第二十七話 父と娘⑤
「あ、なにこれ! ホントにおいしい!」
芋きんつばを一かけら口に入れた澪は、思わずそう声をあげていた。
覇王丸が買ってきたのは、四角いずっしりとした和菓子だった。中には黄金色の芋餡がぎっしり詰まっていて、菓子にしては重量がある。しかし、甘みが抑えめで、重たくない。口に含むと、芋の自然な甘みが、じんわりと広がっていく。
外側を包む白い生地は、焼くとパリパリになり、食感も楽しめる。勿論、生のままでも美味しいが、少し焙ったほうが美味しいのだと覇王丸が言うので、幽幻が軽く焼き目を付けてくれたのだ。
言伝屋の中には、他に客が訪れる気配もない。澪たちが囲んでいるのは店の一番奥で、表からは見えない席だが、何だかちょっと悪いことをしているような気分になってくる。
覇王丸は得意げな顔で言った。
「だろ? やっぱ美味いだろ! ここの菓子はこの芋きんつばが一番うまいんだ」
「薄明堂……だっけ? 幻朧街にあるお店なの?」
そこまで言ってあることに気づき澪は、ぎょっとする。
「……ってまさか、《夢幻通り》の!?」
あそこにいる毛むくじゃらの物の怪がこれを作ったのだろうか。そんなもの、食べて大丈夫なのだろうか。思わず青ざめるが、幽幻は「違いますよ」と否定する。
「《夢幻通り》の住人も悪い者ばかりではないのですが……薄明堂は、ちゃんとした店ですよ。生者の和菓子職人が一つ一つ手作りで作っているのです」
「生者って……あたしたちの外にもいるの!?」
そんなの、初耳だ。驚いて尋ねると、幽幻は何食わぬ顔で答える。
「ええ、さほど数は多くありませんが……何人かいますよ。……言いませんでしたっけ?」
「言ってないよ‼」
思わず大声を上げてしまった。
「……幽さんって、時々、肝心なところが抜けてるよね?」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
澪は頬を膨らませ、口の中に芋きんつばの残りを放り込んだ。一方の幽幻は、どことなく釈然としない表情をしている。そして、覇王丸と言えば、二人のやり取りをげらげら笑って聞いているのだった。
「そういえば、《夢幻通り》で幽に会ったんだけどよ」
覇王丸は両眼に涙を浮かべるほど爆笑した後、ふと思い出したように切り出した。
「幽のやつ、文具屋の店主と大喧嘩してたんだぜ。俺が通りかかって、間に入ったから良かったものの、そりゃあ、なかなか激しいもんだった。幽がそれほど怒るなんて滅多にないことだ」
「覇王丸、余計なことを……!」
幽幻は露骨に眉をしかめて見せる。はっきりと不快さを表に出す幽幻にただならぬものを感じ、澪も茶の入った湯呑を持つ手をテーブルの上に下ろした。
「やっぱり、何かあったの? 帰りが遅かったのはそのせい?」
「何でもありませんよ」
「嘘! 何もないのに、幽さんが喧嘩なんかするわけないよ!」
問い詰めると、幽幻は観念したように溜息をつく。
「《夢幻通り》にある文具屋の主人が、あなたを連れて来いとしつこく迫ったからですよ」
「え……ええ!?」
澪は持っていた湯呑をひっくり返しそうになった。何故、そこで自分の名が出てくるのだろう。知らないところで、自分は狙われて続けているのだろうか。そう思うと、生きた心地がしない。
すると、幽幻は昼間のことを思い出したのか、若干、苛立たしそうに続けた。
「おそらく、どこかから言伝屋に新顔がいると聞きつけて、興味が湧いたのでしょう。……安心なさい、半分は私への嫌がらせです。無理難題を押し付けて、こちらが困るのを楽しんでいるのです」
「そうなのかな……?」
「そうですよ。あちらの世界でしか食べられない珍味を持って来いと言ったり、テレビだのラジオだのを持って来いと言ったり……言伝屋が、半紙がないと成り立たないのを知っていて、足元を見ているのですよ」
しかし、澪の不安はなおも晴れなかった。すると幽幻は再び小さく溜息をつく。
「……あなたを過剰に不安にさせると思って、黙っていたのです」
「幽さん……」
思えば、澪を連れて来いといった文具屋に、幽幻は猛然と食って掛かったのだ。勿論、理不尽な文具屋に対する怒りはあっただろうが、澪を守るためでもあっただろう。
