第37話 花園と秘められた恋①
澪が幻朧街に来て、ちょうど一か月ほどが経った。
いろいろあったけれど、時が経つのはあっという間だ。澪は溜息をつきつつ、言伝屋の店先から空を見上げた。
灰色の重たげな雨雲がすっかり空を覆ってしまっているせいか、今日は朝からずっと薄暗い。湿度も高く、何だか自分が水槽の底を泳ぎ回っている熱帯魚になったような気分になってくる。
つい一週間ほど前までは、からりとした天気が続いていた。日差しは日を追うごとに力強さを増していき、《言伝屋》の店の中にも、瑞々しい初夏の陽光が差し込んでいた。
虫の羽音。鳥のさえずり。全ての命が、どんどんと勢いづいていき、澪もそれに影響されてか、積極的に言伝屋の仕事を手伝っていた。
ところが一転、ここ数日は薄曇りの日も多く、空気も湿気を吸い、じめっとしていることが多くなった。こうなってくると、ちょっぴり憂鬱だ。湿気が多いので少し動いただけですぐに汗ばむし、着物も少し暑苦しく感じる。
もっとも、最近は最初に来ていた桜の小紋柄の入った袷ではなく、落ち着いた紫陽花柄の絽に衣替えしている。それも桜紋の袷と同じく、幽幻が空穂の部屋から取り出してきてくれたものだ。絽は袷よりずいぶん薄手で軽いので、だいぶ涼しくなったのだが、それでも帯で締め付けると、やはり少々、暑い。
でも、着物にも、だいぶ慣れてきた。最初の頃は、毎日一時間近くかかって着付けと格闘していたが、今では五分もあれば着る事が出来る。
言伝屋にはカレンダーが無いので、何月何日というはっきりとした日時は分からないのだが、おそらく六月の下旬に差し掛かったあたりだろう。ちょうど、梅雨真っ盛りだ店にも日付を表していると思われるものはあるが、文字も数字も澪には読めない。
(今度、幽さんに教えてもらおうかな)
最近は幽幻とも、ごく普通に会話できるようになってきた。分からない事や戸惑うことがあっても、幽幻に尋ねればすぐに教えてくれる。最初のぎこちない関係を考えると、目覚ましい進歩だ。
それに伴って、《言伝屋》での生活もかなり板についてきたように思う。幻朧街は相変わらずの街だが、店の外に出なければ特に危険な事に遭遇する事もない。覇王丸の言った通り、《言伝屋》に施されたまじないが、《獏》や物の怪たちから守ってくれているからだろう。
家に帰りたいという、かき立てられる様な強い衝動は、今のところその鳴りを潜めていた。どんなに焦っても、すぐにはどうにもならないのは嫌というほど身に染みている。
ただ、時おり学校の事が頭をよぎった。みんな、今ごろ何をしているのだろうか。同じテニス部の友人、鳴海愛花は。テニスに勉強にと、充実した生活を送っているのだろうか。
そう考える時だけは、さすがに胸の内側を針金で引っ掻いたような、鋭い痛みが走った。でもそれも最近は、少しずつ痛みが弱まっているような気がする。
このまま少しずつ色んなことを受け入れていくのだろう。そうしていつか、幻朧街に溶け込んでいくのだろうか。
注意しなければ、自分の中から現世での生活が消え去ってしまうような気がして、澪は時たま気持ちを引き締めた。焦りは薄らいできたが、帰りたくなくなったわけでも、諦めたわけでもない。
このまま当たり前のように、この街に呑み込まれるのは御免だ――現世の事を思い出す度、澪は何度もそう胸の中で繰り返した。
言伝屋での生活に慣れれば慣れるほど、元の生活が夢の中のように遠い出来事のように感じられてしまう。そうしなければ、いつか学校の事も友達の事も、鳴海愛花のことも何もかも忘れてしまうような気がして、時おりとてつもない不安と恐怖に駆られるのだった。
そんな或る日の事。
その日は天気も崩れることがなく、久々に青空が広がった。じめじめとした梅雨も、たまにはお休みだ。今日はできるだけの作業をしてしまおう――そう考え、澪がいつもより余計に気合を入れて、言伝屋の床掃除やカウンター磨きに励んでいると、不意に幽幻から声をかけられた。
「澪、ちょっといらっしゃい」
何の用だろうと思って顔を上げると、幽幻は店の奥にある、障子張りの引き戸の真ん前に立っていた。いつものかっちりした和装ではなく、動きやすい甚平を着ている。
