第十九話 三人の客②
「えっ……」
奥田は言伝を見た途端、ぎょっとして凍りついた。
まるで見てはならない恐ろしい物を目にしてしまったと言わんばかりの表情だ。
澪はそれを見て、刑事ドラマを思い出した。殺人事件の証拠を突きつけられた犯人が、よくそんな顔をしている。
(もしかして……言伝の送り主に心当たりがあるのかな)
奥田は、言伝の送り主をはっきりと確かめもせず、突如として顔色を変えた。それはまるで、その言伝が誰によって書かれたものであるかを、事前に察知していたかのようでもあった。
少なくとも、心当たりはあるのだろう。
そしてそれは、奥田が震え上がるほど恐れている人物なのだ。
幽幻は奥田が言伝を受け取るのをじっと待っている。やがて奥田も、何とか我に返ったようだった。
「あ、は……はあ。そうですか。どうも……」
そして、再びぺこぺこ恐縮し始めると、ようやく言伝を受け取ったのだった。
ところが、奥田は受け取った封筒を開きもせず、机の上に置いたまま硬直した姿勢で凝視し始めた。まるで恐ろしいものでも見つめるかのように、背を丸めたままピクリとも動かない。
いつまでそうしているのだろうと心配になってきた頃、やっとのことでぎこちなく動き出すと、小刻みに震える手で封を開けた。そして、白い半紙を目の前まで持っていくと、その中に顔をうずめる様にして中を読み始めた。
血走った眼が激しく上下し、文面を追っている。奥田はそれまでびくびくしていた態度とは一転し、まるで鬼のような形相で、無我夢中で言伝を読み耽っている。
やがて奥田は、言伝を一気に読み終わると、唐突に眼鏡を外して目頭を押さえた。言伝は反対側の手の中で、くしゃくしゃになっている。そして、その痩躯が小刻みに震え始めた。
食器を洗っていた澪は異様な雰囲気を察し、思わず手を止めて奥田を見つめた。
幽幻が奥田に、静かに話しかける。
「どうかされましたか」
「い、いや……ちょっと、すみません………」
その時、奥田が泣いているのだと分かった。声を殺しているが、それでも息をする音が激しく震えている。澪は困惑を隠せなかった。大の大人、しかも男性が声を殺し、すすり泣くところを初めて見たからだ。奥田にとって、なりふりを構っていられないほど、言伝の内容が衝撃的だったのだろうか。
暫くして落ち着いたのか、奥田は幽幻に向かってポツリポツリと話し始めた。
「……僕が二十代の頃でした。まだ教師になりたてだった僕は、理想と希望に燃えていて、毎日が輝いていた。教師生活も楽しくて、とても充実していた。
ところがそんな中、受け持った生徒が事故で死んでしまったんです。林間学校の最中に、崖から転落して……。
実はその時、僕は彼のすぐそばにいたんです。しかも、真後ろに。しかし僕は他の生徒の誘導に気を取られて、注意を怠ってしまったんです。『危ないから、気を付けろよ』……そう声をかけたのですが、それっきりで……まさか生徒がそこから落下するなんて思ってもみなかった。今思えば、林間学校を無事終わらせなければと、気負い過ぎていたのだと思います。
あの時、後ろをきちんと振り向いていれば、僕が転落する前に彼をそこから移動するよう誘導させていれば……」
奥田は眼鏡の奥で、何度も瞬きを繰り返しながら話し続けた。
「その事は今でも悔いています。責任が僕にあることも充分理解しています。……しかし、あれは事故だった。消防と共にすぐさま警察にも連絡をとったのですが、そちらの方でもそう結論づけられたし、他に目撃者もいました。
ところが事故が起こって数週間後……学校内である噂が広まりました」
「噂、ですか」
「僕がわざと生徒を突き落して殺したんじゃないかという噂です」
澪は息を呑む。
「……何故そんな噂が広まったのかは分かりません。しかし次第に僕は、周囲から白い目で見られるようになったんです。生徒の信頼を失くし、保護者からも度々苦情が入るようになって、学校からも君はもう来なくていいからと、突き放されました。
確かに僕は間違いを犯した……でも、誓って犯罪には手を染めていない。目撃者だっているんだ。そう思って、教員を続けようとしました。しかし、悪意のある噂の破壊力を前にしては、そんなものただの無力な言い訳でしかなかった。結局うまくいかずに、当時勤めていた学校を辞めざるを得なくなってしまったんです。そして遠く離れた地で再び中学校教諭として働き始めたのです」
