第34話 生者の理、死者の理②
「そうだ! 澪さん、折角だから、これからうちの写真館に来ませんか? レモンケーキはまだあまり作ったことが無くて……ぜひ試食して感想を下さい!」
『試食』という言葉を使うあたりに、昴流の優しさを感じた。澪が余計な気を使わないようにしてくれたのだろう。そして実際、澪にとってそれは願ってもない提案だった。
「幽さん……ダメ?」
お伺いを立てると、幽幻は若干あきれつつも、「……いいですよ」と答えた。
「今日は私も覇王丸も店にいますから。帰りはこちらから迎えに行きましょう。それで構いませんか?」
「ホント? ありがとう、幽さん!」
跳び上がって喜ぶと、幽幻はまたもや呆れた表情をした。
「どういたしまして。それより、あまり調子に乗ってがっつかないように」
「分かってますよーだ! ……行ってきまーす!」
幽幻の口調があまりにも保護者みたいなので、ついつい憎まれ口を叩きつつも、澪は昴流と共に店を後にしたのだった。
外に出ると、石畳は濡れそぼっており、乾く気配もない。空もまた、どんよりと難しい表情をしたままだ。澪は着物の裾が濡れないよう気を付けながら、あちこちに広がっている水溜りを避けて歩いた。
「雨、上がったけどまだ晴れないね」
小柄な背中にそう話しかけると、昴流も頷きながら空を見上げる。
「もしかしたら、また降ってくるかもしれませんね。こういう日は『霧』が出やすいんです。そうならないうちに、早めに用事を済ませてしまいましょう」
《霧》――その言葉を聞いた澪は、どきりとした。この街で霧が何を指すのか。昴流の口ぶりからすると、彼もそれを承知しているようだった。
あまり長居はしない方がいいかもしれない――澪はそう思いながら、昴流の後を付いて行ったのだった。
先日と同じように、十分ほど歩くと写真館が見えてきた。
「ただいま帰りました」
昴流が写真館の扉を開けると同時に、より濃厚なレモンケーキの匂いが溢れ出してくる。今日は来客がないのか、スタジオはひっそりと静まり返っていた。昴流に続き、澪も写真館の中に入ると、すぐに隣室の扉が開く。
「ああ、おかえり……っと。おや」
写真館の主人、飯室蒼次郎は昴流に続いて澪が姿を現したのを見て、一瞬驚いたように目を見開く。しかし、すぐににこりと笑顔になった。
「やあ、いらっしゃい、澪さん。ひょっとして、今日こそ写真を撮らせて貰えるのでしょうか?」
「あ、いえ……そうじゃなくて……」
澪が慌てて両手を振ると、昴流が半眼で割って入ってきて、唇を尖らせる。
「……先生。澪さんは、今日は僕のお客さんなんです。そういういやらしい目で、写真、写真と迫るのはやめてください」
「心外だなあ、僕はいつもこの顔ですよ、昴流くん」
「そうですか。だったら、先生はきっと地顔がスケベなんですね」
昴流少年は、普段はとてもしっかりしていて礼儀正しいのに、蒼次郎が相手だと、なかなか辛辣なことを言う。だが、蒼次郎は蒼次郎で全くへこたれた様子がない。
「昴流くんのお客さん……ああ、もしかしてケーキを食べに?」
改めて蒼次郎にそう言われると、何だか自分がとんでもない食いしん坊であるかのような気がして、澪は真っ赤になる。そして、慌てて弁明した。
「ぜひ試食をと、勧められたので……」
「なるほど。いや、僕もそろそろティータイムにしようかと思っていたんですよ。早速、用意しましょう」
蒼次郎は嬉しそうにそう言って、いそいそと折りたたみの机を取り出して広げ始める。その姿がどことなく、わくわくしているように見えて、澪は可笑しかった。
幻朧街は気軽に出歩けるような街ではないし、今は写真館にも客がいない。おそらく蒼次郎は暇を持て余していたのだろう。
「僕はお菓子を用意してきますね。澪さんはどうぞゆっくりしていてください」
昴流はそう言い残すと、隣の部屋――おそらくキッチンだ――へと入っていく。
澪はターブルや椅子を広げる蒼次郎を手伝おうとして、ふと入口脇の壁に、先日は無かった新たな写真が飾ってあるのに気づいた。それは、金本杏子の写真だった。飾り気のないこげ茶の額縁に入れられていて、地味だがその分、写真が良く映える。
