第28話 写真館の人々①
その日は薄曇りの日だった。朝から薄く伸ばしたような雲が空を覆い、太陽はその隙間から時折顔を覗かせるだけだ。
ただ、日が差さないからといって肌寒さを感じることはなくなった。むしろじめっとしていて、生ぬるい湿気の中を泳いでいるような感覚になる。
最近、天候が崩れることが多いし、梅雨が本格的に近づいているのかもしれない。
澪は幽幻と共に、朝から言伝屋の店先に立っていた。午前中に一人、七十代ほどの女性のお客さんが一人来て言伝を書き残していったが、午後に入ってからは誰も訪れていない。午後の長閑な空気に包まれた言伝屋は、いつもと同じく静かだった。
しかし、だからと言って、手を抜くわけにはいかない。いつ来客があるとも知れないというのもあるが、幽幻が時折、サボッていないかと目を光らせてくるからだ。
(なあんか最近、幽さん、厳しい……)
最初の頃の澪に対する幽幻の態度は、手伝いたければ好きにすればいいといった感じで、どこか緩さが漂っていた。期待がない代わりに、厳しくもなかったのだ。
けれど、最近になって少々それが変化してきたように感じる。澪が存外、継続して店先に立つのを見て、どうやら考え方を変えたようだ。
今ではどちらかというと、積極的に店の仕事を教えようとしているような節もある。
(まあでも、ある意味、信頼されているってことなのかな……?)
幽幻の性格を考えても、信用していない者に、言伝屋の仕事を任せるような真似は決してすまい。厳しさの裏にあるのが澪に対する好意の表れだと分かっているから、大変だけど、辛くはない。
「幽さん、店先の掃き掃除、終わったよ。次、何したらいい?」
店先の掃き掃除を終え、箒と塵取りを持って店内に戻ると、カウンターで湯呑やグラスを拭いていた幽幻がこちらへ視線を向けた。
「そうですね……少し休憩にしましょうか」
「おう、こっちも終わったぜ」
そう言って、ちょうどタイミングよく母屋から顔を出したのは覇王丸だ。
覇王丸も、今日は朝から言伝屋にいた。どうやら中庭にある畑の草むしりをしていたらしく、手には土だらけの軍手を嵌め、雑草の詰まった麻袋を抱えている。畑にはキュウリやトマト、ナス、トウモロコシといった夏野菜が植えてあり、覇王丸は時間があれば熱心に世話をしているのだ。
一抱えもある麻袋を母屋の入り口に下ろして、袋の口を閉じながら、覇王丸はふと思い出したように言った。
「ああ、そうだ。幽、例のやつ、作っといたぜ」
「そうですか。そういえば、もうそろそろでしたね」
幽幻も思い出したように呟いた。何を作ったんだろう――胸の中でそう疑問を浮かべていると、覇王丸は次に澪の方を向いて口を開いた。
「ちょっと出てきます。あなたは店で休んでいてください。もし来客があるときは、いつものように対応すること。……いいですね?」
「あの……『例のやつ』って、何? 幽さん、これからどこに行くの?」
すると、幽幻は暫し考え込み、再び口を開いた。
「そうですね……あなたも一緒に行きますか?」
澪はすっかり驚いてしまった。幽幻が澪にそういった提案をするなど、思ってもみなかったからだ。てっきり、いつものように留守番を言いつけられると思っていた。質問をしたのは、どちらかというと、単に自分も会話に加わりたかったからだ。
「一緒に行っていいの?」
「ええ。幻朧街には写真館があるのですが、そこへ今からあるものを届けに行きます。私と一緒であれば、あなたも迷うことはないでしょう」
澪は、ますます驚いた。
「写真館があるんだ……知らなかった。でも、そこってあの毛むくじゃらの妖怪みたいなのがいる店じゃ……?」
「写真館の主は生者ですよ。以前、幻朧街には言伝屋の外にも生者がいるといったでしょう。彼もその一人です」
「行く! 会ってみたい‼」
幻朧街に、澪たちの外に生者がいるという事は、何となく聞いてはいたが、その人たちに会ったことはまだなかった。
どういう人なのだろう。何故、この幻朧街にやってきたのだろう。一体、どういう思いで、この街で生活しているのだろう。
