第18話「……三十二」
「……三十二」
踊り場のいちばん上で、宵宮しずくが答案用紙を掲げていた。
期末テストの答案が、全部返ってきた日の昼休み。
数学。
三十二点。
赤点は、三十点未満。
二点差で、セーフだった。
「……三十二」
二回言った。
半目のまま。
でも、答案用紙を持つ手が、少しだけ震えていた。
◇
話は、三時間前にさかのぼる。
「じゃあ数学の答案返すぞー。名前呼ばれたら取りに来いー」
四時間目。
担任が教卓の上で、答案の束をとんとんと揃えた。
教室中が、静まり返る。
夏休みの前半が、この紙切れ一枚にかかっている。
「森」
拓海が、死刑台に向かう囚人みたいな顔で立ち上がった。
答案を受け取る。
見る。
固まる。
ゆっくりと振り返って、俺に答案を見せた。
三十点。
「……真壁」
「……おう」
「赤点って、三十点未満だよな」
「三十点未満だな」
「三十点は、未満じゃないよな」
「未満じゃないな」
拓海は、天井を見上げた。
何度も見た、悟りを開いた顔だった。
でも今日は、少しだけ涙目だった。
「……生きてる」
「生きてるな」
「俺、生きてる……!」
拓海は、答案を抱きしめて席に戻っていった。
教室のあちこちで、小さな拍手が起きていた。
「真壁」
俺も答案を受け取る。
七十六点。
まあ、いつもどおりだ。
「茅野」
茅野さんは、答案を受け取って、ちらっと見て、すぐ裏返した。
あとで聞いたら、九十五点だったらしい。
ギャルへの解像度が、また一段階上がった。
「宵宮」
教室の後ろで、椅子が鳴った。
宵宮が、ゆっくりと立ち上がる。
いつもの半目。
いつもの長い袖。
でも、歩き方が、いつもより少しだけぎこちなかった。
答案を受け取る。
見ない。
見ないまま、裏返して胸に押しつけた。
そのまま席に戻って、机に突っ伏した。
「しずく、何点?」
「……見てない」
「見なよ!」
「……あとで見る」
茅野さんが、宵宮の背中をばしばし叩いていた。
宵宮は、突っ伏したまま、答案を一度も表にしなかった。
◇
そして、今。
「……ここで、初めて見た」
踊り場で、宵宮がぼそりと言った。
「教室で見なかったのか」
「……真壁より先に、見るの、なんか嫌だった」
「なんでだよ」
「……分かんない」
宵宮は、答案用紙を膝の上に置いた。
三十二点。
赤いバツが、たくさんついている。
でも、その中に。
丸が、まとまってついている大問があった。
大問四。
二次関数。
グレネードの問題。
「……全部、合ってた」
宵宮が、大問四を指さした。
黒と紫のネイルの指先で。
「……グレネードのとこ。全部、丸」
「……すごいな」
「……他は、全部だめだった」
「でも、そこで二十点取ってる」
「……そこがなかったら、十二点」
「十二点だったら、補習だったな」
「……」
宵宮は、答案用紙を見つめていた。
それから、ゆっくりと俺の方を向いた。
半目が、少しだけ揺れていた。
「……真壁が、ゲームで言ってくれたから」
「……」
「……だから、取れた」
俺は、何も言えなかった。
言葉が、出てこなかった。
代わりに、宵宮の頭の上に、手を伸ばしかけた。
――伸ばしかけて、止まった。
いいのか、これは。
ギャルの頭を、陰キャが撫でていいのか。
宙に浮いたままの俺の手を、宵宮がちらりと見上げた。
それから。
ほんの少しだけ、頭を傾けた。
俺の手の方に。
「……」
「……」
「……撫でないの」
「……撫でていいのか」
「……褒めて」
小さな声だった。
カーディガンの袖で、口元を隠したまま。
俺は、宵宮の頭に、そっと手を置いた。
金髪が、思ったよりずっと柔らかかった。
ぎこちなく、二回だけ撫でる。
「……よく頑張ったな」
「……ん」
宵宮は、目を閉じていた。
袖の向こうで、口元が少しだけ緩んでいるのが、分かった。
◇
