第二十六話 父と娘④
「……おじさん、だあれ?」
目を瞬かせる真桜に、美又は笑顔で答えた。
「実はおじさんもね、お父さんなんだ。萌香ちゃんっていう子のお父さん」
「萌香ちゃん? 真桜、知らない……」
「ははは、真桜ちゃんは正直だなあ。萌香ちゃんは、おじさんの娘なんだ。真桜ちゃんと同じくらいの年なんだけど、会えなくなっちゃったんだ」
「会えないの? どうして?」
「離婚しちゃったからね」
美又が答えると、真桜は目を一杯に見開いた。
「ホント? 真桜と一緒だ! 真桜もね、パパとママがリコンしちゃったから、ママに会えなくなっちゃったの」
「そりゃあ、辛いな」
「おじさんも自分の子どもと会えないの? だったら、真桜と同じだね」
すると、美又は苦笑する。
「でもまあ、おじさんの場合は自業自得だからね。天罰みたいなもんだから」
「天罰なの? 真桜、よく分からないけど……でも、きっと許してくれるよ! だって、おじさん、良い人そうだもん」
「おじさん、良い人そう?」
「うん。真桜のパパとちょっと似てるよ。目がとても優しいところ」
「……そうか。萌香ちゃん、許してくれるかな」
「うん。ちゃんと話して謝れば、許してくれるよって、真桜のパパも言ってた」
美又は微かに声を詰まらせる。おそらく、真桜と自分の娘の姿が重なって見えたのだろう。
「はは、真桜ちゃんも、いい子だなあ。ホント……いいお父さんに育てられたんだろうね」
俯いた美又に、澪はおずおずと声をかける。
「あの……大丈夫ですか?」
「ああ、平気、平気。はいこれ、言伝」
美又が差し出した臙脂色の封筒には、『萌香ちゃんへ』と書かれてある。澪は立ち上がり、それを両手で受け取った。
「……はい。預からせていただきます」
いつもは薄っぺらい封筒が、今は厚くなり、重さも増している。中に入っている言伝の重さの分だけ、誰かの想いが込められているのだと思うと、自ずと身が引き締まる。幽幻もいつも丁寧に言伝を受け取っているが、その気持ちが何となく分かる気がした。
美又もノリは軽いが、きっと娘に対する様々な想いをこの言伝にしたためたのだろう。それが、彼の娘にも届けばいい。そう願わずにはいられなかった。
一方、真桜は、画用紙を持って困り顔になった。
「お姉ちゃん、この絵、どうしよう? この袋には入らないよ?」
「あ……」
確かに、画用紙はノートよりも大きい。これを臙脂色の封筒に入れるには、折り畳まねばならないだろう。だが、せっかく描いた絵に折り目がつくのは、どうにも忍びなかった。それに、折り畳んだらクレヨンがあちこちに付着し、絵が掠れてしまいかねない。
澪もどうしたものと困り果てていると、幽幻は近づいてきて、すっと大きな封筒を差し出した。
「これを使ったら良いでしょう」
色は他と同じ臙脂色だが、かなり大判の封筒だった。
さっそく画用紙を入れてみると、うまい具合にすっぽりと入る。澪は真桜から父親の名前を聞き出し、その封筒の表に、筆で『りょうじパパへ』と書き込む。これで、真桜の言伝も完成だ。
「ありがとう、眼鏡のおじさん!」
真桜は幽幻に向かって、無邪気にそう言い放った。
「お、おじ……いいえ、どういたしまして」
幽幻は淀みなくそう答えたが、その顔が若干、微妙な表情をしているように感じたのは気のせいだろうか。幽幻の年齢は、実際には二十歳を超えていくらかくらいだろうが、それでも真桜にしてみれば、十分おじさんなのだろう。ただ、
その事実に目を白黒させている幽幻が、妙に可愛く感じてしまう澪なのだった。
「ええと……あなたがこの店のご主人?」
そう尋ねてくる美又に、幽幻はお辞儀をする。
「ええ。すみません、店を開けていまして」
「ああ、いいよ。そういうの、気にしないで。澪ちゃんがきちんと対応してくれたし」
「澪……ちゃん?」
