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幻籠街の言伝屋  作者: 天野地人
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第二十一話 妄執の果て①

 夜は刻々と更けていく。


 しかし、平岡ジュンコは幻朧街を出られずにいた。


 いくら歩いても、《言伝屋》の店主に教えられた様な門は無い。

 腹を立て、文句を言ってやろうと引き返すが、当の《言伝屋》は何故かきれいさっぱり消え失せていた。一本道を進み、それを戻っただけなので、迷うなんてことは考えられない。だが、古びた店舗は、まるで最初から存在などしなかったかのように、忽然とその姿を消し去っていた。

 

 確か、近くに華やかな提灯を掲げた、賑やかな通りもあった筈だが、それも今は消え失せている。


 どれだけ歩き回っても、視界に映るのは同じ古い家屋がただ並ぶだけの、単調な街並みばかりだ。他にすれ違う者もいない。


「ったく……何なのよ、何処まで行っても同じじゃないの! これだから古い街って嫌いなのよ、都市デザインがてんでなってないんだから!」


 苛々しながら歩き続ける。街灯も数が少なく、旧式の設備のため、気味が悪いほど薄暗い。月明かりが静かに路地を照らしている。ただ、それだけが頼りだ。


 しかしその月も、なぜか突然、曇り始めてしまった。雲が月を覆ったのだろう――そう思って上空を見上げるが、そこに雲は無い。どういう事かと訝しんでいると、視界全体が更に白く煙り始めた。街の輪郭が闇に呑み込まれるようにして、どんどんぼやけていく。  


 平岡ジュンコは、すぐに自分が夜霧に包まれているのだと気づいた。けれど、それに気づいたからと言ってどうこうできるわけでもない。困り果ててその場に立ち竦んでいる間も、霧は情け容赦なく濃さを増し、月どころか自分が今どこに立っているのかも分からないほど煙っていく。


 そして、一面が薄墨を垂らしたかのような灰色の世界に塗り替えられていく。


「何なのよ……もう! 最悪な事ばっかり!」

 思わず毒づいた。

 平岡ジュンコにとっては、思い通りに事が進まないという事は何よりの苦痛だった。自分の望みを叶える為には、どんな犠牲を払う事も厭わなかった。今まで、ずっとそうして生きてきたのだ。卑怯な手段も進んで講じてきた。能力や実力のあるものばかり正当に評価されていたら、自分の出番は永遠に来ない。 それでは困る。


 先程の店――《言伝屋》にいた娘は平岡ジュンコのしたことを「最低」と言った。それがおそらく世間一般の評価だろう。そんな事はよく分かっている。

 

 だが、〈才能〉などという曖昧な物差しで人間を計る事が果たして正しいのだろうか。そもそも〈才能〉とは何なのか。〈才能〉があると評価を受けた者はちやほやされ、〈才能〉が無いというレッテルを張られた者は、その時点で見向きもされない。お互い様なのだ。この世界では訳の分からない基準で優遇される者と冷遇される者がいる。努力でどうにもできないのなら、別の手段を講じる他ない。

 

 平岡ジュンコはそれに対して常に現実的に対処してきた。それだけだ。批判を受ける謂れなど無いし、後悔も罪悪感も無い。そう考えて生きてきた。


 そう、欲しいものは力づくでも手に入れる。この街を出る気などさらさら無い。あたしは戻るのだ。アトリエに戻って新しい絵を描かなければならない。

 

 そして、今度こそ世界に認められるのだ―――――――――………


 霧はすっかり濃くなり、自分がどこに立っているのかも分からないような状況だった。どこからか、生臭い匂いも漂って来る。

 何の臭いだろうと顔をしかめ、不意に子供のころ飼っていた、金魚を思い出した。大きな水槽には五、六匹の金魚がいたが、ある夏の日、世話を怠ったがために、全部死んでしまった。水に浮いた金魚の死体と、黴が生え、どろどろに濁って腐臭を放つ水槽の水。それと同じ臭いがする。


 おまけに、肌を刺すような冷気。粘り気を伴った霧の粒子は容赦なく体温を奪っていく。平岡ジュンコは得体の知れない不快感に襲われ、思わず両腕を擦る。


 その時、前方に複数の黒い人影が見えた。


 霧の向こうから、やけにゆっくりと歩いて来る。久しぶりに目にする人影にさすがにホッとし、平岡ジュンコは足早にそちらに近付いていった。


「あ、ちょっと! 聞きたいんだけど……」

 しかし、すぐにそれがおかしいことに気づいて足を止める。


 最初は夜だから、と思った。夜だから、人の姿が黒く影のようになってみえるのだと。


 しかし、人影はどれだけ近づいても影のままだ。近づいても、近づいても、立体感の無い無機質な黒。よちよち歩きを始めたばかりの子どものように、所在無げに両腕を差し出し、体を揺らしている。まるで、母親の存在を請い求めるかのように。


