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幻籠街の言伝屋  作者: 天野地人
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第39話 花園と秘められた恋③

 その時、澪は気づいた。櫻子の中にある甚五郎への感情が何であるのかを。


 そして、それをとても意外に思った。最初に幽幻から津田甚五郎の言伝を差し出された時、櫻子は激しく動揺し、青ざめた様子を見せたからだ。


 それは恋い慕った相手に対するものというよりは、憎い敵に遭遇した時のような反応だった。


 けれど今、甚五郎の思い出を語る櫻子には、そのような禍々しさは皆無だ。おそらく当時、甚五郎に対して抱いていたのであろう純粋な感情と全く同じものを、その育ちの良さそうな顔に浮かべている。


 恥じらって視線を伏せ、頬をうっすらと朱の色に染めているその姿は、間違いなく恋をする女性のものだ。


「わたくしは少しずつ、甚五郎さんと会って話をすることがとても楽しみで、待ち遠しく感じるようになっていました。まるで、わたくし自身が庭木の一つになったかのように、甚五郎さんがいらっしゃるのは今日か明日かと首を長くし、その日を心待ちにするようになったのです。


 そう……その頃にはもう、わたくしは甚五郎さんを心から尊敬するとともに、密かにお慕いするようになっていたのです」


「何だか、素敵……!」

 

 澪は思わず聞き入っていた。貧乏な庭師と、お金持ちのお嬢様の恋。まるで恋愛小説のストーリーのようだ。自分の事でもないのに胸がときめいて、頬に熱が帯びる。


 シチュエーションも申し分ない。色とりどりの花々が咲きほころんだ美しい庭園。そこで肩を寄せ合い、語り合う甚五郎と櫻子の姿が、目に浮かぶようだった。


 当の櫻子はしかし、浮かない表情だった。


「……薔薇というのは手入れがとても大変で、美しく咲かせるためには大変な労力のいる花なのです。ですから、大規模整備とは別に、薔薇の花の為だけに庭師を呼んでおりました。

 そこで、わたくしは父にお願いをし、甚五郎さんにその仕事を任せるよう頼みました。父も甚五郎さんの庭師としての腕は高く買っていたようなので、その望みは容易く叶えられたのです。


 わたくしと甚五郎さんは、ますます親密な関係になっていきました。互いに想いを口にすることはありませんでしたけど、わたくしも甚五郎さんをお慕いしておりましたし、甚五郎さんもまた、わたくしを好いてくださっていたと思います」


「互いに想いを口にすることは無かったって……えっ、告白は……自分の気持ちは伝えなかったんですか?」

 澪が首を傾げると、櫻子は困ったように笑う。


「……ええ。当時は今とはいろいろと勝手が違いましたから……」

「そうなんですか?」


「あの頃はね、お嬢さん。女性から男性に思いを告げるなど、とてもはしたない行為だと思われていたのですよ」


「な……何それ? 信じらんない!」


 女の子にも積極的な人もいれば、消極的な人もいる。好きな人に告白をするかどうかは人それぞれだと思うが、はしたないなどという理由で自分の想いも告げられないというのは、何だかヘンだ。


 澪は到底、納得できなかったが、櫻子は静かに微笑むばかりだった。櫻子が十代の頃と言うと、八十年近く前の事だ。だから、いまとはいろいろ違うという事は、理解はできるのだが。


「今思えば、甚五郎さんとの恋は、わたくしの初恋でした。けれど、それ故にわたくしの想いは歯止めが利かず、最初は小さなろうそくの火のようだった慎ましい感情が、どんどん大きな炎へと燃え盛っていったのです。


 甚五郎さんに会えた時は熟れた林檎のように頬を染め、心臓が止まってしまいそうになるほど胸を高鳴らせ、まるで自分ではないかのようにはしゃいでしまうのに、一方で甚五郎さんに会えない日は、燃え尽きた灰のようになって何も手がつかず、ぼんやりと遠くを見て過ごしてしまう――」


「すっごく分かります。恋をするとそうなっちゃいますよね、女の子って」


 澪が前のめりになって両手のこぶしをぐっと握り締め、共感の声をあげると、櫻子も嬉しそうに微笑んだ。


「ふふふ……そうですわね。わたくしもまさに、恋する乙女になっていたのでしょう」


 そうやって微笑む櫻子の姿は、若々しさに満ち溢れていた。過去の事を回想し、身も心もすっかり二十歳の頃に戻りきっているのだろう。


 甚五郎との馴れ初めも、今のところは美しく甘酸っぱい思い出であるようだ。


(でも……だったらどうして櫻子さんは、甚五郎さんからの言伝を拒むんだろう?)


