第十三話 幻と朧の街⑦
女性は大きな声を張り上げ、大袈裟なリアクションを返すと、手をバタバタと振りながら言伝屋に詰め寄った。どこにでもいる、近所の元気なおばちゃんという印象だ。
「すみません。お待たせしてしまったようですね。……こちらにどうぞ」
《言伝屋》は女性を店の中に案内しながら、ちらりと澪の方を振り返る。
「いいよ、あたしのことは気にしなくて。邪魔しないから。お客さんなんでしょう?」
澪はそう言うと、店の隅に行って座り込んだ。二階に行くべきかと思ったが、疲労困憊し、その元気がなかった。店の椅子に腰かけると、どっと疲れが押し寄せてきて、もう一歩も動けそうになかった。
一方の《言伝屋》は、いつものように客人をもてなしていた。
「お名前を窺ってよろしいですか?」
「私? 玉木よ。玉木信子」
「玉木信子さんですね。少々お待ちください。……何か飲まれますか?」
「そうねえ……冷やしあめなんかがいいわね、こういうとこだと。古い観光地には大抵あるでしょ?」
座敷に上がって正座しながら、玉木信子は大きな声でそう答えた。冷やしあめなんてあるのだろうかと澪は訝しんだが、《言伝屋》は何食わぬ顔でカウンターの奥へと入って行く。
暇を持て余した様子の玉木信子は、澪にもお構いなしに話しかけてきた。
「どうしたの、あなた? 顔色悪いわよ」
疲れ果てていた澪は、正直言ってそれに答えるのも億劫だった。曖昧に笑ってやり過ごそうとしたが、玉木信子の方はそれが気に食わなかったらしい。露骨にむっと顔をしかめた。
「若いのに元気ないわね、しっかりしなさいよ」
その無遠慮な物言いに、カチンときた。疲れのせいか、いつもであれば簡単に聞き流せることが今はできなかった。理性が働く前に澪は言い返してしまっていた。
「あなたに何が分かるのよ。訳もわからずにおかしな場所に連れて来られて、帰る事も出来ない……そんな惨めな思いした事なんかないでしょ? 無責任なこと言わないで!」
しかし、玉木信子も負けまいと鼻を膨らませ、猛然と反論する。
「それでそんな顔してるの? しょうがないわね。人生なんてね、思い通りにならない事ばっかりよ。私だって夢を諦めたこともあるし、結婚相手もそんなに格好いい人じゃあなかった。でもそこそこ幸せだったわ。そういうものよ」
そんなレベルの話じゃない、と澪は激しく憤った。しかしもはや言い返す気力も無い。やがて突発的な怒りが収まると、ぐったりとした虚脱感が全身に伸し掛かってきた。
澪の置かれた状況は、やはり幻朧街の者には簡単に理解されないものなのだ。
どうして、あたしだけこんな目に合わなきゃいけないの――そう考えると、自分が途轍もなく惨めな存在に思えて、余計に落ち込んでくる。
やがて、ほどなくして《言伝屋》がカウンターの奥から戻ってきた。澪が顔を上げると、その切れ長の目と視線が偶然に交差する。
先ほどの玉木信子との会話をしっかり聞いていたのだろう。《言伝屋》は、困った問題児を目の前にした幼稚園の先生のような、妙に生暖かい視線を送ってきた。言葉は何も無かったが、彼が「やれやれ」と呆れているのは、手に取るようによく分かる。
(はいはい、どうせ悪いのはあたしの方ですよ)
澪は唇を尖らせ、むくれてそっぽを向いた。《言伝屋》の店主は、いつもは無表情で何を考えているか分からないくせに、ネガティブなメッセージに限ってやたらと的確に伝えてくる。まさか、わざとやっているのでもないだろうが、こういう時はさすがに少しイラッとする。
そんな澪に対し、言伝屋はやはり無言だった。彼の持つ盆の上には、琥珀色の液体の注がれた二つのグラスが載っている。言伝屋は一つを玉木信子の前に、もう一つを澪の前に置いた。
「あらあ、よく冷えてるわ。おいしい!」
玉木信子は冷やしあめを口にした途端、ころりと機嫌を直したようだった。それほど気分を害していたわけではないのだろう。ただ、感情を包み隠さず表に出してしまう性格なのだ。