会えるのなら、是非、会って話をしてみたい。興味がない筈がなかった。
すると、幽幻は澪に言った。
「分かりました、一緒に行きましょう。用意なさい」
澪は嬉しさのあまり力いっぱい頷くと、襷を解いて、着物を整える。すると身支度を整える澪に、覇王丸が悪戯っぽい表情で囁いた。
「気をつけろよ、澪。写真館の主人は、ちょっとクセが強いからなあ」
「え、そんなに変な人なの?」
ぎょっとして聞き返すと、幽幻は顎に手を当て、考え込む仕草をする。
「変な人というか……確かに、少々、面白い人ではありますね。……どうしますか、行くのをやめますか?」
「ううん、行く!」
警戒心や困惑より、好奇心の方が勝った。ちょっとくらい変な人でもいい。その生者だという人に会ってみたかった。
「そんなら、ちょっと待ってな」
覇王丸は軍手を外すと、母屋に引っ込み、すぐに再び姿を現す。見ると、その大きな手には、一枚の封筒を提げていた。ちょうど、言伝がすっぽり入るくらいの大きさだ、
だが、色は普通の茶封筒なので、言伝ではないらしい。どうやらそれが、『例のやつ』であるようだった。幽幻は、覇王丸から封筒を受け取ると、それを風呂敷に包み、手に持った。
「それでは行きましょうか。覇王丸、留守をお願いします」
「おう、任せとけ!」
笑顔で手を振る覇王丸を言伝屋に残し、澪と幽幻は通りに出る。
幻朧街の通りはいつものように、異様なほどしんと静まり返り、人けがなかった。美しくて懐かしい感じのする街並みなのに、どこか冷たく、よそよそしい。最初はそれに慣れず居心地の悪い思いをしたものだが、最近は少しだけそれも平気になってきた。
澪たちの歩いている通りは、自動車が一台通れそうなほどには道幅が広く、平坦な一本道が延々と続いている。かなり向こうまで見通せるが、その中に写真館らしき建物はない。どうやら、かなり歩くことになりそうだ。
澪は、前を歩く幽幻を小走り追いかけ、横に並んで歩きながら尋ねた。
「写真館って、写真を撮るところだよね?」
「そうですね」
「それってやっぱり、死者の中で写真を残したいっていう人がいるから?」
「おそらく、そうでしょう。詳しいことは、行けば分かりますよ」
「ふうん……」
随分と淡白で、簡潔すぎる返事だったが、澪も幽幻から積極的にあれこれ教えてもらえるなんて思っていない。だから、一番気になっていることを、ずばり聞いてみた。
「あのさ……写真館の主人って、どんな人? 男性? それとも、女の人? 何歳くらいの人なの?」
「男性ですよ。年齢は……そうですね、六十は超えているのではないでしょうか?」
「えっ、お爺ちゃんじゃん!」
澪のあけすけな物言いに、さすがの幽幻も僅かに苦笑を見せた。
「まあ、確かにそうなのですが……それを写真館の主人の前では言わない方がいいですよ」
「どうして? もしかして、俺はまだ老人じゃねえ! ……みたいな感じの人?」
「そういう感じではありませんが……ある意味、面倒なことになるかもしれません」
「な……何それ、どういう事!?」
「行けば分かりますよ」
澪はなんだか不安になってきた。あの覇王丸からクセが強いと評され、幽幻までも妙に引っかかる言い回しをする。写真館の主人とは、一体どんな人物なのだろう。よほどの変わり者なのだろうか。
(話が合えばいいけど……)
性別も違うし、年齢もかなり離れているのでは、せっかく会ってもがっかりするだけかもしれない。会話がかみ合わず、相手の男性を困惑させるだけかもしれない。気まずい空気になるくらいなら、最初から会わない方がいいのかもしれない。
そんな心配をしていると、幽幻が注意を促してきた。
「次の突き当りを右に曲がりますよ」
顔を上げると、確かに通りは突き当りになっていて、左右に道が分かれている。澪は首を捻った。先ほどまでは、突き当りなどなく、まっすぐな道が延々と続いているような気がしていたのだが。
(あれ……こんなとこで突き当たりになっていたっけ……? さっきまで一本道が続いていたはずなのに)
