第二十話 三人の客③
話の内容は兎も角、その様な事を楽しそうに語る彼女の存在が何よりおぞましいと、そう思わずにはいられなかった。
(最悪、信じらんない……‼)
確かに早稲田弥生は平岡ジュンコにとって疎ましい存在であったかもしれない。でもそれなら、実力で負かせばいいだけの話だ。自分の努力不足を棚に上げ、ライバルの才能が邪魔だからと妬み、僻んだ挙句、汚い手段を平気で用いる平岡ジュンコを、汚らわしいとさえ感じた。
おまけに、早稲田弥生の死の原因が自分にあることが分かっているのに、何故そうも高笑いをしていられるのか。罪悪感や後悔を全く感じないのだろうか。澪には何一つ理解できなかった。
この人には画家を名乗る資格はない。絵を描く前に、人としてあるべき姿を考え直した方がいい。
ところが、自称画家は悠々と煙草を吸うと、べったりと飾りたてた爪で早稲田弥生の言伝を忌まわしげに弾く。
「……この手紙にも、その事がダラッダラと書かれてたわ。全部あたしのせいだ、恨んでるってさ。だったら何よ? いくら悔しくっても才能あっても、死んだらそこまでよ。有名になったのはあたし! 成功したのも、勝ったのも、全部このあたしよ!」
「酷い……最っ低!」
とうとう我慢できずに、澪はそう吐き捨てた。幽幻の邪魔をしたくなかったから、最後まで成り行きを見守るだけのつもりだった。でも、いくら何でも我慢の限界だ。
こんな人の話をこれ以上聞きたくないし、いつもきれいに掃除している言伝屋をこれ以上煙草の灰で汚される前に、さっさと立ち去って欲しい。
ところが、平岡ジュンコは逆に澪を嘲笑ったのだった。
「何言ってるの? 表現する事を生業にする人間にはね、誹謗中傷や言いがかりはつきものなのよ! 好きな男に罵倒されて死を選ぶような、そんな軟弱な精神力でやっていけると思ってんの? ましてや世界で活躍していくなら、人種差別や国籍差別、性差別はあって当たり前なの! 弥生には才能はあってもそれと戦う力が無かった。どの道、どこかで潰れてたわよ……!」
澪には彼女の話が本当かどうかは分からないし、確かめようにもその術はない。だが、そこに随分一方的な決めつけや思い込みが含まれているのだけはよく分かった。
(確かにあたしは美術の成績あんま良くないし……絵が描ける人ってすごいなって純粋に尊敬してたのに……!)
澪の中で、平岡ジュンコに対する軽蔑の気持ちは確実に膨らんでいた。だが、どれだけ嫌悪しようとも、当の平岡ジュンコは憎たらしいほどけろりとしているのだ。早稲田弥生の残した言伝も、結局は彼女に歪んだ優越感をもたらしたに過ぎない。
平岡ジュンコのような人間は、言伝を受け取ろうが受け取るまいが、決してその醜い本質が変わることはないのだろう。澪は苦々しい思いでそう考えた。
言伝によって救われ、満たされる人々がいる一方で、平岡ジュンコの様な人間も確かに存在するのだ。
(ああ……だから幽さんは《お客さん》と距離を取ろうとするのかな)
澪はふと、そのことに気づいた。《言伝屋》を訪れる死者には様々な者がいる。善良な人々がいる一方で、そうではない人々も、当然訪れる。
けれど、律儀な幽幻の性格からいって、前者と後者で対応を変えるなどという事は絶対にしないだろう。だからその中間をとって、現在の様なつかず離れずの接客や考え方になっているのではないだろうか。
(幽さんらしいなあ……きっと、こんな人でも、ちゃんと言伝を渡してあげなきゃって思ってるんだろうな……。あたしには到底、無理だよ……)
確かに、えこひいきは良くない。印象の良い人だけに親切にし、悪い人はぞんざいに扱う。それはそれでまた問題だろう。そう分かってはいても、澪には幽幻のように自分の感情を押し殺すなんてこと、まだまだできそうにはない。
やがて平岡ジュンコは一通り喋り倒して満足したのか、煙草の火を灰皿で揉み消すと、どこか苛立ちの籠った様子で立ち上がる。そして思い出したかのように座敷のテーブルに残された言伝の方を振り返ると、顎でしゃくって言った。
「これ、そっちで捨てといて。一応読んだんだから、もういいでしょ?」
「………。分かりました」
幽幻は渋々そう返事をすると、言伝を丁寧にたたんで封筒の中に戻す。女は店を後にしかけ、途中で気づいたように振り返った。
