第36話 生者の理、死者の理④
そうしている間にも、昴流は慌ただしく写真館の入口へと向かう。その頃には雨脚もかなり激しくなっていた。雨が石畳を打つ音が、どんどん大きくなっていく。
「うわあ、本格的に降ってきちゃった! 澪さん、言伝屋に戻りましょう。僕、送りますよ」
昴流が玄関の脇にある収納棚から、紺色の傘を取り出しながらそう言った。
「え、でも、そんなの悪いよ!」
「大丈夫ですよ。僕、これでも男子ですから。こんなにすぐにも『霧』が出そうなのに、澪さん一人で歩かせるわけにはいきませんよ」
「でも……!」
昴流はそう言うが、もし澪を言伝屋まで送ったら、帰りは昴流一人で写真館まで戻ることになる。それはそれで危険ではなかろうか。男の子とはいえ、昴流は澪より更に年下なのだ。《獏》に遭遇したりなどしたら、とても無事で済むとは思えない。
いや例え大人の屈強な男性だったとしても、あんなのに太刀打ちできはしないだろう。この真面目で善良な少年を、その様な目には遭わせられない。
申し訳ないから、傘だけ貸してもらえないだろうかと思いつき、昴流にそれを打診しようと口を開きかけた時だった。写真館の扉が、ひとりでに開く。そして、その向こうから幽幻が濡れた鈍色の傘を畳みながら姿を現した。反対側の手を見ると、臙脂色をした傘をもう一本、持っている。
「ごめんください。澪を迎えに参りました」
「幽さん!」
そういえば、幽幻が迎えに来てくれるという約束だった。雨が降ってきた事に気を取られて、忘れていた。これなら雨に濡れなくてもいいし、一人でもない。澪がほっとして胸を撫で下ろしていると、蒼次郎が幽幻に近づいてきて会釈をした。
「言伝屋さん、これはどうも」
「お招きいただいて恐縮です」
「いえいえ、僕たちも楽しい時間を過ごさせてもらいましたよ。いつでもいらしてください。今度は言伝屋さんもぜひ一緒に」
「……機会があれば、また」
そつの無い、いかにも社交辞令な挨拶を返すと、幽幻は澪に臙脂色をした方の傘を手渡しながら言った。
「澪、帰りましょうか」
「うん……」
こうして改めて見ると、確かに幽幻と写真館の面々の間には、どことなく距離があるように感じる。幽幻はもともと、抑揚の少ない性格をしているから、今までは気づかなかった。でも、あの蒼次郎の言葉を聞いた後では、心なしか必要以上に関わるまいとしているように思えてならなかった。それは澪の思い過ごしだろうか。
昴流と蒼次郎は、最後までにこやかに澪たちを見送ってくれた。
外は随分暗くなっていたが、写真館からは菜の花のような色の光がぼんやりと滲んでいる。その対比はとても鮮やかで眩しく、どこか懐かしい感じがした。
その温かな光景をいつまでも見つめていたかったけれど、幽幻が先に歩き出してしまったので、澪も慌ててその後を追ったのだった。
澪は幽幻と共に言伝屋へ急いだ。雨脚が強くなっているせいだろうか。心なしか空気がひんやりと冷気を帯びてきているような気がする。傘の柄を持つ右手に左手を重ね合わせながら、澪は幽幻に並び、話しかけた。
「幽さん、迎えに来てくれてありがと」
「どういたしまして。……楽しかったですか?」
「うん。レモンケーキ、すごくおいしかったよ。昴流くん、本当にお菓子作りの名人だね。今度、一緒に作りませんかって誘われちゃった」
「それは良かったではありませんか」
澪は「うん」、と頷く。確かにケーキも楽しみだが、それよりも何よりも、数少ない生者どうし、何かあった時の為にも協力し合いたい。
「もし本当に作れたら……その時は幽さん、試食してくれる?」
そう尋ねるが、幽幻の返事は素っ気なかった。
「黒焦げはご免ですよ」
「焦がさないよ! って言いたいトコだけど……自信がないんだよね。真っ黒こげになっちゃうかも」
「覇王丸ならそれでも喜んで食べるかもしれませんね」
澄ました顔でなかなかの皮肉を口にする幽幻に、澪はくすくすと笑いを漏らす。
「それ、何かひどーい! いくら覇王丸でも、真っ黒は無理だよ~!」
「あの人は、酒さえあれば何でも肴にして食べてしまいますよ」
それはさすがにないと思うが、覇王丸は酒だけでなく甘いものも好きなので、ケーキも普通に食べてくれそうだ。覇王丸はこの幻朧街で生まれ育ったと言っていた。だから珍しい菓子をきっと喜んでくれるだろう。
そんなことを考えていると、ふとある事を思いついた。