「な……何? 何なのよ!」

 平岡ジュンコは本能で危機を感じていた。慌てて引き返そうと振り返る。しかし、すでに背後にも同じような影が近づいていた。


 ぞくりと寒気が背筋を這った。


 ――囲まれている。


 同じ大きさ。同じ動き。


 特徴の無い影、影、影、影、影、影、影、影、影――――


 意思も感情も、感じさせない。いや、おそらく最初から無いのだ。


 呼吸がはやく、短くなった。瞳孔が激しく揺れる。足が、腕が、がくがくと震えた。右手に持ったサングラスが、その弾みで地面に落ちる。しかし、それを拾い上げる余裕すらなかった。霧が立ち込め、あっという間にサングラスを覆い隠していく。


 そうしている間にも、影――《獏》たちは確実に平岡ジュンコとの距離を縮めて来る。


 彼らが何者なのか。何故、近寄って来るのか。全くもってして分からない。しかし、腹の底から突き上げるような恐怖を感じずにはいられなかった。理屈ではない。全身から血の気が引いていく。


「ちょ……あっちに行きなさいよ! 何なの、あんた達? 誰か他にいないの? 誰か!」


 思わず悲鳴じみた声を上げてしまった。しかし影たちの反応は無い。憐れむ様子も、面白がるような様子すら無い。ただ、一足ごとに、平岡ジュンコへと近づいて来る。


 一歩一歩。潮が満ちるかのように、じわりと、確実に逃げ場を塞いでいく。


 もう少し手を伸ばせば届く、という場所まで距離を詰めて来ると、彼らはピタリと止まった。


「ひっ………!」


 無数の人影に囲まれ、平岡ジュンコは反射的に身を縮めて目を瞑る。そしてそのまま硬直していたが、何故だか人影たちは、それ以上何かをしてくる気配は無い。何故だろうと訝しみ、恐るおそる目を開いた。すると、《獏》の顔の部分に当たる場所に変化が起きている。


 最初は白い染みだった。

 コーヒーにたらしたミルクのように、ぽつんと真っ白な斑点が浮かんでいる。


 そして、それが少しずつ外側に広がっていった。


 同時に三角形の突起が浮かび上がってくる。鼻だ。人間の、鼻。次に、薄い唇。まるで子供の様な、分別に欠けたあどけない目。白い部分の面積はどんどん大きくなり、やがてぼんやりと人間の顔が浮かび上がった。


 それは早稲田弥生の顔だった。


「や……弥生………‼」


 平岡ジュンコは呼吸をするのも忘れ、それを凝視した。見間違えようも無い。彼女が死んでから、一度たりとも忘れたことはないのだから。


 同時に過去の記憶が噴出し、脳内を駆け巡った。


 早稲田弥生は、確かに才能に溢れた学生だった。そして、平岡ジュンコとは何もかもが真逆だった。


 平岡ジュンコが当時、貧乏だという事もあって殆どファッションにかまわなかったのに対し、資産家の令嬢である早稲田弥生はいつも奇抜なファッションに身を包み、派手なメイクを施していた。

 必死でアルバイトに励み、画材を調達していた平岡ジュンコに対し、早稲田弥生はいつもブランド品を見せびらかすように持ち歩いていた。


 絵のタイプも真逆だ。

 平岡ジュンコの絵は色彩が暗く、モチーフも地味で写実的だった。けれど絵の技巧には定評があった。それも当然だ。当時の平岡ジュンコは絵の実力を上げようと、日夜デッサンに明け暮れ、相当な努力を重ねていたのだから。


 一方の早稲田弥生は、抽象画を得意とし、原色使いの派手な色彩を好んで用いていた。勿論、大学の授業では写実的な絵も描いていたが、荒さの残る技巧はともかく、本人に根性がないのでなかなか完成まで仕上げられない。ところが、その中途半端な絵でも、何故か人目をよく惹いた。彼女の適当な絵と平岡ジュンコの莫大な時間を弄した緻密な絵。並ぶといつも、早稲田弥生の絵が評価された。