澪もグラスに口をつける。水あめの柔らかい甘みと、ぴりりと効いたしょうがの刺激が、乾いた喉を心地よく潤す。ただ、澪の冷やしあめは玉木信子のとは違い、程よく温められていた。朝から何も食べていないのを、《言伝屋》が気遣ってくれたのだろう。
彼のそういうちょっとした気配りは、今の澪にはとても有難かった。
冷やしあめのぬくもりに、少しだけ慰められたような気がした。玉木信子も上機嫌で冷やしあめを堪能している。彼女が冷やしあめを飲み干すのを待ってから、《言伝屋》は彼女にいつもの海老茶色の封筒を差し出した。
「玉木信子さん、玉木悠矢さんから言伝を預かっています」
「あら、まあ……」
玉木信子は驚きに目を瞠り、しばらくそれを見つめていた。しかし、やがてゆっくり両手を上げると、大事そうに封筒を受け取る。同時に皺の寄った両目がふっと細められた。その眼差しは優しく、まるで長い間、探し求めていた探し物が、見つかったかのようだった。
そして、弱々しい声音でぽつりと漏らした。
「そう――人生なんて、思い通りにならない事ばっかり。………でも、一番思いもしなかったのは息子を若くして亡くした事ね」
澪は思わず顔を上げ、玉木信子の顔を見つめる。
玉木信子は苦痛に耐えるような表情で、封筒を握りしめていた。気のせいか、その姿は先程より一回り小さくなってしまったように感じた。表情も翳が差し、随分と老け込んでしまったように見える。
「息子は……悠矢は病気でね。気づいた時は手遅れだった。大学病院で検査してから半年。あっという間だったわ。どれだけ自分を責めたか知れない。あの子が死んだのは自分の育て方が悪かったからじゃないか、もっと早く私が気付いてやっていればって……そうしているうちに自分も気を病んでしまってね。あの頃は随分入退院を繰り返したわ」
玉木信子の言葉を聞いているうちに、澪はふと、つい先日別れた母の亜季の事を思い出していた。呑み込んだはずの息苦しさが戻って来て、胸がきりきりと締め付けられる。
「人が死ぬってね、単純にいなくなるってことじゃないのよ。残された人間の半身がもぎ取られてしまうという事なの。その人の姿を眼にし、声を聞き、当たり前のように触れていた……それらが全部、ある日突然失われるんだもの。半身が切り裂かれるように苦しかった。
どれだけ年をとっても、あの感覚だけは忘れられなかったわね………」
玉木信子は呟く様にそう言うと、丁寧に封筒を開封し、中から手紙を取り出して其れを読み始める。途中、何度も何度も目元をハンカチで押さえ、一度読み終わっても、何度も読み直していた。
その姿を見て、澪は両手を握りしめた。
ああ、この人も同じなのだ、と思った。この人も大切な人を失くし、途方に暮れたことがあるのだ。ただ見ているしかなく、どうしていいのかも分からず、自分の非力さや無力さを呪って打ちひしがれた事があるのだ。
よく考えたら先ほどだって、見るからに落ち込んでいる澪を、純粋に元気づけようとして声をかけてくれたのかもしれない。まあ、かなり遠慮もデリカシーもない、ずけずけとした物言いだったけれど、それに対する澪の返事だって、相当、礼儀を欠いていた。
「あの……ごめんなさい。私、ひどいことを言って……」
気づけば、そう口にしていた。玉木信子は微笑んで首を振る。
「いいのよ。確かに、私も無神経だったわ。本当に辛い事があった時って、老いも若きも関係ないのにね」
そして、やはり丁寧に丁寧に、宝物に触れるように言伝を畳みながら、こう付け加えた。
「悲しい過去は決して消えることはないわ。でも、思い出はそれだけじゃない。これからは楽しい未来を作っていける。私はあなたの事を知らないけれど、きっと辛い思いをしたんでしょう。でも……だったらこれからその分、良い事があるといいわね」
そして自分の過去をなぞるかのように、どこか遠い目をし、店の外を見つめていた。
楽しい思い出。果たしてそんなものが作れるのだろうか。このおかしな街でたった一人で取り残され、他は全て失ってしまったというのに。
(そんなの……絶対に無理だよ……!)
