第十五話 覇王丸①
幽幻と相談した結果、澪は《言伝屋》の店舗の二階をそのまま継続して間借りすることになった。
《言伝屋》の二階はそれなりに快適だった。
自室は畳敷きで少し古いけれど、それなりの広さがあるし、障子窓を開ければ日もよく当たる。
廊下を出て奥に行けば手洗いや洗面所もあった。蛇口が古く、スペースの狭い洗面所だが、幸いなことに手洗い所の便座は洋式だ。
ただ、やはりと言うべきか、ウオシュレットはついていない。
(ホントいろいろ、お祖母ちゃんちに似てるんだよね)
この店は何もかも古いが、途轍もなく古くて住みにくいというほどではない。ちょうど子供の頃に里帰りしていた祖父母宅と似ていて、澪にとってはどこか懐かしく感じられるのだった。
服装は大体、学校の制服のままだった。
夜、寝るときは、《言伝屋》に借りた着物に着替えて寝る。元々、現世にいた頃は毎日身に着けているものだったから、それでも特に違和感はない。
ただ、そろそろ一度洗濯したいと思っている。それで母屋の方をそれとなく探ってみると、風呂場の近くに洗濯機があるのが見えた。
洗濯機がちゃんとあるんだ――その事実に妙に感動してしまったが、機種は相当古く、澪の見たことのないものだった。やたらと横幅の広い洗濯機で、洗濯槽が大小二つ、並んでついているのだ。スイッチも押すタイプではなく、つまみの様なものがいくつかついている。どうやって使うのか、今度、幽幻に聞いておかねばならない。
幽幻は何度か、母屋にも部屋があると勧めてくれた。そちらの方が階段もないし、風呂場や居間にも近い。確かに便利だが、澪はその勧めを敢えて断った。
そこまでしてもらうのは何だか申し訳ないと思ったし、《言伝屋》の二階もそれなりに広く、住み心地は悪くなかったからだ。
ただ、幽幻もそれでは気が済まなかったのか、食事の時は必ず母屋に来るようにと言った。どうやら、意外とそういったことを気にする性分らしい。澪もあまり心配を懸けたくは無かったので、食事の時は母屋で過ごすことにした。
そうして、少しずつ澪と幽幻の間にも、ルールみたいなものが出来上がっていったのだった。
また、澪は《言伝屋》の仕事も手伝うつもりでいた。もっとも、《言伝屋》の仕事は完全に店主である幽幻の管轄なので、もちろん彼の許す範囲内でだが。
とはいえ、《獏》の呪いとやらは、相当に厄介な代物だった。高熱から回復してからも、倦怠感はしつこく残り、しばらく体調の回復しない日々が続いた。
それでもその間、自分に何かできることはないかと、毎日《言伝屋》の隅に座って店の一日を観察してみた。
そして、一つ気付いたことがある。
それは、《言伝屋》の時間の流れはとにかくゆったりとしているという事だ。
ゆとりがあってのんびりしていると言えなくもないが、正直言って、暇で暇でしょうがない。
《言伝屋》に来る客の数も波があり、来客の多い日もあれば、全く人が訪れない日もある。開店時間や閉店時間もはっきりと決まっているわけではなく、日が登ると共に暖簾を掲げ、日が落ちると同時に下げるといった塩梅だ。
その辺は、店主の幽幻の判断によるものらしい。
学校に通っている頃は一時間ごとに授業があり、その後に部活もこなしていた。登下校や宿題も含めると、まさに分刻みと言っていい。それと比べると、信じられないくらい《言伝屋》の時間の流れは緩やかだった。
おまけに、暇だからと言って時間を潰すものが何もない。ゲームもないし、インターネットも使えない。頼みの綱である携帯電話は、あれから一度も起動しないままだ。だから当然、スマホのアプリも利用することができない。
何だか宙ぶらりんに吊し上げられたかのような、フワフワした奇妙な感覚だ。
当然というべきか、一日もやたら長い。待てども待てども、時間が過ぎない。幽幻が朝昼晩に作ってくれる絶品料理が唯一の楽しみと化してしまうほどだ。体の不調で動き回れず、店の外にも気軽に出られないので、余計にそう感じるのかもしれない。
(まあ、時間に追われないっていう事は、ある意味、贅沢なんだろうけど……)
だが、澪はまだ、それを心から満喫するには少々、人生経験が不足しているのかもしれなかった。気づくとつい、テニスがしたいなあ、とか、誰かとスマホで連絡が取りたいな、などとぼんやり考えこんでしまうのだった。