 だから、最初から気に食わない奴だとは思っていた。早稲田弥生の絵と並べられると、まるで自分の努力や個性、存在そのものが否定されるようだ、と。


 そして、その平岡ジュンコの抱いた感覚は、決して間違いではなかった。早稲田弥生は、学内一の問題児で怠け者でもあったのだ。


 彼女は普段の講義には殆ど真面目に出で来ない。たまに姿を見かけたと思ったら、周囲の真面目な学生に向かって、「そんな一生懸命に勉強して絵筆を走らせても、いい絵が描けるわけじゃないのにぃ!」と、小馬鹿にしてみせる始末だった。


 当時の早稲田弥生にとって、絵画制作や自分の稀有な才能など本当はどうでも良く、それよりはどこにでもありふれた、同じ年頃の男子学生との恋愛の方に夢中だったのだろう。


 おまけに更に性質が悪かったのは、早稲田弥生が自身に才能があるという事だけは、しっかり熟知していたという事だ。


 早稲田弥生は決して真面目に絵を描かないし、努力もしない。ただ、課題の提出日が近づくと、さすがにまずいと思うのか、チョロチョロと絵筆を走らせる。すると出来上がった絵はとんでもない秀作で、何時間も精魂込めて仕上げた平岡ジュンコの絵など、比べようもないほどの出来なのだ。そしてその絵で、ついでにコンクールの賞を取ってしまったりする。勿論、平岡ジュンコは一次選考に掠りもしないのに、だ。

 確かに、創作とはそんなものかもしれない。必ずしも、掛けた時間と努力が作品の出来と比例するわけではない。だが、早稲田弥生は程度が桁違いだった。彼女の前の作品を前にして、いったい何度、打ちのめされたかしれない。

 本物の才能の前では、平岡ジュンコのような凡人の努力など、何の意味も無ければ、存在する価値すらもないのだと。


 さんざん絵の勉強をして、何とか合格した平岡ジュンコにしてみれば、早稲田弥生の存在そのものが芸術に対する冒涜のようなものだった。


 だから、願ったのだ。


 こんな奴、目の前から消えてなくなってしまえばいい、と。



「コノ……人……殺……」


「人……コロシ……!」 


「人殺シ……人殺シ……!」  

「人ゴロシィィィ‼」


「人殺シィィィィィィ‼」 


 霧の中から誰のものとも分からぬ大勢の声が、平岡ジュンコを責め立てる。彼女をぐるりと囲む影たちも、その声に煽られたのだろうか。激しく身動ぎをし、平岡ジュンコへと詰め寄ってくる。


「ヒッ……ひいい‼」

 平岡ジュンコは思わず両手で両の耳を塞いでいた。

「あたしが悪いんじゃない……悪いのはみんな、弥生の方よ! あいつに才能があったのがそもそもの間違いだったの‼」

 そうヒステリックに叫ぶが、影たちはそれに耳を貸す気配もない。


 今や、その顔にはどれも、ぐるんと仮面を被るかのように、早稲田弥生の顔が次々へと浮かんでいく。淀んだ目。生気が無く、肌は水死体の様に白い。のっぺりとしていて無表情。無数の、死神の様な白い顔、それがみな平岡ジュンコをぼんやりと見つめている。


 復讐だ、と、そう思った。早稲田弥生の、これは復讐。あたしはこいつらに殺される、こいつらは私を地獄の底に引きずり込もうとしている―――――――


 霧と共に漂っていた腐敗臭が、むっと濃くなる。平岡ジュンコは食い入る様に早稲田弥生の顔を見つめた。


 どうして。どうして、アンタの顔なんて見たくないのに。死んだと知った時も、もう二度と、その圧倒的な才能に嫉妬しなくていいんだと、心の底からほっとしたくらいなのに。

 しかし、何故だか視線を外すことが出来なかった。早稲田弥生の顔をした影――彼らに、平岡ジュンコは何をされるのか。彼らは何をするつもりなのだろうか。


 だが早稲田弥生は何もしてこなかった。ただ力なく、無表情にこちらを見つめているだけだ。


 その事に気づくと、平岡ジュンコはやがて蒼白な顔に強気な表情を浮かべた。

「フン……何よ、今更。恨みの一つでも言いに来たってワケ?」

 負けたくないというプライドが半分、どうにでもなれ、という開き直りが半分だった。

 

 しかし早稲田弥生は平岡ジュンコの悪態にも、特に表情を変えなかった。平岡ジュンコのことなど、歯牙にもかけなかった学生時代の頃と、全く同じ反応だ。平岡ジュンコはそれを苦々しく思い出しながら、低い声で呻いた。 