 それほど好いた人の言伝を、櫻子はどうして読もうとしないのか。内心で首を傾げていると、まるで澪の心を読んだかのようなタイミングで、櫻子は悲痛なほどに表情を曇らせた。


「しかし、わたくしたちの関係は唐突に終わりを告げました」

「え……ええ!? どうしてですか!?」

 澪は驚いて声をあげるが、櫻子は動じた様子もなく、淡々と言葉を続けた。


「父がわたくしに、縁談を持ってきたからです」


「え、縁談って……そんな、親が勝手に……!?」


 しかも、櫻子はまだ二十歳になったかどうかの年頃だ。澪とほんの数歳しか違わない。そんな年若い女性を強引に結婚させるなんて。いくら親の決めたこととはいえ、澪の感覚からしてみると、信じられないような暴挙だ。


 けれど、当の櫻子はごく冷静にそのことを受け止めているようだった。


「仕方なかったのです。その頃、世の中は世界恐慌の真っただ中で、父の事業もその余波を受けて暗礁に乗り上げしまい、仙堂寺の家は火の車に陥ってしまいました。大きなお屋敷や家族の愛したフランス庭園も、手放さなければならにかもしれない……それほどの、深刻な危機に陥っていたのです。


 相手の男性は、日本でも屈指の財閥を親戚に持つ、やはり富裕層の御子息でした。わたくしを彼の家に嫁がせることによって、両親は仙堂寺の負った巨額の負債を解消しようと考えたのです。いえ……もはや、そうするよりほかに手は無かった」


「それは、そうかもしれないけど……でも、そんなの、おかしいです! 家の為に、櫻子さんが犠牲になるなんて……櫻子さんには甚五郎さんっていう、思いを寄せていた男性もいたのに!」


 澪が憤慨すると、櫻子も少しだけ微笑む。しかしその笑みは、先ほどのような若さに溢れる微笑ではなく、自分を恥じるような、暗さを伴った笑みだった。


「……そうですわね。当時、まだ若かったわたくしも、到底、その縁談に納得できませんでした。かと言って、わたくしが勝手な行動をして仙堂寺の家を破産に追い込むわけにもいかなかった。

 わたくしは、悩みに悩みました。自分の想いを選ぶか、それとも仙堂寺の家を選ぶか。張り裂けそうな日々を何日も過ごした挙句、ある決心をしたのです」


 その決心とは何なのだろう。澪は気になって仕方なかったが、櫻子はじっと押し黙ったまま、俯いて瞳を閉じてしまった。

 どうやらその続きは、櫻子にとって思い出すだけでも心苦しい事であるらしく、その痛みにじっと耐えているようにも見える。


 櫻子は奏して暫く目を伏せて黙りこんでいたが、やがて押し殺すような声音で、ポツリと呟いた。


「そして……わたくしは甚五郎さんに、わたくしを連れて駆け落ちをしてくださいと頼んだのです」


「うわあ……何だか映画みたい……!」


 澪は溜め息をつく。女子高生である澪にとって、恋愛の話は特別に惹かれるものがあった。実際、高校で友達と話す会話の半分近くは恋バナ――恋愛談義だ。それにしたって、櫻子のような大恋愛の話を直に聞くことは滅多にない。だから、すっかりのめり込んで、聞き入ってしまった。


 それでももし、櫻子が年相応の姿をしていたなら、ここまで感情移入しなかっただろう。彼女が澪とそれほど違わない年齢をしているからこそ、これほどまでに実感が伴っているのだ。


 けれど、櫻子の反応は、縁談の話を切り出した時と同じように抑揚を欠き、話を続けることを恐れ、脅えているようですらあった。


「映画……そうですわね。これが美しい恋愛活動写真であれば、どれだけ良かったかしれません」 


 櫻子はその上品な口元に笑みを漏らした。けれど、それはやはり、自嘲する様な卑屈な笑いだった。


「けれど、現実はそううまくはいきませんでした。わたくしの願いに、甚五郎さんは決してうんとは言いませんでした。けれど、はっきりと拒みもしなかったのです。断られるなら、断られてもいい。それならそれで踏ん切りがつく……そう思っていたのですけど、彼からは何の返事も無かった。そして、それっきりわたくしの前に姿を現すことは二度となかったのです」