こうして改めて見ても、とても力強い笑顔で、魅力的に見えた。自信に満ちてはいるが、落ち着いていて鼻につくところもない。それがとても金本杏子らしかった。彼女が容姿コンプレックスだったなんて、この写真を見た人の誰が信じるだろうか。
「いい写真でしょう」
いつの間にか蒼次郎が隣に立って、澪と同じように金本杏子の写真を見つめていた。
「はい、本当に……」澪は深く頷くと、蒼次郎を見上げた。
「蒼次郎さんはすごいですね。こんな写真が撮れるなんて。あたしもスマホでよく写真を撮っていたけど、こんなきれいな写真は撮れないです」
「ふふ、お褒め頂いて光栄です」
蒼次郎は照れ隠しのように、肩を竦めて微笑むと、ふと遠い目をして言った。
「……僕はもともと写真を撮るのが好きでね。よく、写真写りがいいとか悪いとかいうでしょう? 同じ写真でも、その人の良さを引き出せているものとそうでないものがある。僕は、被写体の良さを最大限に引き出すことに生き甲斐を感じているんですよ」
「……素敵ですね」
「素敵ですか?」
「はい。素敵で、かっこいいと思います」
澪が率直に答えると、蒼次郎は嬉しそうに、にっこりと笑う。そして、澪の方へ身を乗り出してきた。
「僕に任せてくれれば、澪さんも最高の一枚を撮ってあげますよ」
「ええと……それはまた別の話で」
「やっぱり駄目ですか。いやあ、残念だなあ。残念、残念……」
どうやら、蒼次郎は写真の件を全く諦めていないらしい。澪は引き攣った笑顔を浮かべながら、半歩、ひっそりと蒼次郎から遠ざかったのだった。
(これで変な風に迫ってくる悪い癖さえなければ、いい人なんだけど……)
澪も写真を撮ってもらいたくないわけではない。もともと現世では、写真を撮ることも撮られることも日常茶飯事だった。それがスタジオ撮影になったからといって躊躇する理由は一つも無い。でも、蒼次郎のように、やたらと迫られると逃げたくなるのが乙女心というものである。
(写真か……そういえば、最近、全然撮ってないな……)
澪は、今も着物の帯にお守りのようにして挟んである、自分のスマホのことを想った。幻朧街に来る前は、毎日のように写真を撮っていた。可愛い雑貨やスイーツ、心動かされた美しい風景。別にSNSに投稿したりするわけではない。ただ、ちょっとした日記帳のようなものだ。
自分が感動したことを記しておく。澪にとっては、それは息をするのと同じように当たり前のことだった。それを考えると、スマホに殆ど触れない今の生活は嘘のようだ。
確かにスマホの方が圧倒的に画質はいい。それに、何よりお手軽で便利だ。でもこういう風に、一瞬のきらめきを捉え、渾身の一枚に全てをかける写真も悪くはない。
やがて暫くすると、昴流がティーセットを抱え、キッチンから戻ってきた。鮮やかな紅茶が注いであるティーカップが三つに、真っ白いケーキ皿が三つ。その上にはレモンの形をした黄色のケーキがそれぞれ乗っている。
「わあ、かわいい!」
澪は思わず感嘆の声を上げた。レモンをそのままケーキにしました、と言わんばかりのサイズと色形は、ころんとしていて、見た目にもとてもかわいらしい。黄色い生地の上からコーティングしてある砂糖がけ(アイシング)は真っ白で、余計に清涼感が増している。甘酸っぱい幸せな匂いが部屋中に広がっていく。じっとりとした鬱陶しい湿気も、吹き飛ばしてくれそうだ。
「さあさ、どうぞ。座って、座って」
蒼次郎がそう言って椅子を引いてくれる。仕草だけ見ると、まるで映画の中に出てくるヨーロッパの紳士みたいだ。
「ありがとうございます」
お姫様になったような気分で恥ずかしかったけれど、せっかくだから蒼次郎の厚意に甘えることにした。
「どうぞ、食べてみてください」
昴流に催促され、澪はさっそくフォークを握った。そして、レモンケーキのお尻の方をフォークで切り分け、口に運ぶ。
その瞬間、甘酸っぱさが口の中で爆発した。バターと卵の融和した、強烈な甘みが舌を痺れさせ、脳天まで激しく揺さぶってくる。しかし、レモンの突き抜けるような清々しい香りのおかげか、その甘さもさほど、しつこく感じない。
生地は結構、詰まっていて歯ごたえがある。スポンジケーキやシフォンケーキのように、ふわっと溶ける感じではない。でも、どっしりとした存在感があり、噛むごとに濃厚なレモンの香りが次から次へと溢れ出してくる。