不意に、母の亜季の姿が脳裏に甦った。宵闇の門に消える直前に見た、どことなく儚げな後ろ姿。喉の奥が痙攣し、呼吸が激しくつっかえた。思い出さないようにしていたのに――しかし、押さえつけていた感情の蓋は一度外れると、脆くも崩れ去ってしまった。悲しみと苦しさが、どっと雪崩をうって溢れ出してくる。
涙が零れ落ちないように歯を食いしばるのが精いっぱいだった。
やがて玉木信子は、自分の気持ちに区切りがついたのだろう、言伝を手にしたまま、静かに立ち上がる。
「この手紙……持って行ってもいいのかしら?」
「ええ、どうぞ。誰かに言伝を残していかれますか?」
「いえ、いいわ。私にはこの手紙で十分。どうも、お世話様でした」
玉木信子は泣きはらした目元を穏やかに細め、丁寧に会釈をすると、そのまま店を出て行った。彼女はこれから宵闇の門へと向かうのだろう。そして、二度とこの街には戻ってこない。不本意に閉じ込められ、もがき苦しむなどという辛さは、良くも悪くも味わなくて済むのだ。
澪はそれをぼんやりと見送っていた。玉木信子が《言伝屋》の暖簾をくぐり、完全にその姿が見えなくなってしまうまで、身じろぎもせずに見つめていた。
どうして――澪は両手をきつく握り締める。
どうしてみんな、あたしを置いて去ってしまうのだろう。
どうしてあたしはみんなが行ってしまうのを見ている事しかできないのだろう。
この街からこんなに出たいと思っているのに、あたしだけが閉じ込められたまま出ることを許されない。死者でさえ、出ることができるというのに。
半ば呆然としていると、いつの間にかそばに《言伝屋》が立っていた。手には、重箱のような大きさの桐の木箱を提げている。
《言伝屋》はそれをテーブルに置くと、側面についている金具を外し、箱のふたを開けた。中には包帯や消毒薬、綿棒、絆創膏、或いはつんとした奇妙な匂いのする薬草などがいくつもぎっしりと詰め込まれている。どうやらそれは薬箱であるらしい。
「腕を出しなさい。《獏》に掴まれた部分が痛むのでしょう? 放っておくと、痕になって残りますよ」
澪は言われるがままに、のろのろと制服の袖をまくる。《獏》に掴まれた部分は、火傷の様な黒い痣になって残っていた。今でもずきずきと、鋭い痛みを覚えるほどだ。しかもそれは、時間が経つにつれ、悪化しているような気がする。
《言伝屋》は薬箱から、饅頭ほどの大きさの木製の容器を取り出した。その蓋を開けると、中には澪の見たことのない、抹茶色をしたクリーム状のものが詰まっている。《言伝屋》はそれを手に取ると、澪の火傷の後にしっかりと塗り始めた。それが何の薬かは分からない。ただ、ヨモギを何倍にも濃くして煮詰めたようなにおいが、あたりに立ち込める。
《言伝屋》は終始、無言だった。澪も無言だったが、荒波のような激しい感情のうねりが、胸の奥で何度も湧き上がる。それでも最初は何とかのたうち回るような感情を力づくで押さえつけていたが、だんだんそれも制御できなくなってきた。
肩が小刻みに震え、それが全身に伝わっていく。いけないとは思ったが、大粒の涙が流れ落ちた途端、それ以上堪えられなくなってしまった。
小さなすすり泣きは、どんどん大きくなり、やがて嗚咽となって溢れ出した。
「うっ……うう……! ううううう……‼」
「……」
《言伝屋》は、やはり無言だった。ただ、呆れたような、困り果てた気配はしっかりと伝わってくる。それでも相手をするのが面倒だとでも思っているのか、決して言葉をかけることはなく、淡々と澪の腕に包帯を巻いているのだった。
冷淡ともいえる《言伝屋》の態度に、澪は何だか無性に腹が立ってきて、泣きじゃくりながら吐き捨てた。
「あ、あた……あたしの、事……バカな、小娘だと、思ってる、でしょ……?」
「……。そうは思っていませんよ」
渋々といった様子で、《言伝屋》はようやく口を開く。だが、澪はそれで余計にかっとなった。
「う、うそ……! あたしの、事……馬鹿にしてる、くせに……! 最初から、馬鹿にしてた、くせに……‼」
すると、俄かに《言伝屋》の言葉にも苛立ちのようなものが籠った。
「違うと言っているでしょう。ただ……まるで子供のようだと思っているだけです」
「ど……どうせ、あた、し……子供……だも……!」
だが、それも殆ど嗚咽で、言葉にならなかった。
しゃくりあげる澪を見下ろし、《言伝屋》は僅かにため息をつく。
そして、静かに口を開いた。
「……泣いてどうなるというのですか」