幽幻の傍にある扉は、店舗のすぐ隣にある部屋へと通じていて、そこはいつも幽幻が言伝を取りに入る部屋だった。澪は今までそこに入れてもらったことはない。だから、中を覗くのは初めてだ。
澪が近づいていくと、幽幻は引き戸を引き、照明のスイッチを入れる。
「何、ここ……?」
部屋の内部はやたらと薄暗い。けれども、じめじめしているわけではなく、空気は乾燥していた。
窓は無く、光源に当たるものは天井からぶら下がっている暖色系の小さなランプの光のみだ。床は木が張られているが、かなり古くなっているようで、踏みしめると僅かに軋む。壁は黄土色をした土壁だ。まるで蔵か貯蔵庫のように、ひっそりと静かで重々しい空間だった。
意外に思ったのは、その部屋が店舗スペースと同じくらい広い事だ。その中に、床から天井までを埋める大きな棚が、図書館の本棚のようにいくつも整然と並べられていた。その棚と棚の間には、人が一人辛うじて通れるほどの僅かな通路スペースがあるのみだ。
そしてその棚はどれも、全面が小さな引き出しで埋まっていた。小物入れ程の、横に細長い引き出しで、どれも同じだ。ちょうど、言伝を入れる海老茶の封筒がすっぽり収まるくらいの大きさだろうか。
それが規則正しくびっしりと全ての棚を覆っている。澪はそれを見て、まるで蜂の巣の断面図のようだと思った。
引き出しにはみな、小さな黒い金具の取っ手と白いラベルが付いている。ラベルにはそれぞれ個人の名前が二つずつ、書き込まれていた。
「この奥の間は、預かった言伝を保管しておくための場所ですよ。一か月に一度ほど、ここの掃除をすることになっています」
幽幻がそう説明してくれた。どうやら今日はここの掃除をする予定らしい。
「分かった。あたし、何をすればいいの?」
「そうですね。まずは棚の埃を掃うところから始めましょうか」
幽幻はそう答えると、はたきを手渡してきた。澪は襷がけをして着物の裾をまとめ上げると、幽幻と手分けして、さっそく作業に取り掛かる。
まず、部屋の中にある棚の埃を徹底的に掃うと、今度は床に箒をかけ、大きなごみを全て取り除く。次に、床を固く絞った濡れ雑巾で拭いて行き、最後に棚を柔らかい布で乾拭きしていく。どれも単純な作業だが、広さと高さがあるので、結構な重労働だ。
棚を拭いていると、嫌でもラベルに描きこまれた名前が目に入る。幽幻によると、記された名前のうち、上にあるものがその言伝を書き遺した人の名前で、下にある方がその言伝を受け取るべき人の名なのだという。
時折白紙のラベルも見かけるが、それは言伝が何も入っていない引き出しなのだそうだ。そういう引き出しもちらほらあるが、大部分のラベルは何らかの名前で埋まっている。
「そういえばさ。幽さんはこの棚のどこに誰の手紙が入ってるか全部覚えてるの?」
ふと疑問に思って、澪はそう尋ねた。
幽幻はいつも、この《奥の間》に入ってから、僅か数分ほどで言伝を手にし、店へと戻って来る。客を待たせることは殆どない。どこに言伝が納められているのか覚えていないと、できない芸当なのではないかと思ったのだ。
背の高い棚に阻まれ、互いがどこにいるのか分からない。大声を張り上げると、予想に反して近い場所から返答があった。
「まさか。これだけの数ですし、私が幻朧街へ来る前に仕舞われた言伝も中にはあります」
「そんなに古い言伝もあるんだ。え、でも……だったらいつもどうしてるの? 結構探す事になるんじゃ……」
しかし、それにしては店に戻るのが早すぎる。どういう事なのだろうと首を傾げていると、幽幻は不思議な言葉を口にする。
「誰にどの言伝が残されているのか。奥の間が教えてくれるのですよ」
「奥の間、が……?」
澪はきょとんとするが、幽幻は答えない。相変らずの朴念仁ぶりだ。幽幻の事だから別に他意があるわけではなく、単に今は説明の必要が無いと考えているのだろう。
(まあ、いいか。そのうち教えてくれるかもしれないし)
澪もだんだん幽幻との接し方に慣れてきて、のんびりとそう構えることにした。時間はたっぷりあるのだし、幽幻も必要なことはその都度、教えてくれるだろう。
今までは入ることのできなかった、言伝屋の中で一番大切な要とも言うべきこの奥の間に、こうして入れてくれたのだ。今はそれだけで嬉しかった。
