第十四話 幻と朧の街⑧
細かく震える《言伝屋》の手を見つめているうちに、澪は彼に対する不信感やわだかまりが、少しずつ解けていくのを感じていた。
冷静になって考えてみれば、《言伝屋》もこの街に閉じ込められた被害者の一人なのだ。角を突き合わせて衝突し合い、傷つけ合っても、あまり意味があるとは思えない。
それでこの街から出られるようになるわけでもなければ、失った人が戻ってくるわけでもないのだ。
ふと、店の外の風景が目に入った。
言伝屋の外の街並みは、澪たちの苦悩をまるで嘲笑うかのように穏やかで、残酷なほど美しかった。
お前たちなど、ちっぽけで些末な存在なのだと、突きつけるかのように。
もう、涙は出なかった。
ただ、深い洞のような虚しさだけが、ぽっかりと残った。
「あたしたち……二人とも、悲しいね」
澪は小さく囁く。
「……ええ」
《言伝屋》はそう答えると、最後にぽつりと付け加えた。
どうしようもないくらい、悲しくて哀れな存在ですね――、と。
澪はその晩、高熱を出した。
日が落ちた頃から尋常ではない寒気に襲われ、何だかおかしいと思っているうちに、あっという間に熱が出たのだ。
全身の節々が痛み、吐き気もする。特に《獏》に掴まれた部分は、火を噴いたように熱を発していた。おそらくその傷が高熱の原因だろう。それから五日ほど、起き上がる事すらできずに、言伝屋の二階にある部屋で熱に浮かされる毎日が続いた。
《言伝屋》の店主は時折、二階にやって来て、白湯や粥を運んだり、熱冷ましの薬を用意してくれたり、または着替え用の着物を用意してくれたりした。
澪はそのたびに「ごめんなさい」と謝ったが、《言伝屋》の返答はいつも通り淡白で、ただ、「謝る必要はありません」と繰り返したのだった。そして、あなたはただ、自分の体調を整える事だけ考えなさい、と。
「あなたの熱は、病気によるものではありません。どちらかというと、呪いの類に近いものです。薬もあるにはありますが、おそらく気休めほどの効果しかないでしょう。あなたが気をしっかり持つしか、他に方法はないのです」
そう言われても、何をすればいいのか、さっぱり分からない。どうしようもないので、ただ、こんこんと眠り続けた。
高熱にうなされている間、澪は時折、うつらうつらと夢を見た。
それは学校での夢だったり、愛花とテニスに励んだ時の夢だった李、母や父との夢だったり。或いは、遠い子供の頃、家族で過ごした時の夢だったりした。
しかし目が覚めると、幸せな時間は終わり、《言伝屋》の二階に戻っている。それはどう足掻いても変えられないのだった。
六日目にして何とか熱は下がったが、それでも体にへばりつくような倦怠感や吐き気は簡単に取れず、すぐに起き上がることはできなかった。
結局、更に体力が戻るまで、更に二日ほどかかったのだった。
一週間ぶりに見る《言伝屋》の店舗は、特に何の変化も無かった。
いつも通り客は少なく、がらんと静まり返っている。《言伝屋》の男はきっちり着物を着て、入り口脇の座敷で煙管を燻らせていた。それもいつもと変わらずだ。
一方澪は、ずっと熱を出して寝込んでいたので、頬はこけて顔色も悪く、髪もぼさぼさだった。控えめに見ても、みすぼらしい事この上ない恰好だ。
おまけに、体力がすっかり落ちて、普通に歩いていても、足元がふらつく。階段を踏み外さないように慎重に二階から下りていくと、《言伝屋》がすぐ澪に気づき、声を掛けて来た。
「体の具合はもう良いのですか?」
「うん。あの……ありがとう。いろいろ、良くしてくれて」
「大したことはしていませんよ。むしろ、あれは治療することが殆ど不可能なのです。あなたの生命力が、呪いに打ち勝った……ただ、それだけのことですよ」
その言い方が何だかおかしくて、澪は思わず笑ってしまった。
「……変なの。謙遜なんて、らしくないよ」
「謙遜ではなく、事実を言ったまでですが……らしくないとは心外ですね」
《言伝屋》そういうと、煙管の灰をポンと手で叩いて落とす。その様が、心なしか、むすっとしているように見えて、澪は余計におかしかった。
店にすとんとした沈黙が下りる。
澪は全身をモゾモゾさせていたが、意を決して口を開いた。
「あ……あの……あたし……。勝手だって分かってるけど……。ここにいても……いい……?」
小さく縮こまり、消え入りそうな声で尋ねた。出ていけ、と突き放されることも覚悟していた。それだけの騒ぎを、自分は起こしている。
しかし《言伝屋》返事は、拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。