「な、泣きたくて……泣いてるんじゃ……ない……!」
「そういう、泣けば誰かに慰めてもらえると思っているところが、子供だと言っているのです」
澪は弾かれたように顔を上げた。
「あ、あなたには……分からない……あたしの気持ちなんて、絶対に、分からない‼」
「だから何だというのです? あなたにだって私の気持ちは分からないでしょう。誰も他者のことを完全に理解することはできない。……人とはみな、そういうものです」
そうかもしれない。けれども、澪はそう割り切れるほど、まだ大人でもなければ、人生に達観しているわけでもない。
「だったら、どうして……やさしく、するの……!? 中途、半端に、やさしく……するなら……放っておいてくれた方が、ずっと、良かった……‼」
すると《言伝屋》は、すっかり呆れ果てたような口調で答える。
「何を馬鹿なことを……そんなことをしたら、あなたはこの街のどこかで、とうの昔に野垂れ死んでいましたよ」
澪は一瞬言葉に詰まったが、すぐに言い返した。
「べ、別に……そうなったとしても、あなたには、関係……ないでしょ……!?」
「ええ、私もそう思っています。心底、そう思っていますよ。けれど、あなたはこの店にやって来た。そうであるからには、その事実を受け入れなければならないと思ったのです。ただ……本当にただ、それだけの事ですよ」
いつの間にか、《言伝屋》がずいぶん饒舌になっていることに、澪は気づいた。澪に八つ当たり同然に激しい感情をぶつけられて、さすがに鉄仮面のままではいられなかったのだろう。
(そうか……これがこの人の本音なのか)
やはり自分は、彼に歓迎されていなかったのだ。けれど、面と向かってそう言われても、あまり傷つきはしなかった。最初からそうであろう事は分かっていたし、むしろ本音を吐露されてすっきりしたくらいだ。
よそよそしい仮面で本心を隠した、事務的な言葉の羅列ではない。ようやく、本当のことを言ってくれたのか、と。
「あたし……だって……好きで、この街に、いるんじゃ、ない……!」
そう言い返すと、《言伝屋》は幾分か落ち着きを取り戻して言った。
「……それは十分、承知しています。けれど、この街では人の意思など、何の力も無い。何を願い、何を望もうと、それが叶えられることは殆どありません。あなたはこの街に迷い込んで、そしてこの店へとやって来た。ええ、やって来てしまったのです。どんなに抗っても……それが全てなのですよ」
「よく……分かんないよ……」
「いずれ分かりますよ。この幻朧街で生活を続けていれば、嫌でも」
それを耳にした途端、澪は激しくかぶりを振っていた。
「そんなの嫌……! あたし、現世に……家に帰りたい……‼」
「それは願っても叶わぬことだと、言っているでしょう」
「でも……忘れられないんだもん……! 帰りたくて、ここから出たくて……諦めきれないんだもん……‼」
一気にまくし立てると、せっかく落ち着いてきた涙が再び溢れ出す。
「あたし……どうしたらいいの……?」
再びさめざめと泣き出してしまった澪を、《言伝屋》はただ静かに見つめていた。やはり言葉は無かったが、先ほどのように困惑し、澪から距離を取ろうとする気配は無かった。
「それは……私には何ともしようのないことです」
やがてふ、と溜息をつくと、《言伝屋》は小さな声で呟いた。
「……失ったものは、戻って来ない。どんなに喚き、泣き叫んでも、決して元には戻らないのです。どんなに辛くとも、あなた自身がそれを受け入れなければ、意味がありません。他の誰が何を言おうと、所詮は同じことです。……違いますか?」
違わない。それがきっと正論だ。でも正しいかどうかという事と、納得できるかどうかという事は、また別の問題なのだ。
《言伝屋》とて、それが全く分からないわけではないだろう。ただ、彼は澪に向かって諭しているというよりも、むしろどこか自分自身に、一生懸命そう言い聞かせているかのようにも感じられた。
「あなたは……受け入れられたの……?」
確か、《言伝屋》も大切な人を失ったのではなかったか。そう尋ねると、ふつりとした沈黙が返ってきた。不審に思い、のそりと首をもたげ、視線を上向かせると、《言伝屋》が両の手をこれでもかとぎゅっと握りしめているのが目に入った。
「……。そうしようと、努めています。とても……とても、難しいのですが」
まるでそれは、肺の奥底から絞り出すかのような返答だった。
(この人も苦しんでいるんだ……)