澪は目をぱちぱちさせながら、その甘さを噛み締めた。
「う~、すっごいレモン! でも、甘くておいしい!」
澪の感想を聞いた昴流は、どことなくほっとした様子で、頬を緩めた。
「良かった……ちょっとレモンの酸味が強すぎたかなって心配してたんです」
「この上にかかってるの……」
「砂糖がけ(アイシング)ですね?」
「うん。もしかして、この中にもレモンが入ってる?」
「そうなんです。香りがさらに引き立つかと思って」
完璧だ。お世辞ではなく、お店に出しても遜色ないクオリティなのではなかろうか。澪はその事に感動しっぱなしだった。澪とて味噌汁や肉じゃがぐらいは作れるが、ここまでのものはさすがに自信がない。帯に挟んであるスマホが動いたら、間違いなくこのレモンケーキの写真を撮っていただろう。
「いいなあ、昴流くん。女子力高くて。あたし、こんなの絶対に作れない」
フォークを咥えて呟くと、昴流は、恥ずかしそうにして笑った。
「見かけほど難しくないんですよ。材料もこの街の中で調達できるものばかりですし。……そうだ! 今度、一緒に作ってみませんか? レモンケーキよりはマドレーヌの方が簡単だから、まずはそれからやってみるのがいいと思います。それが上手くいったら、少しずつ難易度を上げる感じで……どうでしょう?」
「で、できるかな……? 生クリーム泡立てたりとか、生地をこねたり冷やしたり……大変なんでしょ? どれもやったことないし……おまけに、絶対焦がしそうだし」
「大丈夫ですよ。実はお菓子って、分量を正確に測る事と時間を守ることが一番大事なんです。あとは作業の順番ですね。そういったコツを掴めば、案外、何とかなっちゃうものなんですよ」
「そうなのかな……あたしでも、できるかな……?」
「ええ、きっと。これから夏になるから、ゼリーやムース、ババロアなんかもいいかもしれませんね」
「あ、もしかして、プリンとかもできる?」
「もちろん。簡単ですよ」
澪と昴流が熱いスイーツ談議に花を咲かせていると、それを眺めていた蒼次郎が横から口を挟んでくる。
「女の子は甘いお菓子が好きだからねえ。昴流くんも隅に置けませんね。澪さんと仲良くなる良い口実をちゃっかり見つけてしまうだなんて」
すると、昴流は見る間に笑顔を引っ込めて、澄ました顔になり、蒼次郎にぴしゃりと言い返した。
「お言葉ですが、先生。皆がみな、先生のように下心を抱いているわけではありませんよ。僕はただ、澪さんにお菓子友達になって欲しいだけです。一緒に菓子を作ったり、新しく作った菓子の試食をしてもらって、感想を聞きたいというだけですよ」
すると、蒼次郎はニヤニヤとして腕組みをした。
「なるほど……それじゃ僕も一緒にケーキの作り方を教えてもらおうかな?」
「先生は食べる方専門でしょう。大体、先生はどのケーキを食べても『甘い』としか言わないのに、おいしいケーキを作れるんですか?」
「そうだねえ、言われてみればそうだね。いやあ、辛党もいいことばかりじゃないなあ」
蒼次郎はそう言って、愉快そうに笑う。昴流と蒼次郎の会話は、なかなかに刺激的だが、当の二人にはぎすぎすした空気は全くない。互いにこなれていて、相手が何を言い、どういった返答を寄越すか、最初からほぼお見通しなのだ。
それは澪に、丸めた新聞紙でチャンバラごっこをしている、わんぱく盛りの男の子たちの姿を思い起こさせた。とても楽しそうだけど、その中に加わっていくのは何となく躊躇われる、そういうちょっと置いてけぼりになったような空気。
「いいなあ……二人とも、仲が良さそうで」
思わずそう漏らすと、蒼次郎は片方の眉を跳ねさせ、にこりと笑う。
「そうですか? 澪さんと幽幻さんも仲が良さそうに見えましたよ」
「え……そう?」
そうなのだろうか。そんなことを言われるとは夢にも思わなかったので驚いていると、蒼次郎は含みのある笑顔を見せる。
「ふふ。まあ、言伝屋さんもああ見えて、結構、変わった人だからねえ。大変でしょう?」
「それは……確かに表情分かり辛いし、何考えてるか分からないところもあるけど……でも、幽さんもいいところは一杯あるんですよ! 不器用なだけで、本当は優しいし、料理も上手だし……」
あれ、どうしてあたしはこんなに必死になって、幽さんの事を庇ってるんだろう。澪がふとそう抱いた間隙を、蒼次郎はぴたりと言い当てる。
