第二十五話 父と娘③
「そりゃ、追いかけたさ。子供もいたしね。実際に会って話し合おうって、何度もメール送ったんだ。けど、その時にはもう手遅れだった。……女の人ってすごいよね。一度気持ちが離れたら、冷めるのが早いのなんのって。そんで、一度捨てたものはもう二度と振り向かないんだよね」
「それでついに離婚……ですか……」
「まあ、若かったよね、俺も。奥さんも若かった。互いにちょっと若すぎたんだろうね」
そして美又は、遠い目をし、また笑う。
澪には何とも言えなかった。澪の両親――亜季と零児は仲が良く、喧嘩をしているところを見た覚えがない。自身が結婚したことも無ければ、男の子と交際した経験も殆ど無いので、そういうものなのかなあ、と思うばかりだ。
ただ、せっかく結婚した相手と、ちょっとしたボタンの掛け違いでそんな風に終わってしまうのは、何だか淋しいような気がした。
大人なんだから、もっと早い段階できちんと話し合えばいいのに――などと思ってしまうが、いくつになっても、それが案外難しいのかもしれない。
「……そんなだったから、離婚はまあ、割とあっさり諦めがついたんだ。二年も仮面夫婦続けてりゃ、さすがにいつかは来るだろうなって想像がついたしね。ただ……諦められなかったのは、奥さんが娘を連れて行っちゃったことだ。もう、辛くて辛くて……毎日、写真を眺めてたなあ。
……ほら、ちょうどあそこにいる女の子」
美又の視線は、お絵描きに熱中している真桜の背中に注がれている。
「うちの娘もちょうどあれくらいの年頃でさ。一番かわいい頃だよね。俺も、離婚してから気づいたんだ。娘とここ二、三年、まともに接してなかったなって。そりゃ、奥さんも怒る筈だよねえ。
……それでも、やっぱり会いたい気持ちは捨て去れなかった。せめて娘にだけは会わせてくれって、何度も頼み込んだんだけどさ。奥さん、すぐに再婚しちゃったもんだから、もう連絡しないでくれって、けんもほろろだよ。法律的にもさ、ほら。こういうのはどうしても母親である女の人の方が強いから。結局、もう二度と会えることは無かった。
……そうこうしているうち、俺、過労でぶっ倒れてさ。そのまま帰らぬ人となったわけ」
「それは……ちょっと辛いですね」
会いたい人に会えない。その辛さは、澪にも経験があった。まだ幼い頃のことだったが、父の零児が亡くなった日の事を、今でもはっきりと覚えている。
あの日、いつまでたっても父は帰らなかった。逆に、いつも夜遅くまで働いていた母がやけに早く帰ってきて、澪はすっかり驚いてしまった。
おまけに、亜季の様子は普段とまるで違っていた。いつも喜怒哀楽のはっきりした顔は、能面のように真っ白で、表情がごっそり抜け落ち、完全に呆けてしまっていた。そして、力無い足取りで玄関から数歩、家に足を踏み入れると、靴を脱ぐのもそこそこに、その場で腰が砕けたかのようにへなへなと座り込んでしまったのだった。
亜季のそのような姿を見たことのなかった澪は、驚いて息を呑んだ。いつもなら、母が帰宅した途端、廊下を走って真っ先に迎えに出て飛びついていたが、さすがにその日はそんな事は出来なかった。
ただその尋常ではない亜季の様子から、幼心にも何かとんでもないことが起こったのだろうと察しがついた。不安と恐怖に襲われながら、おずおずと亜季に近づいて行って尋ねた。
「ママ、どうしたの? パパはどうして帰ってこないの……?」――と。
亜季の反応は、すぐには無かった。暫く脱力しきって虚空を見つめていたが、やがてポツリとこう言った。
「お父さんは……お父さんは、もう帰ってこないの。もう、二度と帰ってこないのよ」
――どうして? そんなのヤダ!