「ええ、構いませんよ」
あまりに簡単に言われ、澪は面食らう。
「で、でも迷惑なんじゃ……」
《言伝屋》は呆れたような、何を今更――といった様子でこちらを見た。澪が肩身の狭さを感じて身体を強張らせ、ひゅっと首を縮めると、彼は目を閉じて小さく溜め息をつく。
「気にする必要はありません。私も同じようにしてここに来ましたから」
「え……そうなの?」
驚いた。初耳だった。
「はい。当時の《言伝屋》は私の師匠が管理をしていました。私は随分昔にこの幻朧街に迷い込んだのです」
《言伝屋》の説明によると、十年に一度くらいの頻度でこの街に生者が迷い込むことがあるのだと言う。しかし、幻朧街は死者の街だ。生者は足を踏み入れたところで、行き場が無い。その為、《言伝屋》の主人は代々彼らの世話をすることになっているそうなのだ。
「そう……なんだ……。私と同じだったなんて……。知らなかった」
「それはまあ。特に話すようなことでもありませんし、何より聞かれませんでしたから」
聞き覚えのあるその言葉に、澪は眼を瞬かせる。
『聞かれなかったから答えなかった、ただそれだけです』
……ああ。
澪は何だか、少しだけ分かったような気がした。
ああ、この人はこういう人なんだ――、と。
いいところも悪いところも、両方ある。
彼もまた澪と同じで、ごく普通の人間なのだ、と。
最初から《言伝屋》に悪意は無かったのだろう。澪を持て余していたのは事実だろうが、おそらく意地悪で情報を隠していたのではない。
そもそも《言伝屋》は最初に「この街からは出られない」、「地図は無い」などと、きちんと教えてくれたではないか。澪が彼を最初から信頼し、素直に話を聞いておけば、少なくともあれほど危険な目には遭わずに済んだ。
まあ、もう少し丁寧に教えてくれたっていいのにと思わないでもないが、《言伝屋》には他に同居人がいそうな気配も無い。訪れるのは自分の事にしか興味のない死者ばかりでは、聞かれないことは喋らないようになってしまうのかもしれない。
確かに、《言伝屋》は親切ではなかった。でも澪だって十分、生意気で反抗的だった。
(この人は、きっと悪い人じゃない)
確かに無表情な所為であまり感情が読めない。しかし本当に悪い人なら、《獏》を掻き分けて助けに来たりしないだろう。それに、高熱を出した時も、親身になって看病してくれた。
いくら生者の面倒を見るのがこの店のしきたりとはいえ、どちらも簡単に出来る事ではない。
そこで、ふと気づいた。澪は、《言伝屋》の名前すら知らない。
「あの、私……舞阪澪っていうの」
「知っています」
《言伝屋》は無表情で即答する。澪は慌てた。
「そうじゃなくて! あなたの名前……聞いてなかったと思って………」
「私ですか。不知火幽幻といいます」
《言伝屋》――幽幻は、やはり素っ気なく答えると、煙草盆に煙管を引っ掛けた。そして、澪をじっと見つめる。
「腕の具合はどうですか」
「あ……うん。もう、殆ど痛くないよ」
「そうですか。――少し……痩せましたね」
「そ……そう?」
「ええ。何か食べられそうですか?」
「うん。ご飯と、お味噌汁が食べたい!」
《言伝屋》は分かりました、と言って頷くと、すっと美しい所作で立ち上がった。
「……それでは、朝餉にしましょうか」
その言葉を聞いた途端、腹がぐう、と盛大に鳴った。澪は真っ赤になり、慌てて腹部を押さえるが、幽幻はそれに特に構った様子は無い。どうやらそういったことは気にならない性格らしく、何食わぬ顔で母屋へと向かっていく。
前にもこんな事があった。その時は、笑って流してくれないなんて、空気の読めない人だと思ったが、今は不思議とそういう感情は全くなかった。むしろ、こういう時は鈍い方が助かるな、などと、妙な感慨を抱いてしまう。
澪は幽幻の後に続き、母屋に向かった。
一週間ほど寝込んでいる間に、そこは様変わりしていた。
母屋と言伝屋に囲まれた中庭では、早くも滴るような青や紫、紅色の、紫陽花の大輪が見事に咲きほころんでいたのだ。
「きれいだね……!」
澪が思わず感嘆の声を漏らすと、《言伝屋》も紫陽花を見て眩しそうに目を細めた。
「ええ……本当に」
「ふふ……何だか初めて、意見が合ったね」
すると、柳の葉を思わせる優美な瞳が僅かに見開かれる。
「……そうですか?」
「うん、そうだよ」
答えながら、澪は少しだけ明るい気持ちに包まれていた。
この街に馴染めるかどうかは分からない。
けれど、少なくともこの店では何とかやっていけそうだ――、と。
鮮やかに咲き誇る紫陽花たちは、まるでそれを祝福しているようにも見えたのだった。