学生である澪にとって、その状況は想像に難くなかった。学校とはいわば巨大な村社会だ。村の中にいる人間は温かく守ってくれるが、一度村から外れてしまった者、村の中にはふさわしくないと判断された者は、容赦なく追い出されてしまう。
それは生徒であろうと教師であろうと、変わりないのかもしれなかった。
「初心に返り、全て一からやり直すつもりでした。――しかし人の噂というものは不思議なもので、どんなに隠してもいつの間にか広がってしまうものなんです。それが隠したい内容であればあるほど……。
僕の場合もまさにそれでした。何処からか事故の話が漏れてしまい、あっという間に噂となって広まってしまったんです。……受け持った生徒を殺した教師だと。
僕はまた職場を変えざるを得なかった。しかしそうして移った先でも五年しか続けられませんでした。理由はやはり、同じような噂が広まったためです」
奥田は言伝に視線を落としたまま、微動だにしない。ただ一人、熱に浮かれたかのように喋り続けている。最早、幽幻が話の内容を聞いていようがいまいが、関係ないのかもしれない。誰でもいい、話さずにはいられない――そんな気配を漂わせていた。
「結局、僕は様々な地を転々としながら教師を続けました。……まるで逃亡犯のように。結婚も出来なかったし、家族や友人とも疎遠になり、四十代になった辺りから精神的にも不安定になり始めて、睡眠薬を多用する様になり……この様なことに。
それでも教職だけはやめる事が出来なかった。子供の頃から憧れ続け、教職員採用試験を何度も受けて、ようやくなった仕事だったから……!」
持っていたハンカチで、奥田は涙を拭う。
「この手紙は、事故で無くなった生徒からの手紙でした。
崖の下に何か動物がいるのが見えたような気がして、身を乗り出したところ、バランスを崩し、足を滑らせて落ちてしまったのだそうです。助けを求めようとしたけれど、声が出る前に落ちてしまったのだ……と。
助けてやれなかったのは残念です。どの道、僕の監督不行き届きであることに違いはありません。でも、この手紙にはあの時の林間学校がとても楽しかった、僕のクラスが好きだった、『こんなことになって、先生ごめんなさい』と書かれていて……。
それだけで、ただそれだけで僕には充分です」
相変わらず顔色が悪く、囚人か何かのように怯えていたが、奥田は最後に少しだけ笑った。それがどこか満ち足りていて、尚且つ重荷から解放されたような清々しい表情であるように見えたのは、決して澪の気のせいではないだろう。
彼の人生はお世辞にも順風満帆といえるものではない。突然起きた不慮の事故、それに奴隷のように支配され続けた、重々しく苦しい道のりだっただろう。自分自身の後悔と、根拠のない噂にどれほど苛まれ続けたことだろう。何もかも捨て去り、新しい職種で一からやり直した方がいっそ楽だった筈だ。
だが、奥田は教師を辞められなかった。憧れもあっただろうが、彼の様子だと、それだけではないだろう。おそらく、死んだ生徒のことがいつも傍らにあったのではないか。過去から目を背けずに教師を続ける事が、彼なりの償いだったのではないか。
全ては想像に過ぎない。ただ、それも最後の最後で報われたのではないだろうか。いや、そうであって欲しい……と、と澪はそう願わずにはいられなかった。
奥田が店を去ってから、澪は幽幻にしんみりとして話しかけた。
「何だか……可哀想だったね、今の先生。でも……《言伝屋》に来て、事故で無くなった生徒の人と心を通わせることができて……少しは救われたんじゃないかって、そう思ってもいいのかな?
あたしね、死んでから手紙貰ったって、仕方が無いじゃんって少し思ってたんだ。だって、死んでから相手の本当の気持ちを知ったって、受け取る側も死んでいるんだからどうしようもないでしょう?
でも、ああいう人の為にあるんだって思ったら、悪くないって思った」
幽幻は感情の嫁いない黒い双眸でじっと澪を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「……さあ。それはどうでしょう」
思いの他、冷ややかな反応だった。
「幽さん?」
澪は戸惑う。自分は何か、見当違いのことを口にしただろうか?
