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幻籠街の言伝屋  作者: 天野地人
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第32話 母娘の確執

「メディアにたびたび取り上げられて、先生も仕事が激増して……最初の頃は順調だったんです。ところが、私にもスポットライトが当たり始めた頃から、先生の私に対する風当たりが急変しました。


 それまでは何をするにしても励まし、温かい助言をくださっていた先生が、いつも不機嫌で私を怒るようになったんです。ここが駄目、あそこが駄目。しっかりしなさい、技術ばかり優れていても人は感動させられない、あなたが稚拙な作品を生けると、師である私の評価も下がるでしょう、と仰って……」


(それって……)

 要するに、弟子である大橋遥香の存在が、師匠である児島多佳子にとって邪魔になったという事なのではないか。そういう風に思いたくはないが、弟子の才能に嫉妬する師匠というのは、いかにもそういった分野ではありそうな話だ。

 すると、澪が思い浮かべたこととまさに同じことを、大橋遥香も口にした。


「……最初は先生にとって、私が疎ましい存在になったからだと思いました。実際、先生が多忙なスケジュール故にこなせない仕事が、私のところに来ることも増えていましたし……そう思われても仕方がない、いつかは分かってくださるだろうと、割り切って考えようと思ったこともありました。


 けれども、来る日も来る日も批判され、否定されて……とても精神が持たなかった。私は両親との折り合いが悪く、先生が親代わりのようだったことあり、余計に辛かった。どうして、私の作品の何が悪いのか。先生に何度も尋ねましたが、先生は『そんなことも分からないの、あなたは一体、私の元で何を学んできたの』と一蹴されるばかり……。

 辛くて、苦しくて……それが三年ほど続いたでしょうか。そんな折です。先生が突然、倒れられたのは。……脳卒中でした」


 しんとした静けさが、束の間、言伝屋を包む。


 そんな別れ方をしてしまったら、大橋遥香でなくとも引き摺るだろう。二人の間にどれほどの確執があったのかは、部外者である澪には分からない。ひょっとして何か誤解があったのかもしれないが、それを解く機会すら永遠に奪われてしまったのだ。まさに、最悪のタイミングだ。

 そしてそれは、残された大橋遥香にとって、これ以上ないくらい辛い出来事だったに違いない。


「結局、私は、最後まで自分の作品の何が悪いのか、私の何がそうまで先生を怒らせ続けたのか、知る機会を永遠に失ってしまいました。それからも仕事の依頼はありましたが、私はどうしても自分の生ける作品に自信が持てなくて……世間って敏感ですよね。そういう自信の無さって、自ずと相手に伝わるものなんです。


 それでも先生の生前は、一番弟子ということでそれなりに私と懇意にして下さった方たちも、徐々に離れていって……何もかもうまくいかなくなって、私は生け花をやめました。そして家庭に入り、一女をもうけました」


 大橋遥香はテーブルの上で華奢な指を組んだ。見ると、そのほっそりとした指先は、左手の薬指に嵌められたシンプルなリングを弄んでいる。意識的にそうしているのではなく、自分でも気づかぬうちに触れているのだろう。


「ところが、今度は娘との関係に悩むことになったのです」


 大橋遥香の上に覆い被さった翳はさらに濃くなり、彼女の顔は何か痛苦に耐えるかのように歪められてしまった。


「両親は互いに仲が悪く、寒々しい家庭環境に育った私は、控えめに見ても愛されているとは言えない状況でした。物はきちんと買い与えられていたし、学校にも通わせてもらいましたが、それも家の体裁を守るため……私のためではありませんでした。誉められたことも無ければ、親身になって怒られたこともなかった。その上、育ての親同然の児島先生にまで拒絶された私は、生まれた我が子にどう接していいのか分からなかったのです。


 自分の躾や教育に自信が持てなかったし、娘が私をどう思っているのかも自信がありませんでした。表面では大人しく私に従っていても、腹の底では私を馬鹿にしているのではないかと思って……必要以上に厳しく当たってしまって、自己嫌悪。その繰り返しでした。


 娘もそんな私と一緒にいることが嫌だったのでしょう。高校を卒業すると共に家を出て行ってしまいました。彼女の進学した専門学校は、家から通学が可能だったにも関わらず、です。私には一言の相談もありませんでした」


