第十二話 幻と朧の街⑥
よく見るとそれは、ばらばらになりかけた数珠だった。
豆と見間違えたのも道理で、大豆のような色をした白檀の数珠だった。先ほどから影たちに投げつけていたつぶての正体は、どうやらこれだったようだ。
澪が数珠を両手に立ち竦んでいる間も、言伝屋は手元に残った数珠の珠を数粒、影に投げつけ続けた。どういう訳だかは知らないが、影たちはそれをひどく嫌っているようだった。
何とかそれを避けようと、ゆらゆらとした動きで必死に体をくねらせている。
それと同じくして、霧が幾重も耳障りな悲鳴を上げた。
「アア……オオォ……!」
「痛イ……痛イ……‼」
その場は、耳をつんざくような悲鳴と逃げ惑う影たちとで、大混乱に陥った。それを好機と見て取ったのだろう。言伝屋は澪の方を振り返ると、半ば突き飛ばすようにして澪の背中を押した。
「《言伝屋》へ向かうのですよ。……いいですね? 行きなさい!」
その一喝で、澪は弾かれたように走り出した。まるで、長い金縛りが不意に溶けたかのように。恐怖で強張った手足は、完全に自由を取り戻して滑らかに動き出し、頭も幾分か冷静さが戻って冴え冴えとしている。
おまけに今度は数珠を持っているせいか、影たちは先ほどとは打って変わって、澪を避ける様にして左右に逃げていく。自ずと、澪の前には道ができた。あとはただそれを走り抜けるだけで良かった。
後は一心不乱だった。どこをどう走ったのか、はっきりとした記憶は残っていない。ただ、これまでの人生になかったほど、全速力で走った。肺が潰れそうだったし、胃がひっくり返りそうで吐き気もしたが、それでも走り続けた。
やがて、気づくといつの間にか霧が晴れていた。
あの白い霧が引いていったのかと思ったが、そうではない。澪が霧の切れ間まで走ってきたのだ。
そのまま走り続け、《言伝屋》の看板が見えて来た時は安堵のあまり腰が抜けそうになった。ふらついた足取りになりつつも、何とか店内に走り込む。
あまりに必死で走り続けてきたせいか、店内に入ってもすぐに止まることができなかった。勢いのあまり、店を支える大黒柱に衝突し、そのまま身を預ける。同時に全身から力が抜け、崩れるようにしてその場に座り込んだ。
頭の中は真っ白だった。肩が激しく上下し、暫く、指を動かすことすらできなかった。放心し、ただ肺が求めるままに、荒い呼吸を繰り返す。
「助かった………私、助かったんだ………!」
ようやく言葉が出たのは、店に転がり込んで五分ほど経ってからだった。立ち上がろうと腰を浮かすが、足ががくがくと震え、力が入らない。全身から気持ちの悪い汗が噴き出し、指先は雪の日かとまごうほど、冷え切ったままだ。特に影に握られた腕には、今なお鈍い痛みがこびりついている。
大丈夫、ここは安全だと必死で自分に言い聞かせたが、ゆらゆらと蠢く無数の影たちの姿が脳裏に甦り、一段と体に震えが走った。思わず、掴まれた腕を擦る。
あれは一体何だったのだろう。一体、何をされるところだったのだろう。
恐怖と安堵で混乱し、何が何だか自分でも分からなくなっていた。とにかく感情が激しくたかぶり、自然と涙が溢れてくる。澪は両手でそれを拭った。
やがて、時間が経つにつれ、それも少しずつ落ち着いてきた。
ふと足元に目を留めると、《言伝屋》の男から手渡された数珠が床に散乱していた。駆け込んだ弾みで手から落としてしまったのだろう。ころころし、豆ほどの大きさの球体を一つ一つ、丁寧に拾う。うすい黄色をした小さな粒は、触れるとほのかに温かい。暗い場所で見ると、まるで蛍の光のように時折光を明滅させているのが分かる。
ただの数珠ではないのだろうか。握っていると、じんわりとした不思議な力が掌に伝わってくる。それに身を任せているうちに心が鎮まり、落ち着いていくのを感じた。
ようやく余裕を取り戻し、澪は自分の周囲を見回してみる。店内には他の誰の姿もなく、しんと静まり返っていた。外から客が訪れる気配もない。
壁に掛けた古い時計が、かちり、かちりと規則的に秒針を進めている。
(そういえば……あの人はまだ戻ってこないのかな?)