「あれで良かったのかどうかは誰にも分かりません。《言伝屋》はただ存在しているだけです。ここに来て、何をどう思うかは、人の主観によって様々ですから。私たちはただ、言伝を受け取り、渡すだけです」
幽幻は突き放すような口調で淡々と語った。まるで奥田の話など一切、聞いていなかったかのようだ。
「それは……そうかもしれないけど。何か、幽さんってさ……」
「何ですか?」
「………。ううん、何でもない」
澪は、「幽さんって冷たい」という言葉を言おうとして、そのまま飲み込んだ。自分はこの街にやって来たばかりの新参者だ。だから、幽幻のやり方を軽々しく非難するのは憚るべきだと思いなおしたのだ。
けれどそれでも、微かな澱は消えずに残った。
そんなに突き放した言い方をしなくてもいいのに。奥田は最後には救われたのだ――そう考えるのはいけない事なのだろうか。澪には分からない。誰かの為になっていると思うからこそ、《言伝屋》にも価値があると思えるのではないか。
幽幻の言い分だと、彼もただここに存在しているだけの仲介業者で、意味もなく延々と言伝のやり取りをしているだけ――という事になってしまう。
それではあまりにも空しいではないか。
澪はもやもやした気持ちを抱えたまま、奥田の座っていた席に行き、水が殆ど残ったままのグラスを片付けたのだった。
最後に《言伝屋》を訪れたのは、派手な風貌の四十代の女性だった。
真っ黒なサングラスをかけ、ランウェイを歩くファッションモデルのような奇抜なファッションをしている。普通の人なら完全にコスプレか不審者と化してしまうような、なかなかに際どいセンスだが、黒いストレートのおかっぱに真っ赤な口紅という、これまた特徴的な髪形とメイクのせいか、妙に違和感がない。全身を派手な装飾品で飾り立て、やはり派手なネイルを施した手には吸いかけの煙草が挟まれている。
「ちょっと。《言伝屋》ってのはここ?」
「そうですが」
「ふーん………シケた店ね。センスも悪いし」
女はサングラスを外すと、気だるげな仕草で店の中を見回した。真っ黒なマスカラをびっちり塗りたくった眼は半開きで、こんな店など目を見開いて視線を這わせる価値もないとでも言いたげだ。
明らかに《言伝屋》を馬鹿にし、見下している。澪はその態度に何となくむっとして、女性を睨む。
しかしやはりと言うべきか、幽幻の表情も口調もそんな事では全く変わらなかった。
「何か御用ですか」
「別に。ちょっと寄っただけ」
「お名前を窺ってもよろしいですか」
女性は不機嫌そうに眉根を寄せると、苛ただしそうに溜め息をついた。
「あたしの事、知らないの? これだから一般人って……! あたしの名前は平岡ジュンコ。これでも世界的には有名な画家なんだけど?」
平岡ジュンコは手近な座敷にドカッと腰を掛け、両足を組むと煙草を吸い始める。その拍子に、煙草の灰がその場にポロポロと落ちた。
澪は信じられない、と顔を顰めた。店の床は毎朝、澪と幽幻が丁寧に掃き清めているというのに。おまけに、ただでさえこの店は古い木造建築なのだ。下手をすれば火事になる恐れもある。火気厳禁だという事は、少し考えたなら誰でも分かるだろう。
(有名な画家だか何だか知らないけど、今どき喫煙マナーも守れないの!?)
しかし平岡ジュンコは一向に構わない様子だった。涼しい顔をして、スパスパと煙草をふかし続けている。
幽幻もさすがに気になったのか、「煙草の灰は灰皿にお願いします」と注意を促した。すると平岡ジュンコは舌打ちをし、テーブルの上にあった灰皿を乱暴に引き寄せる。これで文句ないでしょ、と言わんばかりに。
(何なのこの人!? 態度悪すぎだよ!)