「そう言えば、これ左に真っ直ぐ行っていいんだっけ?」
「ええ。門が見えるはずです。そこがこの街の出口ですよ。……いいですか、街を出たいと強く願ってください。後ろを振り返ってはいけません。《未練》を残すと、この街からは決して出られませんから」
幽幻にしては珍しく、強い口調で念を押した。しかし平岡ジュンコは冷ややかな目でそれを受け流す。
「うるさいわね、何なの、アンタ。言われなくたってこんな街、出たいと思ってるわよ! あたしはね、早く戻って作品を仕上げなけりゃならないんだから!」
そして、フンッと、小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、もはや一顧だにせず店を後にした。
平岡ジュンコが店を去り、澪は激しく憤慨した。
「何、今の? 信じらんない! 恥ずかしくないワケ? 卑怯な方法でライバルを蹴落として有名画家なんて……おかしいよ、そんなの!」
澪自身も、初めて《言伝屋》に訪れた時は決して態度がいいとは言えなかった。だからあまり人の事をとやかく言う資格が無いという事は分かっている。だが、それにしたって平岡ジュンコはちょっと酷過ぎるのではあるまいか。彼女の主張にも、彼女の生前の行いにも、全く共感できるところが無い。最早、歩く公害レベルだ。
「そうかもしれませんね」
やはり――と言うべきか、幽幻の反応は淡泊だった。予想通りとはいえ、澪は反論せずにはいられなかった。
「幽さんはああいうの、ムカついたりしないの? 言伝なんて、渡さなきゃ良かったのに……《宵闇の門》の事まで丁寧に教えるんだもん! 放っときなよ、ああいうのは少しは罰を受けたらいいんだよ!」
あの手の人間は、他人の忠告に耳を貸すタイプではない。自分が手痛い目に合うまで分からないのだ。反省するまで幻朧街の中で永遠に迷いつづければいいのに――そんな意地の悪い考えまで浮かんでくる。
すると幽幻は、平岡ジュンコの残した煙草の灰を、箒と塵取りで片付けながら答えたのだった。
「そういう訳にはいきませんよ。さっきも言った通り、《言伝屋》は誰かを救うために存在しているのでもなければ、罰を与える為に存在しているのでもありません。大切なことは、預かった言伝を必ず宛名人に渡すことですから」
「……。《獏》を増やさない為に?」
不承不承、澪は尋ねた。
「そういう事です。ただ、今のお客さんは………」
「な、何……?」
「……いえ。何でもありません。忘れてください」
幽幻は一度店の外へと視線を向けると、低い声で小さく呟いた。
「あのお客人は……我々ではもう、どうしようもない」
「え……それって、どういう……?」
しかし、幽幻がその問いに答えることは無かった。そのまま黙って澪に背を向けると、店の奥へと引っ込んでしまう。
幽幻がそのように言葉を濁すなど、珍しい事だった。まるで平岡ジュンコを庇っているかのようで、澪はどうにも納得がいかない。
幽幻にとっては、死者はみな、あくまで客人であり、個々の事情やそれぞれの客人の人格などにはさほど注意を傾けていないようでもあった。それは接客としてはある意味理想であるのかも知れない。
しかし、実際に触れて関わってしまう以上、感情を挟むなと言う方が無理な話ではないだろうか、と澪は思ってしまう。沖のような酔っぱらいはどうしたって敬遠してしまうし、奥田のような事情を聞かされれば、同情もする。それが人情というものだ。一方で平岡ジュンコのような、常軌を逸するほどのいけ好かない客には、それ相応の報いがあってしかるべきなのではないか。
(やっぱり幽さんの考えてること、まだまだ理解できないな……)
店に一人残された澪は、ひっそりと溜息をついたのだった。
夕餉の時間になり、母屋へ向かうと、いつもに増して香ばしい臭いが漂ってきた。熱されたごま油と山椒、豆板醤の匂い。ひょっとして――と、澪は思わず目を輝かせた。
「もしかして……今日の夕ご飯は、麻婆豆腐!?」
喜び勇んで駆け込むと、予想通り、卓袱台の上には麻婆豆腐や、もやしときくらげの中華スープ、青椒肉絲などが並んでいる。それに椀に盛られた真っ白いご飯が添えてあるのは、いかにもご家庭中華料理といった趣だ。
「昨日、そんな話をしていたでしょう。早速作ってみたのですが」
「わあ……ありがとう、幽さん!」
