第7話「……雷、嫌い」
「……雨、だる」
踊り場のいちばん上で、宵宮しずくが膝を抱えていた。
昼休み。
窓の外は、朝からずっと土砂降りだ。
屋上の扉の向こうで、雨が叩きつける音がする。
階段の下から聞こえていた昼休みの喧騒も、今日は雨音にかき消されていた。
「……濡れてるけど」
宵宮さんのカーディガンの袖が、肘のあたりまで色が変わっていた。
金髪の毛先からも、ぽたりと雫が落ちている。
「……傘、なかった」
「朝からこの雨だったろ」
「……家、出るとき、持ってくるの忘れた」
忘れた、というより。
持ってくる余裕がなかった、ように見えた。
俺はポケットを探った。
ハンドタオルが一枚。
朝、母さんが洗濯物の山から適当に突っ込んでくれたやつだ。
「……これ」
「……何」
「使えよ。風邪ひくぞ」
宵宮さんは、差し出されたタオルをじっと見た。
半目のまま、三秒くらい。
それから、長い袖の先で、そっと受け取った。
「……ん」
毛先を拭く。
袖を拭く。
最後に、タオルで顔の下半分を隠すようにして、動きが止まった。
「……真壁の匂いする」
「え、臭い?」
「……臭くない」
「ならいいけど」
「……」
宵宮さんは、タオルを膝の上でたたみ始めた。
丁寧に、二回折って。
「……洗って返す」
「いや、別にそのままでいいって」
「……洗って、返す」
二回言われた。
この人、大事なことは二回言う癖があるらしい。
◇
俺は、いつもどおり彼女のひとつ下の段に座った。
雨の音が、ずっと鳴っている。
「……真壁」
「ん?」
「……三者面談、いつ」
「来週の木曜。宵宮さんは?」
「……決まってない」
そういえば、先生に言われていた。
親御さんに日程を聞いてくれ、と。
「……たぶん、来ない」
「え?」
「……あの人、弟の保育園の行事とかあるし」
あの人。
お母さんのことを、あの人と呼んだ。
弟がいるのも、初めて知った。
どう返せばいいのか分からなかった。
踏み込んでいいのか。
聞かない方がいいのか。
――顔も知らない相棒の事情に、どこまで踏み込んでいいのか分からない。
そう思ったのは、つい最近のことだ。
顔を知っている相手でも、同じくらい分からなかった。
「……俺んちもさ」
「……」
「親、あんまりいないんだよ。父さんは単身赴任で、母さんは看護師で夜勤多くて」
「……」
「だから三者面談、母さんが夜勤明けで来ることになってる。たぶん寝てる」
何を言っているんだろう、俺は。
慰めにもなっていない。
でも、宵宮さんは少しだけ顔を上げた。
「……じゃあ」
「ん?」
「……真壁も、夜、ひとり?」
「ほぼな」
「……ふーん」
宵宮さんは、膝の上のタオルを指でなぞった。
「……そ」
それきり、黙った。
◇
ゴロゴロ、と空が鳴った。
遠い。
と思った次の瞬間。
――ドンッ!
踊り場の窓が、真っ白に光った。
腹の底に響くような、近い雷だった。
「――っ」
背中に、何かが当たった。
振り返る。
宵宮さんが、俺のブレザーの袖を、ぎゅっとつまんでいた。
カーディガンの長い袖ごと、指先だけで。
半目が、いつもより少しだけ大きく開いている。
「……宵宮さん?」
「……」
「大丈夫か」
「……雷、嫌い」
小さな声だった。
ギャルにも、苦手なものがあるらしい。
「……離した方がいい?」
「……」
返事はなかった。
でも、袖をつまむ指は、離れなかった。
雨は、まだ降っている。
雷は、まだ遠くで鳴っている。
俺は、なんとなく動けないまま、ひとつ下の段で前を向いていた。
背中のすぐ後ろで、甘い香水の匂いと、湿ったカーディガンの匂いが混ざっていた。
予鈴が鳴るまで、袖は離されなかった。
◇
午前零時。
『……ん』
YOIは、時間どおりにログインしてきた。
窓の外では、まだ雷が鳴っている。
「おつかれ。今日すごい雨だったな」
『……ん。だるかった』
降下して、物資を漁る。
いつもどおりの立ち回り。
いつもどおりの『……ん』。
中盤、敵を二人倒して一息ついたとき。
ヘッドセットの向こうで、ドン、と低い音がした。
雷だ。
その一秒後。
俺の部屋の窓も、ドンッ、と震えた。
「……そっちも雷?」
『……ん』
「今、ほぼ同時に鳴ったな。近いのかもな、俺ら」
『……かもね』
また、ゴロゴロと空が鳴る。
ヘッドセットの向こうで、YOIが小さく息を詰めた。
『……雷、嫌い』
手が止まった。
――雷、嫌い。
今日の昼、まったく同じ言葉を聞いた。
踊り場で。
袖をつままれたまま。
「……YOI」
『……何』
「今日、同じこと言ったやつがいた」
沈黙。
物資を漁る音が、止まった。
『……誰』
「宵宮さん。クラスの」
『……』
五秒。
十秒。
『……雷嫌いな人、いっぱいいる』
「……だよな」
『……いっぱい、いる』
二回言われた。
そうだ。雷が嫌いな人なんて、日本中にいる。
「ん」と言う人も、「あたし」と言う人も、夜に家にいたくない人も、いっぱいいる。
ひとつひとつは、全部、ただの偶然だ。
――ひとつひとつは。
◇
試合が終わって、YOIがログアウトしたあと。
俺は、机の引き出しからノートを取り出した。
『一人称「あたし」の女子リスト』
残った三人の名前。
その中の一人に、俺は線を引いていた。
宵宮しずく。
理由は、ギャルだから。
ギャルは夜、家にいないから。
……でも。
宵宮さんは、夜に家にいたくない。
家にいない夜、どこにいるのか。
俺は、まだ知らない。
消しゴムを手に取った。
線を、半分だけ消した。
お読みいただきありがとうございます!
雷の音、ほぼ同時でしたね。
そして奏汰くん、ついに消しゴムを手に取りました。
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