澪は自分の家を土足で荒らされたようで苛々としたが、幽幻は事ここに及んでも、いつもの如く平然としていた。その徹頭徹尾、貫かれた姿勢には、驚嘆を通り越して唖然としてしまう。
「……平岡ジュンコさんですね。少々お待ちください」
幽幻はそう言い残すと、一旦奥に引っ込んだ。そして、すぐに海老茶色の封筒を持って店に戻ってくる。そしてそれを、画家を名乗る女性に差し出した。
「どうぞ。早稲田弥生さんからお手紙です」
平岡ジュンコはそれを聞き、「はあ!?」と声を荒げると、露骨に眉をしかめた。もともと態度は刺々しかったが、その時とは比べようもないほどの険が、その両目には宿っている。そして幽幻と差し出された言伝を交互に睨みつけると、うんざりした様子で吐き捨てた。
「早稲田弥生って……あの弥生が? はっ、ばっかみたい! あいつの手紙なんか読みたくもないわよ」
「読むかどうかはご自由にしてください。ただ、受け取って頂かないと困ります」
「……貸して」
平岡ジュンコは再び大きな舌打ちをし、幽幻から言伝をひったくると、乱暴な動作で封を開け中身を読み始める。
それは、映画館で暇を持て余した時に、全く見る予定も興味もない映画のパンフレットを斜め読みしている様子に良く似ていた。明らかに流し読みだ。熟読している気配は全くない。
やがて文面を読み終わると、平岡ジュンコはフンと鼻で笑って言伝をテーブルの上に投げ捨てた。
「……くだらない。絵の才能があるだけじゃ、世の中やっていけないのよ。それが分からないから、アンタはダメだったの!」
そして、口の端をくっと吊り上げ、歪みきった嘲笑を浮かべると、指に挟んでいた煙草を口に運んだ。仕草に合わせて、首回りや手首にぶら下がったアクセサリーが、耳障りな金属音をたてる。
(派手なアクセサリー……全然、似合ってないよ!)
澪は平岡ジュンコに冷ややかな視線を向けた。
するとその時、不意に彼女の顔がこちらへと向く。そして、豹の様な攻撃的なメイクを施した目が、怪訝な表情の澪の目と、ばっちり合ってしまった。
(げっ……!)
澪は慌てて視線を逸らすが、時すでに遅しだった。澪が自分に興味を持っているとでも思ったのだろう。平岡ジュンコは頼まれてもいないのに、自慢たらしく説明を始める。
「弥生ってのはね、大学の同期の子よ。知ってるかしら――」
彼女の言った大学名は、澪も一度は聞いたことのある、有名な芸術大学だった。平岡は得意そうに喋り続ける。
「弥生はあたしと同じ油彩画専攻で、確かに才能は飛びぬけてた。教授はあいつの事、百年に一人の逸材だと褒めたわ。……絵って言うのはね、画力だとかデッサン力ってのは経験と努力で何とでもなるのよね。でも、そのプラスアルファの部分って言うの? センスとか才能とか、まあいろいろ言うんでしょうけど。大抵の人間には無いそれが、弥生にはあったていうワケ。
まあ、あたしもそこは認めるわ。あたしにはないものが、あいつにはあった。それは動かしようもない事だった。
当然指導教官からも可愛がられ、絵画展では大きな賞を取り放題。大学のバックアップも凄まじかった。芸術の世界は〈お墨付き〉が命だからね。美大の偉い教授や画壇の有名な先生画家にどれだけ認められるかで、出世できるかどうかが決まるの。まあ……ドラマに出て来る大学病院の医局みたいなカンジ?」
平岡ジュンコはそう言うと、映画の主演女優の様な大仰な仕草で、肩を竦めて見せた。そこには明らかに自分を物語のヒロインか何かと勘違いしたかのような、濃厚でむせ返るほどの強い自己陶酔が混じっていた。
「………」
澪は聞こえないふりをして片づけを始める。しかし、話すこと自体が楽しいのだろう。平岡ジュンコの話は止まらない。
「そういうの無視して海外に出ちゃう子も今では多いけど、私には無理だった。貧乏だったから、金が無かったのよ。……だから弥生が邪魔だったの。
あたしは認められたかった。画家として食っていきたかった。でも弥生がいる限り、どんなに努力してもあたしが注目を浴びることは無い。だから、むしゃくしゃしてあいつの彼氏略奪してやったのよ。
これがまた馬鹿な男でさ、あること無いこと吹き込んだら、あっさり信じたわ。弥生の事、そりゃあ手酷く罵倒して別れたみたい。
……あたしはただの嫌がらせのつもりだった。ところがさ、弥生の奴。彼氏と別れてからすごく塞ぎ込むようになっちゃったのよ。大した男じゃなかったけど、よっぽど好きだったのね。だとしても、笑っちゃうでしょ? 男なんてこの世にいくらでもいるでしょうに。何でそんなに思い詰めるのか……理解できなかったわ。
実際つまんない男だったわよ。あたしも二か月くらいで別れたし。
そ れなのに弥生の奴………とうとう首吊って死んじゃった!」
あっははははははは、と高らかな哄笑が店に響いた。
澪は凍りついた。




