第二十二話 妄執の果て②
「あはっ、バッカじゃないの? 努力が何の役に立つって言うのよ?
そんな貧乏丸出しの死にそうな顔して、髪振り乱して描いた人間の絵が、人を感動させられるって本気で信じてるわけ? 私は嫌だな、そういうの。気味が悪いだけだよ」
「なっ……!?」
「……平岡さんの絵ってさあ、そういうのが出ちゃってるんだよね、どんよりしてて暗い色彩の絵が多いし……崇高な精神性を表現したい、みたいなこと思ってるのかもしれないけど、そういうの今、流行んないから。重苦しくて鬱陶しいだけだから。っていうか、誰にも求められてないからぁ! あはは‼」
「……‼」
その瞬間、平岡ジュンコの中で何かが弾け飛んだ。
彼女と自分の才能の差は、嫌というほど思い知らされていた。けれど、だからと言って正面切って自分の作品を侮辱され、平静など保てるはずも無かった。
おまけに、早稲田弥生の言う事に何一つ反論できないのも、憎悪を煮えたぎらせる原因の一つとなった。平岡ジュンコの絵が色彩やテーマが重苦しいというのは事実であったが、早稲田弥生に指摘される瞬間まで、それが自分の長所だと思い込んでいたのだ。
だが冷静に考えれば、それが周囲に評価されていないのは明確だった。そうでなければ、とうの昔に何某かの賞を取って結果を出していただろうからだ。そして、その事実に目を背け、自分が評価されないのは俗っぽいものを好む周囲が悪いのだと、そう己を慰めることで、どうにかこうにか崩れそうなプライドを保っていた。
早稲田弥生はその欺瞞を見事に見抜いたのだ。そういう意味では、彼女の言葉は真実を言い当てていたと言える。
だが、事実であれば何でも受け入れられるというわけではない。
むしろ、圧倒的才能を持つ早稲田弥生にそのように言われ、平岡ジュンコのプライドはズタズタになった。目の前が真っ暗になり、自分の作品も自分自身も、全てが矮小化し、無価値になっていくかのような絶望感。とても許せなかった。才能がありさえすれば、他人から奪い、傷つけてもいいというのか。持たざる者は、その横暴さと傲慢さを前にしても、自分が無能であるせいだと涙を飲むしかないのか。
早稲田弥生は平岡ジュンコのような悔しい思いを、おそらく一生することはないのだろうと思うと、余計に怨嗟が膨れ上がる。
少しくらいやり返していいではないか。いや、むしろ、早稲田弥生はそれ相応の報いを受けるべきだ。やがて平岡ジュンコはそう考えるようになった。
才能があるおかげでちやほやされるというのなら、人格的な問題のせいで痛い目をみるのも、また彼女の生まれ持った宿命ではないか。どちらか片方だけ享受するなど、そんなのはただのご都合主義だ。絶対に許せないし、認められない。
だから、復讐を決意したのだ。
だが、絵の才能では彼女にかなわない。だから、彼女の最も大事なものを破壊してやると決めた。当時、早稲田弥生は付き合っていた彼氏に熱を上げ、夢中になっていた。だからそれを奪ってやるのだ。
平岡ジュンコはそうして、早稲田弥生の交際相手である、北原という男に近づいたのだった。
早稲田弥生と相思相愛かと思われた北原だったが、近づいてみると、呆気なく平岡ジュンコの誘いを受け入れた。どうやら、あまりにも幼稚で子供っぽい早稲田弥生の性格に、内心ではウンザリしていたものらしい。その為もあって、二人の関係は瞬く間に交際へと発展していった。
思いの外、作戦がうまくいき、平岡ジュンコは愉快で仕方なかった。
ほうらね、やっぱり。弥生、あんたのその最低な性格のせいで迷惑を被っているのは、何もあたしだけじゃなかったでしょう? あんたはこれから、その代償を払うのよ。自分には才能があるからと、労せず望むもの全てを手に入れて生きてきた、その怠慢と強欲の付けを、これからたっぷりと払うのよ。
やがて北原と平岡ジュンコの交際は、早稲田弥生の知るところとなった。激怒した彼女は、どういうつもりかと北原を問い詰めたらしい。一方の北原は、もともと早稲田弥生の性格に嫌気がさしていたこともあり、その辺が潮時だと考えたのだろう。呆気なく別れを切り出したのだった。