 その事実がとてもショックだったらしく、大橋遥香は言伝を持つ手を、ぎゅっと握りしめた。その弾みで言伝に幾筋ものしわが入るが、大橋遥香はその事に気づく余裕すら無いようだ。


(でも……一人暮らしをしてみたいっていうのは、理解できるけどな……)


 澪はもちろん、大橋遥香の娘とは会ったことも喋ったことも無いが、親元を離れて一人暮らしをしてみたいと思う彼女の心情は分かる気がした。むしろ、それはごく自然なことなのではないだろうか。澪だって母との仲は決して悪くなかったが、ひとり暮らしにはやはり惹き付けられるものがある。


 ただ大橋遥香は、そういう風には捉えていないようだった。或いは娘が出て行ったという事実よりも、母親である自分に一言の断りも無かったという事の方に憤っているのかもしれない。


「……それで、児島多佳子さんからの言伝には、何と書かれていたのですか?」


 幽幻が肝心の言伝の中身について尋ねると、大橋遥香はびくりと体を震わせる。そして暫く青ざめた顔で硬直していたが、やがてその両目から、ボロボロと涙が溢れ出す。


 大橋遥香は慌てて目元を拭ったが、一度溢れた涙はなかなか歯止めが効かないらしく、声も嗚咽混じりだ。それでも振り絞るようにして、大橋遥香は言葉を続けた。


「先生は……先生は手紙の中で、私にきつい言葉を投げかけたことを後悔しておられました。


 先生はとても小さな流派で、若い頃は誰からも見向きもされず、並々ならぬ苦労をされたそうです。生徒も集まらず、いくら自分を売り込んでも、そんな流派は聞いたこともないと一笑に付されるだけ。そんな中でも何とか個展を開くまで漕ぎ着け、その影響で私が弟子入りをした時には、自分の作品が初めて世の中に認められたようで本当に嬉しかったと仰っていました。


 私には同じ苦労をさせたくなくて……もっと世間を唸らせるような良い作品を造れる筈と信じて、必要以上に厳しく接してしまったと、そう書いておられました」


 大橋遥香はとうとう、両手で顔を覆って声を震わせ、すすり泣いた。


「私、知らなかったんです。怒りには悪いものばかりではないという事、人のためを思って叱るということもあるのだという事……先生が私に人一倍、厳しく接していたのは、期待の裏返しだったのだということを……!」


 彼女だけが悪いわけではないだろう。師匠だったという児島多佳子という女性も、好意をうまく表すことのできない、不器用な女性だったのではないか。男女問わず、苦労をし、自分一人の力で人生を切り拓いてきた人ほど、そういった愛情表現に不得手な人が多いものだ。


 大橋遥香と児島多佳子の間にあったのは、嫉妬や憎しみでもなければ、師弟間の確執でもない。ほんの些細な感情のすれ違いなのだ。


 そのことに気づいた大橋遥香は、肩を震わせ、呻くようにして吐き出した。


「私、生きている間にそのことを知っていれば良かった。先生の口から、直にその言葉を聞きたかった。今になって、こんな手紙貰っても……もう、私の人生はもう、やり直せないのに……‼」


 その叫びがあまりにも痛々しくて、澪は何も返すことが出来なかった。どうにかして慰めの言葉を懸けたいけれど、何と言っていいのか分からない。

 今まで言伝屋にやって来たお客さんは、どちらかと言えば受け取った言伝に対して、好意的であることが多かった。こういう風に、まるで言伝屋の存在そのものを否定されるようなことを言われたのは、初めての経験だったのだ。


 だが、言われてみれば確かに、この言伝が大橋遥香の人生の何かを変えるわけではない。変えようにも、彼女はすでに死者となっているからだ。

 この言伝は彼女の人生に何の作用も及ぼさない。心を癒すわけでも、人生の再スタートを促すわけでも、何らかの奇蹟を起こすわけですらない。いや、言伝の存在そのものが、もともとそういった何の価値もない無意味なものなのだ。

 澪は大橋遥香からそのことを突きつけられたような気がしてならなかった。


 大橋遥香は、ただ言伝に対する感想を吐露しただけだ。悪意はないし、決して澪や幽幻を貶めようとしたわけではない。それは分かっている。

 でもそれでも――いや、それがまごう事無き彼女の本音であるからこそ、澪は何だか自分が透明人間になってしまったような、ひどく頼りなく惨めな存在になったように感じられて仕方がないのだった。