幽幻はまたもや微妙な顔をした。彼がお客さんに対し、立て続けにそういった反応を見せるのはとても珍しいことなので、澪は内心で可笑しくて仕方ない。ただ一方で、美又に見せた幽幻の反応が少々意外でもあった。
(何だろ? 『うちの従業員を、馴れ馴れしくちゃん付けするな!』――なあーんて……まさかね)
まさか、幽幻に限ってそんなことはないだろう。澪はふと思いついたその考えを、自ら一笑に付したが、心のどこかでそうであって欲しいと願う自分もいることに気づいた。横目でちらりと幽幻の表情を窺うが、筋金入りの朴念仁は、いつも通り、何を考えているのか分からない。
一方、美又は困惑顔になり、顎をさすりながら口を開いた。
「ところで、俺たちはこれからどうすればいいのかな?」
「この店を出てまっすぐ行ったところに、大きな門があります。そこからこの街を出ることができますよ」
幽幻が答えると、真桜は突然、不安そうな顔になってしまった。
「真桜、さっきその門、見たよ。大きくって、ごつごつしてて、何だかすごく怖かった……!」
澪はぎょっとする。死者はこの街に対して恐れを抱かない。恐怖するのは生きた者だけ――先日、幽幻がそう説明してくれたことを思い出したからだ。
「幽さん、真桜ちゃんは間違いなく死者なんだよね?」
小声で幽幻に尋ねると、幽幻は「ええ」と頷く。
「……おそらく、《宵闇の門》の存在自体を恐れているというよりは、大きさと形状に脅えているのでしょう。小さい子供にはよくあることです」
確かに澪も子供の頃、やたら大きいものや仰々しいものは恐ろしく感じた覚えがある。幼稚園へ行く途中にあった、人間の顔のような窪みが穿たれた、大きな岩。近所の神社に植わっていた、うねうねとしたお化けのような銀杏の木。
「でも、あれだけ怖がっていたら、どの道、あの門を潜ることができないんじゃ……」
そう心配した澪だったが、すぐにそれは杞憂に終わった。美又が、震え上がる真桜に声をかけたのだ。
「それじゃあさ。真桜ちゃん、おじさんと一緒に行こうか」
「おじさんと……?」
「うん。嫌かな?」
真桜は、その透き通ったつぶらな目で、じっと美又の顔を見つめる。そしてしばらくして、ぶんぶんと首を横に振った。
「ううん。真桜、おじさんとならいいよ」
美又と真桜の境遇は、どことなく似ている。そのせいだろうか。この店で出会ったばかりだというのに、真桜はあまり美又を警戒した風がない。美又の方も、進んで真桜の面倒を見ようとしている。よその子なのだから、自分とは関係ないと突っぱねたって、不思議ではないのに、どうにも、気になってしまうようだ。
「あの、良いんですか?」
念のためにと聞いてみると、美又はひらひらと片手を振って応じた。
「いいの、いいの。何かこの子を見てると、全くの他人に思えないっていうか……放っとけないんだよね。……あ、言っとくけど、妙な下心があるわけじゃないから。あくまで、父親的な立場で言ってるからね」
「分かってますって」
美又はどうも、最後の一言が多い。そこを黙っていればしまりもつくのに、どうも自ら募穴を掘る傾向がある。でも、その気の抜けた感じが堅苦しくなりすぎず、いい作用を及ぼすこともあるから、それが彼の魅力でもあるのだろう。
そんなことを考えていると、不意に美又がこちらを振り返った。
「ああ、そうそう。さっきの言伝の話だけどさ」
「……え?」
「ほら、君のお父さんから残されたっていう」
「ああ……」
零児の言伝がどうかしたのだろうか。不思議に思っていると、美又は淡く微笑む。
「無理しなくてもさ、自分のペースでいいんじゃないかな? 父親は永遠に父親なんだからさ。少々、迷ったって、逃げやしないよ」
「あ、はい……あの、ありがとうございます」
「ははは、お礼を言うのはこっちだよ。何て言うか……この店に来て良かった」
澪は、どきりとした。何か二人の力になれたら――ただそう思って、自分なりに動いただけだったが、少しは役に立てたのだろうか。満足のいく言伝を残す、その手伝いができたのだろうか。
