第17話「……ゲームで言って」
「……パーカーは?」
月曜日の放課後。
駅の改札前で、俺は聞いた。
宵宮しずくは、半目のまま答えた。
「……乾いてない」
「金曜から三日経ってるぞ」
「……梅雨だから」
なるほど。
梅雨なら、仕方ない。
◇
「……パーカーは?」
火曜日。
「……まだ洗ってない」
「乾いてないんじゃなかったのか」
「……乾いてないから、洗えてない」
意味が分からない。
◇
「……パーカーは?」
水曜日。
「……忘れた」
出た。
この人の「持ってくる」が当てにならないことは、もう知っている。
◇
「……パーカーは?」
木曜日。
「……まひるが、貸してって」
「茅野さんが?」
「……そう」
「茅野さんに、俺のパーカーを?」
「……そう。まひる、寒がりだから」
あとで茅野さんに聞いたら、「は? 知らないけど」と言われた。
◇
「期末テストまで、あと十日な」
金曜日のホームルーム。
担任の言葉に、教室中からうめき声が上がった。
「赤点取ったやつは、夏休みの前半、補習だからなー。逃げるなよー」
補習。
夏休みの前半。
前の席の拓海が、ゆっくりと振り返った。
「……真壁」
「なんだよ」
「俺、数学やばい」
「知ってる」
「中間、二十八点だった」
「知ってる」
「赤点、三十点」
「知ってる」
拓海は、机に額をつけた。
ごん、と鈍い音がした。
教室の後ろの方でも、同じような音がした。
振り返ると、宵宮が机に突っ伏していた。
金髪が、机の上に広がっている。
「……しずく、あんた中間何点だったっけ」
隣の茅野さんが、宵宮の背中をつつく。
「……数学、二十五」
「拓海より下じゃん」
「……」
宵宮は、突っ伏したまま動かなかった。
◇
「……補習、なったら」
昼休みの踊り場で、宵宮がぼそりと言った。
「……夏、ゲームできない」
「補習は昼だけだろ」
「……夏休みの昼、真壁んちでゲームする予定だった」
予定、立てていたのか。
「……あと、海」
「海?」
「……まひるが、みんなで行こうって」
「みんなって」
「……まひると、森と、真壁と、あたし」
初耳だった。
俺の夏休みの予定が、俺の知らないところで組まれていた。
「……補習なったら、全部なくなる」
宵宮は、膝を抱えた。
カーディガンの袖に、顔を半分うずめる。
「……だる」
久しぶりに聞いた、本気のだる、だった。
◇
「よし、勉強会しよ!」
その日の放課後、茅野さんが手を叩いた。
「日曜、真壁んちで! 四人で!」
「なんで俺んち」
「しずくがいつも行ってるから」
理由になっていない。
でも、断る理由もなかった。
◇
日曜日の昼。
俺の部屋の床に、四人が座っていた。
ローテーブルを囲んで。
教科書とノートと、お菓子の袋が散らばっている。
狭い。
六畳に四人は、さすがに狭い。
「……で、茅野さんは何点だったんだ。中間」
「数学? 九十二」
「……は?」
拓海と俺の声が、きれいに重なった。
「あたし、学年で十位以内だよ? 知らなかった?」
知らなかった。
ギャルなのに。
いや、ギャルだからとか関係ないのは分かっているけど。
陰キャのギャルへの解像度は、まだまだ低かった。
「じゃ、あたしが森を見るから。真壁はしずくね」
「なんで俺が宵宮」
「だって、しずくは真壁の言うことしか聞かないし」
宵宮は、何も言わなかった。
否定もしなかった。
――そして、宵宮は。
俺のグレーのパーカーを着ていた。
制服でもなく、自分の私服でもなく。
金曜日から、五回「返す」と言って、一度も返ってこなかった、あのパーカー。
「……しずく、それ」
茅野さんが、目ざとく指をさした。
「真壁のパーカーじゃない?」
「……あたしの」
「いや、サイズ全然違うじゃん。袖、手首から先ないじゃん」
「……オーバーサイズ」
「オーバーしすぎでしょ」
「……こういう、デザイン」
茅野さんは、俺を見た。
俺は、目をそらした。
「……ふーん」
茅野さんは、それ以上何も言わなかった。
