第六十一話 進路の日
第六十一話です。青嶺高校で行われる「進路の日」。大学教授による模擬授業を受けることになった湊、ひまり、優斗は、それぞれ興味のある分野について学ぶことに。そして帰宅後、湊はしろと将来について語り合う。進路を考える中で、改めて気づく大切なものとは……?
十月も終わりに近づき、青嶺高校の校庭では、木々の葉が少しずつ色づき始めていた。夏の暑さが嘘のように和らぎ、朝晩には上着が欲しくなる。ついこの間まで夏休みだ、海だ、夏祭りだと騒いでいた気がするのに、季節は着実に進んでいるらしい。
そんなある日の朝。
「……進路かぁ」
教室に入った湊は、自分の机に置かれた一枚のプリントを見つめていた。進路希望調査についてのお知らせ。その文字を見ただけで、なんとなく頭が重くなる。
「おっ、湊もそれ見てるのか」
後ろから声をかけてきたのは優斗だった。
「見てるというか、机に置いてあったからな」
「俺もさっき配られた。 いやあ、ついに来たな、こういう時期が」
「お前、前にも同じようなこと言ってなかったか?」
「人生には何度でも節目が訪れるんだよ」
「便利な言葉だな、それ」
湊が苦笑していると、ひまりも二人の会話に加わってきた。
「進路希望調査、もうすぐ提出じゃんか。 だからそろそろ具体的に考えなきゃいけないよね」
「そうなんだよなぁ……」
優斗が大げさにため息をついた。
「大学に行くのか、就職するのか……そもそも俺は何に向いているんだろう」
「優斗は何かやりたいことないの?」
「あるぞ!」
優斗は即答した。
「探偵!」
「まだ言ってるのか、それ」
「まだも何も、夢は大切にするものだろ!」
「いや、別にいいけどさ……」
湊は笑いながらプリントに目を戻した。自分の場合、大学進学は考えているものの、学部や将来の職業については、まだはっきりと決まっていない。興味のあることがないわけではない。ただ、それを将来の仕事にしたいのかと聞かれると、答えに詰まってしまう。そんな湊の気持ちを察したのか、ひまりが口を開いた。
「そういえば、来週、学校で大学の先生が模擬授業してくれるんだって」
「模擬授業?」
「うん。 大学から教授を招いて、実際の大学で学ぶ内容を体験できるらしいよ」
ひまりは鞄から一枚の案内を取り出した。
「ほら、これ。 昨日、進路指導の先生から配られたの」
湊と優斗は、差し出された案内を覗き込んだ。そこには『進路の日』という大きな見出しがあった。大学の教授を招き、専門分野についての模擬授業を行う。生徒は用意された講義の中から、自分の興味や進路希望に合わせて受講したいものを選ぶ。大学や学部によって内容は異なり、文系・理系を問わず、さまざまな分野の講義が用意されるらしい。
「へえ、面白そうじゃん」
湊は案内に目を通しながら言った。
「大学って、実際に何を勉強するのか、いまいちわからないところもあるしな」
「だろ? 俺も、探偵になるために必要な知識を得られるかもしれないと思ってる」
「だから、探偵にこだわりすぎだって」
「夢を追う若者に冷たいぞ、湊!」
「はいはい」
いつものやり取りに、ひまりがくすくすと笑う。
「でも、本当にいい機会だと思うよ。 進路が決まっている人はもちろん、まだ迷っている人にとっても参考になるだろうし」
「確かにな」
湊はもう一度、案内に視線を落とした。
大学で学べること。
自分の知らない分野。
これから選べる道。
考え始めれば、きりがない。けれど、何も知らないまま悩んでいるよりは、一度実際に触れてみるほうがいいのかもしれない。
「……俺も、ちゃんと選んでみるかな」
「おっ、やる気になったか?」
「別に、そんな大げさな話じゃないだろ」
「いやいや、進路を決める第一歩だぞ!」
「だから、まだ授業を受けるだけだって」
湊が呆れたように返すと、優斗は楽しそうに笑った。やがて始業のチャイムが鳴り、三人はそれぞれ席につく。教室に担任が入ってきた。
「よし、ホームルームを始めるぞ。 今日は進路について、少し話をしておこうと思う」
担任は教卓に出席簿を置くと、黒板に『進路の日』と書いた。
「来週、大学の先生方をお招きして模擬授業を行う」