一週間を過ぎて、体調もだいぶ元通りになり、澪は意を決して、幽幻に声を掛けてみた。
「あの……ずっと思ってたんだけど。暇じゃない、このお店?」
「そうでしょうか」
「暇だよ、絶対。殆ど人来ないし」
「そうですね。確かに暇かもしれませんね」
そこで会話が途切れた。幽幻はいつもの定位置にいる。カウンター側の座敷に座っていた澪は頬杖を突き、軽く溜め息をついた。
(これじゃ、何か手伝いたいって言っても、その必要はありません、とか返されそうだな……)
そんなことを考えていると、不意に幽幻が口を開いた。
「何かしたいことがあるんですか?」
「え?」
「暇なのが不服そうでしたから。違うのですか?」
そう尋ねられ、澪は思わず背筋を正す。まさかそういう風に、こちらの言いたいことを言い当てられるとは思っていなかった。
(もしかしたらこの人も、あたしの事、それなりに理解しようとしてくれてるのかも知れないな)
澪が、少しずつだが幽幻の事を分かり始めているように、彼も少しずつ、澪に慣れてきているのかもしれない。
「不満ってわけじゃないんだけど……ここまで何もすることが無いのは嫌かなって。ねえ、私……何かする事、無い?」
「する事、ですか」
「何でもいいよ。掃除とか、料理とか。家でもしてたから、ちょっとはできる。居候なんだから、何でも手伝うよ」
「そうですね……」
ところが、幽幻は顎に手を当て、考え込んでしまった。
澪は、余計な事を言ったかな、と少しだけ後悔した。
幽幻は他の事と同様に、《言伝屋》の仕事に対しても淡々としている。自分の仕事に多大な自負と誇りを持っていて、決して他人を寄せ付けないという感じでもないのだが、それでも決して手抜きはしない。澪にはただ分からないだけで、何か強い信念があるのかもしれなかった。
そしてもし、本当にそうであるなら、澪の言葉を少々生意気だと受け取られてしまった可能性もある。
澪としては、純粋に何か手伝えればと思っただけなのだが。
するとその時、店を訪れる人の姿があった。
来客だろうか。澪はどきりとした。今日はまだ、一人も客は来ていない。緊張しつつ店先へ視線を向けると、確かに何者かが正面に立っている。
暖簾で上半身は見えないが、逞しい両の足が、がっしりと地を踏みしめ、仁王立ちしていた。足に履いているのは、靴ではなく、草履だ。
(だ……誰……? 何で草履……?)
妙な違和感を感じつつも、澪は黙って成り行きを見守った。すると、店先に立った人影は、暖簾を潜り、一切の躊躇もなく大股でのしのしと店内に入ってくる。
客にしては、ずいぶん無遠慮な振舞いだ。
現れたのはやけに大柄な若者だった。最初は死者(客人)かと思っていたが、すぐに、彼がそうでは無いのだと気づいた。若者は洋服ではなく、幽幻と同じ着物を着ていたからだ。
その若者は時代劇に出てくる岡っ引きのような、ラフな恰好をしていた。半纏のような派手な着物をうまい具合に格好良く着崩し、その下は黒い肌着、そして黒いステテコとシンプルにまとめている。髪は短く、頭にはバンダナを巻いているのが、唯一現代風だ。
年の頃は幽幻と同じ程だろうか。ただ、上背は幽幻よりも、さらに頭一つ分は大きい。それに背が高いだけでなく、体つきが全体的にがっしりしている。筋肉質、というほどではないが、腕も太く足もでかい。ついでに言えば、口も大きく、にかっと笑う様は、何となくゴールデン・レトリーバーを連想させた。
強い意志を思わせるくっきりとした眉と、愛嬌のある瞳のせいで、余計にそう感じるのかもしれない。
「よう、幽幻! 生きてるか?」
声も体格と同様、これまた、でかい。《言伝屋》の中はいつも静かなので、余計にびっくりしてしまう。若者は一人だけなのに、何だか急に団体客でも押し寄せてきたかのようだ。
「誰、この人……!?」
呆気に取られていると、若者の方も澪に気づいた。くりくりとした瞳を更に丸くすると、大仰な動作で驚く仕草をする。
「……およ!? 何だ、客か?」
「覇王丸、帰ったのですか。彼女は客ではありませんよ。生者です」
幽幻は若者の登場にさして驚いた風もなく、淡々と説明した。