店に戻ったはいいが、いつまで待っても言伝屋の店主は戻ってこない。
十五分経った。それでも店主は戻って来ない。二十分。まだだ。
俄かに別の不安が顔をもたげた。
《言伝屋》の店主は自分を助けてくれたのだろう。でも、彼はどうなってしまったのか。バラバラになった数珠を握り締める。澪にこれを手渡した彼に、己の身を守る術が残っているのだろうか。
まさか、あたしの身代わりに――――
はっとして店の外を見つめる。こんなところで一息ついている場合ではないのではないか。一刻も早く、彼の元へ向かうべきなのでは。
しかし、その思いとは別に、体はなかなか動かすことが出来なかった。外へ出る事に、これまでにないほど強い恐怖感を覚えていた。
(また霧が出てきたらどうしよう。また、あの影たちが現れたら……)
だが、だからと言ってこのままでいい筈も無い。彼は澪を助けてくれたのだ。澪が迂闊な行動をとらなければ、《言伝屋》がその身を危険に晒すことも無かっただろう。自分が助かったからと言って、のうのうとこの店の中に逃げ込んだままだなんて、そんなこと人として許されない。
今更、澪が駆け付けたところで、できることなど何もないが、せめてこの借りていた数珠を返すくらいのことはしなければ。
澪は強く唇を噛み締めた。ただでさえ引き攣っていた胃が、更にぎゅっと縮む。
「やっぱり、行こう……。行かなきゃいけないんだ」
そう思うと、それ以上じっとしてはいられなかった。最初はよろめいたものの、何とか柱に縋って立ち上がる。そして手を離すと、再び店を飛び出した。疲労困憊し、ともすれば縺れそうになる足を引き擦りながら、よろよろと走る。
それにしても、どこへどのようにして戻れば良いのだろうか。ただでさえ真っ白な霧の中で、道順なんて覚えていなかった。随分走ったような気がするし、あっという間だったような気もする。
おまけに、あれほど濃く立ち込めていた霧は、今やすっかり引いてしまい、澪の眼前には普段通りの幻朧街の街並みが広がっている。だから余計に、どちらへ足を向けたらいいのか分からない。
(どうしよう、こっちでいいのかな……)
自信は全くなく、適当に選んだ道だったが、どうやら澪の選んだ方角は正しかったようだ。数百メートルほど進んだところで、《言伝屋》の男の姿が見えた。澪は、ほっと息をつくが、ふとある事に気づいてその場に立ち止る。
《言伝屋》は無傷だった。
息を切らせた様子も無ければ衣服が乱れた様子も無いし、どこか怪我を負っている風でもない。
いつも店の中にいる時と同じように平然とした表情で、ゆっくりと澪の方へ歩いて来る。
「店に戻りなさいと言ったでしょう」
《言伝屋》は澪に気づくと、相変わらず感情をあまり感じさせない声で言った。
「ご、ごめん……な、さい……。あの、心配……だった、から」
澪は俯き、途切れ途切れに答えた。それを聞いた《言伝屋》の眉が、僅かばかり動いたのが分かった。澪の言葉に驚いたのだろうか。澪は沈黙し、言伝屋の次の言葉を待った。だが、彼は結局、それ以上は何も言わなかった。
「あ、あの……これ。ありがとう」
澪が数珠を《言伝屋》に見せると、言伝屋は片手を差し出した。華奢だがすらりとした、長い指。澪は数珠をその掌の上に乗せた。
(あ……男の人の手だ)
言伝屋は色白で、全体的に線も細く男臭さは皆無だが、骨ばった指などを目にすると、ああやはり男性なのだと妙に感心したりする。
澪は何となく、子供の頃、父の零児と手を繋いだことを思い出していた。
《言伝屋》は数珠を受け取ると、着物の袂に仕舞った。
そのまま、どちらともなく並び立ち、《言伝屋》へ向かって歩き出す。
「あれ……さっきの、何なの? 霧の中にいた、黒いの……」
立体感の欠如した薄墨の色。生物としての意思を感じさせない、無機質な動き。あれだけ数を成して群れていたのに、互いに関心が全く無さそうであるのも不気味で仕方なかった。あれでは動物なのか、植物なのかも分からない。
囲まれた時の光景を思い出すだけでぞっとする。どうしても、尋ねずにはいられなかった。
すると、《言伝屋》は僅かに目を伏せる。
「……あれですか。我々は《獏》と呼んでいます。幻朧街を訪れた死者たちが未練を晴らせずにこの街に長くとどまり続けると、記憶や感情、人格を徐々に失い、あのような姿になってしまうのだそうです」
