先を向けられた幽幻も、やはりあまり興味がないのか、黙々と箸を動かしている。


(まあ幽さんは、だいたい何に対してもこういう冷めた反応だけど)


 でも、二人にこういった反応を返されると、澪が何だか一人だけはしゃいでいるみたいで、少し面白くない。


「覇王丸は好きな人とかいないの?」

 つい半眼で突っこむと、覇王丸はにかっと笑った。

「澪のことは大好きだぜ?」

「……もう! すぐそうやって、からかうんだから!」


 澪が唇を尖らせると、覇王丸は嬉しそうに、うしししし、と、肩を竦めて笑う。覇王丸にしてみれば、澪が期待通りのリアクションを示したので、してやったりというところだろう。


 どうにも小憎たらしいが、それ以上、反発してみても、きっと覇王丸を喜ばせるだけだ。そこで澪は、話を元に戻すことにした。


「でも……やっぱり初恋は特別だよ。絶対忘れられないよね。あたしもそうだもん。……誰でもそうだと思う」

 しみじみとそう言うと、覇王丸は悪戯っぽく笑った。


「澪の初恋か。ちょいと興味あるなあ」

「べ……別に、大したことないよ。片思いだったし」

 澪は真っ赤になって、口籠った。


 それは小学校の四年生の頃だ。澪の初恋の相手――それは同じクラスの男の子だった。理由はサッカー少年で格好良かったからだ。クラスの中でも人気があり、女の子が集まって好きな人の話になったら、大抵、半分はその男の子が好き、と言うくらいモテモテだった。


 今思い返すと、あまりにも分かりやすい理由で、自分でも笑ってしまう。好き、というより憧れに近かったのかもしれない。皆がいいと言えば、どんなものでも素晴らしい価値があるような気がしてくるものだ。


 因みに澪はその子に告白すらできず仕舞いだった。相手はクラスで一、二を争う人気者で、澪の近づける隙など無かったのだ。

 初めての恋はそのまま、時と共に風化していった。そういう途轍もなく地味な思い出だったが、それでも大変甘酸っぱい記憶として残っている。それはやはり、その恋が初恋だからだろう。


 澪のへっぽこな初恋でさえそうなのだ。ドラマか映画のような櫻子の初恋は、尚更、忘れられない記憶として残っているだろう。彼女の思い出話を語る口調にも、それははっきりと表れていた。甚五郎の言伝だって、本当は受け取りたいに違いないのだ。


 そして、何故、自分の想いに応えてくれなかったのか、且つての想いびとの気持ちを確かめたいに違いない。


 それなのにどうして、あれほどまでに言伝を拒むのだろう。


「どうして櫻子さんは言伝を受け取らなかったのかな……」

 澪がぼんやりと呟くと、幽幻がじっとこちらを見つめてきた。

「気になりますか」


「うん。あたしは好きだったら受け取ればいいと思う。両想いなのに身分の違いとかで結ばれないのは絶対変だって思うし。当時は仕方なかったのかもしれないけど、今は関係ないよ」


 身分違いの恋は、お話としては盛り上がる。古今東西、人気のテーマだ。恋は障害があるほど燃え上がるというし、玉の輿や逆玉を扱った創作物――漫画やドラマなども人気だ。流行り廃りはあるだろうが、常に一定の需要はある。


 しかしそれが実際自分の身に降りかかってみたら、どうだろうか。身分で付き合う人が決められたり、或いは好きになった人と身分のせいで一緒になれないのだとしたら。


 いつでも、どこでも、誰とでも。自由に恋愛できる環境で育ってきた澪としては、そんなもので恋愛が成就しないのは信じられない事だった。悲劇、というよりもはや権利の侵害だ。


 でも、昔はそうではなかった、と言う事は澪にも分かる。江戸時代には厳然とした身分制度があったと、授業でも習ったし、仙堂寺櫻子が若いころには、まだその影響も強く残っていただろう。


 しかし、いまはそれも自由だ。時代は変わったのだから。特にこの幻朧街は、現世でのしがらみは殆ど作用しない街だ。この街でなら、現世では許されなかった想いのやり取りも、許されるのではないだろうか。


 櫻子は何故、ああも頑なに言伝を拒んでいるのだろう。彼女の様子からすると、津田甚五郎の事を忘れてはいないという事は明白だ。おそらく、今でも心のどこかで好意を寄せているのではないか。


 だったら言伝を受け取ればいいのに。澪には櫻子の振る舞いが理解できない。


(それとも……言伝を読むのが怖いのかな……?)