俯いて考え込んでいる間に、忽然と目の前に壁が現れ、道が左右に分かたれていた。俄かには信じ難いが、そうとしか表現のしようがない。
相変わらず、訳の分からない街だ。幽幻と一緒に歩いていても、改めてその事を思い知らされる。
澪は思わず立ち止まりかけるが、幽幻はそのまま歩を進めるので、遅れまいと慌てて追いかける。そして右折して数百メートルほど進んだその先に、二階建ての建物が見えてきた。
外観は周囲の建物と同じく、真っ白な漆喰を含んだ木造で、屋根は灰色の瓦だ。しかし、一階建ての平屋が圧倒的に多い幻朧街で、その建物は一際目立った。二階部分の壁の端に小さな縦看板がかかっていて、明朝体の文字で《明星写真館》と書かれている。
「こんなところに写真館なんて、今まで無かったよね……!?」
以前、言伝屋の周囲を散策した時も、確かにこんな建物は無かった。この付近には二階建ての建物は殆どない。目にしていたら、絶対に覚えていたはずだ。
この写真館が、忽然とどこかから移動してきた。そうとしか考えられない。
ここはそういう街だ。何が起こってもおかしくはない。
分かってはいても、驚きは禁じ得ない。
一方の幽幻は、色白の顔に特段、表情を浮かべることもなく、静かに言った。
「この街では、物理的な距離はあまり意味を持ちません。行きたいところがあれば、強くそこをイメージするのです。そうすれば、自ずと辿り着けますよ」
「そんな超能力者みたいなこと、絶対無理! あたしにはできないよ」
泣きそうになって反論すると、幽幻は若干、呆れたような表情になった。
「そんな、断言するほどの事でもないでしょう。……いずれ慣れますよ。それまでは、外出する際は私か覇王丸のいずれかと、行動を共にするようにすればいい」
「いいよ、そんなの! あたし、別に外に出なくても平気だし」
「……。あなたがそれでいいなら、構いませんが……」
やんわりと、それでも確かに、それは良くないのではないかという反応を見せる幽幻に、澪は自分が突き放したような返事をしてしまったことを後悔した。思えば今日連れ出してくれたのだって、一日中、言伝屋の中で過ごす澪のためを案じてのことだろう。
「……ごめん、言い過ぎた。ちょっとは、頑張ってみる」
澪がぽそりとそう付け加えると、気のせいか、幽幻が少し微笑んだような気がした。
「この街は、あなたのように外から来た人間には、とても奇異で異様に感じるかもしれません。しかし、法則を覚えさえすれば、それなりに生活できますよ」
「うん……」
「ただ、私ではあなたの悩みは完全に理解できない部分もあるでしょう。だからこの写真館の人々を紹介しようと思ったのです」
「そうなんだ……」
ありがとう、幽さん――そう続けようとして、澪は、はたとある事に気づく。
「え、ちょっと待って! 『写真館の人々』って……一人じゃないの!?」
「写真館には、店主とその助手の二人がいますよ。……言っていませんでしたか?」
「言ってない‼」
思わず突っ込んでしまうが、幽幻の説明がどこか抜けているのはいつものことなので、もはやそれ以上、怒る気にもなれなかった。
考えてみれば、幽幻にとって幻朧街での生活は当たり前のことばかりであり、それでつい説明を怠ってしまうという部分もあるのだろう。最初はわざと意地悪をされているのではと勘繰ったこともあるが、実際はそうではなく、おそらくそれほど長い間、幽幻が幻朧街で生活をし続けてきたという裏返しでもあるのだ。
「……っていうか、幽さんも昔、この街に来たんだよね? それっていつ? その時、どんな感じだった?」
ただ、何気なく浮かんだ疑問をそのまま口にしただけだった。
すぐに返答が返ってくるものと思っていた。
ところが澪の意に反し、幽幻は口を閉じて黙り込んでしまう。表情にこそ特に変化はないが、どこかぴりりとした緊張感を孕んでいるように感じるのは、気のせいだろうか。
「幽さん……? あたし、何か変なこと言った……?」
驚いて尋ねるが、幽幻は直接それには答えない。
「……行きましょうか」
それだけを言うと、写真館の方へ向かって歩き始める。
(幽さん、どうしたんだろう……?)