澪は咄嗟にそう思ったが、それを言葉にし、母親にぶつけることはできなかった。亜季の見開いた瞳から、涙が一筋、流れ落ちるのを目にしたからだ。
お母さん、どうして泣いているの? どうしてお父さんは二度と帰ってこないの? 澪、お父さんに会いたいよ……‼
言いたいことは沢山あったが、ひっそりと涙を流す亜季を前にすると、やはりそれを言い出すことができなかった。
困惑と動揺、そして抱えきれないほどの悲しみが小さな体に襲い掛かってきて、澪もしくしくと泣き出してしまった。
母一人、子一人。父のいなくなったやけに広い家の中で、二人で涙を流し合ったことを、昨日のことのように思い出すことができる。
美又の言う事を、全て理解したり共感したりできるわけではない。ただ、娘に一目、会いたかったというその気持ちは、とてもよく分かる。澪も同じ思いを幾度となくしてきたからだ。
たった一目でいいから、今は亡き父や母に会いたい――と。
「それじゃあ、その娘さんに言伝を残されるんですね?」
「まあ、そうしたんだけど……どうしようか悩んでるんだよね」
「どうしてですか? せっかくだから、書いてあげたらいいのに……娘さんもきっと、喜びますよ!」
澪は身を乗り出したが、美又の反応は鈍い。
「だったらいいんだけどね。俺、実は生きてる頃に、娘に幾つか手紙を書いたんだよ。メールは着信拒否されちゃって、会うのもダメだし、後は直筆の手紙を郵送するしか手段が無くてさあ。でも、みんな突っ返されちゃったんだよね。見事なまでに全部、開封すらされずに」
「それは……いくら何でも、ちょっとひどいですね……」
悄然として語る美又の姿を目にし、澪もつい声を尖らせてしまった。
萌香の母親が、再婚して新しい父親ができたのだから、美又の記憶は娘にとって邪魔になると考えるのも無理はない。そして、それが娘のためだというのも一理はあるのだろう。
でも、娘の立場からすると、無条件に手紙を破棄されるのも可哀想であるような気もした。萌香にも選ぶ権利があるのではないか。萌香にとって、美又は離れ離れになっても永遠に父親なのだから。
「まあ、向こうにすれば、しつこく言い寄ってくる前のダンナなんて、悪質なストーカーと大差ないんだろうけどね」
「でも、言伝屋の言伝なら大丈夫ですよ。間違いなく本人に届きます。ただ……娘さんが言伝を手にするのは、無くなった後になりますけど……」
「ああ、うん。この店のシステムは前もって聞いてたから、それは別にいいんだ。たださ、萌香……ああ、娘の名前なんだけど、萌香ちゃん、俺のこと覚えてるかなあって。分かれた時もかなり小さかったからさ。奥さん、再婚してるから、新しいお父さんもいるわけだし。俺なんて、いくら生みの親とは言え、萌香ちゃんにとっては、ただの知らないオッサンなわけでしょ? 手紙、読んでくれないんじゃないかなって」
「そんな事……!」
そんなことない――澪はそう言おうとして、寸手のところでその言葉を呑み込んでしまった。何しろ、澪自身が父に残された言伝を未だに読んでいないのだから、美又の言葉を否定できるはずもない。
でも、美又には、絶対に言伝を書き残して欲しかった。
生前に、想いを伝えることはできなかったかもしれない。でも、死後の世界でくらい、気持ちを伝えたって許されるのではないか。
ここは、現世のしがらみなど関係のない世界なのだから。
「あの……これ、あたしの話なんですけど……実はあたしも、父から言伝を残されているんです」
「あれ、そうなの?」
今度は美又が驚いたように澪を見る。
「あたしに直接じゃないんだけど……何か、あたしのことも結構、書かれてるみたいで、読んでおきなさいって。でも……まだ、中身を読めてなくて……。言伝を残されたことが嫌だとか、そういうことじゃないんです! ただ、何て言うか……いろいろ、受け止め切れてなくて……」
色々なことが一度に起こり過ぎて、正直なところ、まだ現実として受け入れられない部分もある。気持ちの整理がつかないのだ。それを詳細に美又に説明するのは、長い話になってしまうので省いたが。
すると、美又は頭を掻いて小さく唸った。
「そうかぁ……まあ、そういう事もあるよね。残す方はいろいろ伝えたいと思って書き残すけど、受け止める側にだって、都合ってものがあるだろうしね」
「あ、あの! でも……言伝があるって知った時は……父があたしの事を言伝の中で書いていてくれたと知った時は、とても嬉しかったんです! あたしも幼い時に父を亡くして……思い出が少ししかなかったから……」