「詳しい案内は配布したプリントにあるが、これは単なる体験授業ではない。 自分の将来を考えるための材料にしてほしい」
教室が少し静かになった。
「まだ進路が決まっていないからといって、焦る必要はない」
「ただ、何も考えずに時間を過ごすのと、いろいろな可能性を知ったうえで考えるのとでは、大きな違いがあるからな」
湊は担任の話を聞きながら、机の上のプリントを見つめた。将来、自分は何をしているのだろう。どんな大学に通い、どんな仕事に就き、どんな大人になっているのだろう。今の自分には、まだ想像もつかなかった。ただ、一つだけ確かなことがある。どんな未来を選んだとしても、いつかは今の生活から一歩踏み出さなければならないということだ。学校で友人たちと過ごす時間も、家に帰ればしろさんが迎えてくれる日常も。ずっと同じ形のまま続いていくとは限らない。
「……まあ、今から考えすぎても仕方ないか」
小さく呟き、湊は前を向いた。まずは来週の模擬授業だ。自分が何に興味を持つのか、何を学びたいと思うのか。それを知ることから始めてみよう。そう考えると、少しだけ楽しみになってきた。
もっとも――
「湊! 俺、法学系の授業があったら絶対に受けるぞ!」
「……お前は本当にぶれないな」
「将来の夢がある漢は違うんだよ!」
教室に笑い声が広がる。進路という、少し真面目で難しい話。けれど、それもまた、いつもの日常の中にある大切な出来事なのだった。
◇
そして、迎えた模擬授業当日。青嶺高校の校舎は、いつもとは少し違った雰囲気に包まれていた。普段なら教科書を開いて授業の準備をしている時間だが、今日は違う。廊下には大学名と講義内容が書かれた案内板が設置され、生徒たちは自分の受講する教室へと向かっていた。
「よし、俺はこっちだな!」
案内板を確認した優斗が、勢いよく廊下の右側を指さした。
「法学系の講義……なんか、いよいよ探偵っぽくなってきたな!」
「法律を学んだら探偵になれるのか?」
「少なくとも、事件を解決するうえで役に立つだろ!」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
湊が苦笑すると、優斗は満足そうに頷いた。
「じゃあな、湊! お互い有意義な時間にしようぜ!」
「はいはい。 ちゃんと勉強してこいよ」
「任せろ!」
大きく手を振りながら、優斗は法学系の講義が行われる教室へと歩いていった。その背中を見送ったあと、湊は隣にいるひまりへと視線を向けた。
「ひまりは教育学系だったよな」
「うん、子どもの成長や教育について大学ではどんなことを学ぶのか気になって」
「前から興味があったのか?」
「そうだね。 まだ将来のことを全部決めたわけじゃないけど、誰かの成長を支える仕事って素敵だなと思ってるんだ」
ひまりはそう言って、手元の資料を軽く持ち上げた。その表情は、普段の明るい笑顔とは少し違っていた。自分の将来について話すときの、真剣な顔だった。
「湊は国際関係学系だよね?」
「ああ」
「やっぱり、お父さんの影響?」
「……まあ、少しはあるかな」
湊の父、恒一は戦争ジャーナリストとして世界各地を飛び回っている。幼い頃から、父が海外で経験した出来事や、世界の情勢について話を聞く機会はあった。もちろん、すべてを理解できていたわけではない。けれど、父が語る遠い国の出来事は、湊にとって決して無関係なものではなかった。
「それじゃあ、そろそろ行こうか。 講義、始まっちゃうし」
「そうだな、お互い頑張ろう」
「うん、またあとでね!」
ひまりと別れ、湊は指定された教室へと向かった。
◇
国際関係学系の模擬授業が行われる教室には、すでに何人もの生徒が集まっていた。前方のスクリーンには、世界地図とともに大学名、そして講義の題目が表示されている。
『国際社会を考える――世界の出来事と私たちの暮らし』
湊は空いている席に座り、配布された資料を開いた。国際関係と聞くと、外交や戦争、国家同士の交渉などを思い浮かべる。しかし、資料にはそれ以外にも、経済、文化、環境問題、国際協力といった幅広い分野が記されていた。やがて、講義を担当する教授が教室に入ってきた。