澪は戸惑うばかりだった。
どうして、話してくれないのか。何か人には言えないような事があったのだろうか。
疑問はいくつも胸に浮かんだが、それ以上、踏み込んで幽幻に尋ねることができなかった。軽々しく尋ねることが憚れるほど、幽幻の沈黙から強い拒絶を感じたからだ。
(そりゃ幽さんにだって、人には言いたくないことの一つや二つ、あるだろうけど……)
こういうことがあると、まだまだ自分は幽幻にとって『よそ者』なのだろうな、と思い知らされてしまう。幽幻は表情に乏しく、とっつきにくい部分があるものの、決して自ら進んで他人を拒絶する性格ではないからだ。
その幽幻がそれほど強く拒絶するという事は、何か余程の事情があるか、澪に落ち度があるかのどちらかだ。
もし、幽幻が師匠と呼び慕う空穂がここにいたなら――彼女になら、幽幻も何でも打ち明けることができるのだろうか。
そう考えると、一抹の寂しさと、ほんの僅かな嫉妬を覚えてしまう。
しかし、ここで不満を顕わにして、幽幻との関係を余計に悪化させるようなことはしたくなかった。最近、ようやく会話らしい会話ができるようになってきたのだ。それだけで今は十分――澪はそう考え直し、取り敢えず幽幻の後を追った。
「ごめんください」
写真館の引き戸をカラカラと開けると、幽幻は店の中に向かってそう声をかける。澪も続けて、建物の中に顔を覗かせた。
写真館の中は言伝屋と同じく、外観に比べて内装は幾分か新しいようだった。
床も壁も板張りで、つんとした木造建築特有の匂いが鼻を掠めるものの、電池式の時計もあるし、天井には電灯もぶら下がっている。
基本的には伝統的な日本家屋だが、入口に置かれたヨーロッパ製のアンティークソファや床を彩る深紅の絨毯、鉢植えされた観葉植物などが、『和』の成分を程よく中和している。
入口の壁際に目をやると、これまで映したお客さんのものだろうか、写真がいくつも飾ってあった。腕白そうな少年や、藤色の着物を着た老婦人、スーツをびしっと着こなした中年男性、幸せそうに赤ちゃんを抱く女性など、年齢、性別はさまざまだ。
部屋の奥に視線を移すと、一番奥の壁ぎわが撮影場所になっているようで、大きな背景紙がゆったりと垂らしてある。そしてそれを囲むようにしてスタンド式の照明機材や撮影機材があるのも見えた。
(うわ……本当に本物の写真館だ)
ただ、よく見るとカメラはデジタルではない。撮影機材は昔の映画の中に出てくるような、古びたスタジオカメラだ。カメラの大きさもずいぶん大きく、アコーディオンのプリーツのようなひだがついていて、撮影者は真っ黒の冠布を被って撮影するようになっている。三脚も木製で、かなり使い込まれていることが窺えた。
(何だか本当に、古い白黒映画の世界の中みたい……)
言伝屋の店舗にもそういったところがあるが、あまりに古いものが、さも当然のように存在しているので、過去の世界にタイムスリップしたような奇妙な感覚になる。
思わずため息が漏れるが、澪の感慨をよそに部屋の中では、どうやらこれから撮影を行うようだった。
カメラの前、背景紙を背にして、一人の女性が椅子に座っている。
彼女の年齢は二十代ほどだろうか。中肉中背で、栗色のショートボブがよく似合っていた。
ふんわりしたスカートやカーディガンを羽織っていて、いわゆる、ゆるふわ系のファッションに身を包んでいる。
澪はその女性をとても好ましく思った。確かにフワフワしているが、いかにも男性に媚びたファッションではなく、全体的に抑えめの色調ながらも要所要所でビタミンカラーを取り入れていたりして、おしゃれにもかなり工夫している様子が窺えたからだ。
何となく、そこに彼女の性格が表れているような気がした。
ところが、当の女性はとても不安そうにして椅子に座っていた。膝の上で固く組んだ両手を見つめ、決して顔を上げない。照明は彼女をくっきりと照らしているが、その姿は何故だかとても頼りなげだ。
この女性は、本当はここにいるのが嫌なんじゃないか……そう思わせるような、張り詰めた雰囲気を、彼女は全身に纏わせていた。
しかし彼女の前では、そんなことはお構いなしに、一人の少年がくるくると動き回り、撮影機材や照明器具の調整をしている。彼がこの写真館の主なのだろうか。
あまりじろじろ見つめたら悪いと思いつつも、つい心配になって女性の姿を見つめていると、すぐにその少年がこちらに気づいて近づいてきた。
ちょうど、中学生くらいだろうか。澪より二、三才ほど年下のように見える。だが、その表情は年下とは思えないほど大人びていて、あどけなさの残る目元は年齢に不釣り合いなほどの思慮深さを湛えていた。
頭にはギンガムチェックのハンチング帽、それとおそろいのベストの下には、真っ白のシャツ。ブラウンの七分丈のハーフパンツを履き、足元にはソックスと黒い革靴といういで立ちだ。ちょっと昔のヨーロッパの映画に出てきそうな服装だと、澪は思った。




