第38話 花園と秘められた恋②
「……ごめんなさい。でも、どうしても受け取るわけにはいかないのです」
「何か事情がおありなんですか?」
幽幻は櫻子の怒声にも微塵も動じた様子は無く、静かな声でそう尋ねる。
見たところ、櫻子はひどく混乱し、動揺しているようだ。事情を話すことで冷静さを取り戻し、自らの考えがまとまることもある。だから幽幻は仙堂寺櫻子に事情を尋ねたのだろう。
櫻子は再び硬い表情で俯いた。まるで古傷の痛みに耐えるかのように、歯を食いしばっている。微かに、拳を握る腕や肩も震えているようだった。彼女にとっては口に出すのも躊躇われる事なのだろう。
幽幻はそのまま発言を急かすこともなく、櫻子の言葉を待つ。
一体どんな事情があるのは知らないが、飲み物でもあれば、少し心が落ち着けられるだろうか。そう考えた澪は、素早くカウンター向かうと、冷えた麦茶を入れて櫻子の元へ運んだ。小雨が降っているとはいうものの、朝は晴れていたので蒸し暑い。冷たい飲み物が良いのではないかと思ったのだ。
澪が麦茶を運んだ後も、櫻子は俯いたまま暫く考え込んでいた。が、やがて意を決した様に顔を上げる。そのまま、細く消え入りそうな声で訥々と話し始めた。
「津田甚五郎さん……彼は昔、わたくしの屋敷で働いていただいていた庭師なのです」
「庭師……?」
「ええ。わたくしと最初に出会った時はまだ修行中、でしたが」
「庭師を雇うって……よっぽど大きなおうちだったんですね」
澪が何気なく言葉を挟むと、櫻子は微笑んだ。
「自分で言うのもなんですが、実家である仙堂寺の家はとても豊かな家柄でしたから……。おまけに旧士族の家で、格式も備えておりました。敷地内には西洋建築物を模した大きなお屋敷と、フランス式の庭園がございまして、三か月に一度の庭の大規模整備は大勢の職人を呼び、それでも三日はかかったものです」
「すごい……何だかお嬢様みたい!」
「……お恥ずかしながら」
澪は目を丸くするが、櫻子には家柄を鼻にかけるようなところは全くない。謙遜しつつそう微笑むと、そのアーモンド形をした奥二重の瞳が、どこか遠い場所を見る様に店の外へ向けられた。
「それも、もう八十年近く前の事でございますけれど」
「八十年前……ってえ、えええ!? 一世紀近くも前じゃないですか!」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまって、慌てて自分で自分の口元を覆った。ちらりと幽幻の方を窺うと、案の定、真冬に吹き付ける木枯らしのような視線をこちらに向けている。その様子を見ていた櫻子は、おかしそうに笑った。
「こう見えても、わたくしは今年で九十八になります。生まれた頃は、第一次世界大戦の真っ最中でしたよ」
「九十八歳! 全然見えない………」
澪はしげしげと櫻子の姿を見つめる。確かに格好や髪形はえらく古風だが、白い肌や赤い唇は瑞々しく、長い髪は黒々としていて、背もぴんと伸びている。九十代のお年寄りには全く見えないし、澪と比べても何歳かくらいしか違わないようだ。
(ああ、でも、着物と袴に皮ブーツっは、それっぽい感じ。何だか、昔の映画とか漫画に出てくる女学生さんって感じだもんね)
前髪が山のように張り出している庇髪も、澪の周囲では見ない髪型だ。彼女が学生の頃は、それが制服であり流行の格好だったのだろう。
櫻子は先ほどの澪の言葉に頷いて笑った。
「死ぬ時はよぼよぼの寝たきりだったのに、この街に来た時にはこの姿になっていて……。不思議な事です」
「時たまそういう方がいらっしゃいますよ。おそらく実年齢だけではなく心理的な年齢も影響を及ぼしているのでしょう。或いは、一番思い入れのある年齢の姿に変化しているのかもしれません。どの道、肉体は失われているわけですから」
幽幻はそう説明してくれた。もちろん全ての死者がそうなるわけではないし、どうしてそういったことが起こるのか、はっきりとした理由があるわけではないのだろう。けれど、少なくとも幽幻にとっては、仙堂寺櫻子のようなケースは初めてではないらしい。
「よく分かりませんが……確かに丁度、二十歳を越える頃、わたくしは甚五郎さんさんと完全に決別しました。それが人生の中の、一つの大きな転機だったかもしれません」