「おやおや、本当に仲がいいんですねえ。何だか妬けちゃうなあ」
「もう~、飯室さんってば!」
澪は真っ赤になってしまった。そんな風に言われてしまったら、何だか、ますます自分が余計に幽幻を庇った事が、恥ずかしく思えてくる。すると、それを見かねた昴流が、すぐさまフォローに回ってくれた。
「先生、そうやって相手の気を引こうとするのは、実に子供っぽいと僕は思いますよ?」
「ははは、いいじゃないか。男というものはみな、永遠の少年ですよ」
「適当に十把一絡げにしないでください!」
紅茶の入ったティーカップを手にむくれる昴流の表情が可愛くて、澪は思わず小さく噴き出してしまう。昴流と蒼次郎のやり取りは、まさに阿吽の呼吸だ。よほど長く一緒にいないと、こうはいかないだろう。
「そういえば……二人とも、幻朧街は長いんですか?」
尋ねると、蒼次郎は、ええ、と頷いた。
「僕は長いですね。三十年は経つかな。今、この街に住んでいる生者の中では、最古参だと思いますよ。……昴流くんがこの街に来たのは最近でしたよね?」
「はい。僕が幻朧街に来たのは、四年ほど前です」
「そうなんだ……。元いた世界に帰りたいって思ったことは無かったの?」
見たところ、二人とも今の生活に、特に不満があるわけではなさそうだ。少なくとも澪の前では、現世へのこだわりを覗かせることも無い。だから、その事をどう思っているのだろうと気になっていたのだ。
澪から疑問を突きつけられた昴流と蒼次郎は、真顔になり、互いに顔を見合わせた。最初に答えたのは、昴流の方だ。眉間にしわを寄せ、小さく首を傾げている。
「ううん、そうですね……子供だったから、あまりピンとは来ないんですけど……」
「そうかい? この写真館に来たばかりの頃、昴流くんは家に帰りたいって大泣きでしたよ」
「先生、その話、やめてくださいよ!」
昴流は真っ赤になって蒼次郎に抗議したが、すぐに真顔になると、澪に視線を戻す。
「確かに最初は戸惑ったし、現世に戻りたかった。でも、何ていうか……いい意味でも悪い意味でも子供だったから、すぐにこっちの世界に慣れてしまったのです」
「そう……」
四年ほど前というと、おそらく昴流は今よりももっと幼く、十歳にも満たない子供だっただろう。子供は適応能力が高い。それくらいの年であれば、逆に楽なのかもしれない。
「蒼次郎さんはどうだったんですか?」
腕組をしたままの蒼次郎へ話を向けると、蒼次郎はその腕を解き、ティーカップに手を伸ばしながら、話し始めた。
「僕はもともとカメラマンをしていてね。昔は今と違って、風景写真を撮っていた。でも、そこら辺のありきたりな写真はなかなかお金にならない。だから、秘境に行って大自然を撮り、それで生活していたんですよ」
蒼次郎は当時を懐かしむように、目を細める。そうすると、目元のしわが一層深くなって、少しだけ悲しげに見えるのは気のせいだろうか。
「でも、ある時、地方のある渓谷に写真を撮りに行ったとき、足を滑らせて川に落ちてしまってね。その時はてっきり、死んだと思ったのですが……気づいたらこの幻朧街に迷い込んでいたんです。
最初は困りましたよ。なんせ、どこが入口でどこが出口かも分からない上に、生者は出られないって言うでしょう? 他の死者たちと違って、この街から出ることもできない。僕は婚約者を現世に残して来ていたから、何とかして帰ろうと、それはもう躍起になったものです。
まあ……十年ほどしたところでそれも諦めてしまいましたがね」
「十年……長いですね」
そして蒼次郎は、実際にはそれ以上の長い年月をこの幻朧街で過ごしているのだ。その途方もない年月を想うと、澪は他人事ながら、胸がぎゅっと締め付けられるようだった。
もし自分がそういう立場だったら、正気を保っていられるかどうか分からない。十年どころか、十日でも耐えられなかったのに。
しかし、当の蒼次郎は、存外けろりとした具合で肩を竦めた。
「そうですねえ。……まあ幸い、今は幸せですよ。こうやって好きな写真を撮り続けることができるのですから。
ただ……やはり婚約者のことは今でも気がかりです。彼女には本当に悪いことをしてしまった。どこで何をしているのかと……それを思わない日はありません」