「……そっか」
「娘さんに……萌香ちゃんに言伝を残されてはどうですか? 確かに、ひょっとしたらいい感情を抱かれていないかもしれません。でも、何もないよりは、ずっと……ずっと良いですよ」
確かに、残された言伝を読んで感動したり喜んだりする客ばかりでない、という事は事実だ。萌香が実際に言伝を読んでどういった感想を持つのかは分からない。もしかしたら、何を今更と憤ったり、私にはもう関係のないことと突き放したりする可能性もある。
でも、そうだとしても、何も残さないよりはずっといいと、澪は思う。
何もないという事は、波風も立たない代わりに、相手にも何一つ伝わらないという事だ。そんなの、あまりにも淋しすぎる。だって、美又はこんなに娘の萌香のことを想っているのだから。
美又は暫く考え込んでいたが、やがてふと、口元を緩めた。
「そうだよね……まあ、憎まれるのも父親の務めか。言伝……書かせてもらっていいかな?」
「……はい!」
澪も何だか嬉しくて、つい笑顔になる。すると、それを見た美又がこちらに身を乗り出してきた。
「君、ホントにいい子だね~! お礼に今度、一緒にお茶しない? 俺、パンケーキのおいしい店、知ってるから!」
「はい!?」
何を突然……いきなりナンパか。澪がぎょっとして仰け反ると、美又はぶっと吹き出し、可笑しそうに笑いだした。
「……なぁーんてウソ、ウソ! 大体、ここは死後の世界なんだから、俺の知ってるパンケーキのお店なんて行けるワケないって話だよね!」
澪は思わずかくりと、肩がずっこける。
(何だか、この人の奥さんも、それなりに苦労してそうだな……)
会った事は無いが、つい美又の妻だった女性に同情してしまう澪なのであった。
とにもかくにも、美又は言伝を書く意思を固めたようだった。澪はいつも幽幻がそうしているように、墨と硯、そして半紙を用意する。半紙は確かに少なくなってきているが、二、三十枚は残っているから、何とか事足りるだろう。
「筆か。いやあ、えらくアナログだねー。パソコンやスマホでメールのやり取りしてたから、新鮮だよ。でも、大丈夫かなあ。ボールペンでさえ、最近、握っていなかったのに」
美又はそう言いつつも、硯に墨を垂らす。そして、筆に墨を馴染ませると、さっそく言伝を書き始めた。ボールペンも握っていなかったというその言葉通り、字が少々、よれよれになってしまっている。
(ヘンなの。見た目はいかにも、仕事できますって感じなのに)
そんな美又が四苦八苦し、筆と格闘しているのは、何だか妙に可笑しくもあった。そしてまた、その少々よれた字の方が、美又の不器用さをよく表しているような気がした。
澪も、今まで何人かのお客さんが言伝を書くのを見てきたが、筆の字は鉛筆やボールペン、マジックなどよりも、ずっと書き手の人柄が現れやすいような気がする。
豪快な人は太くて迫力のある字を書くし、気の弱そうな人は、華奢で繊細な字を書く傾向があるように思う。勿論、見た目に反した字を書く人も中に入る。粗暴そうに見えて字は美しかったり、逆に上品で口調も丁寧だけど、字はどこか歪んだものを感じさせたり。それはそれで、その人の持つ一面が字面に反映されているのだろう。
(ああ……だから、筆を使っているのかな)
最初に言伝屋に来た時から、ずっと不思議だった。何故、わざわざ不便な筆で字を書かせているのだろう、と。そのやり方が、この店の昔からの伝統なのかもしれない。だが、現代人は筆に不慣れだ。万年筆やボールペンの類の方が、お客さんも喜ぶのではないか。時代に合わせることも必要なのではないか、と。
でも、筆字の方が、書き手の人となりがよく分かるのではないか。言伝を受け取る者の中には、書き手の事をよく知らない者もいる。美又の娘、萌香のように。そういった時、筆字は、より多くのことを読み手に伝えてくれるのではないか。
カウンターに引っ込んで、美又や真桜が言伝を書いている姿を見つめていると、しみじみと感じる。
(あたしも、いつまでも逃げてちゃいけないな……)
美又があれこれと思い悩み、ようやく言伝を残そうと決意したのと同じように、零児もいろんなことを考えてあの言伝を残したのだろう。澪に直接残されたものではないとはいえ、それを読まないでいるということは、零児のそういった気持ちを反故にするようなものだ。
言伝の中に何が書かれていたとしても、そんなことは絶対にしたくない。
