第二十四話 父と娘②
それを考えると、この少女は死者だと見てまず間違いないだろう。おそらく、言伝屋に己の未練を晴らしにやってきたのだ。
しかし、彼女の年齢を思い出し、澪は複雑な心境になった。確か、四歳だと言っていた。死ぬにはあまりにも幼すぎる年齢だ。
父の零児は、『太くて短い生か、それとも、長くても空虚な生か。どちらが良いか、どういう生き方が幸せかなんて、簡単には決められない』と言っていたが、真桜の死はそれを差し引いても早すぎるのではないか。
痛ましいと思うとともに、現世に残された彼女の両親の心境を想像すると、何だかやるせない気持ちになるのだった。
「お姉ちゃん、また悲しい顔になっちゃった……」
「あ、ごめん! ちょっと考え事してて……ごめんね。そうだ、喉乾いてない? 何か入れてあげようか? お茶とか、ミルクとか……ジュースもあるよ」
すると真桜は、「ジュース!? 真桜、大好き!」と目を輝かせる。
「そう、ジュースね。何味がいい?」
「んーと、んーと……真桜ねえ、パイナップルジュースがいい!」
「うん、分かった。疲れたでしょ、そこの椅子に座ってて」
(パイナップルジュースか……あったかな?)
澪は首を傾げながら冷蔵庫を覗く。すると、オレンジジュースやアップルジュースに交じってパイナップルジュースもちゃんとあった。この冷蔵庫は、決して大きいわけではないが、意外と何でも入っている。
「はい、どうぞ」
コップに氷を入れ、甘酸っぱい匂いの黄色いジュースを注いでストローを挿し、真桜のところへと運ぶ。すると、喉が渇いていたのか、真桜は嬉しそうな笑顔を満面に浮かべた。
早速ジュースに挿したストローを口に咥えようとするが、ふと何か思い出したかのように神妙な表情になり、小さな手を合わせて「いただきます!」を唱えつつ、ぺこりと頭を下げた。
その様子から、普段の彼女の幼稚園での様子などが想像できてしまって、澪は思わずクスリと笑ってしまう。
ともあれ、客人を店の中に案内し、飲み物を出したのだ。澪の仕事はそこで終わりの筈だったが、真桜に対して個人的な興味が湧いてきた。
それに真桜にしてみても、このような人のいない店でほったらかしにされたら退屈で仕方ないだろう。そこで、少しだけならと、事情を聞いてみることにした。
「真桜ちゃんはこのお店に何をしに来たの?」
「ん~……分かんない!」
目一杯の笑顔でやたらと力強く答える真桜に、澪は思わず肩がこけそうになる。
(そうだよね……子どもってそんなものだよね……)
自分の気持ちや感情がまだ客観的に捉えられていないのだろう。よしんばそれが分かっていたとしても、表現する言葉を知らないのかもしれない。
「ええと、それじゃ……真桜ちゃんが今、一番したいことは何なのかな?」
すると、真桜はぽつりと答える。
「真桜……パパに会いたい」
すると、先ほどまで晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた真桜の表情は、見る間に曇っていってしまった。つぶらな瞳には涙が浮かび、今にもわんわんと泣き出しそうだ。でもそれを一生懸命に我慢し、澪の質問に答えようとする。
「真桜ね、お熱が出たの。病院に行って、お薬も貰ったんだけど、お熱が下がらなくて……気づいたらここにいたの。新しい『ういるす』にかかったんだって。パパ、すごく心配してた」
新型のインフルエンザか何かだろうかと、澪は思った。医療は発展しているが、世界がグローバルになり、いつどこで、何が原因で新しい病気が発生するか分からない。真桜のようは幼児は、まだ免疫機能がしっかり発達していないから、尚更そういった脅威には晒されやすい。病院を受診したのに薬が効かなかったのなら、余程のことなのだろう。
「……真桜のママはね、真桜が今よりもっと小さいときに、お家を出て行っちゃったの。パパは、『りこん』したんだって言ってた。だから真桜の家族は、真桜とパパの二人きりなの」
「そうなんだ……」
澪はますます真桜が気の毒に思えてきた。細かな状況は違うが、片親だという点や幼い時に辛い別れを経験しているという部分が、自分の過去と重なって見えた。
こんなに小さいのに、かわいそうに。自分にできることがあれば、真桜に何かしてあげたい。真桜が満足のいく言伝を残せるように、できるだけの事をしてあげたい。
そんな強い気持ちが湧き上がってくる。