「そんな……どうして……?」 

 愕然とする澪だったが、櫻子もまた、力なく首を横に振る。


「それは、わたくしには何とも……。けれど、わたくしは一人残されて、自分はいかに愚かな願いを口にしたのだろうかと、それを大変悔やみました。共に駆け落ちをして逃げてくれだなんて……甚五郎さんの立場や生活を少しも考慮していない、幼稚で世間知らずの娘の陳腐な我が儘だと、そのことに気づいたからです。甚五郎さんもきっと、そんなわたくしに失望し、呆れかえって行方をくらませてしまったのでしょう」


(そうなのかな……?)


 そうだとしても、一言もなく忽然と姿を消すなど、そうそうある事のようには思えない。津田甚五郎にも何かよほどの事情があるのではないだろうか。そして、だからこそ彼はこうして、言伝を残したのではないだろうか。


 だが、櫻子の決意は固く、決して言伝を開くつもりは無いらしい。甚五郎の言伝は、テーブルの上に置かれたままで、櫻子はそれに触れる素振りさえ見せない。


 ともかく、そこで話は終わりであるようだった、最後に櫻子は長い長い溜息を一つ吐き出す。それはまるで、過酷な長旅を終えた旅人のように、疲れ果てた顔だった。


「でも……この手紙が残ってるって事は、やっぱり甚五郎さんも櫻子さんの事を忘れられなかったんじゃないのかな……?」


 甚五郎の残した言伝に対して頑なな拒絶を見せる櫻子に、澪はそう指摘してみた。澪にはどうしても、甚五郎がただの薄情者であるようには思えない。会ったことも無ければ、会話を交わしたこともない相手だが、話を聞く限りではとても真面目な青年だったようだし、彼に一途な思いを寄せていた櫻子が、ただの世間知らずのお嬢様だったのだとも、思いたくはない。


 けれど櫻子は、弱々しく笑うばかりだ。


「どうでしょう。……ただ、手紙の内容はどうであろうと関係ないのです。どうしてもその手紙は受け取るわけにはいきません。それは……私にとって、裏切り、ですから」


「裏切り」――どきりとする言葉だった。どういう事なのだろうか。澪はその言葉の真意を尋ねようと、口を開きかける。しかし櫻子はさっと席を立ってしまった。そして店先から空を見上げる。


「雨……止んだようですわね」


 確かに空はまだ薄曇りだったが、いつの間にか雨足は止んでいた。どうやら先ほどの雨は通り雨だったようだ。現に雨雲はどんどん風に流されていっているし、街の向こうには僅かに晴れ間も見える。いずれこの辺りにも、青空が覗くだろう。


「すみません、お邪魔して。わたくしはもう行きます」


 櫻子はそう言うと、足早に《言伝屋》を後にしようとする。この店に留まれば留まるほど、甚五郎に対する未練が湧き上がってきて、言伝を受け取ってしまいそうになる。櫻子はそれを恐れているのだろう。

 

 澪には櫻子が、一刻も早く、甚五郎の言伝から逃げ出したがっているように見えてならなかった。


 こういう時は、どうすればいいのだろう。無理に引き留めても、櫻子は言伝を受け取ってくれそうにはないし、かと言って好きにすればいいと放っておいても良いものなのかどうかは分からない。何と言ってもここは幻朧街なのだ。この街では、未練を残すことは何より危険なのだ。


 澪が困惑していると、幽幻が不意に口を開き、櫻子の背中に声を掛けた。


「仙堂寺さん。もし言伝の事を思い出したら、いつでもこちらにいらしてください。……お待ちしています」


 櫻子はその言葉に僅かに振り返り、硬い表情で会釈をすると「失礼します」と言って《言伝屋》を後にする。

 幽幻がそれ以上、櫻子を引き留めることは無かったので、澪も無言でその背中を見送った。


「あの人……まだ甚五郎さんの事が好きなんじゃないかなあ………」 


 澪はしんみりと呟いた。櫻子の言動には、至る所に津田甚五郎への想いが滲み出しているように感じられてならなかった。特に、甚五郎との出会いを語る時の櫻子は、まるで当時に戻ったかのように初々しく、彼に対する想いが全く消え失せてしまったわけではないのだと、澪にもはっきりと分かるほどだった。