一方、覇王丸と呼ばれた若者は「生者だぁ!?」と素っ頓狂な声を上げたが、すぐに二カッと嬉しそうに笑って澪に近づくと、遠慮会釈なく顔を寄せて来る。まるで、遊んで欲しくて人にとびついてくる、大型犬さながらだ。大きな口には、特徴的な犬歯が覗いている。
「うっひゃあ!?」
いきなり近寄られ、驚いて澪は仰け反ってしまった。おまけに相手には上背があるので迫力もある。しかし覇王丸は、そんな澪の反応にはお構いなしだ。歓喜と驚きの入り混じった、興奮した声を上げる。
「おい、おいおい! 確かに人間じゃねーか! どうしたんだよ、この街に生きた人間が来るなんて……何があったんだ!?」
「おやめなさい。ようやく戻って来たと思ったら……騒々しい。彼女は幻朧街に迷い込んだのです。しばらく《言伝屋》で身柄を預かる事にしています」
幽幻が覇王丸に向かってそう窘めた。覇王丸は注意をされ、「ちぇっ」とばかりに唇を尖らせたが、やがてすぐ喜びが戻って来たのか、満面の笑顔になる。
紙芝居のようにくるくる変わる表情は、目まぐるしくて確かに騒々しいけれど、嫌な感じはしなかった。決して独りよがりではなく、一緒にいる者を楽しくさせてくれるような、そういう不思議な温かさがある。
「さっき、幽のやつが言っちまったけど……俺は覇王丸ってんだ。あんたは?」
「ま、舞阪澪です」
答えると、覇王丸の目元が嬉しそうに緩む。
「そうか、澪って言うのか。いい名前だなあ!」
「あ、ありがとう……覇王丸さんもいい名前だね。何だか、強そう」
「だろ、だろぉ!? 俺も気に入ってんだ、この名前!」
覇王丸は少年のように無邪気に笑った。まるで真夏の太陽の様な明るさだった。一点の陰りも、曇りもない。どこか子どものような無邪気さもあり、相手の警戒心をたちどころに解いてしまう。
今も、彼が澪を心から歓迎してくれているのが伝わってくる。店主である幽幻とは、まさに真逆のタイプだ。覇王丸が太陽であるなら、幽幻はさしずめ月、といったところか。
すると、それまで笑顔だった覇王丸がふと何かに気づいたように真顔になると、声を落として言った。
「……大変だったろ、いきなりこんな街に放り込まれちゃあよ」
「え……うん、まあ」
「ま、この店なら安全だ。俺がいるし、幽のやつだっている。慣れるのはちいっとばかし大変だろうが、なに、きっとうまくいくさ。だから……頑張れよ」
「……うん」
人懐こい笑みを浮かべ、再び覇王丸は笑う。
体の大きさにさえ慣れてしまえば、覇王丸は朗らかで親しみやすい雰囲気の持ち主だった。
「これから、よろしくな!」
覇王丸はそう言って、右手を差し出してきた。澪も「よろしくね」と、握手に答える。がっしりとしていて、澪より一回り近くもある大きな手。触れると、とても温かい。生命力と力強さに溢れた、頼もしい掌だ。
そんな感想を抱いていると、澪のそばで幽幻が口を開く。
「この間、この店には同居人がいると言ったでしょう。覇王丸もその一人です」
「そうなんだ」
そう答えると覇王丸は、がははは、と豪快に笑う。
「まあ、同居人っていうよりは、用心棒に近いがな」
そして次に、覇王丸は思い出したように、手に持っていた包みを幽幻に差し出した。
「おっと、そうだ。幽、土産だ。茶にしようぜ」
「店は営業中ですよ。人が来たらどうするのですか」
表情の豊かな覇王丸と接していると、幽幻もそれに引き摺られるのか、露骨に顔を顰める。しかし、覇王丸はそんなことなど、どこ吹く風だ。
「来やしねえよ。何だったら、ここで食えばいいじゃねえか!」
そう言って、清々しいほど豪快に笑う。
「全く、あなたは……相変わらずですね」
幽幻は呆れたように溜め息をつくが、結局、覇王丸の案を呑むことにしたらしい。確かに今日は一人もお客は来ていないし、他に誰かが店を訪れる気配もない。
幽幻は包みを持ってカウンターへと引っ込むと、すぐに人数分の湯呑と茶うけを盆に載せて現れる。そしてそれを、澪や覇王丸の座る、店の一番隅にある座敷に運んできた。
そこは店の入り口から一番遠く、衝立で仕切られているので、中が外から見えにくいのだ。もし来客があっても、そこなら澪たちの姿が見えにくいし、幽幻もすぐに対応できる。
覇王丸の土産は栗羊羹だった。