 確かに、甚五郎の残した言伝の内容が、櫻子にとっていいものであるとは限らないだろう。互いに告白もしていないのだ。好きだったのは櫻子の方だけで、甚五郎は櫻子に対し特別な感情は何も抱いていなかった可能性もある。櫻子はその事を懸念しているのだろうか。


 考え込んでいると、覇王丸が枝豆の豆を口の中に放りながら言った。


「でも相手は、見かけはともかく、中身は九十八歳の婆さんなんだろう? 一世紀近く前の話だ。今とはいろいろ感覚が違うんじゃねえか?」

「そうかな?」

 首を傾げると、幽幻も続いて口を開いた。


「確かに恋愛観や価値観は、生まれた時代によって若干変化するものかもしれませんね」


「それは……そうかもしれないけど。でも、人を好きになる気持ちって、そんなに時代によって変わるのかなあ? あたしはそんなに変わらないと思うんだけどな」


 告白の仕方やデートの仕方、連絡の取り合い方。時代によって、それらは微妙に変わっていくものなのだろう。でも、相手を好きだという気持ちは、きっとみんな変わらない。特別な用事なんてなくたって会いたいし、どうでもいい事だけど、いつまでも一緒に話していたい。


 隣にいるだけでドキドキして幸せな心地になり、離れると途端に寂しくなる。そういう気持ちは、きっと時代なんて関係ない。


「澪は意外と、ロマンチストだな」

 覇王丸は再び、にかっと笑った。澪をからかう時の悪戯小僧のような笑顔ではない。太陽みたいに、包み込んでくれる笑顔だ。


 一方、幽幻は澪の方を真正面から見た。幽幻がこうやって改まった仕草をするときは、大抵、お説教をする時だ。

「私たちが気になっているのは、仙堂寺さんの感情というよりは、それに接するあなたの言動の方ですよ」

「え?」


「あなたが私たちに接するときのような、開放的であけすけな態度を、彼女にはあまり取らない方がいいかもしれない、と言う事です。彼女とあなたとでは、生きてきた時代、恋愛観が違う。無理にそれを乗り越え、力ずくで何とかしようとすると、逆に仙堂寺さんが余計に頑なになってしまう恐れもある」


「うっ……それはそうかも……」


 幽幻の言わんとしていることは、何となく分かった。外見が同じくらいの年頃なのでついつい忘れがちだが、櫻子は九十八歳のお年寄なのだ。澪の感覚で物事を進めてしまったら、反発を招く恐れもあるだろう。


「でも、このままじゃいけないのも確かだよね? どうしたらいいんだろ」


 昼間の様子だと、櫻子の決意は固く、半端な事では言伝を受け取りそうにないと澪は感じた。こちらから容易に働きかけることもできないのであれば、どうすれば良いのか。完全にお手上げ状態だ。


 幽幻は少しだけ考えこみ、やがて静かに答える。

「……。もう少し待ってみましょう。下手にこちらから接触すると、話がこじれかねない」

「うん………」


 幽幻の意見は妥当だろう。今は彼女が自らの感情に整理をつけるのを待つしかない。分かってはいたけれど、どうにももどかしく、澪は渋々、幽幻の言葉に頷いたのだった。





 しかし、その翌日、櫻子は《言伝屋》には来なかった。


 二日、三日と日は過ぎていく。だが客人は何人か来るものの、その中に櫻子の姿は無かった。


 四日目にして、さすがに澪は焦りを感じ始めた。


「ねえ、幽さん。櫻子さん、全然来ないね」

「そうですね」


「大丈夫かな。未練を残した死者が幻朧街に留まると、《獏》になっちゃうんだよね。もしかしたら櫻子さんも……。考え過ぎだよね?」


「……。一応、覇王丸に仙堂寺さんを探しに出てもらっているのですが」

「そうなんだ」


 そういえば、ここ数日、覇王丸は外出続きだ。もしかしたら、幽幻に頼まれてずっと櫻子の行方を追っているのかもしれない。覇王丸は櫻子の顔を知らないが、この街に大正時代の女学生みたいな恰好をした人物はそうはいないから、服装の特徴のみの情報で探し出すのは不可能ではないだろう。