「つまり、あの影たちも、元は普通の人間だったってこと?」
「……ええ。少なくとも、言伝屋ではその様に言い伝えられています。死者の魂がこの街に食われてしまい、あんな姿になってしまうのだ……と」
「喰われる……」
澪は思わず《言伝屋》の横顔を見つめていた。言伝屋にはいつもに増して、表情が無い。真っ黒の双眸は前方に注がれてはいたが、どこか宙を彷徨っているようにも見えた。
「彼らは生者でも死者でもなく、ましてや夢幻通りに店を構えているような異形の者達ですらない。何者なのか分からない存在なのです。そして……一度《獏》になった者は、あの姿のまま永久にこの街を彷徨う事になる」
《言伝屋》の声はいつもより沈んでいるように感じられた。気のせいだろうか。
「何だか……怖い。何のためにいるのかな」
澪は呟く。
「………。分かりません。意味などないのかもしれません。ただ、未練を晴らせない死者が増えると、《獏》が街に溢れてしまうといいます。そうならない為に、幻朧街の住人は死者の未練を晴らさなければならないのです」
「そうなんだ………」
言伝屋と言い夢幻通りの店と言い、どうしてそこまで熱心に死者をもてなすのだろうと不思議に思っていたが、どうやらそうしないと、街が《獏》で溢れかえってしまうからというのが原因らしい。
その時、澪はふと腕に違和感を感じ、制服の袖を捲った。そして、そこにあるものを目にし、ぎょっと息を呑んだ。
《獏》に掴まれたところは、その部分だけくっきりと腫れ上がっていた。手の形がはっきりと分かるほどだ。おまけに、火傷の様にヒリヒリと痛む。
掴まれた時は、あれほど冷たかったのに。ぬるりとした感触を思い出し、澪は再び寒気を覚えた。
「でも……どうして、助けに来てくれたの?」
澪が今まで《言伝屋》に対してとってきた態度は、少なくとも友好的と言えるものではない。それくらいの自覚はある。それどころか、勝手にしろと呆れられ、放って置かれてもおかしくない状況だった。どうして《言伝屋》は助けに来てくれたのだろうと、不思議に思っていた。
《言伝屋》はちらりと澪に視線を向け、小さく溜め息をつく。
「危険が迫っている者を、そうと分かっていて見捨てるほど、私も冷酷ではないつもりですが。……あなたが心配だったからに決まっているでしょう」
はっきりと言葉に出され、澪は思わずたじろいでしまった。
嬉しいとか、ありがとうとか、そう言った意思表示を返すべきなのは分かっていたが、それより何より、衝撃の方が勝ってしまった。
まさか、この無表情鉄仮面の口からそんな言葉を聞こうとは。
(この人でも、誰かを心配することがあるんだ……!)
それがはっきりと顔に出ていたのだろう、《言伝屋》はどことなく訝しげな表情になり、声音もワントーン低くなった。
「……何ですか、その顔は」
「え、あ……その……。ちょっと……びっくりしちゃって。何か一瞬、聞き間違えたかと思っちゃった」
「失礼な事を平気で言いますね、あなたも」
「だって、心配してる顔も、普通の顔も、怒ってる顔も全部一緒なんだもん。表情筋、死んでるんじゃない?」
「死んでません」
軽口をたたきながらも、妙な嬉しさで背中がむず痒くなった。
(そうか、心配してくれたんだ。あたしの事、気にかけてくれていたんだ……)
自分の軽率さが招いた事態だ。あまり軽々しく喜ぶべきではないと分かってはいたが、それでも心に温かいものが広がるのを感じずにはいられなかった。そんな気持ちになったのは、この幻朧街に迷い込んで以降、初めてだ。
しかし、澪が感動したのも束の間、《言伝屋》はすぐにいつもの冷淡な声に戻って付け加えた。
「霧が出て来たのでもしや……と思ったら案の定でした。あなたはつくづく人の忠告を無視する性質のようですね」
うぐっと言葉が詰まった。
だって、あんな怖いのが出て来るとは知らなかった、とか、気づいたら囲まれてしまったのだ、とか。
澪にも言い分はあったが、今は黙っておくことにした。
危険を承知で街中に飛び出していった自分に、最も非があるのは間違いない。それに何より、今は言い争いをして険悪な雰囲気になりたくなかった。
代わりに、別の話題に会話の矛先を向けてみた。
「……でも、さっきの数珠は何なの? あの《獏》っていう奴ら、何だかその数珠を恐れているように見えたけど、どうして?」
