第15話「……持ってきた」
「……持ってきた」
駅の改札の前で、宵宮しずくが傘を掲げていた。
梅雨入り初日。
朝から細かい雨が降り続いている。
黒地に、小さな紫の水玉がついた折りたたみ傘。
「……ちゃんと、持ってきた」
半目のまま。
でも、どう見ても得意げだった。
「……えらいな」
「……ん」
宵宮は、傘を開いて見せた。
ぱっと広がった傘は、想像の半分くらいの大きさだった。
小さい。
宵宮一人が、ぎりぎり入るくらいの。
「……かわいいでしょ」
「かわいいけど、それ、肩濡れないか?」
「……濡れない」
駅を出て、歩き始めて三十秒。
宵宮の左肩は、もう色が変わっていた。
「……濡れてるぞ」
「……濡れてない」
「いや、カーディガンの色変わってる」
「……これは、もともとこういう色」
そんなわけがない。
俺は自分のビニール傘を、少しだけ宵宮の方に傾けた。
宵宮の小さな傘と、俺のビニール傘の端が、少しだけ重なる。
「……何」
「肩、入れとけ」
「……」
宵宮は、何も言わなかった。
ただ、歩く位置が、半歩だけ俺の方に寄った。
◇
「なあ拓海」
「ん?」
翌日の昼休み前。
移動教室の途中で、俺は拓海に聞いた。
「人を好きかどうかって、どうやって分かるんだ」
拓海が、廊下の真ん中で立ち止まった。
ゆっくりと振り返る。
ものすごく、嬉しそうな顔をしていた。
「……答え、出そうなのか」
「違う。一般論として聞いてる」
「一般論ね」
「一般論だ」
拓海は、教科書を抱え直した。
「俺も彼女いたことないから、知らんけど」
「知らないなら言うな」
「でもさ、よく言うじゃん。その人がいないときに、その人のこと考えるかどうか、って」
「……」
「一緒にいるときに楽しいのは、友達でもそうだろ。でも、いないときに考えちゃうのは、たぶん違う」
いないときに、考えるかどうか。
俺は、水曜日の夜を思い出した。
宵宮が茅野さんの家に行った日。
一人で食べたカップ麺。
机の上のヘアゴム。
黒猫のマグカップ。
――考えていた。
ずっと、考えていた。
「……真壁?」
「なんでもない」
「顔、赤いぞ」
「なんでもない」
拓海は、それ以上何も言わなかった。
ただ、教室に入るまでずっと、にやにやしていた。
◇
昼休みの踊り場は、雨の音がした。
屋上の扉の向こうで、しとしとと。
前に来た土砂降りの日とは違う、静かな雨だった。
「……今日は、雷ない」
「よかったな」
「……ん」
宵宮は、紙パックのストローをくわえていた。
隣の段。
こぶし一個分。
拓海の言葉が、頭の中でぐるぐる回っていた。
いないときに、考えるかどうか。
……今は、隣にいる。
隣にいるときは、どうなんだ。
横顔を見る。
半目。
長い袖。
ストローをくわえて、少しだけ尖った唇。
「……何」
「なんでもない」
「……最近、なんでもないばっか」
「……なんでもない」
「……ふーん」
宵宮は、それ以上聞いてこなかった。
でも、ストローの音が少しだけ、楽しそうだった。
◇
放課後の俺の部屋は、雨の音で満ちていた。
窓の外は、灰色。
部屋の中は、少しだけ薄暗い。
コントローラーを握っていたはずの宵宮は、いつの間にか自分のもこもこクッションを抱えて、床に横になっていた。
「……ゲーム、しないのか」
「……雨の日は、眠い」
「この前も寝てたけどな」
「……あれは、寝てない」
「三十分寝てた」
「……」
宵宮は、クッションに顔を半分うずめた。
雨の音が、ずっと鳴っている。
テレビの画面には、ロビー画面が映ったまま。
俺も、なんとなくコントローラーを置いた。
宵宮の隣に、背中を壁につけて座る。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「……雨の音」
ふいに、宵宮が言った。
「ん?」
「……家だと、嫌い」
「……」
「……部屋にいると、雨の音しかしないから。リビングの声、聞こえないふりできるけど。でも、聞こえる」
宵宮は、クッションの端を指でつまんだ。
「……でも、ここだと」
「……」
「……嫌いじゃない」
それだけ言って、宵宮は目を閉じた。
俺は、何も言わなかった。
何を言っても、たぶん、違う気がした。
ただ、雨の音を聞いていた。
宵宮と、同じ雨の音を。
◇
宵宮のスマホが、震えた。
クッションの横に置いてあったそれを、宵宮は目を閉じたまま手探りで取った。
画面を見る。
『母』からのメッセージだった。
『今日、夕飯いる?』
宵宮は、しばらく画面を見ていた。
それから、ゆっくりと指を動かした。
『いらない。友達んち』
送信。
すぐに、返信が来た。
『そう。遅くならないようにね』
宵宮は、画面を俺の方に向けた。
「……返した」
「……ん」
「……前は、既読もつけなかった」
知っている。
踊り場で、着信を切っていたのを見た。
コンビニの夜、初めて『すぐ帰る』と返したのも見た。
「……ちょっとずつ、返してる」
「……えらいな」
「……ん」
宵宮は、スマホを胸に抱えて、クッションに顔をうずめた。
さっき駅で傘を見せてきたときと、同じくらい得意げだった。
◇
七時。
宵宮を家まで送る途中で、天気予報の通知が鳴った。
『金曜日 大雨 警報級の大雨のおそれ』
「……金曜、すごい雨らしいぞ」
「……だる」
「金曜も来るのか」
「……来ていい?」
「いいけど。傘は?」
「……持ってく」
宵宮は、折りたたみ傘を広げてみせた。
黒地に、紫の水玉。
……の、骨が一本、変な方向に曲がっていた。
「……それ」
「……」
「昨日の帰り、風で一回ひっくり返ってたよな」
「……」
「骨、折れてるぞ」
「……折れてない」
「曲がってる」
「……これは、もともとこういう形」
そんなわけがない。
宵宮は、骨の曲がった傘を、そっと閉じた。
それから、ぼそりと言った。
「……持ってく」
持っていく、と言った。
この人の「持っていく」があまり当てにならないことを、俺はもう知っている。
――そして今回は、持ってきたとしても、たぶん役に立たない。
お読みいただきありがとうございます!
宵宮さん、今回はちゃんと傘を持ってきました。
……持ってきたんですけどね。
次回、金曜日。警報級の大雨です。
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