第二十三話 父と娘①
(あー、緊張する……!)
澪は言伝屋のテーブルに座り、両手を拳にしてそれを握りしめ、般若か不動明王像のようにぎりぎりと外を睨みつけていた。
昼間の幻朧街は、今日も常と同じく人けがない。
天気はからりとした晴れで、店先には気持ちのいい陽光が注ぎ込んでいる。
目の前の民家には庭先に柵があり、そこに這った時計草が特徴的な形をした花をいくつも咲かせ始めていた。
だがその美しい光景も、澪の視界には入らない。
(うう、これじゃ神経が持たないよ……! 幽さん早く帰ってこないかな)
今、店の中に幽幻はいない。用事があると言って、出かけたのだ。覇王丸も今は店にいない。よって、現在、言伝屋にいるのは澪ひとりだった。
もし、来客があれば、澪一人で対応せねばならない。そんなことは初めてだ。
(どうしよう、本当にお客さんが来たら……失礼があっちゃいけないのは当然として、まず席に通して、飲み物を出して……いつも通りにすればいいんだよね? でも、もし何かハプニングが起こったら……? 対応しきれる自信なんてない……!)
そもそもの話は、十分ほど前に遡る。
最初にその事に気づいたのは澪だった。
カウンターの片づけを幽幻に頼まれ、食器用洗剤を取り出そうと棚を覗き込んだ時だった。そこには他にも半紙や墨、硯の替えなどが置いてあるのだが、ふと半紙の入った箱が目に入った。
あれ、なんだか随分と紙の量が減っている。気になってあちこち調べてみたが、やはり他に替えの半紙はない。言伝屋に常備してある半紙が残り僅かになっていたのだ。
「幽さん、大変! 半紙があと二、三十枚くらいしかないよ」
一つの言伝に費やす紙の量は、お客さんによってまちまちだが、大体、二、三枚が平均だ。その計算でいくと、あと十人ほどの来客で紙が尽きてしまうことになる。そうなったら大変だ。言伝を書いてもらうことができなくなってしまうし、《未練》を晴らせなかったお客さんは最悪の場合、《獏》になってしまうかもしれない。
幽幻も俄かに眉をひそめた。
「そうですか……私としたことがうっかりしていました。最近、何かとバタバタしていたものですから……」
「どうするの?」
「《夢幻通り》に行って買ってきます」
「え、今から!?」
「ええ。店番を頼めますか?」
澪は真っ青になり、慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「そんな……そんなの、無理だよ! あたしが一人の時にお客さんが来たら、一体どうしたらいいの!?」
しかし、幽幻の返答はといえば、いつも通りに素っ気ないものだった。
「そうは言っても、紙がなければ困るでしょう。覇王丸も出かけているし、あなたしか頼める人がいないのです。それとも……あなたが《夢幻通り》に行って紙を買ってきますか?」
「……それはもっとムリ」
頼みの綱である覇王丸は、幽幻の言う通り、今日は朝から外出していた。覇王丸は時々、ふらりと出かけることがある。何をしているのか詳しくは知らないが、どうやら人探しを続けているらしい。
(空穂さん、早く見つかるといいな……あたしも会って話とかしてみたいし)
幽幻が師匠だと呼ぶその女性は、ある日突然姿をくらましたまま、帰って来ないのだという。無事に見つかればいいと願う一方で、もしその空穂という女性が自ら消息を絶ったのだとしたら、簡単には見つからないのではないかという気もしていた。
もちろん、そんなことを幽幻の前で口にしたりはしなかったが。
幽幻は身支度をしつつ、「とにかく、」と言って、店先に向かう。
「もし私がいない間にお客さんが来たら、待ってもらうようにして下さい。お茶を出すのを忘れてはいけませんよ。……そんなに不安そうにしなくても、すぐに戻りますから」
そう言って、幽幻は出かけてしまったのだった。
「とにかく……しっかりしなくちゃ。」
そうして一時間ほどが経ったが、まだ、幽幻も覇王丸も戻ってこない。
幸いなことに、その日は来客が少なく、午前中に一人来たきりで、店の中には他に人けは無かった。最初は、いつお客さんが来るのだろうとドキドキし、緊張して店先を見守っていた澪も、さすがに肩の力が抜けてくる。
よく考えれば、全く客が来ない日も珍しくないような店だ。幽幻が出かけたからと言って、すぐに来客があるわけでもなく、店にはぽかぽかとした長閑な陽光が差し込むのみだ。
「幽さん、遅いな……何してんだろ? それにしても……暇だな……」
あまりにも静かで気候もいいので、つい、うとうとしてしまい、澪は慌ててはっと瞬きをした。
「い……いけない、居眠りしちゃ……!」
そして両手でぺちぺちと自分の頬を叩き、眉をきりりと引き締め、再び店先へと目をやるが、すぐにまた眠気に襲われてしまい、うとうとと舟をこぐ。
それを何度か繰り返すうちに、とうとう強い睡魔に抗えなくなり、テーブルの腕に突っ伏してしまったのだった。
(あれ、ここは……?)