 何だか無性に悲しくなってきて、思わず俯く澪だったが、幽幻はそれでも一切動じた気配がなかった。


「……。言伝を残されますか?」

 幽幻が何ら変わらぬ調子で淡々と尋ねると、大橋遥香は激しくかぶりを振る。


「いいえ……私の娘は、きっと私からの手紙なんて少しも望んでいないと思います。書き残したとしても、今更なんなのよって不愉快にさせるだけ……だったら、最初から残さない方が、よほどましです!」


 鋭く吐き捨てるような言葉だった。そこからも大橋遥香が残された言伝に対し、純粋に喜んでいるのではないことが窺えた。

 そのことが余計に澪をいたたまれない気持にさせた。真実を知ることが、常に幸せをもたらすとは限らない。後悔するだけなら――苦しむだけであるのなら、最初から何も知らない方がいい事だってある。


 そして、自分たちのしていることは、ただのエゴであり自己陶酔に過ぎないのだ。少なくとも、大橋遥香は全くそれを望んでいないのだから。


 澪は息がするのも苦しかった。自分が途轍もなく恥ずべきことをしているように思えてきて、一刻も早くこの場から消えてしまいたかった。

 だが、一方の幽幻はあくまで毅然としていた。それどころか、大橋遥香の感傷を真っ二つに斬り捨てるかのような揺るぎない口調で、冷徹に告げる。


「そうですか。非常に残念です。あなたの娘さんは、永久にあなたのことを誤解したまま、あの世へと向かうのですね」


「それが何だっていうんです? その方が幸せなことだってあるでしょう。こうやって一方的に手紙を残すのは、先に死んだ者の勝手なエゴじゃありませんか。違いますか?」


 大橋遥香はそう言って、幽幻を睨み返す。澪は内心、冷や冷やしながら成り行きを見守った。二人は暫くそのまま無言で睨み会っていたが、やがて先に視線を外したのは幽幻の方だった。


「あなたの仰ることはもっともです。しかし、たとえエゴでも良いではありませんか」

「え……?」

 幽幻の言葉に、大橋遥香は不意を突かれたように眉を顰める。


「あなたは児島多佳子さんを支え、期待に応えようとずっと頑張っていらしたのでしょう? だからこそ、叱責が辛くて仕方なかった。違いますか?」

「それは……」


「そしておそらく、結婚してからはずっと、よき母親であろうと努力し続けた。あなたはきっと、他の誰かの為に己の身を削ることのできる人なのでしょう。でも、最期くらい自分自身の本音を書き残したって良いではありませんか。いえ、ここが死後の世界だからこそ、生前に言えなかったことを書き残すチャンスなのだとは考えられませんか?」


 幽幻の声音は相変わらず抑揚に乏しく、淡々としている。けれどそれを聞いている大橋遥香は、明らかにその言葉に動揺し、迷いを抱き始めているようだった。

 ――ああ、そうか。澪はその様子からすぐに悟る。先ほどの大橋遥香の言葉が、彼女の百パーセントの本心ではないという事に。


 確かに、児島多佳子の言伝を読んだ直後は怒りに駆られたのかもしれない。何を今更という憤りと、それを知ったところで、もうどうにもならないのだという、やるせなさ。けれど、それも彼女の中にあるたくさんの感情のうちの一つに過ぎない。写真館の客、金本杏子と同じだ。自分で自分の本当の心に気づいていないのだ。


「でも……」

 大橋遥香はすぐには答えが出ないのか、躊躇し、視線を彷徨わせる。そんな彼女に、幽幻の声が静かに降り注ぐ。


「確かに、相手を不快にさせる可能性はあるでしょう。けれど、実際にどうなるかは、あなたが言伝を書かねば分からない事です。不確かなことに脅え、伝えることを放棄するべきではありません。あなたはただ、ご自身にとって最良の判断をすれば良いのです。あとは娘さんの問題ですよ」


 彼女の迷いをたっぷり含んだ視線は、じっと薬指のリングに注がれていた。どれほどそうしていただろうか。やがて大橋遥香は、ぽつりと弱々しく呟いた。


「……。すみません……少し、考える時間をください」

 幽幻はそれ以上は多くを語らず、ただ一言、「……ええ」と簡潔に応じた。


「あの、烏龍茶、冷たいうちにどうぞ!」

 澪が二人の間に滑り込むようにして口を挟むと、大橋遥香は初めてそこに澪がいることに気づいたといった様子で目を見開き、次いで淡く微笑んだ。

「ええ、そうね……ありがとう」

 そして、申し訳なさそうにこう付け加えた。「ごめんなさいね、大人げないところを見せちゃって」


(やっぱり、悪気があったわけじゃないんだ)