「皆さん、おはようございます。 本日は国際関係学という学問について、できるだけ身近な例を交えながらお話ししたいと思います」
教授は簡単な自己紹介を済ませると、スクリーンに一枚の写真を映し出した。
海外の街並み。
そこを行き交う人々。
そして、街の一角に設けられた支援物資の配給所。
「皆さんは、世界で起きている出来事が、自分たちの生活にどれほど関係していると思いますか?」
いきなりの質問だった。何人かの生徒が顔を見合わせる。
「海外で戦争が起きれば、ニュースで報道されます。 遠い国で災害が起きれば、募金活動が行われることもあるでしょう……しかし、それらは本当に遠い国の出来事なのでしょうか」
教授は別のスライドを表示した。
エネルギー価格の変動。
食料の輸入。
国際的な物流。
「たとえば、海外で大きな紛争が起きたとします。 その影響は、現地に住む人々だけにとどまるでしょうか」
教授は、生徒たちに考える時間を与えた。
「エネルギーの供給が滞れば、電気やガソリンの価格に影響が出るかもしれません。 食料の輸送が難しくなれば、私たちの食卓にも変化が生じます。 世界は、皆さんが想像している以上につながっているのです」
湊は資料に目を落とし、教授の言葉を書き留めた。世界はつながっている。当たり前のことのようで、普段の生活では意識する機会が少ない。湊にとって、父が海外で取材をしていることは、幼い頃から身近な事実だった。父が帰国すれば、現地で見た光景や、そこで出会った人々について話してくれることもある。けれど、その話を聞いているとき、湊はどこかで、父が見ている世界と自分が暮らす世界を別のものとして考えていたのかもしれない。自分は日本で学校に通い、友人と過ごし、家に帰れば温かい食事が待っている。父が訪れる国々で何が起きていようと、自分の毎日が大きく変わることはない。そんなふうに思っていた節があった。
「国際関係学は、単に外国について学ぶ学問ではありません。 国と国、人と人が、どのようにつながり、どのような問題を抱え、どうすれば共に生きていけるのかを考える学問でもあります」
その言葉に、湊は顔を上げた。
共に生きていく。
国家間の関係という大きな話から、個人同士の関係まで。考えてみれば、世界の問題も、突き詰めれば人と人との問題なのかもしれない。
「もちろん、一つの正解があるとは限りません。 立場が違えば、考え方も違う。 だからこそ、相手の事情を知り、対話を重ね、互いに理解しようとすることが大切なのです」
教授はそう言って、スライドを切り替えた。今度は、生徒たちが少人数のグループに分かれ、ある国際問題について考える時間になった。提示されたのは、自然災害によって生活の基盤を失った地域への支援についてだった。限られた予算を、どの分野に優先して配分するべきか。医療、食料、住居、教育。どれも必要なものだが、すべてを一度に十分な形で用意することは難しい。
「難しいな……」
同じグループの生徒が呟いた。
「全部必要だし、簡単には決められないよな」
湊も頷いた。人を助けたいと思うだけなら簡単だ。けれど、実際に助けようとすれば、何が必要なのかを考え、限られた条件の中で判断しなければならない。善意だけでは解決できない問題もある。それでも、何もしないという選択が正しいとは限らない。湊たちは意見を出し合い、それぞれの考えをまとめていった。
講義の最後、教授は生徒たちにこう語りかけた。
「今日の授業で、国際関係学のすべてを理解することは難しいでしょう。 それでも、世界で起きている出来事を、少しだけ自分に近いものとして考えるきっかけになればと思います」
そして、穏やかな笑みを浮かべた。
「進路を考えるということは、自分がどんな人間になりたいのかを考えることでもあります。 今日の経験が、その手助けになれば幸いです」
講義が終わり、生徒たちが教室を出ていく。湊は資料を鞄にしまいながら、今日の話を振り返っていた。
国際関係学。
今まで、父の仕事に関係する分野という程度にしか考えていなかった。しかし、実際に話を聞いてみると、思っていた以上に幅広く、そして奥の深い学問だった。もちろん、今日の講義だけで進路を決められるわけではない。自分が本当にこの分野を学びたいのか、まだわからない。それでも。