幽幻の思惑通り、櫻子は少しずつ落ち着いてきたのだろう。先ほどのように青ざめることもなく、むしろどこか懐かしそうに、僅かに瞳を細めた。
「……甚五郎さんは貧しい家の生まれで、五男坊でした。両親は彼を育てる余裕が無く、十二で庭師になる為に造園所に弟子入りしたそうです。仕事は忙しく厳しかったけれど、親方も先輩も面倒を見てくれて、充実している……と、よくわたくしにそう話してくれました」
「え……十二って……学校、行ってないの? それって犯罪じゃない?」
澪は驚いた。現在の学校制度だと、中学生までは義務教育だ。小学校を卒業してすぐ働くのは法律に違反しているのではないか。
その反応に、櫻子は苦笑する。
「尋常小学校には通ったそうです。卒業したのが十二の頃だったそうですから、今の小学校と丁度同じですわね。それからすぐに庭師の修行に入ったのだと聞きました。随分昔の話だから……当時はそういう子供も珍しくなかったのです」
そう言って櫻子は小さく溜め息をつくと、両手を組んだ。最初はためらいがちだったが、どうやらその先も話す腹が決まったようだった。
相変わらず沈んだ声だったが、先程よりは滑らかな口調で話し始める。
「わたくしが初めて甚五郎さんにお会いしたのは、十七の時でした。甚五郎さんは当時、十九になったばかりで、庭園の整備をお願いし、来ていただいた庭師の中に、彼の姿があったのです」
そこまで言い終わると、櫻子は再び言伝屋の外へと視線をやる。どこかここではない遠くを見通すように、或いは、何か大切なものを探すかのように。
「……もう、薔薇の美しい時期は終わってしまいましたわね」
確かに、春バラは大体、五月の中旬から六月が見ごろだと言われている。今はおそらく六月の下旬くらいだろうから、薔薇もまだ咲いてはいるだろうが、盛りは過ぎてしまったかもしれない。
「わたくしは幼いころから、薔薇の花がとても好きでした。清廉なオールドローズに、華麗でゴージャスなイングリッシュローズ。可愛らしい小花を溢れんばかりに咲かせるミニチュアローズも、毎年とても楽しみにしておりました。
屋敷の庭にはマグノリアやライラック、ハナミズキなど、他にも様々な花を咲かせる木がございましたが、わたくしはやはり薔薇の花が一番でした。そして実際、屋敷の薔薇は毎年、それはそれは見事な花をつけてわたくしたちを楽しませてくれたのです。
中でもわたくしの一番のお気に入りは、コーネリアという名のオールドローズでした。花弁は淡く、少し黄色がかったピンク色をしていて、とても清楚な花なのですが、一つ一つの花はそれほど大きくありません。
けれど、何といっても豊潤な香りが特徴で、毎年、庭の噴水の周囲に咲き誇り、庭中を溢れるような豊かな芳香で包んでくれました」
そのコーネリアという品種がどういうものか、聞いただけでは分からないが、澪も薔薇の甘くて上品な香りは嫌いではない。ただ、ちょっと大人っぽいので、薔薇の香りのものを実際に使用することは殆ど無かったが。
だがそれも、櫻子のように落ち着いていて品の良い女性にはよく似合いそうだ。
「そのコーネリアはわたくしが十歳になる誕生日の日に、父が植えてくれたものでした。ですから余計に思い入れが強く、まるで自分の実の妹のように思っておりました」
当時の事を思い出したのか、櫻子の表情が僅かに綻んだ。彼女にとっては、とても幸せな記憶なのだろう。薔薇を愛する、可憐なお嬢様。まるで、昔の少女漫画に出てくる主人公のようにロマンチックだ。
「……けれどわたくしが十五になった年、そのコーネリアはあまりうまく花をつけてくれませんでした。元気がなく、花も例年の半分ほどしか咲きませんでした。
……気候が良くなかったからでしょう。当時の庭師からそう説明され、そういう年もあるだろうとその時は納得したのですが、次の年はそれよりもさらに花が少なくなってしまった。そして、わたくしが十七になった年の五月、とうとう、そのコーネリアは一つも花を咲かせることが無かったのです」
そのコーネリアという薔薇が枯れかかってしまったことが、よほど辛かったのだろう。その思い出を話す櫻子もまた、どことなく悲しげな表情だ。
