第十一話 幻と朧の街⑤
後は運だ――そう思っていた。
だから、はっきりした目的地などない。自分がどこにいるのかも分からないし、入り口の場所だって謎のままだ。それでも、言伝屋の中でじっとしているのは、とても耐えられなかった。
動き続けていれば、きっと希望がある。歩けば歩いた分だけ、何かしらの変化に出会う確率は増す。そうであって欲しいと願いを込め、ひたすら突き進んだ。
下手に路地裏に迷い込み、遭難したら《言伝屋》に戻れなくなるかもしれない。昨日は何とか戻れたが、いつもそうだとは限らない。
しかし、昨夜見た愛花の夢が、澪をひどく焦らせていた。
早く戻らなければ、みな澪の事を忘れてしまうのではないか。澪のいない日常が、いつしか愛花たちにとって当たり前になり、居場所が完全に失われてしまうのではないか。
そう思うと、断崖絶壁に一人ぽつんと立たされたような、途方もない孤独感に襲われるのだった。
――出たい。ここから出て、とにかく家に帰りたい。
ただその一心で、前へ前へと歩き続ける。
ところが、少しも歩かないうちに、空腹で気分が悪くなった。思えば昨日の昼から何も食べていない。その前の日も一食だったから、成長期の身にはかなり辛い。
それでも、この街に閉じ込められることに比べれば、何という事は無かった。ここがきっと、帰れるかどうかの正念場だ。何でもいい、糸口を掴みさえすれば、希望が持てる。諦めない気持ちが何よりも大切なのだ。
そうやって自分の気持ちを奮い立たせると、澪はただ無心に歩き続けた。
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一方、《言伝屋》では店主――幽幻が深い溜め息をついていた。
早朝、澪が店を出て行ったことは物音で知っていた。いつもであれば《言伝屋》の二階に上がる階段の下には学生靴が脱ぎ捨てられているが、それも無くなっているから間違いないだろう。
一体、何と言ったら納得してくれるのか。頭が痛い事ばかりだ。
そして、再び溜め息をついた。
死者に接するのは慣れている。彼らの未練は実にはっきりしているからだ。本人に自覚がなくとも、それとなく導いてやれば、自ずと答えが明確になってくる。幽幻にとってそれは、多少の忍耐を要するものの、さほど困難な事ではない。
だが澪は生者であるせいか、本当は何を考え何を望んでいるのか、どうも行動が読めないところがある。入口を探すと言ったり、地図を作ると言い出したり。どれも無駄な行為だと、それとなく伝えているつもりではあるが、どうもうまく伝わっていない。
もっとはっきり言うべきなのだろうかと思うが、言ったら言ったで子供のように頬を膨らませてしまう。
一体、どうしろと言うのだろうか。
おまけに彼女の年齢もまた、幽幻にとっては厄介事の一つだった。澪は大人ではなく、厳密には完全に子どもでもない。どちらでもあり、どちらでもないのだ。そういう微妙な年ごろの者は、幽幻の最も苦手とする相手だった。
澪がこちらに不信感や不満を持っているのは分かる。だからあんなにも苛立ち、怒っているのだろう。
しかし、だからと言ってどう接すればいいのか、それが分からない。
幽幻はあくまで、いつも通りにしているだけだ。いつも通り、己の為すべきことを淡々と為している、そのつもりだ。
それに腹が立つと言われてしまったら、他にどうしようもない。
(……どうしたものか)
そもそも幽幻は、街の外からやって来る生者に出会った経験が殆ど無かった。ここは死者が訪れ去っていく、死者の為の街なのだから。生者が訪れることもあるにはあるが、そんなことは十年に一度あればいい方で、やはり稀有な出来事なのだと言わざるを得ない。
(こういう時に、師匠か他の誰かがいてくれたら良かったのだが……)
つい、そう思わずにはいられなかった。己が少々、とっつきにくい性格であることは、何となく自覚している。だが、幽幻とかつて共に暮らした同居人の中には、もっと人懐こい者や親しみやすい者もいた。彼らがこの場にいたなら、澪ももう少し落ち着いて話を聞いてくれたのだろうか。
(いや……考えても詮無いことだ)
いくらそうであって欲しいと願っても、同居人たちはもうここにはいない。そして最早、戻って来るかどうかも分からないのだから。
結局のところ、待つしかない――幽幻はそう思った。
澪が落ち着くにはもう少し時間がかかるだろう。それを待つしかない。
その時、ふと鼻先を湿った空気が掠める。店の外へと視線を向けると、人けのない路地はからりと晴れていた。空を見上げるが、雨の降りそうな気配も無い。
では、今の湿気はどこから―――――?