ふと気づくと、澪はどこかで見覚えのある公園の中にいた。
照りつけるような朝日は眩しく、シャワシャワとセミの大合唱で溢れ返っている。周囲を見渡すと、やけに視線が低い。そばにある桜の木も、滑り台やジャングルジムもすべてが見上げるほど巨大で、鉄棒に至っては手が届きそうにない。
その大きさに圧倒され、口をあんぐりと開けて見つめていると、不意に背後から声をかけられた。
「……澪!」
振り返った、その先には。
「お……お父さん!」
少し癖のある、栗色がかった髪の毛。若草色のポロシャツや象牙色のスラックスが落ち着いた雰囲気で、それによく似合う。芯の強そうな眼もとをしているけれど、時代遅れの楕円形レンズの眼鏡のおかげで、妙な愛嬌と親近感がある。
何度も何度も思い出し、その度にもう一度会いたいと願わずにはいられなかった、懐かしい顔。
すでにこの世を去ったはずの父――舞阪零児の穏やかな笑顔がそこにあった。
(ああ、そうか……これは夢だ)
しかも、自分が子供のころに体験したことの夢。
公園に見覚えがあると思ったのも通りで、当時住んでいた家の近所にあった、小さな公園を再現した夢なのだ。
あれは、澪が五歳のころの頃の話だ。確か夏の暑い日の朝だった。
父は勤めていた会社がたまたま休みで、澪を外に遊びに連れ出してくれた。と言っても、場所は近所の公園だが、いつもは仕事で忙しくしている零児と遊びに行けるということ自体が嬉しく、澪は終始、はしゃいでいた。
そして、公園に到着するや否や駆け出し、ブランコに乗ったり零児と鬼ごっこをしたりして、楽しく過ごした。零児は子供好きで、今、思い返しても、子供をあやすのがうまかったと思う。
そうしてひとしきり遊んだあと、零児は木のふもとにしゃがみこんだ。
「……お父さん、何してるの?」
どうやら、地面に何か落ちているのを見つけたものらしい。何だろうと父の手元を覗き込むと、零児は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「澪、これなーんだ?」
そう言って父が拾い上げたのは、薄茶色のかさかさした奇妙な物体――蝉の抜け殻だった。
「何それ? 何だか怖い……!」
蝉の抜け殻を目にするのは初めてだった澪は、思わず後ずさりした。
決して、形が気持ち悪いと思ったわけではない。虫が嫌だったのでもない。かつてそこに息づいていた命の痕跡を色濃く残した琥珀色の皮膜に、一種の畏ろしさを感じたのだ。
そう、それは恐ろしいほど生々しく、同時に不思議と神聖さを併せ持っていた。二本の大きな足を折り畳み、背を丸めて縮こまったその姿は、まるで胎児のようにも見える。芸術的な造形は奇跡にも等しく、人が簡単には踏み入れるこのできない、まさしく神の領域によるものだ。
ただ、幼かった当時の澪に、その怖いという感覚がどこから来るのかよく分からなかった。いかに大好きな父が見せてくれたものとはいえ、気楽に飛びつくことができなかった。
すると父の零児は、澪の反応を見ておかしそうに笑う。
「澪は怖がりだなあ。でも、何となく分かるよ。これはね、蝉の抜け殻なんだ。色や大きさからおそらくアブラゼミだね」
「アブラゼミ?」
「そう。頭の上で、ジージー言ってるだろ? 蝉は大きくなる時に、脱皮するんだ。自分の皮を脱ぐんだよ。澪も大きくなったら、小さくなった服を脱ぐだろう? それと同じだよ。父さんが子供のころは、よくこれを拾って集めてたよ」