(幽さん、ちゃんと櫻子さんの事、気にかけてくれていたんだ)


 澪はその事が、何となく嬉しかった。もちろん、それで澪に何かしらの利益があるわけではない。ただ、幽幻の優しさを感じられ、その事にほっとしたのだ。


 けれど、覇王丸がなかなか店に戻って来ないところを見ると、櫻子の捜索は難航しているのだろう。


「《獏》になっちゃうのっていつ頃なの?」

 櫻子にはどれくらい時間が残されているのだろう。気になって尋ねると、幽幻は淡々と答える。

「死者によって違いますが……早くて三日、遅くても一週間ほどが目安ですね」


 つまり、櫻子にはタイムリミットが迫っているという事だ。いや、もしかしたら、もう《獏》となってしまっている可能性もある。

 幽幻もさすがに気になるのか、店の外に視線を投げた。しかし、すぐに無言で店のテーブルを拭き始める。強い焦燥感を感じている澪とは対照的に、幽幻は変わらず冷静だった。


 本当にこのままでいいのだろうか。このまま覇王丸任せにして、櫻子を放っておくというのは、見捨てることになりはすまいか。


 いっそのこと、自分で探しに行ったらどうだろうか。そう思いつくものの、だからと言って勝手な行動をとるわけにもいかない、と思い返す。櫻子を探しに行こうにも、幻朧街を歩き回るのは澪には危険すぎる。ミイラ取りがミイラになるだけだ。


 それで仕方なく自分の仕事に戻るのだった。


 カウンターを片付ける間、座敷のテーブルを拭く間。気になって何度も店の入口へと視線を向ける。しかし櫻子は現れなかった。


 さすがにこのままにはしておけないと思ったのか、それとも、櫻子の身を案じる澪の意を汲んでくれたのか。午後になって幽幻は外出の支度を始めた。

「少し、店をお願いできますか」

「櫻子さんを探しに行くの?」


「……ええ。たとえ探し出せたとしても、彼女の決心が変わらないのであれば、言伝を手渡すのは難しいかもしれませんが……念のため、もう一度接触してみましょう」


 櫻子が幻朧街にいるのは間違いない。この街は、《未練》を晴らさなければ、出られないところなのだから。


 けれど、彼女がこの街の中のどこにいるのかは分からない。それに、街並みが幻のようにすぐ変わってしまうこの幻朧街で人を探すのは、途轍もない労力を伴うだろう。探しに出たからといって、すぐに見つかるとは限らない。覇王丸でさえ、見つけ出せていないのだ。


 澪にはただ、幽幻が無事に櫻子を連れて来ることを祈ることしかできない。


「うん、分かった。……気を付けてね」 

 澪はそう言って、幽幻を見送ったのだった。


 幽幻がいなくなると、言伝屋の中は急にがらんとして感じられた。その日は、覇王丸は朝から店を開けていたから、今、言伝屋にいるのは、澪ひとりだ。


 今では言伝のやり取りにも慣れ、急な来客があっても澪一人で十分に対応できる。でも、櫻子の事を考えると、じりじりとしていてもたってもいられなかった。


 店の中でじっとしているのが耐えられなくなってきて、澪は店の入り口の掃き掃除を始めた。毎朝、きちんと掃除しているから、汚れているわけではないのだが、入口なら路地を見通すこともできるし、何か危険があってもすぐに言伝屋の中に逃げ込むこともできる。


 路地に注意深く目をやりながら箒を動かしていると、ふとある事が頭をよぎった。


(あれ……? でも幽さんは幻朧街を歩き回って平気なのかな?)