覇王丸がいう通り、幽幻は口喧嘩どころか声を荒げることさえ滅多にない。怒っている時でさえ、それは徹底しているのだから。
(そっか……あたしのために……)
そう考えると、何だか温かい安心感を感じると共に、背中がこそばゆいような、不思議な心地になる。何故だか急に頬が熱を帯び始め、澪は思わず俯いた。幽幻は気づいているだろうか。
(まあ、十中八九、気づいてないと思うけど)
それがほっとするようでもあり、何だかもどかしいようでもあった。
「……すまねえ、余計な事、言っちまったか?」
覇王丸がややしょんぼりしながらそう言った。悪いことをしたと思っているのだろう。覇王丸は幽幻が何の原因で喧嘩をしていたかまでは知らなかったようだ。
「ええ、まったく」
幽幻はすげない反応だったが、澪は「そんなことないよ!」と声を上げる。
「全然……そんなことないよ」
確かに、《夢幻通り》の住人がそんな要求をしていたのは気味が悪い。本当に澪を狙っているのか、それとも単に幽幻を揶揄いたかっただけか。それが一時の好奇心であってくれればいいが、澪がこの街にいる限り、そんな要求をされ続けるかもしれないと思うと、気が重くなるばかりだ。
でも、幽幻が自分を守ってくれたというのは素直に嬉しかった。幽幻が澪に対し、どう思っているのか。澪は幽幻にとって、何なのか。幽幻が本心で何を考えているのか、まだ分からない部分も多いが、少なくともただの邪魔くさい居候ではなくなっているのではないか。
だからこそ、守ろうとしてくれたのではないか。
そんな風に考えるのは思い上がりだろうか。
元の世界のことは、決して忘れることができない。けれど澪の中でそれとは別に、言伝屋の仕事や生活を大事にしようという気持ちも芽生えつつあった。
ここは自分の望んだ場所ではないと、いつまでもふて腐れていても仕方がない。そんなの、澪によくしてくれる覇王丸や幽幻に対しても失礼だ。
だから、自分のできることを精一杯やり遂げたい。
置かれた場所で精いっぱい生きるしかない――と、そう父の零児が諭してくれたように。
結局、その日はそれ以降、新たな客が来ることはなかった。
澪は母屋でいつも通り夕食を済ませると、言伝屋の二階にある自分の部屋へと向かう。そして、文机の前に正座し、深呼吸した。
「……せーの!」
小さく掛け声を上げ、思い切って引き出しを開ける。そこには母に残された、父、零児の言伝が、入れた時と同じ状態で入っていた。
この言伝を目にするのは、あの日――亜季との永遠の別れを経験した日、この言伝をここに入れて仕舞った時以来だ。あれから、一度もこの引き出しを開くことができなかった。澪にとって、それほど直視するのが辛かったのだ。
久しぶりに目にする言伝は、目立った変化は何もない。破損している様子もなければ水気を吸って湿ったりしている風でもなく、澪はほっと息をつく。
決してこの言伝が疎ましいなどという事ではない。ただ、どうにも踏ん切りがつかないのだ。
澪は暫くそれを見つめていたが、意を決して言伝を手に取る。そして、封を開けようとするが、自分の手が小刻みに震えていることに気づいた。
(この言伝を読むのが、まだ怖いんだ、あたし……)
この期に及んで、と自分をしかりつけたくなるが、怖いものは怖い。あと一歩が、どうしても踏み出せない。
現実逃避なのは分かっている。このままではいけないのだという事も。だが、それでも怖いのだ。あの日のことを――全てを失い、足の下の地面がそのまま抜け落ちていくような、あの途轍もない落下感にも似た絶望を、思い出さずにはいられないのだ。
つい無力感に打ちのめされ、自分自身が情けなくなる。
けれどふと、美又の言葉が脳裏に甦った。
『無理しなくてもさ、自分のペースでいいんじゃないかな? 父親は永遠に父親なんだからさ。少々、迷ったって、逃げやしないよ』
(もう少しだけ……待っててくれる、お父さん……)
興味がないわけではない。必要ないわけでもない。
きっと、まだその時が来ていないだけなのだ。
澪は言伝を再び中にしまい、そっと文机の引き出しを閉めたのだった。