幽幻は思わず眉をひそめた。
こういう日には「彼ら」の活動が活発になる。
まさか――何も無ければよいが。
仄暗い予感を押さえつつ、《言伝屋》の暖簾を店先に掲げるのだった。
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澪は幻朧街の中をもがくようにして歩き続けていた。
街並みはどこもかしこも似通っていて、自分がどこにいるのか把握しづらい。おまけに《言伝屋》から大分離れてしまったせいか、一度見た風景が何度も現れては消えていく。
これでは、同じ所をただ、ぐるぐると回っているだけではないか。自分は無意味なことに時間と労力を費やしているのではないか。強い不安に幾度となく襲われるが、何とかそれを押し殺し、無心に足を動かし続けた。
二時間ほど歩いた時だった。
澪はふと、視界が妙に霞むことに気が付いた。最初は疲労のせいかと思い、目を擦ってみたが、どうも違う。白い靄が少しずつ、しかし確実に周囲の空間を覆っていく。
「え……これって、もしかして、霧………?」
澪は戸惑い、立ち尽くした。何故急に霧が出てきたのだろう。空模様に変化はないし、周りには水気もない。それなのに、濃度の濃い真っ白な霧が湧き上がり、どんどん満ちていく。
「どうしよう、これじゃますます、どこに居るのか分からなくなっちゃう……!」
しかし、まごついている間にも、霧は容赦なく澪の周りを乳白色に染めていく。古い街並みの輪郭は容赦なく薄れ、家や路地、全ての境界が曖昧になっていく。その様は、まるで目には見えない何者かが、真っ白の絵の具を幾重にも執拗に塗り重ねているようにも見えた。
それと同時に、異様な匂いが鼻をつく。
「うっ……!」
あまりの臭気に、澪は思わず鼻と口元を覆った。
(何だろう、生臭いっていうか……何かが腐った臭い)
その腐臭は、澪に夏場の台所を思い起こさせた。捌いた魚の内臓を放置すると、家中が凄まじい腐臭に覆われ、とんでも無い事になってしまうことがある。あの臭いだ。
そう、不快で生々しい、死の臭い。
「臭い……何なの、もう……!?」
とにかく、まともな空気を吸いたい。これでは呼吸もできない。そう思って霧の中を移動してみるが、腐臭はどんどん強くなる。胃液が喉元までせり上がり、吐き気が込み上げてくるほどだ。
「どうしよう。この臭い、どんどん酷くなっていく……! 視界も真っ白だし……!」
この霧の正体が何なのかは分からない。でも、視界が霞むに連れて、心臓の鼓動が早くなり、ざらりとした気持ちの悪い感覚が全身を侵食していく。
このまま霧に呑み込まれるのは、まずいのではないか。
そう思ったが、気づいた時は既に手遅れだった。霧の濃度はますます濃くなっていき、今や五十センチ先もはっきりと見通せない。自分がどこに居るのか全く分からないし、どこに民家があってどこまでが路地なのかも、全く見通せない。
霧に含まれる細かい水滴の粒が、冷やりと肌を撫でた。制服も何だか水分を吸って重たくなっているような気がする。歩き回ってようやく暖かく感じるようになったのに、霧のせいで肌を刺すような寒さが戻ってきて、再びぶるりと身震いをした。
砂時計の砂が零れ落ちるように、手足から熱がどんどん奪われ、力が入らない。
澪はふと、《言伝屋》の言葉を思い出した。
――この街は濃い霧に包まれた時が一番恐ろしいのです。
背筋を冷たいものが駆け抜けた。彼の言っていた霧というのは、このことなのではないだろうか。これはただの霧ではない。
禍々しい臭気と、現実感を根こそぎ奪っていくかのような、異常な白さ。霧の放つ冷ややかな空気は、心なしか、ちりちりとした悪意を秘めているようにさえ感じられる。
この、ただでさえ得体の知れない不気味な街の、一番恐ろしい姿とはどういうものか。それに囚われたら、自分はどうなってしまうのだろうか。
(ここにいてはいけない……‼)
そう思った瞬間、奥底から突き上げるような不安に襲われ、澪は反射的に駆け出していた。とにかくどこでもいい。この気味の悪い霧から、一刻も早く逃れてしまいたい。それだけを念じて闇雲に走り続けた。
(そうだ、言伝屋……あそこまで戻ったら、きっと助かる……!)