 しかし、それに対して幽幻の答えといえば。

「そうかもしれませんね」

 期待は全くしていなかったが、案の定、魂の微塵も籠っていない返答だった。澪は苦笑しつつ、肩を竦める。


「出た、幽さんの氷点下リアクション。でも……好きならどうして言伝を置いてったりしたんだろう。嬉しいでしょ、普通? 初恋の相手から手紙なんて。しかもあんな大恋愛でしょう? あたしだったら、絶対読みたいって思っちゃう」


 すると幽幻は、櫻子の置き残していった甚五郎の言伝を手に取りつつ、答えた。おそらくそれを、奥の間にある棚の中に戻すつもりなのだろう。


「お客さんには時々ああいう方がいらっしゃいます。何かわだかまりや強い思いがあって言伝を拒否しているのでしょう」


「そうなんだ。裏切り……って事と関係があるのかな?」

「そうかもしれません。ただ、言伝の内容に無闇に踏み込むのは良くありませんよ」


「どうして?」

 澪は目を瞬かせ、幽幻の顔を見つめた。


「誰だって他人には踏み込んでほしくない部分があるでしょう。それに言伝を読んでどう感じるかは受取人であるお客さん次第です。私達が表面的な内容だけを捉えて安易にそれを判断するのは越権行為ですし、危険ですよ。あまりいい事ではありません」


「うん……言われてみれば、そうかも」


 澪は頷いた。確かに自分の、櫻子の件に対する思いは、やや手前勝手な好奇心が先走っているかもしれない。櫻子の話は刺激的で魅力に溢れていたけれど、彼女自身はその思い出を、ただの美しい思い出として認識しているわけではないようだ。だからこそ、甚五郎の残した言伝を、あれほどまでに拒んでいるのだろう。


 そしてもし本当にそうであるなら、言伝を受け取って中を読んだらいいのに、という澪の思いは、櫻子にとってはただの余計なお節介に過ぎないのだろう。


「でも、言伝を渡せないと困るんでしょう? どうするの?」


 櫻子の様子だと、そう簡単に津田甚五郎の言伝を受け取るとも思えない。こういうケースの場合は、どうしたらいいのだろうか。今まで言伝を受け取らなかった客はいなかった。澪にとって、初めてのケースだった。


(確か、《未練》を残したままだと、櫻子さんは幻朧街から出られないんだよね……?)


 そしてその結果、どうなってしまうのか。決まっている。《獏》になるのだ。記憶も感情もすべて失って、永遠にこの街を彷徨い続けるだけの存在になる――言わずもがなだ。


 そのことを知っているだけに、澪は櫻子の事が気懸りだった。思わず通りに出て彼女の去っていった方へと視線を向ける。けれど、櫻子は既にどこかへ行ってしまった後らしく、その姿は全く見えない。


 すると、幽幻が澪の傍にやって来て、その疑問に答えた。


「……こういう時の対処法、ですか。その時々で対応は変わりますが……今の方は大丈夫ですよ。おそらく戻って来られます」


「え、そうなの? 何でそんなこと分かるの?」


 やけにきっぱりと断言する幽幻の口調に驚き、澪は弾かれたように顔を上げ、その表情に乏しい顔を見上げた。すると幽幻は、片手を顎に当て、視線を彷徨わせる。


「理由ですか。分かりません。何となく……としか言えませんね」


「幽さんにも分からないことはあるんだ……」


 思ってもみない反応に、澪は少しだけ驚いた。今まで幽幻は、幻朧街の事なら何でも澪に教えてくれた。だから、そんな返答が返ってくるなんて、思いもよらなかったのだ。


 すると幽幻は心外だというように、僅かばかり目を見開く。

「私にも分からない事ばかりですよ。……特にこの幻朧街の事は。それから………」


 幽幻は不意に言葉を中断し、澪をじっと見つめる。切れ長で曇りのない、真っ黒な瞳に真正面から見つめられ、澪は何だか緊張し、思わず首を竦めてしまった。


「え……な、何?」

「いえ、何でもありません」


 幽幻は何事も無かったかのように素っ気なく答えると、身を翻し、津田甚五郎の言伝を持って奥の間に入っていく。


「え、何なの、今の! 気になるよ! ちょっと幽さんってば………」


 澪はそれを慌てて追いかけた。幽幻がそういった、もったいぶった言動をすることは、これまで殆どなかったし、だからこそ気になって仕方がない。


 しかし、どれほど問い詰めても、結局どういう事なのか幽幻の口からは教えて貰えなかったのだった。




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