一つ誤算だったのは、その時の早稲田弥生の落ち込みようが、平岡ジュンコの想像を遥かに超えたものだったということだ。げっそりと頬がこけ、髪型やファッションに全く気を使わなくなり、やつれた顔でふらふらと歩く早稲田弥生の姿は、まるで成仏し損ねたままこの世を彷徨い続ける、哀れな亡霊のようだった。
どうやら才能があるとちやほやされて生きてきた彼女は、それまで自分を否定されるような経験を全くしてこなかったらしい。彼氏に別れを告げられたのが生まれて初めての挫折だったというわけだ。
だが、早稲田弥生の目を覆うばかりの痛々しいやつれぶりは、平岡ジュンコの優越感をこれ以上もなく、くすぐった。早稲田弥生がそんな目に遭ったのも、今までさんざん好き勝手に振舞ってきた罰だ。自業自得であって、同情などする余地もないのだ。
最後に会話を交わしたのはいつ頃だっただろうか。人けもなく、薄暗い大学の構内の廊下で、平岡ジュンコは偶然、早稲田弥生と出くわした。早稲田弥生は、まるで仇敵にでも出会ったかのような、憎しみに満ちた眼差しを、平岡ジュンコに向けた。
「お……覚えてなさいよ……! 許さない……絶対に許さないから……‼」
――絶対に許さないから。
早稲田弥生はその言葉をまるで呪詛のように、何度も何度も呟いた。だが、平岡ジュンコはざまあみろ、自業自得よ、とそれをせせら笑って受け流しただけだった。その瞬間ほど、胸のすっとする思いをしたことはない。
そして早稲田弥生が自殺をしたのは、その三日後――留学予定日の一週間前だった。
大型プロジェクトに選出されるほどの、画才に溢れた学生の死。大学内は騒然となった。そして、同時に平岡ジュンコと早稲田弥生の間にあった『トラブル』も、同時に周囲の知るところとなった。
大学の同期の軽蔑しきった噂声。教授たちの冷めた視線。早稲田弥生から略奪した男は、あたしに何て言ったっけ。
―――お前が弥生を殺したようなものだろう!俺は悪くない。お前に騙されただけだ。この人殺し!
人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し殺し殺し殺殺殺殺殺殺殺殺………………
「……クセに」
「え………?」
霧の向こうから聞こえてくる微かな呟きに、平岡ジュンコは眉根を寄せる。
次は、はっきりと聞こえた。
「どうせ、才能なんてないクセに」
早稲田弥生の声だった。
「な、何ですって!」
平岡ジュンコは声を荒げ、掴みかからんばかりの勢いで早稲田弥生の顔を睨みつけた。しかし、目の前にずらりと並んだ彼女の口は動いていない。声は尚も霧の中から響いてきた。
「あたしを蹴落として有名になったからって、あんたに才能が芽生えるわけじゃない。一時人気が出たとしても、すぐに化けの皮なんて剥がれる。……だからあんた、今ここにいるんでしょ?」
「………!」
平岡ジュンコは息を呑む。
「私の絵をそっくりそのままトレースして、有名にはなったところまでは良かったものの、すぐにそれも限界がきてしまった。そして、あっという間に仕事が貰えなくなって自宅で首を吊ったのよね? ……私と同じ」
声の中に嘲笑が混じった。それが平岡ジュンコの神経を逆なでにした。
声の言ったことは事実だった。早稲田弥生の死後、平岡ジュンコは彼女の遺した絵をつぶさに研究し、それを徹底的に真似た。
いや、真似などという生易しいレベルではない。
それをそっくりそのままトレースしたのだ。
自分が本来描いていた辛気臭いテーマや色使い、写実性を捨て、早稲田弥生の様なダイナミックな構図とパワーのある配色、そしてセンセーショナルな題材を自ら進んで描くようになった。
トレースしたのは絵だけではない。
早稲田弥生の奇抜なファッション、彼女の傲慢でありながらも何故か人目を惹く仕草、努力や堅実さを馬鹿にし、自由奔放で感性を重視した考え方。
頭のてっぺんから足の爪の先まで、全て早稲田弥生になりきった。そしてそれまでの『平岡ジュンコ』をすべて捨て去り、全く新しい自分になったのだ。
そうして生まれ変わった平岡ジュンコは、早稲田弥生がそうであったのと同様、徐々に世間の注目を浴び、やがてメディアのスポットライトを浴びるまでになった。