奥の間の掃除は午前いっぱいかかった。終わる頃には腕や腿がパンパンに張って、明日は筋肉痛になること間違いなしだろうと、思わずため息が漏れた。
師匠の空穂がいなくなって澪がこの街に来るまでは、幽幻が一人でこの作業をしていたのだろうから、素直にすごいと驚嘆してしまう。
(幽さんの事だから、ひとり真顔で黙々と、何食わぬ顔で作業を終えちゃうんだろうなあ……)
今日は珍しく晴れの日だった。だから、幽幻も奥の間を掃除しようと思ったのだろう。雨の日はどうしても湿気が多くなり、言伝にも悪影響が出かねない。奥の間の空気は乾燥しているが、油断は禁物だろう。だから、天気のいいうちに掃除を終えてしまわねば。
ただ、奥の間を掃除している間に客は来なかったので、それだけは幸いだった。
午後を回った頃、せっかくの晴天が急に崩れ出した。俄かに日が陰ったかと思うと、ぽつり、ぽつりと雨粒が石畳を濡らし、あっという間にしとしとと小雨が降り出してくる。
「ずっと思ってたんだけど、幻朧街でも雨が降るんだ……」
澪は座敷に座り、ぼんやりと雨に濡れていく路地の石畳を見つめた。規則的な雨音は、妙に耳に心地いい。今日は奥の間を掃除して他に予定が無いからか、幽幻も定位置の座敷でのんびりと煙管をふかしている。
「ええ、雪も降りますよ。朝と夜があるでしょう。それと同じです。季節も春夏秋冬ありますよ」
「ふうん……。こんな不思議な街でも、その辺はちゃんとしてるんだ。変なの。時々、石とか振ってきたりして?」
悪戯っぽく言って、肩を竦めた。
「……さあ。私の覚えている限り、そんな経験はありませんが」
真顔で考え込み、そう返事をした幽幻に、思わず笑いが込み上げる。
「幽さん、今のは冗談だよ」
幽幻には往々にしてこういう事がよくあった。誰が聞いても冗談と分かるような言葉にも、ド真面目に返答を寄越す。とぼけているのか、真剣なのか分からない。
(幽さんって、ときどき天然入るんだよね)
客人の前では一分の隙もないのに。そう考えると、余計に可笑しくなる。こういう時だけは無表情鉄仮面も少しだけかわいいと思えてしまうのだった。
澪は通りへと視線を戻すと、ぽつりと呟いた。
「覇王丸、大丈夫かなあ……」
覇王丸は夢幻通りの方へ出かけている筈だった。あまり外に出ない澪や幽幻に比べ、覇王丸はよく外出する。危険じゃないのだろうかと心配するのが、本人はいつも涼しい顔をしている。
あの体格だ。夢幻通りの住人に襲われても逆にねじ伏せてしまうのかもしれない。
(いいなあ……あたしも体が大きかったら、夢幻通りのモノノケに襲われることも無いのかなあ……?)
所在なく頬杖を突き、そんな事を考えていたその時、通りの方からバシャバシャと水を弾く足音がした。
体を起こし、店先に視線を戻すと、二十代ほどの若い女性が頭を覆いながら、暖簾越しに店を覗いていた。
真っ先に目に留まったのは、さらさらときれいな長い髪だ。前髪はふんわりと膨らんで庇髪になっており、後頭部には桃色のリボンが結んである。
うすくて太い眉に、ふっくらとした、紅い小さな唇。矢絣の着物と海老茶色の袴がとてもよく似合っていて、まるで大正時代の女学生のような格好だった。もちろん足元は、革のブーツだ。
楚々として上品だが、気取ったところはなく、爽やかで好感の持てる女性だと澪は思った。
「ごめんくださいまし」
大正時代の女学生風の格好をしたその女性は、澪と幽幻の姿を目に留めると、優雅に会釈をし、少し困ったような表情で続けた。
「お尋ねしたいのですけれど……こちらで少しお休みさせていただいてもよろしいかしら」
「ええ、どうぞ」
幽幻はすっと立ち上がる。女性は安堵した様子で、しずしずと店の中に入って来た。
「ありがとうございます。急に降ってきてしまって……さっきまで晴れていたのですけれど」
「ええ。大変でしたね。……澪、カウンターの裏に手拭いがあったでしょう」
幽幻は澪に目配せをしてきた。澪はすぐに傍のカウンターに回り込んで、棚の中を探す。幽幻に言われた通り、すぐにタオルが見つかった。それを引っ張り出すと女性にそれを手渡す。女性は控えめに会釈をして、それを受け取った。
「どうも、ありがとう」
やはり上品で美しく、礼儀正しい所作だった。おまけに、言動の端々に妙な落ち着きがある。年頃の少女らしいあどけなさや無邪気さは、皆無なのだ。