「そういえば……幽さんはあまりお菓子って作らないよね。どうして?」
「理由は特にありませんが……洋菓子はあまり食べ慣れていないので、そのせいかもしれません」
(食べ慣れてない……か)
それは、幽幻がそれだけ現世での生活が短かったという事の表れなのではないだろうか。
現世は幻朧街と違い、食べ物が溢れていた。洋菓子だけでなく、望めば世界中の食べ物だって口にすることが出来ただろう。
ふと、二人の間に沈黙が下りる。雨が石畳を打ち付ける音が一層、強くなったような気がした。
ここで現世の事を尋ねても、おそらく幽幻はきちんと答えてはくれないだろう。
(でも、聞かなかったら、いつまでもこのまま……宙ぶらりんのままだ。幽さんは絶対に自分から説明はしてくれない……だったら、こっちから聞くしかない)
このままずっと、隠し事をしたままなのは嫌だ。蒼次郎は言った。真相は幽幻の口からきくのが一番いい、と。
澪は知りたい。幽幻の事をもっと、ちゃんと知りたい。どうでもいいと、誤魔化して付き合うなんて、絶対にできない。
どうせいつか聞くのなら。それは早い方がいいに決まっている。
雨が降っているというのに、喉がからからになった。それでも澪は、勇気を振り絞り、口を開いた。
「あの……ね、幽さん……。あたし、蒼次郎さんに言われたの。幽さんはあたし達とは違うって」
幽幻が僅かに息を呑む気配が伝わってきた。心臓の音が、耳のすぐそこにあるみたいに、大きく激しくなってくる。
「それって……どういう意味……?」
おそるおそる、口にした。だが、幽幻は黙ったままだった。やはり、何も教えてくれないのだろうか。そう諦めかけた頃、不意に反応が返ってきた。
「写真館の主がそう言っていたのですか?」
「……うん」
「まったく……困った人だ」
低く低く、底冷えのするような声だった。
「幽さん……」
「飯室さんに言われたことは忘れなさい。……あの人は時々、性質の悪い冗談を言って、人をからかうところがあるのです」
澪は茫然として立ち尽くした。蒼次郎の言ったことは、性質の悪い冗談などではないし、彼はそういう事を口にして人をからかうような性格でもない。幽幻だって、それくらいは分かっているだろう。蒼次郎の人柄も、澪がそんな事では納得しないであろうことも。
でも、どんなに変だと思っても、やはりそれで話はお仕舞いなのだった。幽幻はそれ以上何も言わず、どんどん先を行ってしまう。
けれど澪は、さっきみたいにそれを追うことが出来ない。傘をさしていても、雨の音、その冷たさが、肌を刺す様だった。
(やっぱり、話してくれないんだ……。どうして……? あたしを信用していないから? それとも……何か他に言えない理由があるのかな……?)
幽幻が澪たちと、どう違うのか。何が違うのか。確かにそれも気になるが、それよりも幽幻が澪を避けているという事実が何より辛かった。拒まれる可能性が高い事は最初から分かっていた筈だ。でもそれでも、現実として目の前に突きつけられると、心臓の裏側に亀裂が走ったような、じくじくとした痛みを覚えてしまう。
(悪い風に考えるのはよそう。幽さんにも、何か事情があるんだ)
だが、頭ではそれを理解しているつもりでも、心がついて来ない。相手がどうであっても全て受け入れ
る――そんな聖人君子なんて、到底なれっこないのだ。そう思ってしまう澪は、まだ子どもなのだろうか。
(こんな思いをするくらいなら、聞くんじゃなかった……)
そう思うと、とてつもなく惨めで淋しい気持ちになるのだった。
その時、澪はふと視線を感じ、後ろを振り返る。
雨で煙る路地の向こう、そこに何か黒い影がひっそりと佇み、こちらを見つめているような気がした。人の姿をしているようでもあるが、輪郭線は、はっきりとしていない。ぼんやりとしたような、影のような……
澪は、はっとして目を凝らした。けれどよく見ると、いたと思った影はそこになく、雨を吸った木造建築の黒々とした染みが広がるばかりだ。
見間違えたのだろうか。でも、いま確かに――
背中にざわざわと悪寒が這い上がってくる。息を潜め、改めて自分の周囲を見回すと、雨天のせいか幻朧街の街中はかなり暗くなり始めており、闇があちこちから忍び寄ってきている。
その中に《彼ら》が紛れていたとしても、何ら不思議ではない。
この街では、ひとりは危険だ。孤独になった者は、瞬く間に《彼ら》に呑み込まれる。
澪は慌てて幽幻の後を追ったのだった。




