第16話「……でかい」
「……傘、壊れた」
駅の改札を出たところで、宵宮しずくが立ち尽くしていた。
金曜日の夕方。
天気予報どおりの、警報級の大雨。
駅前の道路は、もう川みたいになっていた。
宵宮の手には、黒地に紫の水玉の折りたたみ傘。
……だったもの。
骨が三本、完全にあらぬ方向を向いている。
布の半分が裏返って、風にばたばたと煽られていた。
「……駅出た瞬間、ひっくり返った」
「だから言っただろ」
「……持ってきた」
「持ってきたのは、えらいけど」
宵宮の髪は、もうびしょ濡れだった。
金髪の先から、ぽたぽたと雫が落ちている。
カーディガンの袖も、肩も、スカートの裾も。
改札を出てから、ほんの数十秒しか経っていないはずなのに。
「……真壁の傘」
「ビニール傘一本しかないぞ」
「……入る」
「狭いぞ」
「……入る」
宵宮は、壊れた傘を畳もうとして、諦めた。
骨が曲がりすぎて、もう畳めなかった。
◇
ビニール傘一本に、二人。
踊り場の階段より、駅の改札前より、ずっと狭かった。
肩と肩が、完全にくっついている。
それでも、雨は横から吹きつけてきて、二人とも半分ずつ濡れていった。
「……走る」
「走るのか」
「……走った方が、濡れない」
「それ、科学的に議論が分かれてるやつだぞ」
「……走る」
宵宮が、俺の袖をつかんで走り出した。
水たまりを踏む。
靴の中まで、水が入ってくる。
結局、家に着いたときには、二人ともずぶ濡れだった。
傘を差していた意味は、ほとんどなかった。
◇
「ちょっと! 二人ともびしょびしょじゃない!」
玄関のドアを開けると、母さんが目を丸くしていた。
今日は、夜勤が休みの日だった。
「しずくちゃん、早く上がって! 風邪ひいちゃう!」
「……お邪魔、します」
宵宮は、玄関のマットの上で固まっていた。
カーディガンから、水が滴っている。
「奏汰、タオル! バスタオル持ってきて!」
「分かってる」
洗面所からバスタオルを二枚持ってくる。
一枚を宵宮に渡すと、母さんがそれを奪って、宵宮の頭にばさっとかぶせた。
わしゃわしゃと、髪を拭き始める。
「……っ、あの」
「じっとしてなさい。もう、こんなに冷たくなって」
宵宮は、タオルの下で固まっていた。
されるがままになっている。
半目が、タオルの隙間から少しだけ見えた。
なんだか、ものすごく戸惑っている顔だった。
「しずくちゃん、お風呂沸かしてあるから入っちゃいなさい」
「……え、でも」
「でもじゃない。制服は乾燥機にかけてあげるから」
「……着替え、ないです」
「あ、そっか」
母さんは、少し考えてから俺を見た。
「奏汰、あんたの服貸してあげなさい。私の服じゃ小さいし」
「俺の?」
「パーカーとスウェットでいいから。きれいなやつね」
◇
宵宮がお風呂に入っている間、俺はリビングのソファで固まっていた。
自分の家なのに、居場所がない。
「奏汰」
台所で夕飯の準備をしながら、母さんが言った。
「しずくちゃんのお母さんに、連絡しといてもらったから。うちで服乾かしてるって」
「……ああ」
「ちゃんと返事来たって。『ご迷惑おかけします』って」
そうか。
ちゃんと、返事が来たのか。
「……あの子さ」
母さんは、包丁を動かしながら、ぽつりと言った。
「ちょっと、寂しそうな目してるね」
「……」
「仕事柄、そういう目、分かっちゃうのよ」
看護師だから。
人を見る仕事だから。
「あんたが事情聞いてるなら、それでいい。聞いてないなら、無理に聞かなくていい」
「……少しだけ、聞いてる」
「そう」
母さんは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、包丁の音だけがしばらく続いた。
「――大事にしなさいよ」
最後に、それだけ言った。
◇
洗面所のドアが、開いた。
「……でかい」
宵宮しずくが、立っていた。
俺のグレーのパーカーを着て。
フードが、背中の真ん中まで垂れ下がっている。
袖は、指先どころか、手首から先が丸ごと消えていた。
スウェットの裾は、三回くらい折り返してある。
濡れた金髪は、タオルで軽く拭いただけで、まだ少し湿っていた。
「……でかい」
二回言われた。
「それ、俺が持ってる中で一番小さいやつだぞ」
「……でかい」
三回目だった。