「真壁、今日しずくんち寄ってく?」
放課後。
教室で、茅野さんが俺の机に手をついた。
「なんで」
「しずく、答案お母さんに見せるんだって」
「……え」
宵宮の方を見る。
宵宮は、カバンに答案をしまっているところだった。
丁寧に。
クリアファイルに入れて。
「……見せる、のか」
「……」
宵宮は、何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
「あの子が自分からテスト見せるの、たぶん中学以来だよ」
茅野さんは、少しだけ声を落とした。
「だから今日は、真壁んち行かないで、まっすぐ帰るって」
「……そっか」
「寂しい?」
「……別に」
「ふーん」
茅野さんは、にやっと笑った。
「しずくと同じ返し方するようになったね、あんた」
◇
その日の夜。
零時より、少しだけ早く。
二十三時四十分に、YOIがログインしてきた。
『……ん』
「早いな」
『……早く、話したかった』
ヘッドセットの向こうは、静かだった。
風の音は、しない。
家の中から、つないでいる。
「……見せたのか。答案」
『……見せた』
「なんて言われた」
少しだけ、間があった。
『……「頑張ったね」って』
「……」
『……あと、「どうやって勉強したの」って聞かれた』
「なんて答えた」
『……友達に、ゲームで教えてもらったって』
友達。
ゲームで。
『……そしたら、あの人』
「うん」
『……「その子に、ありがとうって言っといて」って』
俺は、ヘッドセットのマイクを、少しだけ手で押さえた。
なんだか、声が変になりそうだった。
『……カナ?』
「……聞いてる」
『……だから、言っとく』
「……」
『……ありがと、って。あの人から』
「……どういたしまして、って言っといてくれ」
『……ん』
それから、YOIは少しだけ黙った。
さわさわ、と、袖がマイクに擦れる音がした。
今日も、あのパーカーを着ているらしい。
『……あと』
「ん?」
『……あの人より先に、カナに見せたかった』
「……」
『……だから、教室で見なかった』
昼休みの踊り場で、初めて答案を見た理由。
真壁より先に見るの、なんか嫌だった。
分かんない、と言っていた。
――分かっていたんじゃないか。
『……答案、一番に見せたかった』
「……」
『……それだけ』
それだけ、と言った。
それだけのことが、俺には、それだけには聞こえなかった。
◇
試合の途中で、グループチャットの通知が鳴った。
茅野さんが作った、四人のグループだった。
『全員赤点回避おめでと!!!』
『てことで夏休みの予定決めるよ!』
『海:8月5日』
『夏祭り:8月20日』
『異論は認めない』
拓海が、すぐに返信していた。
『生きててよかった』
YOIが、ぼそりと言った。
『……海』
「海だな」
『……水着、ない』
「……」
それは、俺に言われても困る。
グループチャットに、もう一件通知が来た。
『しずく、水着ないって言ってたから今度買いに行こ!』
『真壁も来る?』
来るわけがない。
俺は、すぐに返信した。
『行かない』
ヘッドセットの向こうで、くすりと息が漏れた。
『……来ないの』
「行くわけないだろ」
『……ふーん』
また、さわさわと袖の音がした。
『……じゃあ、当日まで、秘密』
秘密。
その言葉の意味を考えないようにしながら、俺はグレネードを投げた。
山なりに飛んだグレネードは、狙いより少しだけ遠くに落ちた。
お読みいただきありがとうございます!
全員、赤点回避です!(森くん、ギリギリでしたね)
宵宮さん、ついに頭を撫でてもらいました。
そして次回から、夏休みが始まります。
……水着は、当日まで秘密だそうです。
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