「……ちょっと、面白かったな」
自然と、そんな言葉が口からこぼれた。
◇
少し時間を戻して、教育学系の教室ではひまりが真剣な表情で教授の話に耳を傾けていた。
「教育とは、知識を教えることだけではありません。 子どもたちが自分で考え、成長していくための環境を整えることも、大切な役割です」
教授の説明を聞きながら、ひまりはノートを取っていた。
子ども一人ひとりの個性。
成長の速度。
その子に合った声のかけ方。
同じ言葉をかけても、受け取り方は人によって違う。相手のことを理解しようとする姿勢が、教育の土台になるのだという。
「……なるほど」
ひまりは小さく頷いた。誰かの成長を支えるということは、ただ正しい答えを教えることではない。その人が自分で答えを見つけられるように、そばで見守ることも必要なのだ。講義を受ける前よりも、教育という分野への興味が少し深まった気がした。
そして、法学系の教室では。
「法律は、社会で起きる問題を解決するための仕組みの一つです。 しかし、条文を知っているだけでは、十分とは言えません」
教授の言葉に、優斗は熱心に耳を傾けていた。法律ができた背景や、その目的。人々の権利を守るための仕組み。普段の生活ではあまり意識しないことばかりだった。
「つまり、法律を知るっていうのは、社会の仕組みを知ることでもあるんだな……」
優斗は配布された資料を見つめながら、真面目に考え込んでいた。探偵になりたいという夢に、法律の知識がどれほど役立つのかは、まだわからない。それでも、今日の授業は十分に興味深かった。何より、知らないことを知るのは面白い。それだけは、はっきりとわかった。
◇
昼休み。三人は校舎の廊下で合流した。
「いやあ、面白かった!」
最初に声を上げたのは優斗だった。
「法律って、思っていたより奥が深いんだな! 条文を覚えるだけじゃなくて、どうしてその法律が必要なのかまで考えるんだ!」
「へえ、ちゃんと勉強してきたんだな」
「当たり前だろ! 俺は真剣に将来を考えているんだ!」
「はいはい」
湊が笑うと、ひまりも楽しそうに頷いた。
「私のほうも、すごく勉強になったよ。 教育って、教える側が一方的に何かを与えるだけじゃないんだね」
「二人とも、充実した時間だったみたいだな」
「湊はどうだった?」
ひまりに尋ねられ、湊は少し考えた。
「俺も、面白かったよ。 国際関係学って、もっと外交とか政治の話が中心なのかと思ってたけど、経済や文化、人々の生活にもつながっているんだなって」
「お父さんの仕事とも関係がありそうだね」
「そうだな。 今まで、父さんが話してくれることを何となく聞いていただけだったけど……もう少し、自分でも調べてみようかなと思った」
口にしてみると、それは自分でも意外なほど自然な言葉だった。父の仕事に興味がなかったわけではない。ただ、それを自分の将来と結びつけて考えたことは、あまりなかったのだ。
「いいじゃん! 興味を持てるものが見つかったなら、大きな一歩だろ!」
優斗が嬉しそうに言った。
「まあ、まだ決めたわけじゃないけどな」
「それでもいいと思うよ。 今日の授業をきっかけに、いろいろ調べてみればいいんじゃないかな」
ひまりの言葉に、湊は頷いた。
「帰ったら、父さんにも少し聞いてみようかな」
父がどんな思いで世界を見つめ、何を考えながら取材を続けているのか。今まで聞いたことのない話も、きっとあるはずだ。そして、もしかしたら。自分の知らない世界を知ることで、将来の選択肢も少しずつ広がっていくのかもしれない。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「よし、午後も頑張るか!」
優斗が立ち上がる。
「お前、今日一日でずいぶんやる気になったな」
「知識を得た男は違うんだよ!」
「その調子が明日まで続くといいな」
「湊、お前なあ!」
二人のやり取りを見ながら、ひまりが笑う。いつものように騒がしく、いつものように穏やかな時間。けれど、今日の経験は、三人の中に小さな変化を残していた。まだ、未来は見えない。それでも、自分が進む道を考えるための材料は、確かに一つ増えたのだった。