「それじゃ、俺たちはそろそろ行くよ」
「お姉ちゃん、バイバイ。元気でね!」
「うん。真桜ちゃんも、それから美又さんも……お元気で」
美又と真桜はこれから幻朧街を去り、それ以降、この街には戻ってこない。だから、もう二度と会うこともない。それでも澪は、心の底からそう思わずにはいられなかった。
美又と真桜は、手をつないで、並んで仲良く歩き出した。そして、言伝屋を後にする。澪は二人を店先で見送った。
「ご利用、ありがとうございました!」
『この店に来て良かった』――美又のその言葉が、深く澪の心に残っていた。
二人が死後の世界に旅立つ最後の手伝いを、自分はうまくすることができたのだろうか。いつか幽幻は言っていた。死者に過剰に感情移入すべきではない、大事なのは彼らを《獏》にしないことなのだ、と。
もちろんそれは、幽幻が自分の経験から導き出した彼なりの持論なのだろう。それを否定するつもりはない。でも、やはり澪は、それではあまりにも淋しいと思ってしまうのだ。
ここで、最後の旅路へと旅立つ死者たちの手助けをしたい。澪がそう思うのは、きっと母の亜季の姿をずっと見てきたからだ。依頼者の為の資料集めや書類の作成など、彼女はいつも仕事に駆けずり回っていた。澪が大きくなってかは、帰宅が深夜に及ぶことも珍しくなかった。
でもそれは決して嫌々ではなく、さりとて、『やってあげている』という風でもない。依頼者の為にと働くことで、自分も輝いている――そんな様子だった。大変なことも多かっただろうが、亜季がいつか澪にこう言っていたのを覚えている。「依頼者に百パーセント満足してもらうのは無理かもしれない。でも、その人たちが笑顔になるのを見たら、やっぱり頑張って良かったって思うわね」、と。
確かに、亜季の不在を寂しいと思った時はある。でも、それでも澪は母のことを尊敬していた。ああいう風に、自分も誰かの為に動けるような人になりたい、と。
言伝屋には様々な人が来る。当然のことながら、良い人ばかりではない。しかし、感謝されればやはり嬉しいし、そうでなかったとしても、澪なりに彼らの力になってあげたいと思う。澪がこの街にいる意義があるのだとすれば、それしかないと思うからだ。
澪はいつまでも親子のように手をつなぐ美又と真桜の後ろ姿を見つめていた。彼らの姿はやがてどんどん小さくなり、やがて霞んで街の中に消えていった。
美又と真桜の姿が消えてしまうまで見送ると、澪は店の中へと戻った。すると、ちょうど幽幻が風呂敷から買ってきた半紙の束を出しているところだった。
「半紙、買えたんだ? ずいぶん遅いから、何かあったんじゃないかって心配しちゃった」
「ええ、まあ……ちょっといろいろありまして」
幽幻が珍しく言葉を濁すので、澪は僅かに眉根を寄せた。やはり、《夢幻通り》で何かあったのだろうか。しかし、幽幻はその事にはそれ以上触れず、「それにしても」と、話題を変える。
「私の留守中にお客さんに対応してもらって、ありがとうございます」
幽幻に礼を言われると、何だかむず痒いような気持になる。澪はそれを誤魔化すようにして、悪戯っぽく笑った。
「えへへ……どういたしまして。あたし、うまくやれてたかな?」
「ええ。心配していたよりは、ずっとうまくやれていましたよ」
「ホント!?」
「特に、春日真桜さんに言伝を絵にして残すようにしたのは、機転が利いていましたね。……あなたにしては、珍しく」
「もう……それ、誉めてるの? けなしてるの?」
「誉めてますよ、もちろん」
「本当に~?」
わざとらしくしかめっ面を作り、幽幻の顔を下から覗き込む。幽幻は軽くコホンと咳ばらいをし、美又と真桜の言伝を持ち直す。
「……本当ですよ。私はこの言伝を収めてきます」
「そういえば……真桜ちゃんの言伝、何だかやけに大きいけど、大丈夫?」