零児はどこか懐かしそうに目を細める。しかしやがて、静かに語り始めた。
「……澪、知っているかい? 蝉は赤ちゃんの頃に地中深くに潜って、長い時を過ごすんだ。アブラゼミは六年ほどだけど、セミの種類によっては、十年近く潜っているものもいる。そしてこの抜け殻くらいの大きさになってから地上に出てくるんだ。
でも、地上に出て羽化した蝉はそう長くは生きられない。一、二週間……もってせいぜい一か月だ。その短い間に恋をして、子供を産んで死んでいく。……とても、壮絶な生き方だね」
大人になれば、誰でも一度は耳にするであろうその話を、当時の澪はまだ知らなかった。零児はそれをとても素晴らしいことのように言うけれど、話を聞いていた澪はなんだかとても悲しくなって、眉毛をハの字にして言ったのだった。
「一週間くらいで死んじゃうの? 何だか、かわいそう……」
「そうだね、その通りだ。でも、父さんは時々、そういう生き方が羨ましいと思うこともあるよ」
「どうして?」
澪が驚いて尋ねると、零児は、ふ、と微笑む。
「確かに人間にとって数週間というのは短い時間だ。それまでの六年を考えると、余計にね。でも、蝉にとってはどうだろう? 蝉は自分のことを可哀想だと思っているのかな?」
「どういう事?」
「何年も何年も地中で待って、ひと夏で全てを散らす……まるで夜空に咲く大輪の花火みたいだ。花火はとてもきれいだろう?」
「うん」
「あれは一瞬の瞬きだからきれいなんだ。煌々と輝き続けるネオンは時として人を不快にさせる。でも、花火はみな美しいと言う。目を凝らしていないと、すぐに消えてしまう……そういう儚さに惹きつけられるからさ」
そして零児は、拾った蝉の抜け殻を、愛しそうに指先で撫でる。
「……蝉にとっての地上での時間は、確かに短い。でも、その中身は一体どれほど濃厚なんだろうね?」
澪はもやもやとした感情に包まれる。零児の話は難しくてよく分からない。でも、ひとつだけ強く心の中に浮かんだことがあった。
「でも……でも、澪はそんなのイヤ! お父さんやお母さんが死んじゃったら……澪、すっごく悲しいもん! ずっと……ずっと、ずっと、長生きしてて欲しいもん‼ 蝉が羨ましいなんて、そんな悲しいこと言わないで……!」
「……澪はやさしい子だね」
腕にしがみつく澪の頭を優しく撫で、どこか嬉しそうに笑った後、零児はぽつりと呟く。
「太くて短い生か、それとも、長くても空虚な生か。どちらが良いか、どういう生き方が幸せかなんて、簡単には決められないのかもしれない。でも、一つだけ言えることは、人は存外、思うようには人生を選べないってことだよ。どれだけ立派な夢や希望を持っていたとしても、大抵の人はそれを叶えることができないんだ。それでも、本人が幸せならそれでいい。自分が選んだ道が常に正解だとは限らないからね。……けれど大抵、思い通りにならないということは大変な苦痛を伴うことなんだよ」
そして、澪の瞳を正面からまっすぐに見つめる。
「でも……どんなに不幸でも、どんなに苦しかったとしても、みんな置かれた場所で精いっぱい生きるしかない。この蝉と同じように……ね」
その時の父は、口元はいつものように優しく笑っていたけれど、目はとても悲しそうだった。それを目にしたからだろうか。澪も、なんだか無性に悲しくなってきたのだった。
どうして、お父さんはそんな話をするのだろう。普段はにこにこと優しくて穏やかなお父さんが、なぜ?