そして、その絵の魅力や、平岡ジュンコ自身のキャラクターのインパクトが大いにウケて画家としての仕事が少しずつ舞い込むようになり、ひいてはその収入で家を建てられるまでになった。更に、憧れのヨーロッパで個展を開くことまでできたのだ。
全ては早稲田弥生の絵の作風を真似たおかげ――いや、早稲田弥生の生き方そのものを写し取ったおかげだった。
更に幸運だったのは、それを咎める者が殆どいなかったという事だ。早稲田弥生がまだ作風や地位を固めぬまま、若くしてこの世を去ったおかげで、存在が殆ど世間に知られていなかったのだ。
だが、それがいつまでも通用するわけでは、勿論ない。才能があったのは早稲田弥生であり、平岡ジュンコではないのだから。
皮肉なことに、絵を描けば描くほど、平岡ジュンコは己の無能ぶりを世間に晒すこととなった。「あの人は、何を描いても一緒だね」――絵を仕上げる度に、影でそう囁かれる。当然だ。平岡ジュンコの絵はもともと早稲田弥生のものであり、そこに平岡ジュンコ自身が自ら生み出したものなど何一つないのだから。
だが、だからと言って描かなければ生活ができない。家や車のローンだって残っているのだ。
そして、追い詰められ、右往左往しているうちに、あっという間に次々と仕事を失っていったのだった。
「可哀想な子……そんなに私になりたかった? いくら成り済まそうとも、あなたはあなた、私は私。そんな事、分かっていたでしょうに……そうまでして才能が欲しかったの?」
「う……うるさい! うるさい!」
大声を張り上げるが、霧の向こうから聞こえてくる早稲田弥生の声は止まらなかった。
「あんたは自分で死んだクセに、まだ未練がある。だからこの街を出られないのよ。……私と一緒。私も悔しくて悔しくて、死にきれなかった。あんたのせいで。
悔しい? 自分の作品が認められない事ほど悔しくて辛い事は無いものね。才能もないクセに下手にプライドが高いと、余計にそうでしょ? ……可哀想」
「うるさい! 黙れ! あっちに行け!」
平岡ジュンコは金切り声で叫んだ。パニックに陥ったかのように、両手をぶんぶんと振り回す。しかし《獏》は動じない。ただ、無数の早稲田弥生の、焦点の合わないぼんやりとした瞳が一斉に平岡ジュンコに注がれていた。
平岡ジュンコは混乱する。これは一体、何なのか。何故、こんな事になったのか。まるで悪夢のようだとしか思えなかった。脈絡もあらすじもない、狂った悪夢。
何かがおかしい。ようやくその事に気づいたが、もはや何がおかしいのかも考えられる状態ではなかった。
ただ、一つの疑問が不意に湧き上がって来て、強烈に頭の芯を揺さぶる。
弥生は一体、自分をどうしたいのだろうか――と。
早稲田弥生の囁く声が、平岡ジュンコのすぐ耳元で聞こえた。
「待ってたのよ、ジュンコ。私、ずっとあんたを待ってた。
安心して。もう、恨んでないわ。悔しくも無いし、彼にも未練は無い。
そういう事はとうの昔に感じなくなってしまった。
ただ、今は寂しいの。凍えそうなほど、寂しい………。
ねえ、だからお願い。一緒にいて。
ねえ、お願い…………」
決して逃がすまいと、全身をがんじがらめに縛るかのような、粘着質の声。
その刹那。
今まで無表情だった無数の早稲田弥生の顔が、にいい、と歪んだ。
どの顔もどの顔も、同じ表情で笑っている。笑った口が耳まで裂け、生々しい剝きだしの歯がその口腔内に覗く。唾液が糸を引き、ぞろりと赤黒い舌が蠢いた。その口の中からむわっと腐臭が吐き出され、平岡ジュンコの顔にかかる。
腐った魚の死体が浮かぶ、水槽の臭い。それを煮詰め、何十倍にもしたような、死の匂い。
早稲田弥生の顔をした《獏》は一斉に平岡ジュンコに向かっておどりかかる。
平岡ジュンコの大きな瞳が見開かれた。涙と共に、ボコリと眼球がとび出す。
断末魔のような叫びが霧の中に響き渡った。
そして――――――――――――――――――……………
平岡ジュンコが《宵闇の門》をくぐる事は無かった。
そして幻朧街に再び姿を現すことも、二度となかった。