浮かんだ疑問を矢継ぎ早に繰り出すと、《言伝屋》は面食らったように瞬きをした。
「いきなり質問攻めですね」
「だって、分からない事ばかりなんだもん」
澪は唇を尖らせる。本当はもっと早い段階で聞いておきたかったけれど、今まではそれができなかった。最初は、はっきり言って《言伝屋》が苦手だったし、澪も絶対に自力で現世に戻るのだと意地を張っていたからだ。
――でも。
「あたしが意固地になってたせいで、こんなことになって……そこは悪かったなって思ってるから……」
《言伝屋》がどういった思いでそれを聞いていたかは分からない。ただ一度、その細く優美な瞳を伏せると、着物の袂を指し示して言った。
「……これは特殊な呪い(まじない)の施された数珠なのです。私には師匠がいたのですが、その人がそういったものの類を作るのが得意でして」
「ふうん……って、ええっ? 師匠がいたの!?」
驚いて振り向くと、《言伝屋》は、それが一体どうしたのかと言わんばかりに澪を見つめ返す。そして涼しい顔をし、
「……はい、いましたよ」
と、さらりと答えてのけたのだった。
(いやいや、『いましたよ』、じゃないでしょ! そこ、重要なとこでしょ‼)
内心で激しく突っこみつつも、なおも尋ねてみる。
「でも言伝屋には、あたしたちの他には誰もいなかったよね?」
すると、《言伝屋》は再び真っ黒な瞳を伏せ、ぽつりと呟いた。
「……。彼女は長い間、言伝屋には戻っていません。ある日突然、出かけたまま、行方知れずになってしまったのです」
思わぬ返答に、澪はぱちぱちと目を瞬いた。
(いなくなったって……《獏》になったというのとは違うってことだよね……? この街の中で遭難したってこと……?)
そんなことがあるのだろうか。一瞬そう思ったが、すぐにこの幻朧街なら全くあり得ない話でもないと考え直した。
おかしなモノノケが店を開いていたり、まっすぐ歩いているだけなのに、ぐるぐると同じ場所を堂々巡りしていたり。そんな街では、人が行方不明になっても何らおかしくはない。
裏を返せば、やはりそれだけ危険な街だという事なのだろう。
「そっか……そうだったんだ」
《言伝屋》の沈んだような横顔を目にすると、それ以上、詳しいことは何も聞けなくなってしまった。ただ、この人も大事な人を失っていたのだと思うと、今まで感じたことのない憐憫と親近感のようなものを感じていた。
「……寂しい?」
何とはなしに尋ねると、《言伝屋》はそっと視線を逸らす。
「よく……分かりませんが。気づけば、彼女のことばかり考えてしまいます。だから……きっと、寂しいのでしょう」
「何それ、回りくどくない? 自分のことなんだから、もっとはっきり言えばいいのに」
「……すみません」
「そこで謝っちゃうんだ。……変なの」
澪は思わずくすりと笑った。笑ってから、自分がこの街に来て初めて笑ったのだという事に気が付いた。
(変なのは、あたしも一緒か。もう、二度と笑う事なんてないと思ってたのに……こんな世界でも、笑えるんだ……)
そう思うと、何だかしゃにむに動き回っていた自分が、不意に馬鹿馬鹿しくなってくる。それと同時に、体中をがちがちに支配していた鎖のようなものが、すっと解けて消えていくのを感じた。
「その人……早く戻ってくるといいね」
自然と胸の底からそんな言葉が湧き上がって、零れ落ちた。
「……ええ、本当に」《言伝屋》も、静かにそう答える。
《言伝屋》の店主はそれ以上、何も喋らなかった。
そこで澪も、黙って隣を歩く。
確かに表情は変わらないし、何を考えているのかいまいちよく分からないが、見かけほど冷淡な性格ではないのかもしれない――そう思って、澪は《言伝屋》の横顔を窺ってみた。
相も変わらずの鉄壁の無表情からは、何の感情も読み取る事が出来ない。でも何となく、それが以前ほど苦痛ではなかった。
《言伝屋》の店先まで戻ってくると、中年の女性が店先をうろうろとしているのが見えた。六十歳前後ほどだろうか。困った様に店内を覗き込んでは周囲を見回し、右往左往している。客人だろうか。
そう思っていると、《言伝屋》が足早に彼女に近づいて行って声を掛けた。
「何か御用ですか?」
「あら、人がいるんじゃない! びっくりしちゃったじゃないの、もう! このお店、やってないかと思ったわよ!」