「ええ、大丈夫ですよ。秋のスペースはあります。……といっても、このサイズの言伝は、大量には保管できませんが。少なくとも、この言伝は大丈夫です」
「そっかあ……良かった!」
大切な言伝だ。絶対に、真桜の父親に読んで欲しい。自分が初めて一人だけで関わった事言伝だからだろうか。いつもより、余計にその思いが強かった。
幽幻が再び奥の間へと言伝を持って入り、出てきたところに、ちょうど母屋の方から覇王丸が笑顔で顔を出した。
「よう、終わったかい?」
「もう……どこに行ってたの、覇王丸?」
せめて覇王丸がいてくれたら、一人にならずに済んだのに。そう思うと、つい言葉も愚痴っぽくなってしまうが、覇王丸の反応はいつも通り、からりとしたものだった。
「おっ、嬉しいねえ。やっぱ俺がいねえと淋しいよな? 俺ってばムードメーカーだもんなあ!」
上機嫌で笑う覇王丸を見ていると、澪はつい意地悪な気持ちになってしまう。
「ふーんだ、別に! 覇王丸がいなくたって淋しくないし」
「本当か? 無理しなくていいんだぜ?」
「無理なんかしてないよ。むしろ静かになっていいくらいですよーだ!」
「ありゃりゃ」
「あたしが言ってるのはそういうことじゃなくて! ……覇王丸は用心棒なんでしょ? 用心棒はふらふらしてちゃ駄目なんじゃないの?」
すると覇王丸は、大袈裟な動作で仰け反って見せた。
「やれやれ、澪もなかなか護法神扱いが荒いなあ。そういうところは、空穂とソックリだ」
『空穂』――その名が会話に上った途端、幽幻の眉がほんの僅かだが、確かにピクリと動いたことを、澪は見逃さなかった。
(幽さんも諦めてないんだな……)
澪が元の世界に戻ることを諦めきれないように、幽幻もまた、空穂を取り戻すことを諦めていないのだろう。幽幻の気持ちは痛いほどよく分かる。ある日突然、何かを失って、理由も経緯も分からずにただそれを受け入れるなんて、澪だって出来っこない。それが大切なものであればあるほど、尚更だ。
しかしその一方で、澪はそのように失ったものに固執し、取り戻そうと足掻く自分たちのことを――幽幻と自分自身を、どこか哀れだとも思ってしまうのだった。
空穂がこの店に戻り、澪もまた現世に戻る。それが二人にとって、最も望ましい結末だろう。だが、果たしてそれは無事、叶えられるのだろうか。澪たち生者の都合など、微塵も考慮してはくれない非情なこの幻朧街という街が、それを許してくれるのだろうか。
零児は幼い澪にこう言った。
人は案外、思うようには人生を選べないのだ、と。
『……どれだけ立派な夢や希望を持っていたとしても、大抵の人はそれを叶えることができないんだ。それでも、本人が幸せならそれでいい。自分が選んだ道が常に正解だとは限らないからね。
……けれど大抵、思い通りにならないということは大変な苦痛を伴うことなんだよ』
今なら、難しくてよく分からなかったあの時の言葉の意味が、少しは分かる気がする。そしてだからこそ、澪は不安を感じずにはいられなかった。
もし、幽幻も澪も、自分の願いが叶えられなかったら、どうなってしまうのだろう。永遠に諦めきれず、苦しみ続けることになるのだろうか。この街を今もどこかで徘徊している恐ろしい《獏》たちと同じように、求め続け、探し続けて彷徨うことになるのだろうか。
(やだ……そんなの考えすぎだよね。あたし……どうかしてる……)
きっと、久しぶりに夢の中で父に会ったから、自分で自覚するよりもずっと感傷的になっているのかもしれない。それでつい、良くない方向へ物事を考えてしまったのだろう。
ただ、それだけだ。そうに違いない。
不吉な考えを追い出そうと、澪は頭をぶんぶん振る。覇王丸は不思議そうにそれを見ていたが、すぐに何かを思い出したように、ぽんと手を叩いた。
「そうだ、土産を買ってきてあるぜ。薄明堂の芋きんつばだ。表面を少し焙ってやると、うまいんだこれが!」
「……お茶にしましょうか」
幽幻の言葉に、澪も「うん!」と頷いた。