◇
午後の授業は、午前中に受けた模擬授業の感想を書く時間だった。配布された用紙には、講義の内容や印象に残ったこと、そして今後の進路選択にどう生かしていきたいかを書く欄が設けられている。湊はペンを手に、しばらく考え込んでいた。
国際関係学。
父の仕事の影響で、以前から耳にする機会はあった。しかし、実際に大学の教授から話を聞いてみると、想像していた以上に幅広い分野であることがわかった。国と国との関係だけではない。経済や文化、人々の暮らし。遠い国で起きている出来事が、自分たちの生活にも影響を与えている。そして、そうした問題を解決するためには、相手の立場を知り、異なる考え方を理解しようとすることが大切なのだという。湊は、今日の講義で印象に残った言葉を思い返した。
――世界は、皆さんが想像している以上につながっている
「……なるほどな」
小さく呟き、ペンを動かす。今まで、父が海外で取材をしていることを、どこか自分とは別の世界の話として捉えていたのかもしれない。けれど、今日の授業を受けて、少しだけ見方が変わった。
父が見てきた世界。
そこで暮らす人々。
そして、自分たちが暮らしているこの社会。
それらは決して切り離されたものではないのだ。もちろん、今日一日で将来の目標が決まったわけではない。国際関係学を学びたいのか、それとも別の分野に興味があるのか。まだ考える余地はたくさんある。それでも、今までより少しだけ、将来について考えてみたいと思えた。湊は感想用紙の最後に、こう書き添えた。
『今回の講義を通して、国際関係学が自分の生活にも深く関わっていることを知った。 今後は、大学で学べる内容や将来の職業について調べ、進路選択の参考にしたい』
「……こんなところかな」
書き終えた用紙を見直し、湊はペンを置いた。教室を見渡せば、まだ考え込んでいる生徒もいれば、早々に書き終えて友人と話している生徒もいる。少し離れた席では、優斗が用紙に何かを書き込んでいた。
「優斗、どうだ?」
「完璧だ!」
「何を書いたんだ?」
「今日の講義で学んだことを、将来の夢にどう生かすか!」
「いや、それはわかったけど」
「法律の知識を身につけ、世の中の困っている人を助けられる人間になりたい、と書いた!」
「……おお」
思ったよりも、まともだった。
「なんだ、その反応は!」
「いや、ちゃんと考えてるんだなと思って」
「俺だって考えるときは考えるんだよ!」
優斗は胸を張った。その隣で、ひまりも感想用紙を提出する準備をしている。
「私も書き終わったよ。 教育について、もっと調べてみたいと思った」
「そっか。 二人とも、いいきっかけになったみたいだな」
「湊もだろ?」
「まあな」
湊は自分の用紙を手に取り、立ち上がった。今日の経験が、いつか自分の進路を決めるときに役立つかもしれない。そんなことを考えながら、三人はそれぞれ用紙を提出した。
◇
放課後。校門を出た湊は、いつもより少しだけ軽い足取りで帰路についた。進路について考えることは、正直なところ、あまり得意ではなかった。
何になりたいのか。
どんな仕事に就きたいのか。
自分は将来、どんな大人になっているのか。
考え始めると、わからないことばかりが目につく。けれど、今日の授業を受けて、すぐに答えを出す必要はないのだと思えた。まずは、いろいろなことを知る。自分が興味を持てるものを探す。それから、ゆっくり考えていけばいい。
「…………」
父がどんな思いで仕事をしているのか。これまで聞いたことのない話も、あるかもしれない。そんなことを考えているうちに、朝比奈家の屋敷が見えてきた。玄関の扉を開ける。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさいませ、ご主人」
出迎えてくれたのは、いつものように落ち着いた表情のしろだった。
「今日は少し遅かったですね。 学校はいかがでしたか?」
「今日は進路の日だったんです。 大学の先生が来て、模擬授業をしてくれて」
「まあ、そうだったのですか」