唐辛子や山椒、八角と言った香辛料の香りは、食欲を遠慮なく増幅させる。そして鼻腔にをくすぐり唾液腺を刺激し、改めて空腹を自覚させられる。
するとその匂いに誘われたのか、覇王丸もやって来て居間に顔を出した。
「お、今日はちょいと変わった趣向の料理だなあ。中華か」
「覇王丸は嫌い? こういうの」
尋ねると、覇王丸はニッと朗らかに笑う。
「んなこたねえぞ。俺は幽の作った料理なら何でもいい!」
「ふうん……何だか夫婦みたい」
揶揄うような声で言うと、幽幻は据わった眼でしごく冷ややかな返答を寄越したのだった。
「それは違いますよ。覇王丸は、口に入るものなら何でも美味そうに食べると言うだけです」
「あ、ひっでェ! 人をその辺の犬みたいに言いやがって!」
「そんな事より、今日はビールにしておきましたよ。日本酒よりはこの方が料理には合うでしょう」
幽幻がそう言って、冷やしたビール缶とグラスを取り出すと、不満を浮かべていた覇王丸は途端に上機嫌になった。
「お、さすがは幽だ。気が利くなあ!」
「……やっぱ夫婦じゃん」
その様子がおかしくて、つい笑ってしまう。すると、覇王丸は眉を八の字にし、情けない表情になった。
「勘弁してくれよ、澪。幽幻が女房なら、俺は尻に敷かれっぱなしじゃねーか!」
覇王丸はそう言いつつも、いつもの自分の席に座り、さっそくいそいそと缶ビールの蓋を開封している。プシュッという軽快な音と共に、真っ白い泡と琥珀色の液体が溢れ出した。覇王丸は完全にほくほく顔だ。
「私たちも食事にしましょう」
幽幻の言葉に頷き、澪もいつもの定位置へと座った。
「いただきまーす!」といって、さっそく口に運んだ麻婆豆腐は、ピリリと豆板醤や山椒が効きながらも、ただ辛いだけではなく、程よいとろみの奥にうま味が凝縮されている。口の中がひりひりするのに、次から次へと食べたくなってしまうほどだ。
澪が現世で食べていた麻婆豆腐と比べても、全く遜色のない味だった。おまけに、豆腐の硬さもちょうどいい。
「幽さん! すごい美味しいよ、この麻婆豆腐!」
澪が歓声交じりにそう言うと、覇王丸も蓮華で豆腐を頬張りながら、うんうん、と呻った。
「やっぱ幽の飯はうまい! 和食とか中華とか、関係なく美味い! いやあ、本当に飯が美味いって、幸せだな‼」
対する幽幻は、やはりいつも通りに、「誉めても何も出ませんよ」と素っ気ない。しかし、すぐに気を取り直したように澪の方を向く。
「久しぶりに作ったので、少々自信がありませんでしたが……気に入ってもらえたようで良かった」
(そっか……あたしが食べたいって言ったから、わざわざ用意してくれたんだ)
幽幻は決してそんな素振りを見せないが、これだけの調味料や具材を用意するのはさぞ大変だったことだろう。いつもは和食しか並ばない食卓だ。味付けにしろ何にしろ、中華はそれとはだいぶ異なる。それでも澪の為にと、こうやって早急に用意してくれたのだ。
澪は昼間に、幽幻の事を冷たいと思ってしまったことを後悔した。幽幻は決して冷たくなどない。確かに感情表現は乏しく不器用だが、いつもこうやって、澪のことをそれとなく気にかけてくれる。
普段はあまり表に出さないが、行方不明になってしまった空穂という人の事も、随分と親身になって心配しているようだ。
(でも……それでもやっぱり、『お客さん』に対する態度は、ちょっと機械的っていうか……事務的すぎるんじゃないかって気がするんだけど……)
最近では、澪に対する幽幻の態度も、当初あった妙な余所余所しさが抜けてきた。そのためだろうか。死者に対する幽幻の態度は、少し徹底し過ぎていて、度を越しているようにも思う。
気のせいだろうか。
夕食後、澪は母屋の縁側で涼んでいた覇王丸を捕まえ、その事を話してみた。
「ははは、幽らしいぜ!」
覇王丸は胡坐をかいて、大笑いする。澪は唇を尖らせた。
「笑い事じゃないよ! 幽さんは悪い人じゃないと思うけど……何ていうか、何考えてるか分からないことがある」
最初に感じていた幽幻に対する反発は、今はもう殆ど感じなくなっていた。少しづつ幽幻がどういう人物か分かってきたという事もあるし、あの頃は自分にも問題があったのだという自覚もある。
ただ、だからと言ってすぐに理解しあえるものでもない。澪は膝を抱え、その中に顎をうずめた。