この街で澪が唯一安心できるのは、あの店の中だけだ。先ほどはとにかく現世に戻りたい一心で店を飛び出してきたが、こうなってしまっては、街の入り口を探すどころではない。とにかく、安全な場所まで逃げ切らなければ。
この霧は絶対に、ただ濃いだけではない。何か得体の知れない、恐ろしいものが潜んでいるような気がする。それはきっと、神社や夢幻通りなんて比べようもないくらい、凶悪で獰猛な何かだ。
澪は今や、雲海のように街をすっぽり覆ってしまった霧の中を、両手で掻き分けるようにして走った。
ところが、その時。
霧の向こうから不意に浮かび上がるようにして、人影が現れた。
眩暈のするような濃霧の中でも、さして焦った様子がなく、ゆっくりとこちらに向かって近づいて来る。
「良かった……人だ!」
死者だろうか。人間の形をしているから、夢幻通りの住人という事は無いだろう。死者と生者は違うと言うが、この際そんなことはどうでもいい。ようやく人の気配を感じられたことにほっと息をつき、その人影に駆け寄っていく。
しかし、澪はすぐにそれが妙である事に気がついた。
その霧の向こうにいる人影にどれだけ近づいても、輪郭しか分からないのだ。
どんな顔立ちをしていて、どういう格好をしているのか。年齢も、男であるか女であるかさえも分からない。ただ、うっすらとした薄墨色が、近づくにつれて濃度を増していくだけだ。
それでも澪は歩みを止めなかった。相手の姿が判然としないのは、きっとこの濃い霧のせいだ。こちら側からよく見えないという事は、向こうからも見えないという事だろう。そう思って、大声で呼び掛けてみた。
「すみませーん、すごい霧ですねー! そちらは大丈夫ですかー!?」
ところが、返答はない。声が届いていないのだろうか。
更に近寄ってみる。やはり、影は影のままだ。姿かたちの分からぬまま、ただ海の底で漂う海藻のように、ゆらゆらと揺らめいている。
相手に触れられそうなところまで近づいて、澪は、はっきりとした異常に気づき、立ち止まった。
その人影の目鼻が分からないのは濃い霧のせいではない。
無いのだ。
質量の無い、影だけの存在。
それが意思を持って動き、こちらに手を伸ばしながら近寄ってくる。
「なに……あれ……?」
澪は後ずさりをした。その闇色の体は、何故だか《宵闇の門》を連想させた。もはや不気味だとかや不快などというもの超越した、押し潰されるような圧倒的恐怖。
人の姿をしているのに、人では決してあり得ないぬるりとした動きをしているのが、これまた身の毛のよだつような嫌悪を感じさせる。
それに伴ってか、霧の中に漂う生臭い腐臭も、どんどん濃く、強くなってきている。あまりにも息をするのが苦痛で、呼吸困難に陥りそうだった。
「なん、なの……!?」
よく見ると、ゆらゆらと蠢く影は一体だけではない。その後ろにもたくさんの似たような影が路地いっぱいに広がり、群れを成してこちらに近づいていた。
どれも同じ形、同じ大きさの、ぼんやりとした均一な影。個性がないのが、逆に言いようのない薄気味の悪さを強調しているように思われた。
彼らが何なのかは分からない。何が目的なのか、何のために存在しているのか、想像もつかない。どうして揃って澪の方へと近づいてくるのか。その理由に至っては、理解したくもない。
でも、ここにいるのは危険だという事だけは、はっきりと心の中で確信していた。
白い霧は方向感覚を狂わせ、自分がどちらから来たのかも分からなくなっていたが、とにかく影の群れから離れようと身を翻した、その時だった。
「い……いや……‼」
いつの間にか澪の背後にも沢山の人影が迫っていた。やはり、どれもぼんやりとした輪郭だけで、顔立ちや服装は分からない。異様なほど、みな同じだ。それらが前方と同じように、左右や後方にもずらりと並んでいる。
囲まれている。
そのことに気づくや否や、全身ががくがくと震え出した。
闇色の影は決して急がない。海藻のようにゆっくりと体を揺らしながら、しかし確実に輪を縮めてくる。感情を微塵も感じさせないその動きに、澪は戦慄した。
澪に対して、怒っているのか、悲しんでいるのか。それとも、哀れな愚か者と嘲っているのか。いずれかの感情があれば、まだ少しは落ち着いていられただろう。
だが、影たちには何もない。
あるのは、そこはかとない悪意の気配だけだ。
おまけに、中途半端に人間に近しい姿をしている事が、余計に恐怖を誘う。
(どうしよう……どうしたらいいの……!?)