「真桜はパパと会いたい。パパのところに帰りたい。真桜がいなくなったら、パパ、一人ぼっちになっちゃうよ。そんなの、パパがかわいそうだよ」
優しい子だと、澪は思った。いくら死者だとは言え、自分も見知らぬ街にやって来て心細いだろうに、現世に残された父親の身を案じている。その姿に強く心を打たれた。
それだけに、真実を告げるのは、残酷なことをしてしまうようで心が痛んだ。でも、それでも彼女に告げなければ。事実と向き合わなければ、言伝を書いてはもらえない。
「あのね、真桜ちゃん。お父さんとはもう会えないんだよ。真桜ちゃんはお父さんがいる世界とは別の世界に来ちゃったの」
「パパには会えないの……?」
真桜の両目に、再び大きな涙が浮かび上がる。澪はそんな真桜の傍にしゃがんで、紅葉のように小さい両手を取り、涙で潤んだ瞳をまっすぐに見て言った。
「うん、会えないの。でも、真桜ちゃんの気持ちを、お父さんに伝えることはできるよ。お父さんに手紙を書くの。そしたら、きっとお父さんがそれを受け取ってくれる」
「お父さん……喜ぶかな……?」
「多分……ううん、絶対に喜んでくれるよ!」
それを聞いた真桜は、少しだけ笑顔を取り戻した。
「……分かった。真桜、お手紙、書く!」
しかし幼い少女は、すぐに困った顔になる。
「でも、真桜、あんまり字が書けない……」
「え、そうなの?」
それにはさすがに、澪も困り果ててしまった。確かに真桜がまだ幼稚園児だということ考えると、長々とした文章を書くのは無理があるだろう。何かいい方法はないものだろうかと考えを巡らせていると、ふと思い浮かんだことがあった。
「ちょっと待っててね」
真桜にそう言い残し、澪はカウンターの傍にある棚の中を覗いた。先ほど、替えの半紙や墨の他に、あるものを見つけていたのだ。
それは絵の具道具やクレヨン、画用紙の束だった。どれも子ども向けのデザインのものばかりだ。何度か使用されている痕跡もある。澪はそれを思い出し、ピンときたのだ。
(多分、言伝屋には真桜ちゃんみたいな子が来ることもあるんだ。字が書けないような、小さな子。これはその時のためのものじゃないかな)
こうやって常備してあるということは、そう考えて間違いないのではないか。何事もきちっとしている幽幻の事だ。こんなところに不必要なものを置いたままにしているとは考えにくい。そしておそらく、言伝の封筒の中には絵も入れられるのだ。
澪はクレヨンの箱と画用紙を一枚、取り出すと、それを持って真桜のところに戻った。
「真桜ちゃん、提案なんだけど、真桜ちゃんがこれで絵を描くのはどうかな? それで、文字はあたしが書いてあげるから」
「ホント? ……いいの?」
「もちろんだよ。それがお姉ちゃんのお仕事だし」
「えへへ……真桜ね、お絵かき得意なんだ!」
真桜は得意そうに胸を逸らす。そして澪がクレヨンの蓋を開けると、さっそく画用紙に絵を描き始めた。最初に手に取ったのは、『うすだいだい』のクレヨンだ。それに、大きな楕円形を描いていく。おそらく、人の顔だろう。
「何を描いているの?」
澪も真桜の隣の席に座り、画用紙を覗き込んだ。真桜は弾んだ声で答える。
「んーとねえ、この間、パパと一緒に動物園に行ったの。その時のことがとっても楽しかったから、その時のことを描くの! それでね、これがパパなの」
次に取り出したのは、黒のクレヨンだ。真桜はそれで、今度は目を描き込んでいく。荒々しいタッチだが、勢いのあるのびのびとした絵だった。真桜は迷うことなく次々とクレヨンを手に取っていく。鼻歌交じりでとても楽しそうだ。幼稚園児の絵のうまい下手は残念ながらよく分からないが、お絵描きが好きなのは間違いないようだった。
(もうちょっとかかりそうかな……)
真桜は集中している。父親のことを思い出して、一生懸命に描いているのだろう。澪は敢えて声をかけす、隣に座ってそれを見守った。言伝屋の中に、再び沈黙が下りる。
すると、店先にふと人影が落ちた。
幽幻が戻ってきたのだろうか。ほっとして顔を上げるが、そこに立っていたのは、まったく別の人物だった。
「へー、ここが言伝屋ね。いい雰囲気じゃないの」
そう言いながら入ってきたのは、四十歳前後の全く見知らぬ男性だった。
紺色のシャツにアイボリー色の七分丈のパンツ、いかにも高そうなスニーカー。髪型はツーブロックで、腕にはシルバーの高級時計を嵌めている。どことなく軽そうで、休日はサーフィンをしていそうな雰囲気だった。ただ、肌の色はやけに白い。
(お客さんだ……!)