 大橋遥香のそういった姿を目にすると、安堵すると同時に、余計に淋しさが募るのだった。全ての人に好かれるものなど、存在しない。言伝屋に来る客だって、中には最後まで納得しない人もいるだろう。理屈ではそう分かっているつもりだった。けれど、その局面に接する覚悟は、全然できていなかった。


(私……まだ、全然だ)


 幽幻が傍にいてくれて、本当に良かった。もしこういう時に一人きりだったら、どうなっていたか分からない。澪は改めてその事を痛感するのだった。





 大橋遥香はじっと考え込んでいた。娘に言伝を残すべきか否か。もし残すとしたら、どういう言葉を選ぶべきなのか。それは彼女にとって、簡単に答えの出ない難しい問いなのだろう。

 澪は烏龍茶を入れたグラスがいつの間にか空になっているのに気づき、給水ポットを持って大橋遥香の座っている席へと近づいた。


 邪魔をしないように、用が済んだらすぐに立ち去るつもりだったが、大橋遥香はふと顔を上げ、澪に向かって話しかけてきた。


「……あなた、高校生?」

「あ、はい。そうです」

 どきりとし、やや上擦った声で答えると、大橋遥香は複雑そうな色を浮かべる。


「はつらつとしているのね。羨ましいわ。うちは私がこんなだったせいか、娘もどこか捻くれたところがあって」

「年頃の女の子はみな、お母さんに対して強がっちゃうものですよ」


 澪にも覚えがある。意味もなく敢えて逆らってみたり、秘密ごとを作ってみたり。反抗したいわけじゃないし、困らせたいわけでもない。ただ、親の干渉から少しずつ自由になりたいのだ。年頃の少年少女はみな、多かれ少なかれ持っている感覚なのではないか。澪はそう思ったが、大橋遥香はぴんと来ないらしく、困惑した表情で首を傾げる。


「そう……なのかしら……? 私、その辺の感覚が、いまいちよく分からなくて……」


(この人、もしかして反抗期とか無かったのかな……?)


 大橋遥香は両親に褒められたことも無ければ叱られたこともないと言っていた。親との関係が希薄だった彼女は、親子や家族といったものの間に横たわる感情に、人一倍疎いのかもしれない。

 そもそも愛情を受けることが無かったのだから、それを疎ましく思ったり反抗することすらできなかったのだろう。そしてそれがひょっとしたら、児島多佳子の愛情に気づかなかった原因の一つであるのかもしれなかった。

 まるでそれを裏付けるように、大橋遥香は躊躇いがちに澪へと尋ねる。


「もし……もしあなたが、お母さんから手紙を残されたら……どう思う?」

「私の場合は父だったんですけど……言伝を残してもらったことはとても嬉しかったです。ああ、私の事、忘れてなかったんだなって」


「もしそれが、仲の悪い父親からだったとしても?」

「それはちょっと分かりませんが……私が娘さんだったら、きっと今頃、後悔しているんじゃないかな、とは思います」


「後悔……?」


「はい。もっとお母さんと話をしておけば良かった。もっと素直に言うことを聞いて置けば良かったって」


 それは、澪が亜希と最後をこの街で過ごした時、最も後悔したことでもある。つまらない意地を張っていないで、もっとたくさんの事を話しておけば良かった、もっとゆっくりお別れを言えたら良かったのに、と。

 すると、大橋遥香も目の前に広げた言伝をじっと見下ろして呟いた。


「そうね……私ももっと、先生を信じれば良かった。あれだけ大切に育てて頂いたんだから、どれだけ厳しいことを言われても、その熱意と愛情を信じれば良かった。……そういう風に思えるようになったのも、先生の言伝を読んだからだものね……」


 大橋遥香の強張った両肩から、徐々に力が抜けていくのが分かった。相変わらず彼女の視線は宙に投げられていたが、先ほどとは違い、その瞳は決して虚ろではない。言伝を残すか、或いは残さずこの店を去るか。自分のため、娘のため、どの選択が最良なのか真剣に思案しているようだった。


「私……手紙を残していいのかしら。母親として、あの子に手紙を書いていいのかしら……?」


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