宵宮は、袖を持ち上げてみせた。
ぶかぶかの袖が、だらんと垂れ下がる。
中に手があるのかどうかも、分からなかった。
「……手、出ない」
「まくれよ」
「……まくらない」
まくらないのか。
宵宮は、袖を口元に当てた。
いつも、カーディガンの袖でやっている仕草。
それから、すん、と小さく鼻を鳴らした。
「……真壁の匂いする」
「臭い?」
「……臭くない」
前にも聞いたやりとりだった。
雷の日の、ハンドタオル。
宵宮は、袖を口元に当てたまま、しばらく動かなかった。
半目が、少しだけ細くなっていた。
◇
夕飯は、母さんのカレーだった。
三人で、ダイニングのテーブルを囲む。
宵宮は、パーカーの袖を少しだけまくって、スプーンを持っていた。
さっき「まくらない」と言っていたのに。
食べるときは、さすがにまくるらしい。
「しずくちゃん、おかわりあるからね」
「……ありがとう、ございます」
「遠慮しないでいいのよ。奏汰、この子全然食べないんだから」
「食べてるだろ」
「あんた、私がいないとカップ麺ばっかりでしょ」
図星だった。
宵宮が、スプーンを持ったまま、ちらりと俺を見た。
「……水曜、カップ麺だった?」
「……なんで分かる」
「……ゴミ箱に、入ってた」
見ていたのか。
母さんが、吹き出した。
「しずくちゃん、うちの子の監視役になってくれる?」
「……監視」
「もういっそ、うちの子になっちゃう?」
母さんは、冗談のつもりで言ったんだと思う。
でも、宵宮のスプーンが、止まった。
カレーの上で、ぴたりと。
半目が、少しだけ見開かれている。
「……」
「あら、ごめんね。冗談よ、冗談」
「……」
宵宮は、スプーンをゆっくりとお皿に置いた。
それから、パーカーの袖で口元を隠して、ぼそりと言った。
「……考えときます」
母さんが、一瞬きょとんとした。
それから、声を上げて笑った。
「あはは! 考えといて考えといて!」
俺は、カレーを喉に詰まらせかけた。
◇
九時。
乾燥機から出てきた制服は、ふわふわに乾いていた。
宵宮は洗面所で制服に着替えて、出てきた。
――パーカーを、腕に抱えたまま。
「……これ、借りてく」
「え?」
「……パーカー」
「いや、制服乾いただろ。もういらないだろ」
「……帰り、寒い」
「六月だぞ」
「……雨の夜は、寒い」
宵宮は、パーカーを抱きしめるように持っていた。
絶対に離さない、という持ち方だった。
「……洗って返す」
雷の日のハンドタオルと、同じ言葉。
あのタオルは、三日後に、四つ折りで返ってきた。
甘い匂いをつけて。
「……分かった。洗って返せよ」
「……ん」
宵宮は、制服の上から俺のパーカーを羽織った。
ぶかぶかの袖が、また手首から先を飲み込んでいく。
フードを、頭にかぶる。
フードの奥から、半目がこっちを見ていた。
「……あったかい」
◇
雨が小降りになったのを見計らって、宵宮を家まで送った。
宵宮は、骨の折れた傘の代わりに、母さんが貸してくれた大きな傘を差していた。
でも、なぜか俺のビニール傘の方に、ずっと半歩寄っていた。
玄関の前で、宵宮が振り返る。
「……カナ」
「ん」
「……零時」
「零時」
「……ん」
ドアが閉まる。
グレーのパーカーの背中が、ドアの向こうに消えた。
◇
午前零時。
『……ん』
YOIがログインしてきた。
「おつかれ。風邪ひいてないか」
『……ひいてない』
降下して、物資を漁る。
いつもどおりの立ち回り。
でも、ヘッドセットの向こうから、聞き慣れない音がした。
さわさわ、と。
布が、マイクに擦れる音。
袖が、長すぎる服を着ているときの音。
「……YOI」
『……何』
「お前、今、何着てる?」
沈黙。
さわさわ、という音が、ぴたりと止まった。
『……パジャマ』
「本当か」
『……パジャマ』
二回言われた。
さわさわ、という音は、そのあともずっと、試合が終わるまで聞こえていた。
――あのパーカーが返ってくるのは、ずっと先の話になる。
お読みいただきありがとうございます!
ついに、彼パーカー回です。
「洗って返す」と言いましたが……さて、本当に返ってくるのでしょうか。
奏汰くんのお母さん、今回もいい仕事をしてくれました。
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