「何故、そんな事になってしまったのか。当時、庭木の管理をお願いしていた庭師もみな、首を傾げるばかりでした。病気になったわけでも、虫がついたわけでもないのに、これほど弱る理由が分からない、と。
専門家の方々にも分からないのであれば、わたくしたち家族にはどうすることもできません。
これがこの薔薇の寿命だったのだろう。父はそう言いましたが、わたくしはどうしても諦めきれなかった。妹のように可愛がってきた薔薇でしたから、どうにかして救ってあげたかった。
その時です。甚五郎さんが屋敷のお庭にやって来たのは」
その瞬間、櫻子のまとった空気が一変した。それまではただ単純に、懐かしさに浸っていたようだったが、甚五郎という名前が出てきた途端にその郷愁はすっかり消えてしまったのだ。
そして代わりに、何かに恋焦がれるように激しく、それでいて、どこかほろ苦さや悲哀といったものも加わった、奇妙な空気――それらが拮抗するが故の緊張感を帯びた、ピリピリとした雰囲気に変わったのだ。
「あの日の事は今でも忘れません。十七歳になっていたわたくしは、その日も学校から帰ると、いつものように庭の薔薇……コーネリアのところへ向かいました。生気を失った薔薇の木が少しでも回復するように、手入れをしてやるつもりだったのです。
今日は庭師が植木を整備しに来る日だから、何かいい手立てはないか聞いてみよう……その様に考えながら、コーネリアのところへ向かうと、そこに見知らぬ男性が立っていました」
「それが津田甚五郎さんだった?」
幽幻が尋ねると、櫻子は「……ええ」と答えた。まだ言伝の差出人――津田甚五郎の事を話すことに抵抗があるのか、少しだけ躊躇したような間があった。けれど、結局は話す決意を決めたのか、少しずつ手探りをするように話し始める。
「――半纏や乗馬ズボン、下足袋を身に付けていたことから、その人が庭師であることはすぐに分かりました。けれど、仙堂寺の家ではそれまで見たことの無い顔だった。
わたくしは恥ずかしくて、見知らぬ男性にすぐには近づくことが出来ませんでした。女学校に通っていたので、男性と交流がなく、どの様に声を掛けたら良いのか分からなかったのです。
彼はそんなわたくしには気づきもせず、コーネリアの傍に立ち、枯れかかった薔薇の木に向かって、一心に視線を注いでいました。その横顔は優しげでしたけれど、悲しみに満ちていて、元気のない薔薇の木の事を我が子のように心配している様子が、はっきりと伝わってきました」
やがて櫻子の存在に気づいた甚五郎は、淡く微笑んだ。その目元は優しく、まるで包み込むように温かだった。それで櫻子も緊張や警戒心が解けてしまったのだという。
そんな櫻子に、甚五郎は声をかけてきた。
『……ずいぶん弱っていますね』
すぐに、目の前のコーネリアの事だと気づいた。
『ええ。二年ほど前から花を付けなくなってしまって、今年は……もう』
『そうですか……。コーネリアは薔薇の中でも比較的、丈夫な品種なのですが……』
甚五郎はそう呟いて、表情を曇らせた。その中に、薔薇の木に対する真摯な憂いを見た櫻子は、思わずその願いを口にしていた。
『助けられませんか?』
『この薔薇を……ですか?』
『この子はわたくしの妹なのです。十歳の時から、ずっと共に過ごしてきました。ですから、何とかして、生き延びさせてやりたいのです』
先ほどまでこの見知らぬ庭師を警戒し、恥じらって声もかけられなかったことなど完全に忘れ去って、櫻子は甚五郎へと身を乗り出した。
それだけこのコーネリアを大切に思っていたというのもある。しかし一番は、何と言っても甚五郎本人の醸し出す雰囲気だ。
甚五郎はいかにも優しそうだったが、どこにでもいそうな、ただのお人好しというわけでもなさそうだった。何故なら、彼の態度は柔和でありつつも、その端々に淋しさや孤独のようなものを感じさせたからだ。
ミステリアスなその空気に、櫻子はあっという間に魅せられていたのだった。
甚五郎は、その熱意に最初は戸惑ったようだったが、それが薔薇に対する愛情からきているのだと悟ると、すぐに笑顔になった。
『……分かりました。絶対に、とは申し上げられませんが、出来る限りのことをいたしましょう』