澪はどきりとし、慌てて椅子から立ち上がった。
「あの……よ、ようこそ……じゃなくて、いらっしゃいませ!」
「ははは、緊張してるんだ? かわいーなあ! あ、飲み物あるの? コーヒーでよろしく。ホットじゃなくてアイスね」
男性はそういうと、遠慮なくずかずかと店の中に入り、真桜の後ろにあるテーブルの椅子を引いてそこに腰掛ける。真桜はすっかりお絵描きにのめり込み、他に人がやって来たことにも気づかない。
「真桜ちゃん、お絵描き続けていてくれる?」
「うん、いいよ!」
真桜は大きな声で返事をするが、やはり絵を描くのに夢中で、こちらの方を見ない。画用紙は半分ほど絵で埋まっているものの、完成にはもう少しかかりそうだ。
「あの、少しお待ちください」
澪は男性にそう言うと、カウンターに向かった。
(何か、押しの強そうな人だな……)
内心でそう思いつつ、澪は冷蔵庫から冷やしてあった業務用のコーヒーを取り出す。そしていつも幽幻がピカピカに磨いている透明なグラスに氷を入れると、コーヒーを注いでストローを挿し、ミルクと砂糖を添え、盆にそれらを載せて男性のもとへと運んだ。
「どうぞ」
「ああ、ありがとうね」
男性はアイスコーヒーに何も入れず、そのままストローで一口飲んだ。
「うーん、いいね。これぞ、ザ・インスタントってかんじ!」
澪はどきりとした。ひょっとして、今のは嫌味だろうか。確かにインスタントに間違いないが、一応、粉ではない。業務用の液体コーヒーだ。それ以上のものとなると、さすがにここでは用意できないだろう。豆も設備もないし、そもそもそういう趣向の店ではない。
男性は身なりもいいし、いろいろこだわりが強そうだ。コーヒーにも、きっとうるさいだろう。抽出方法や豆の種類、コーヒーも突き詰めれば奥の深い世界だ。澪も一杯が五、六百円ほどする本格コーヒーを、母に奢ってもらって一度だけ飲んだことがあるが、普段飲んでいるインスタントとは全然味が違って驚き感動した覚えがある。
(どうしよう、謝った方がいいのかな?)
澪がどう対応してよいのか分からずにまごついていると、それに気づいた男性は「ああ、ごめん、ごめん」と笑い出した。
「俺さ、こう見えて子供のころは貧乏だったんだ。もう、ちょっとやそっとの貧乏じゃない、ド貧乏って感じ。だからさ、インスタントのコーヒーでもけっこうなご馳走だったんだ。大人になって美味いコーヒーはあちこちで飲んだけど、どうもこの味が忘れられないんだよねー」
「……そうだったんですか」
取り敢えず、気分を害されたわけではないようだ。まずは一安心と、ほっと胸を撫で下ろす。すると、それを見ていた美又がすかさず口を開いた。
「君、今、ほっとしたでしょ。分かりやすいねー。全部、顔に出ちゃってるよ」
「えっ」
「いやあ、ホントかわいーなあ! 名前、何ていうの? 俺は美又勝巳」
「舞阪澪です」
「ふーん、そう。澪ちゃんね。良い名前だね~」
そして、美又と名乗った男性は、にかっと笑いかけてくる。悪印象を与えたわけではないという事には安堵したが、今度は何だか、からかわれているような気分になってくる。
「はあ……」
(何か、すっごくノリが軽いんですけど……)
美又は格好と言い、仕草と言い、ずいぶん自分に自信があるようだ。年下の女の子とも遊び慣れているのだろう。澪に対してもかなりフランクだ。悪く言えば、少々なれなれしい。若干、美又に向ける視線が冷ややかになってしまうが、慌てて気を取り直す。何はともあれ、お客さんには違いないのだ。相手がどうあれ、澪は自分のやることをするだけだ。
「あの……店の主人は今、外出中なので、少し待っていただくことになるんですけど……」
「それはいいけどさ。ほら、ここ、何か手紙を書く店なんでしょ?」
「知ってるんですか?」
驚いて尋ねると、美又は親指で外の通りを指示しながら言った。
「まあね。ここからちょっと行った先に、賑やかな通りがあるでしょ。そこで聞いたんだよ。手紙を書いて残せる店があるって。言伝屋って言うんでしょ?」
「はい。言伝、書かれますか?」
「うーん、そうだなあ。俺は書きたいんだけどね~。相手が受け取ってくれるかどうか、分かんないんだよね」