着物に袴という服装と言い、こんなに若い人なのに珍しいな、と澪は思った。顔立ちから想像される年齢は、澪といくらも離れていない筈だが、同年代にはとても見えない。
幽幻は店に下りると、女性に近づいていく。
「雨が上がるまでこちらで過ごされたら良いでしょう。失礼ですが、お名前を窺ってよろしいですか?」
「わたくし、仙堂寺櫻子と申しますの」
女性はそう名乗った。やはりと言うべきか、名前もかなり古風だ。
幽幻が仙堂寺櫻子に椅子をすすめると、仙堂寺櫻子はすぐ脇の椅子を両手で引いて座った。澪は幽幻に小声で話しかける。
「幽さん、この人もお客さんなの?」
ちょっと古風で変わったお客さんだとは思ったが、店を訪れたタイミングを考えても、雨宿りに偶然、立ち寄ったという風にしか見えない。しかし、幽幻が名前を尋ねたという事は、仙堂寺櫻子は《言伝屋》の客という事だ。
「ええ、おそらく。……一緒にいらっしゃい」
幽幻は奥の間を指して、そう言った。澪は意外に思う。いつもは奥の間に入るのは幽幻だけなのに。けれど、それに逆らう理由も特には無いので、大人しく幽幻について行った。
奥の間の前まで移動すると、幽幻は扉を開き、中に入った。そして澪もそれに続いて部屋の中に入って来たことを確認すると、入り口に立ち止り、口を開く。
「仙堂寺櫻子さんへの言伝を」
蔵のような簡素な部屋の奥、並び立つ棚の向こうで、カコンと小さな音がする。澪がはっとして幽幻へ視線を向けると、幽幻は澪に無言で頷きを返した。そして二人は連れ立って、部屋の奥――音のした方へと向かったのだった。
入り口から三番目にある棚の、奥の面、そこの左上の引き出しが僅かに開いていた。表に張ってあるラベルには、上に《津田甚五郎》、下に《仙堂寺櫻子》とある。
「あれ……? さっき掃除した時は確かに引出し、全部閉めた筈なのに……」
澪は首を傾げる。奥の間を掃除したのはつい数時間ほどの前の事だ。あれから誰も奥の間には入っていないし、間違いない。
「言ったでしょう。誰にどの言伝が残されているかは奥の間が教えてくれると」
戸惑う澪に対し、幽幻は事も無げにそう言った。だとすれば、先ほどのカコン、という音はこの引き出しが開いた音で、そのタイミングを鑑みても、幽幻の言葉に棚が反応し、勝手に開いたというのだろうか。
幻朧街は不思議なことが当たり前のように起きる街だから、そういったことがあっても今さら腰を抜かしたりしないが、あまりにも凄すぎて、不思議というよりまるで最先端の音声認識テクノロジーみたいだ。
幽幻は開いた引出しの中から海老茶色の封筒を取り出す。すると、ラベルにあった《津田甚五郎》と《仙堂寺櫻子》の名前もすうっと消え、完全に白紙に戻った。
幽幻と澪は奥の間を出る。そして座敷に座って店内を興味深そうに眺めている仙堂寺櫻子の元へと向かった。
「仙堂寺櫻子さん。津田甚五郎さんから言伝を預かっています」
そして、海老茶色の封筒を差し出す。
この客人に言伝を手渡し、そこで万事終了するはずだった。彼女がこの言伝を読み終わるのを待って、新たな言伝を残すのかどうか確認する。この言伝屋を訪れた死者たちにしてきたのと同じように。
しかし、《津田甚五郎》の名前を耳にした途端、それまで穏やかだった仙堂寺櫻子の顔がさっと強張った。動揺するあまりすっかり血の気が引き、まるで物の怪にでも出くわしたかのように青くなっている。
一体、どうしたというのだろう。澪と幽幻が戸惑い、互いに顔を見合わせる中、櫻子は俯いて拳を握りしめた。そして何度も瞬きし、内臓の奥底から押し出すような、とても苦しそうな口調で返答を押し出した。
「……申し訳ありません。わたくしはその手紙を受け取るわけには参りません」
すると、それを聞いた幽幻は微かに怪訝な表情を見せた。だが、それをはっきりとは表に出さず、いつものように淡々と応じる。
「それは困ります。読まれるか読まれないかは自由です。ただ、受け取って頂かないと……」
「受け取れないと、申し上げているではありませんか!」
それまで柔和で上品だった女性の態度が一変した。突然声を荒げる仙堂寺櫻子に、澪はびっくりして身を竦ませる。櫻子はそれに気づき、慌てたように言葉を続けた。