みずみずしい羊羹の中に、黄金色をした大粒の栗がごろごろと贅沢に詰まっている。楊枝で切り分け、口に運ぶと、羊羹の仄かな甘みと栗の豊潤な香りがふわっと広がった。口当たりもいい。栗はしっとりほくほくとしているし、羊羹はなめらかですっと溶けていく。
「んー、おいしい!」
思わずそう声を上げると、覇王丸は羊羹の塊を口の中に放りながら言った。
「悪いなあ。澪がいるって分かってたら、もっと違うもんを選んだんだがな」
「ううん、すっごく美味しいよ。甘いもの、久しぶりだし……!」
言伝屋には飲み物は数多く置いてあるが、菓子の類は殆どない。訪れる死者たちも、何か食べたいという者は、殆ど夢幻通りに向かうようだ。
それに、澪にとって和菓子は逆にとても新鮮だった。現世にいた頃は駄菓子や洋菓子ばかり食べていた。和菓子はあまり食べ慣れていないが、それを差し引いても、この栗羊羹はおいしい。
一口ずつ、大切に食べていると、覇王丸が悪戯っぽく笑い始める。
「幽のやつが好物なんだよ。……な?」
「え、意外……」
澪は目を丸くする。実際、母屋にも菓子の類は殆ど置いていない。甘いものなど、全く興味無さそうだったのに。でも、母屋の縁側で茶を飲みながら羊羹に舌鼓を打つ幽幻の姿を想像すると、何だか笑えてくる。
一方、幽幻は、いつもの薄いリアクションを覇王丸に返す。
「そうですか? 私はずっと、覇王丸が好きなのだと思っていました」
「まあ、俺も好きだけどな! けど、幽だって嫌いじゃねえだろ?」
「確かに……好きか嫌いかと聞かれると、嫌いではありませんが」
「ほーらな!」
そして、がはははは、と笑い、幽幻の背中をバンバン叩く。叩かれた幽幻はいかにも迷惑そうだ。でもいつもの事と割り切っているのか、覇王丸を怒ったり注意したりはしない。どちらかと言うと、文句を言っても無駄だと分かっているので、好きにさせているといった様子だ。
(何か、良いコンビ。二人合わさってちょうどいい感じ……!)
よく気が付く割に、表情の起伏には乏しい幽幻と、良くも悪くも細かいことには拘らない覇王丸。二人一緒であるくらいが丁度いいのだろう。
お互いのことがよく分かっているからか、二人とも水と油くらい性格が違うのに、衝突したり喧嘩することもない。まるで古くからの幼馴染や兄弟であるかのような気安さがある。
ひとしきり笑った覇王丸は、次に澪の制服をしげしげと見つめて言った。
「ところで、その服……澪は学生か?」
「うん、高校生。高校生……だった」
「そうかあ。学生って一日中机に座って勉強とかするんだろ?俺、学校って所に行ったことが無いからなあ。いまいちよく分からねえんだよな」
「覇王丸さん、学校行ってないの?」
驚いて尋ねると、何でもない事のように覇王丸は笑った。
「幻朧街生まれの幻朧街育ちだからな。学校って言うより、外の世界を全く知らん」
「そうなんだ……。幽幻さんもずっと昔にここに来たんだよね。この店ってそういうとこなんでしょう? 街に迷い込んだ、生きてる人が集まる場所……」
「よく知ってるなあ! 生者はこの街じゃ、他だと生活したくても出来ねえのさ。あそこの柱に紙が貼ってあるだろ?」
澪は覇王丸が示した場所を見上げた。すると、柱と梁の交差する場所に、確かに変な模様のお札のようなものが貼ってある。色は黄ばんで掠れ、殆ど柱と同化してしまっていて、指摘されないと見分けがつかないほどだった。
「本当だ。気付かなかった」
澪は上半身を捻りながら呟いた。覇王丸はニヤリと笑う。
「《言伝屋》には母屋や庭も含めてあらゆる場所にああいうまじないが施してある。あれが結界となって、モノノケも《獏》も近寄れねえ……だから安全なのさ。ま、嬢ちゃんも、慣れないうちはうかうかと街を歩き回ったりしねえ方がいい。好奇心に負けてほっつき歩けば、最悪生きては戻れなくなる。命あっての物種だろう?」
澪は、あはは、と曖昧に誤魔化した。まさかすでに歩き回って、危険な目にあった後だとも言えない。
「でも……だったら、覇王丸さんにとっても、幻朧街は危険だって事だよね?」
幽幻の口ぶりからすると、覇王丸は死者ではないにも関わらず、店を留守にしたままずいぶん戻っていないようだった。そんなことをして、危なくはないのだろうか。
すると、覇王丸は再びニッと大きな八重歯を見せて笑う。
「俺は特別だからな。ちっとやそっとのことは平気なのさ!」