「もともとは、あんたが悪いのよ! あんたがヨーロッパへの短期留学を横取りしたから……!」


 発端は大学でヨーロッパへの短期留学が持ち上がった事だった。


 若き芸術家を育成するという名目で立ち上げられたその特別プログラムは、当時の文部省が参加し、大手の新聞社がこぞって取材に来るほどの一大事業だった。

 選ばれる留学生はわずか二名。しかし学費や留学費用は全て文部省が負担してくれるという、破格の条件付きだった。勿論、選ばれる学生は成績優秀であるだけでなく、受講態度や素行なども加味され、厳正で公正なる審査のもとに選ばれる。


 ――その筈だったのだ。


 平岡ジュンコはコンクールでの受賞経験はないものの、その真面目さが買われ、そのプロジェクトの留学生の一人に加えられた。その時の喜びは表現しようがない。貧乏学生で、画材を買うために日夜アルバイトに明け暮れていた平岡ジュンコにとって、そういう機会でもなければ、海外など行くこともできなかっただろうからだ。それに、そこで結果を残せば、将来画家を目指す時にきっと有利になる。

 期待と希望に胸を膨らませ、留学する日を今か今かと心待ちにしていた。


 しかし、それは突然に白紙になった。


 ――何故、どうして。自分に何か落ち度でもあったのだろうか。訳も分からず混乱する平岡ジュンコに、追い打ちをかけるかのように、最悪の情報がもたらされた。

 何と、平岡ジュンコの留学生枠に、代わりに早稲田弥生が選出されたというのだ。


 それを聞いた時には、耳を疑った。

 早稲田弥生には確かに才能があったが、お世辞にも真面目に授業に出ていたとは言えない状況だった。授業日数はぎりぎりで、遅刻も珍しくなかったのだ。留学生の選出条件には到底、相応しいとはいえないのではないか。

 納得のいかなかった平岡ジュンコは、早稲田弥生に直接その怒りをぶつけた。そもそもいけ好かない相手だったが、その件を気に諸々の悪感情が全て爆発してしまったのだ。すると、早稲田弥生はさも鬱陶しそうに顔を顰めた。


「だったら何よ、私だって留学なんてめんどくさい事、ごめんに決まってるでしょ。でも教授たちが、あんまりそうしろってうるさいから……仕方なく従ってるだけ。あんたにとやかく言われる筋合いなんて無いんだけど?」


 教授たちが。

 その事実に、平岡ジュンコは少なからず衝撃を受けた。


 自分は今まで、不真面目な態度で絵を描いてきたことは一度もない。成果は出せなかったかもしれないけれど、いつだって誠心誠意、努力してきた。そして教授たちも、それをある程度評価してくれていると思っていた。


 しかし、真実はそうではなかった。結果が出なければ――コンクールで賞でも取らなければ、頑張っているとは認められないのか。才能のある早稲田弥生は楽して多くのものを得ることができるというのに、凡人の自分は僅かなチャンスさえ与えられないのか。

 そしてその怒りは、全て早稲田弥生へと向けられたのだった。


「何言ってるのよ! 最初は、留学するのはあたしの方だったのよ? それを力づくでもぎ取っておいて……謝罪の一言もないってわけ!?」


 すると今度は、早稲田弥生は同情と軽蔑と憐憫の入り混じった、人を馬鹿にしているとしか思えない視線を送ってきた。

「ああ……そっかあ。平岡さん、貧乏だもんねぇ。絵の才能も無いし、な~んにもないもんね。……その上、海外留学まで奪われて、人生真っ暗だね。カワイソ~‼」

「だ……誰のせいだと思ってるのよ!?」

「でもお……選ばれたのは私。仕方ないじゃない? だって私、才能あるんだもの。有名になるのはあたし。成功するのも、勝つのも、全部このあたしなの。今回の留学なんて、軽い前哨戦みたいなものよ。平岡さんとは、持ってるものが全然違うの。だから……恨まないでね? どうしてもって言うなら、お土産くらいなら買ってきてあげるから!」


 ケタケタと耳障りな笑い声を立てる早稲田弥生。確かに彼女の言うことは事実だ。早稲田弥生と自分とでは、生まれ持った能力が全く違う。でも、これとそれとは別の話だ。才能のあるなしで、人生のかかった大切なチャンスまで奪われてたまるか。


「……何言ってんのよ!? 留学が本意じゃないなら、今からでも辞退してよ! あんたよりあたしの方が、よっぽど努力してる……」


 するとその瞬間、早稲田弥生の表情はニタッと歪んだ。


 


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