「甚五郎さんはそう言ってくださったのですけれど、わたくしは実はその時、あまり期待をしていませんでした。
それというのも仙堂寺の家には、たくさんの庭師が出入りをしておりまして、既にそのコーネリアも、幾人もの職人が手を施した後だったからです。
けれど、決して昔のように元気を取り戻すことは無かった。これはもう父の言うように、寿命なのかもしれない。半ばそう、諦めていたのです。
ですから、わたくしはその時、すぐに甚五郎さんとお話しした事を忘れてしまいました。その時の私にとって、甚五郎さんは屋敷にたくさん来る庭師の一人でしかなかった。
……ところが、思いもよらぬ奇跡が起きたのです」
その時ばかりは櫻子も、うっとりと瞳を輝かせ、その顔はふんわりと綻んだ。その姿は瑞々しく情熱に溢れ、二十の若い女性そのものだ。
彼女が九十歳を優に超えた老婆だなどと、誰が信じるだろうか。
「甚五郎さんがコーネリアの世話をするようになると、枯れかかっていた薔薇の木は、見る間に元気を取り戻していきました。色褪せてしまった葉は瑞々しさを取り戻し、細々とした枝や根も、どんどん逞しくなっていきました。
そしてついにその年の秋には、ふっくらとした蕾をいくつもつけるまでに回復したのです。二年ぶりに咲き誇るコーネリアの馥郁たる香りを嗅いだ時には、あまりの嬉しさに胸がいっぱいになったことを、今でもよく覚えています」
「すごい……! でも、甚五郎さんはどうやってコーネリアを甦らせたんですか?」
当時はまだ肥料の種類も限られていただろうし、死にかかった樹木を復活させるのは容易ではなかっただろう。澪がそう疑問を差し挟むと、櫻子は口元に手を当てて、ふふふ、と悪戯っぽく笑った。
「それが、わたくしにはよく分からないのです。甚五郎さんは決して知識をひけらかすような方ではありませんでした。ただ淡々と、樹木に向き合うだけなのです。
わたくしに分かっているのは、甚五郎さんがお世話をすると、コーネリアは途端に元気になり、今まで以上に沢山の花を咲かせるという事だけ」
櫻子は自らも感嘆を込めてそう説明したが、すぐに何かを思い出したかのように、付け加えた。
「……いえ、コーネリアだけではありません。アザレア、ザクロ、ハナミズキ……甚五郎さんが手入れをした木は、どれも信じられないほど美しい花をつけるのです。他の職人と一緒になって、黙々と同じ作業をしている筈なのに、甚五郎さんの手にかかると、まるで魔法のように草木が生き生きと輝きだす。
おかげで仙堂寺の屋敷は、春夏秋冬、まるでお伽噺の世界のように絢爛たる花々が咲きほころび、わたくしたち家族を、それはもう楽しませてくれました。父はその庭が何よりの自慢で、家に来客があると必ずお客様を庭に連れ出し、あの木は樹齢何年であるとか、あの花の色はとても珍しい色だなどという事を、盛んに語ってお聞かせしていたようです」
櫻子は一度、甚五郎に尋ねたことがあるのだという。どうしたらそんなに植木を輝かせることが出来るのか、と。
仙堂寺家には多くの職人が出入りをしていたが、その中でも甚五郎ほどの庭師はそうはいなかった。樹木に対する熱意が並外れていて、実際に腕もたつ。しかも彼は当時、まだ見習いだったのだ。
すると、甚五郎は僅かにはにかんで、控えめにこう答えたそうだ。
『……私は樹木と会話をするのです。彼らと一心同体になり、その声に耳を澄ませば、その樹木が何を必要としているのかが自ずと見えてきます。わたしはただ、その声を汲み取っているに過ぎないのです』
櫻子の話は続く。
「甚五郎さんは、学歴こそ持ち合わせてはいなかったけれど、粗野なところは一つもありませんでした。それどころか庭師の仕事の合間にたくさんの本を読み耽っていて、国内だけでなく海外の文学などにも造詣が深く、知的さや聡明さも兼ね備えていたのです。
けれどその一方で、自分の知識をひけらかしたり、逆に己の学の無さを卑下したりするようなところは一つもありませんでした。甚五郎さんのお話は、静かで且つ刺激に満ちていて、世界にはそのようなことがあるのか、その様な考え方もあるのかと、いつも目の覚めるような心地でした。
少女であったわたくしには、それはとても魅力的な体験だったのです」