美又はそう言うと、困り果てたように力無く笑った。その様子はどことなく自嘲気味であるようにも感じられた。澪は意外に思った。先ほどまで自信に満ち溢れた美又が、そんな表情をするとは思わなかったからだ。一体どういう事情があるのだろうか。俄かに興味が湧いてきた。
「あの……言伝を残したい相手って、誰なんですか?」
伏せられていた美又の視線が、真っ直ぐに澪へと向けられる。
「あ、すみません……無神経ですよね。そんな個人的な事……」
「いや、いいよ。手紙を残したいっていうのは、俺の一人娘なんだ」
「一人娘って……え、結婚してるんですか!?」
思わず素っ頓狂で大きな声を上げてしまい、しまった、と、慌てて自分の口を両手で塞ぐ。
まさか美又が結婚しているとは思わなかった。美又は確かに年齢的には既婚者でも不思議はないが、その雰囲気はどう見ても、家庭を持っている落ち着きとは無縁であるように思ったからだ。それが既婚者で、おまけに一児の父親だったとは。
「す、すみません……‼」
結婚に関する話題は、男女ともに結構デリケートなのだと聞いたことがある。ひょっとして怒らせてしまったのではないかと危惧したが、澪の意に反し、美又はおかしそうに破顔した。
「あははは、ホンットに正直だね、君! そう、俺、結婚してんの。しかもこう見えて、IT企業の社長なんだよ」
「えっ……社長さんなんですか!?」
「そうそう、社長さん。スマホのアプリってあるでしょ。あれを開発する会社を起業したんだ。創立十二年くらいの、まだまだ新しい会社だったけど、経営状況は悪くなかった。特に三年前に開発したゲームがちょっとした注目を浴びてきていてさ。いよいよこれからだって時だったんだ。……奥さんが家を出ていっちゃったの」
「そ……そうなんですか」
「ま、ありがちな話なんだけどね。あんまり仕事が忙しくて、……楽しくて。つい、家庭の方を奥さんに任せきりにしてたんだよね。専業主婦だったし、大丈夫だと思ったんだ。ところが、それがそーでもなくて、とうとう怒られちゃったわけ。『私と仕事、どっちが大事なの!?』……って」
(あー……)
澪にはまるでその光景が目に浮かぶようだった。
男性にしてみれば、専業主婦の女性は家にいて家事と子育てさえしていれば良いと思うかもしれないが、女性にしてみれば、そういう態度は結婚生活の苦労や大変な部分ばかり、一方的に押し付けられているような気持ちにさせられる。
実際に澪も、子育てに参加しない男性との結婚なんて、絶対にありえないと思っている。まあ、澪の場合は、まずその相手となる男性がいないわけなのだが。
「……そんでまあ、こっちもいつもならすぐ謝ったんだけどさ、何せ納期間近で徹夜続き、一番忙しい時にそんなこと言われちゃったもんだからさ。ついこっちも言い返しちゃったんだよね、『そんなつまらない事でぎゃあぎゃあ喚くな』って」
「そ……それは、まずいですよ!」
「そーなんだよねえ。けど、俺、社長だったからね。実際、だからじゃあ休暇取りますとか、ぶっちゃけホント無理だったんだよ。小さい会社だったから、いつも猫の手も借りたいほど忙しかったし、大企業の社長さんみたいに、のんびりゴルフしてても周りがみな動いてくれるなんて事はあり得ないわけだしさ。むしろ、社長が率先して働かないと、他の社員に示しがつかないわけ。俺ももう、忙しすぎていろいろ一杯一杯だったんだろうね。こっちだって大変なんだよ、何で分かってくれないんだよって……そういう感情が先に来ちゃったんだよね……」
美又は再度、弱々しく笑う。
澪は、ははあ、成る程……と思った。だからこの人は、こんなに肌が白いのか、と。おそらく、屋外に出ている時間が殆ど無かったのだろう。一日中、オフィスで仕事に明け暮れていたに違いない。
「それからかな。段々、すれ違いが多くなっちゃって、家に帰っても奥さんは超絶不機嫌だし、会話は無いしで、ますます帰宅が遅くなったりしちゃってさ。そんなこんなで二年ほどたった頃かな。とうとう家を出ていっちゃったんだよ」
「追いかけたりしなかったんですか?」