嫌な予感と不安が塊となってモヤモヤとし、胸が押し潰されそうだった。
父があの時、どういう意図があって、そういう話をしたのかは分からない。でも、今にして思えば、何かしら予兆のようなものを感じていたのかもしれない、とも思う。幼くて、物心も禄についていないような娘に、それでも何か伝えたかったのではないか――と。
零児が他界したのは、それから半年ほど後のことだった。駅のホームから線路に落ちたお年寄りを助けようとして、列車の下敷きになったのだ。
享年三十八という若さだった。
「お父さん……」
ハッとして目を開けると、言伝屋の中は、変わらず静かだった。澪以外は誰もいない。とても懐かしい夢を見たせいだろうか。それが先ほどより寒々しく感じられた。
どれほど眠っていたのだろう。時計を見上げると、眠り込んでいたのは僅か五分ほどだったようだ。澪は、ほっと胸を撫で下ろす。曲がりなりにも留守を任されたのだ。居眠りは良くないに決まっているが、店には客の姿もないことだし、ギリギリセーフだろう。
「幽さん、まだ帰ってないんだ……」
生真面目な幽幻のことだ。道草を食っているとは考えにくい。《夢幻通り》で何かあったのではないかと、つい心配になる。こんな時、迎えに行けることができたならと思わないでもないが、澪はまだこの幻朧街に不慣れで迷子になってしまうかもしれないし、いまこの店を離れるわけにもいかない。
(それにしても……お父さんの夢なんて、久しぶりに見た)
父の零児を思う時、一つの言伝の存在を思い出さずにはいられない。母の亜季から預かった、あの海老茶色の封筒に入った言伝だ。
しかし、澪はまだその中身に目を通していなかった。それどころかまともに触れることさえできず、二階の自分の部屋にある文机の引き出しの中に、しまい込んだままになっている。
読まなければ。折角、父や母が残してくれた言伝なのだ。
娘である自分には、読む義務がある。
しかし、そう思いつつも、実際には言伝の内容を読めないままでいた。中を読めば、嫌でも母の死を思い出してしまう。その勇気が、今はまだなかったのだ。
(このままじゃいけないって、分かってるんだけどな……)
言伝の中身が気にならないわけではない。父の零児が最後にどんな言葉を残したのか。気にならない筈がない。それでも、どうしても一歩が踏み出せないでいるのだった。
「あーもう、あたしのバカ! 意気地なし! もうこれ以上、後悔したくないのに……」
がばっと机に突っ伏した澪は、ふと思う。
あの時、父はこう言った。『どんなに不幸でも、どんなに苦しかったとしても、置かれた場所で精いっぱい生きるしかない』、と。
零児はどうだったのだろうか。澪が知っているのは父としての零児だけだ。どんな人生を歩んで、何を思い、考えていたのだろう。
最後にこの言伝屋で、手紙を書きながら幸せな人生だったと思えたのだろうか。
「あたしは全然、納得できない。今でも元の世界に戻りたいよ、お父さん……」
弱弱しい声を溜息とともに吐き出すと、不意に妙に舌足らずな、たどたどしい声が聞こえてきた。
「……ねえ、どうして泣いているの?」
まさか言伝屋の中に、自分の他に人がいるとは思わなかった。驚いて上体を起こし、部屋の中を見渡してみるが、人の姿は見えない。
「ねえってば!」
再び声がする。どうやら、ずいぶん低い位置から発せられたようだ。
視線を落とすと、四、五歳ほどの女の子がこちらを見上げていた。ツインテールがよく似合う、快活そうな子だった。どこかの幼稚園の制服だろうか。ウサギのアップリケが入った水色のスモックを着ている。鹿のようにぱっちりとした真っ黒い瞳が、一心に澪を見つめていた。
「どうして泣いてるの? 何か悲しいことがあったの?」
再度、指摘され、澪は自分の頬を涙が濡らしていることに気づく。それを指先で拭い、椅子から立ち上がると、見知らぬ少女のそばにしゃがんで目線を合わせ、微笑みかけた。
「あ、うん。これはね……ちょっと、お父さんの夢を見たから」
「お父さん? 真桜にもパパがいるよ。とっても優しくて頑張り屋さんなの!」
「えっと……あなたは真桜ちゃんっていうの?」
「うん。春日真桜、四さい! ひまわり幼稚園の、うさぎさんクラスなの!」
「ああ、だからウサギさんのお洋服を着てるんだね」
「うん、可愛いでしょ?」
真桜と名乗った少女は、スモックの裾を引っ張ってこちらにウサギのアップリケを見せながら、屈託なく笑う。
「あたしは澪だよ。舞阪澪。真桜ちゃんとは一字違いだね」
「あ、本当だ。『みお』と『まお』……何だかお姉ちゃんと妹みたい!」
嬉しそうに笑う真桜に、澪も好感を抱かないわけがなかった。
「あたしも一人っ子だったから……真桜ちゃんみたいな妹が欲しかったな~」
「真桜も一人っ子だよ。お姉ちゃんと真桜、同じところがいっぱいだね!」
実際、真桜の雰囲気は、子供のころの自分に似ているような気もする。純粋であどけなくて、これからいいことがたくさん待っているのだと、微塵も疑っていない、透き通った目。
(あれ……?)
しかし、すぐに澪はあることに気づいた。
(でも、この子……ここにいるってことは、お客さん……死者ってことだよね……?)
この街は死者の街だ。訪れる者も去る者も、およそみな死者と決まっているのだ。
たまに澪のように生きた人間が入り込んでしまうこともあるらしいが、それは砂場に落ちた針が運良く見つかるのと同じほどあり得ない状況で、十年に一度あるかないかなのだという。