ただ、ものすごく楽しそうな顔で、拓海の教科書を開いた。
◇
「……分かんない」
二次関数のページで、宵宮が止まった。
「どこが」
「……全部」
「全部か」
「……放物線って何」
そこからか。
俺は、教科書の図を指さした。
「こういう、山なりの線」
「……なんで山なり」
「なんでって……そういうものだから」
「……分かんない」
宵宮は、パーカーの袖で頬杖をついた。
ぶかぶかの袖から、黒と紫のネイルの指先だけが少しのぞいている。
俺は、少し考えた。
どうすれば、伝わるのか。
一年間、声だけで伝えてきた相手に。
「……宵宮」
「……ん」
「ラスアリで、グレネード投げるだろ」
「……投げる」
「投げたグレネード、どう飛ぶ?」
「……」
宵宮は、少しだけ目を細めた。
「……山なり」
「それが放物線」
「……」
「で、グレネードを高く投げると、遠くまで飛ぶけど、落ちるのが遅いよな」
「……遅い。だから、近い敵には低く投げる」
「それが、この式の数字の意味」
俺は、ノートに式を書いた。
グレネードの軌道を、横に描く。
宵宮が、ノートを覗き込んでくる。
近い。
パーカーの袖が、俺の腕に触れている。
自分の服なのに、自分の服じゃない匂いがした。
「……この数字が大きいと」
「高く上がる」
「……じゃあ、これがマイナスだと」
「下に開く。グレネードを逆さまに投げる感じ」
「……そんなの、投げられない」
「数学の中では投げられるんだよ」
「……ずる」
宵宮は、ペンを手に取った。
ノートの端に、小さく放物線を描く。
それから、俺の書いた式の数字を、自分で書き換えてみる。
「……これだと、もっと遠くに落ちる?」
「……合ってる」
「……ほんと?」
「本当」
宵宮の半目が、少しだけ見開かれた。
「……分かった」
小さな声だった。
でも、確かにそう言った。
「……真壁」
「ん?」
「……次も、ゲームで言って」
◇
四時間後。
宵宮は、二次関数の問題を、一人で十問解いていた。
全部、グレネードで考えていたらしい。
ノートの余白には、小さな放物線が、いくつも描かれていた。
「……しずくが勉強してるの、初めて見た」
お菓子を取りに台所へ行ったとき、ついてきた茅野さんが、小声で言った。
「あの子、中学のときからテスト前もずっとスマホいじってたんだよ」
「……そうなのか」
「真壁が教えると、ちゃんと聞くんだね」
茅野さんは、冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、俺を見た。
「――あんた、しずくの『分かった』、初めて引き出したんじゃない?」
◇
夕方。
茅野さんと拓海が帰ったあと、宵宮は最後まで部屋に残っていた。
ノートを、カバンにしまう。
それから、ふと手を止めた。
「……真壁のノート、貸して」
「俺の?」
「……今日のやつ。グレネードの」
俺は、自分のノートを渡した。
宵宮は、それをぱらぱらとめくって、最後のページで止めた。
ペンを取り出して、何か書いている。
それから、ノートを閉じて返してきた。
「……返す」
「何書いたんだ」
「……家で見て」
前にも、同じことを言われた。
四つ折りのハンドタオルと、付箋のとき。
◇
宵宮が帰ったあと、ノートを開いた。
最後のページ。
俺が描いたグレネードの放物線の、いちばん高いところに。
小さな、丸っこい字で。
『ありがと』
その横に、もうひとつ。
『パーカーは、もうちょっと借りる』
――パーカーの言い訳は、これで七個目になった。
しかも今回は、言い訳ですらなかった。
お読みいただきありがとうございます!
パーカー、返ってきませんでした。
そして宵宮さん、グレネードで二次関数を理解しました。
次回、期末テスト本番。
赤点を回避して、夏休みを守れるのか。
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