 幻朧街は生者にとって、とても危険な街だ。澪にとってそうであるように、幽幻だって幻朧街をあるき回るのは大変な危険が伴うだろう。

 しかしそう言えば、初めて会った時も、幽幻は夢幻通りを一人で歩いていた。


(まあ、幽さんはあたしと違って幻朧街での生活が長いみたいだし……危険なとことそうでないところが分かってるのかもしれないけど)


 しかしどちらにしろ、この街が幽幻にとっても危険であることに、変わりはないのだ。澪にできることは、二人が留守にしている間に櫻子がこの店に来た時の為、きちんと待機している事だけだ。


 幽幻は大丈夫だろうか。櫻子は。

 再び路地へと視線を向けた澪は、はっと息を呑んだ。言伝屋の斜め向かいから奥へと伸びている路地の入口、そこに櫻子の姿があったのだ。

 物陰に身を潜ませるようにして、こちらの様子を窺っている。


「……櫻子さん!」


 驚きのあまり、澪は思わず大声を上げてしまった。すると、澪に気づかれたと知った櫻子はその瞬間、品の良さそうな顔をこれでもかと強張らせた。そして、慌てて身を翻すと、そのまま通路の奥へと走っていってしまった。


(櫻子さん……やっぱり言伝の事が気になるんだ!)


 彼女がこの店に戻ってきたのが、何よりの証左だ。おそらく、ここまでやって来たものの、言伝を受け取る決心がつかずにいるのだろう。


(どうしよう……幽さんなら、こういう時どうするのかな? よりにもよって、幽さんも覇王丸も外出してる時に櫻子さんが来るだなんて……!)


 澪は悩んだ。勝手なことはすべきではないが、今が言伝を渡す絶好の機会であることも確かだった。


 それに澪は気づいてしまったのだ。櫻子の周りにうっすらと、黒い霧の様なものが漂っていることを。


 光りを反射しない、圧倒的な闇色をした粒子。それには見覚えがあった。間違いない、《獏》の身体を構成していた物体だ。


 櫻子は《獏》になりつつあるのではないか。


 その事実に思い当たった瞬間、寒気がぞっと腕を伝った。《獏》に腕を掴まれた時の、身の毛もよだつ感触をはっきりと思い出してしまい、手の平がじっとりと汗をかく。もし、澪の想像が正しいとすれば、時間はもうあまり残されていないだろう。


 今、動くしかない。店には幽幻も覇王丸もいないのだ。自分がやるしかない。澪は意を決し、言伝屋の奥へ向かうと、奥の間の扉を引いた。そして一歩部屋に入り、入り口で両手を握りしめた。


「せ、仙堂寺櫻子さんへの言伝を」


 自分の声では、反応が無いかもしれない――そう懸念しながらも、一か八かで声を出してみた。


 すると、奥の方でカコンと引き出しの開く音がする。棚はちゃんと反応したのだ。澪は万歳をしたい気持ちで音のした方へ向かった。扉から二番目の棚に回り込むと、そのちょうど中央に、一つだけ中途半端に開いている引き出しを見つける。


 ラベルには、津田甚五郎と仙堂寺櫻子の名前。これに間違いない。その引き出しの中から海老茶色の封筒を取り出す。封筒の表には、角ばった雄々しい字で『櫻子さんへ』と書かれていた。


 それを握りしめると、澪は《言伝屋》を飛び出した。幻朧街を歩き回るのは危険だ。それは分かっているが、ほんのちょっとなら。

 危険があれば、すぐに店に戻るつもりだった。


「まだ遠くに行ってないはずだけど……」


 澪は夢幻通りを避け、周囲を歩き回る。だが、どこにも櫻子の姿は見えない。


 民家の影、通路の脇。くまなく探し回ったが、人っ子一人、いなかった。彼女はどこへ行ってしまったのだろう。《獏》になりかかってしまった体で、一体どこへ。早くしなければと、焦りばかりが募る。


 その時、不意に耳慣れない音が飛び込んできた。立ち止まって耳を澄ます。微かに聞こえてくるのは、水の流れる音だ。おそらく、この近くに川があるのだ。


 しかし、澪は幻朧街に来てから一度も河川の類は見たことがなかった。


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