どんなに辛くても……母の死を思い出すことになっても、いつかは向き合わねばならないのだ。
そんなことを考えていると、店先に幽幻が姿を現した。《夢幻通り》から、ようやく戻ってきたのだ。手には、ずっしりとした風呂敷包みを抱えている。どうやら、半紙は無事に手に入れることができたようだ。
「幽さん……!」
澪が小さく声を上げると、幽幻に続き、覇王丸まで姿を現した。途中で一緒になったのだろう。こちらに、「よっ」と片手をあげる。そして、そのまま母屋の方に姿を消した。接客は幽幻の仕事だし、お客さんの邪魔になりたくないからだろう。
一方の幽幻は、店の中に客が二人いるのを見て取ると、傍のテーブルに風呂敷包みを下ろし、澪に近づいてきて囁いた。
「この方たちはお客さんですね? お名前は伺ってますか?」
「あ、うん。男の人が美又勝巳さんで、女の子の方が、春日真桜ちゃんだよ」
「美又勝巳さんと春日真桜さんですね」
幽幻はそう確認すると、身を翻し、店の奥にある部屋へと向かう。
(ああ、そうか。この二人に言伝が残されていないか、確かめに行ったんだ)
奥の部屋がどうなっているのか、澪はまだ知らないが、どうやらそこが言伝の保管場所らしい。
やがてすぐに幽幻は奥の間から顔を出した。首を横に振っているところを見ると、二人に言伝は残されていないらしい。
そういったことは珍しくない。この店には基本的に、言伝を残したい人間がやってくるが、その当人に言伝が残されているとは限らないらしい。逆に、言伝を受け取るだけという客人もいる。そういった客人に、強引に言伝を書かせるのも、やってはならないことの一つだと幽幻に教えてもらった。
澪にはまだ分からないが、幽幻ほどになると、その客人がどういった用件で店を訪れたのか、尋ねなくてもだいたい分かるようになるらしい。それでも勿論、直接、死者本人に確認するのを怠ったことはないようだが。
やがて数分ほどすると、お絵描きに集中していた真桜が、「できた!」と嬉しそうに声を上げた。
「お姉ちゃん、絵ができたよ!」
「本当? 頑張ったね」
澪は真桜のところへ行き、画用紙を覗き込んだ。確かに動物園の絵らしく、とても賑やかな絵だった。真ん中に大小の二人の人物、そしてその周りをびっしり埋め尽くすように、色とりどりの、様々な動物が描いてある。
「この大きい人がお父さん、小さいのが真桜。それでね、この黄色いのがキリンさんで、水色のがゾウさん! 茶色いのが、ライオンさんなの!」
「よくこれだけ描けたね……すごいよ、真桜ちゃん」
画面の中には、キリンや像、ライオンの外にもたくさんの動物が描かれている。そして真ん中の真桜とその父親は、楽しそうに笑っていた。見ている方も、何だかつい笑顔になってしまうような絵だ。真桜の、動物園に行って楽しかったという気持ちが、とてもよく伝わってくる。
「……いい絵だね」
そんな感想が、自然と口をついて出た。真桜は嬉しそうにクレヨンの付いた手で、鼻の頭を掻く。
「へへへ……ホントはね、ヘビさんも描きたかったけど、パパが好きじゃないってい言ったから描かなかったの。真桜はヘビさん、好きなんだけど」
「そっか、ふふ……偉いね」
そして澪は絵を裏返して真桜に尋ねた。
「……それじゃ、この絵の裏にお父さんへのメッセージを書くね。何て書けばいいの?」
すると真桜は「うーんと……」と、考え込み、すぐに口を開いた。
「あのね、真桜はパパが大好きだよって……とっても、とっても大好きだよって、そう書いて欲しいの」
「……うん、分かった」
シンプルだが、その分ストレートな文面だ。気持ちが直球で伝わってくる。それに、とても真桜らしい。澪は、真桜が言った言葉を、クレヨンの黒で画用紙の裏に書き込んでいく。
「よし……これで完成だね!」
「うわあ、お姉ちゃん、ありがとう‼」
真桜は画用紙を掲げ、嬉しそうにぴょんぴょん跳ねた。
「お父さん、これ読んだら喜ぶかな?」
「うん。きっと、すごく嬉しいと思うよ」
真桜が跳びはねる姿を見ていると、澪も温かいものが胸の内に広がった。相手が死者とはいえ、お客さんに喜んでもらえると、澪も素直に嬉しい。特に今回は幽幻の手を借りず、澪がほぼ一人で対応したから、喜びもひとしおだった。
真桜に言伝を書いてもらったというよりは、一緒に作り上げたという感じだ。
「おっ、こいつは力作だなあ」
声をかけてきたのは美又だった。いつの間にやって来たのだろうか。真桜の描いた絵を覗き込み、顔を綻ばせている。