やがて、さわさわと葉の擦れるような音がその場を覆った。最初はごく微かなさざめきだったそれは、徐々に大きく、はっきりとした言葉となって、耳朶を打つ。
「……シイ………。………欲……シ……イ…………」
それは確かに闇色の影たちから聞こえてきた。彼らには口はない。しかし霧に乗って、何かを求めるような暗い声が、確かに流れてくる。
澪は抗う事も出来ず、ただそれを聞いていた。
「……シイ……欲シイ……欲シイ、欲シイ、欲シイ……‼」
最初小さなざわめきに過ぎなかった声は、だんだん大きくなり、耳障りなほどの絶叫へと姿を変えていった。みなで一斉に、口々に何かを叫んでいる。そのせいだろうか。影たちは勢いづいたかのようにぐっと輪を狭めると、一斉に澪に向かって手を伸ばしてきた。避けようにも、前後左右を隙間なく囲まれ、もはや逃げる場所などない。
澪は反射的に体を強張らせる。
すると一体の手が、容赦なく澪の腕を掴んだ。
「――――――――――………‼」
ペトリとした感触。
湿布薬に似ているが、湿布の様な爽快感や清涼感は皆無だった。
ただ、突き刺すように冷たかった。
生物としてのあるべき体温は、微塵も感じられない。
全身に鳥肌が伝い、思わず腕を引っ込めそうになった。しかし、影は凄まじい力で澪の腕をがっちりと握りしめる。質量など無さそうなほどゆらゆらとした動きなのに、その力は強固で、簡単には振りほどけない。どれだけ抗っても、びくともしなかった。
焦りと恐怖がない交ぜになって、澪は恐慌状態に陥った。必死になってもがき、影から逃れようと全身で暴れた。
それでも影は手を離さない。あまりにも強い力で腕を引っ張られ、激痛が右腕を貫く。それが余計に、恐怖を煽った。
助けて。誰か、助けて――――――――
そう叫ぼうとしたが、口がパクパクと動くだけで、肝心の言葉が出てこない。
あまりに恐ろしく、もはや悲鳴すら出すことができなかった。
肺が空気の塊をひゅうひゅうと空しく押し出し、全身の血管が収縮して視界がグラグラと揺れる。己の身に起こっていることが許容できないのだろう、脳髄が麻痺を起こし、何も考えられなくなっていた。
これだけ抗っているのに、影には一向に力を弱める気配がない。それどころか、他の影まで我も我もと、両手を伸ばしてくる。影たちに、顔はない。のっぺりしていて凹凸すらなく、ただまっ黒の闇が広がっているだけだ。それでも、弱った獲物を前に舌なめずりをしているような気配が、手に取るように伝わってきた。
(ああ……あたし、ここで死ぬのかな……)
朦朧とする意識の中で、ふと、そんなことが頭をよぎった。
その時。
――――パシン。
何かが弾けるような乾いた音が響いた。
一体、何だろうと、霞む視線を彷徨わせる。すると、それが何だか分からないうちに、再びパシン、パシンと連続して聞こえてくる。
澪の視線が、ようやく音の主を捉えた。どこからか豆の様な小さい粒が無数に飛んできて、澪の腕を掴んでいる影の体に当たったのだ。
影は動きが鈍く、その豆のような粒を避けることができない。小さなつぶてをいくつも受け、激しく身を捩る。それも、ちょっとやそっとではない。上半身を捻り、体全体をくねらせる。
影には相変わらず表情はないが、その様はまるで、激痛に喘いでいるかのようだった。
さらに数粒、つぶてが飛んできて、影の体を直撃した。さすがに堪え切れなくなったのか、影はその拍子に澪から手を離す。同時に、霧の向こうからぞっとするような鋭い叫び声が聞こえてきて、幾重にも空を切り裂いた。
一体何が起こっているのか。訳が分からず呆然としていると、何者かが霧の向こうから現れ、澪に駆け寄ってきた。
顔を見上げると、それは《言伝屋》だった。
「……無事ですね? 走りなさい! これを持って……早く‼」
《言伝屋》は捲し立てる様にそういうと、澪にいくつも連なった小さな粒を握らせる。