覇王丸はその様子を可笑しそうに見ていたが、上体を逸らすと、星空にひときわ大きく浮かんだ月を見上げ、言った。
「幽は《言伝屋》に来て長いからなあ。あいつなりの考え方があるんだろうよ。あれでもちゃんと怒ったり悲しんだりしてるんだぞ」
「え、そうなの?」
澪は目を丸くした。覇王丸はいたずらを打ち明ける子供のような表情だ。
「長く付き合ってると分かってくる。機嫌がいい日とか悪い日とかな。普通の人間とあんまり変わんねえぞ」
「全っ然分かんない………」
絶望的な声音で呟く。必死で幽幻の表情のいくつかを思い出してみるが、澪にとってはどのパターンも同じようにしか見えない。
自分もいつかその違いが分かるようになるのだろうか。ひよこのメスとオスを瞬時に見分ける職人のように、それには相当、高度で熟練したスキルが必要になるのではないかと、そんな風に思ってしまうのだが。
覇王丸はそれまで笑って澪を見つめていたが、ふと真顔になった。
「……人間は弱いからな。ここでは特にそうだ。ああしたい、こうするべきだと思っても、それが必ずしも実現するとは限らない。それどころか、余計な欲をかくと、容赦なく呑み込まれちまうんだ。だから、用心するに越したことはねえ」
「呑み込まれるって……あの、《獏》って奴らに……?」
覇王丸の言葉の中に、何かただならぬものを感じ、恐る恐る尋ねると、覇王丸は「いや」と首を横に振る。
「あいつらには、良くも悪くも、そういう強い意志みたいなものは無い」
「だったら、一体……?」
「決まってるだろ。……この幻朧街そのものに、さ」
その鋭い囁きに、澪も我知らず、ごくりと喉が鳴る。
「この街では人間の存在なんて、本当にちっぽけなものだ。昨日まで当たり前のようにそこにいた奴が、今日には忽然といなくなっている。そんなことが、身近に起こる街なんだ。俺も、空穂がいなくなって、改めて思い知らされた。……失う事は簡単だ。でも、ここではどれだけ望んでも、それを取り戻す事は出来ないんだ」
「……」
澪は言葉もなかった。空穂という女性が幽幻にとって、とても大事な人なのだという事は知っている。だがよく考えてみたら、覇王丸も空穂と一緒に暮らしていたのだ。空穂の失踪は覇王丸にとっても辛い出来事であるに違いなかった。
幽幻と違い、あまりそういう素振りを見せないというだけだ。
「……それに、客と言っても相手は死者だしな。俺達とは、どうしたって違う。自分たちのことさえままならねえんだ。助けたい、手を貸したいと思っても、簡単にはいかねえ事もあるんだ」
「覇王丸……」
「……だからよ。幽の言う事は多少抵抗もあるかもしれんが、慣れるまではあいつの言う事、聞いてやってくれよ」
いつもは愛嬌のある瞳が、今は真剣そのものだった。くっきりとした大きな瞳に、切羽詰まった様子でまっすぐ見据えられると、とても嫌だなどとは返せない。
澪の中で、ふと覇王丸と幽幻はどういう関係なのだろうと疑問が浮かんだ。
最初は幼馴染か、兄弟みたいだとも思った。しかし、顔立ちは全くと言っていいほど似ていないから、血が繋がっているという事は無いだろう。だが、そうと見紛うほど互いに強く信頼し合っている様子だった。幽幻も何だかんだ悪態をつきつつも、覇王丸には気を許しているようだ。
彼ら二人と、それから空穂。幽幻にとって、彼女は生者としての『先輩』であり、だからこそ幽幻は『師匠』と呼ぶのだろう。では、覇王丸と空穂は一体、どういう関係なのだろうか。
『家族』というには親子や兄弟姉妹といった役割分担があまりにも曖昧であり、『ただの同居人』にしては、態度が気安すぎる。ただ単に、この街に迷い込んだ生者の寄せ集め、というわけではないような気がするのだ。
覇王丸にそのことを聞いてみたかったけれど、すぐに、今日はやめておいた方がいいかも、と思い直した。覇王丸とて、空穂がいなくなって苦しい思いをしているだろう。今はまだ、あまり込み入ったことは聞かない方がいいような気がした。
(でも、いつかは聞いてみたいな)
いずれにせよ、その覇王丸にこれほど真剣に頼まれたら、断るわけにはいかない。
「うん……分かった」
大人しく頷くと、覇王丸は「そうか、ありがとな!」と嬉しそうに答える。そして少年のように二カッと笑い、澪の頭をくしゃくしゃと撫でたのだった。