しろは興味深そうに目を向けた。
「どのような授業を受けられたのですか?」
「国際関係学です。 世界の国々がどう関わっているのかとか、海外で起きていることが自分たちの生活にどう影響するのかとか、そういう話でした」
「国際関係学ですか。 ご主人のお父さまのお仕事にも関係がありそうですね」
「そうですね、少しは父さんの影響もあるんでしょうか」
湊は靴を脱ぎながら答えた。
「父さんが海外で何をしているのか、今まで何となく知っているつもりだったけど……今日の授業を受けて、もう少し詳しく知りたいと思ったんです」
「素敵なことだと思います」
しろは微笑んだ。
「ご主人が新しいことに興味を持たれたのでしたら、きっと有意義な授業だったのでしょうね」
「まあ、そうだな」
湊は鞄を自室に置き、リビングへと向かった。しろは夕食の準備を始めるところだったらしく、エプロンを身につけている。
「それで、ご主人は将来についても、何か考えるきっかけになりましたか?」
「……まあ、少し」
湊は椅子に腰を下ろした。
「大学には行こうと思ってるんだけど、学部まではきまってなくて、今日の授業は面白かったですけど、だからって国際関係学に進むべきなのかは、まだわからないし」
「そうですね。 実際に大学で学んでみなければわからないこともあるでしょうし、ほかの分野を知ることで、興味が変わることもあると思います」
「しろさんは、将来について考えたことってありますか?」
何気なく尋ねた言葉だった。しかし、しろは一瞬だけ手を止めた。
「……私、ですか?」
「うん」
湊は頷いた。
「俺は今、自分の進路のことを考えてますけど、しろさんもこれから先のこととか考えたりするのかなって」
しろは少し考えるように視線を落とした。
「そうですね……」
やがて、穏やかな声で答えた。
「私の場合は、今の生活を大切にしたいという気持ちが強いですね。 朝比奈家でのお仕事も、ご主人のお世話をすることも、私にとって大切なものですから」
「……そっか」
「もちろん、ずっと同じ生活が続くとは限りません。 ご主人も、いずれは大学へ進学されるでしょうし、その先にはお仕事もありますから」
しろは、少しだけ寂しそうに笑った。
「ですから、そのときどきで、自分にできることを考えていければと思っています」
湊は黙って、その言葉を聞いていた。しろにとって、朝比奈家で過ごす時間が大切なものであることは知っている。けれど、彼女にも彼女の人生がある。自分が大学へ進学し、いつか社会に出ていくように、しろだってこれから先のことを考えているのだ。当たり前のことなのに、今まであまり意識していなかった。
「……しろさんは、何かやってみたいこととかないんですか?」
「やってみたいこと、ですか?」
「はい。 仕事でも、趣味でも、これから先やってみたいことです」
しろは少し驚いたように瞬きをした。それから、困ったように微笑む。
「そうですね……今すぐに思い浮かぶものは、あまりありませんね」
「そっか」
「ただ……」
しろは、ほんの少しだけ言葉を探した。
「これからも、ご主人が帰ってこられたときに、安心して過ごせる場所を整えておきたいとは思っています」
その言葉に、湊は顔を上げた。
「……それって、今と同じじゃないか?」
「ふふっ、そうですね」
しろは楽しそうに笑った。
「でも、私にとっては、それが大切なことですから」
湊は、すぐには答えられなかった。自分が学校から帰ってきたとき、しろが迎えてくれる。疲れている日には、何も聞かずに温かい食事を用意してくれる。何気ない会話を交わし、時にはくだらないことで笑い合う。そんな日常を、湊は当たり前のように受け取ってきた。けれど、しろにとっては、それもまた、自分が大切にしたい未来の一つなのだ。
「……そっか」
湊は小さく呟いた。
「だったら、俺も」
「はい?」
「俺も、帰ってきたときに安心できる場所があるのは、すごくありがたいと思ってるよ」
しろが目を丸くした。
「ご主人……」
「いつもありがとう、しろさん」
湊は、照れくさそうに笑った。
「これからも、よろしくお願いします」
しろはしばらく湊を見つめていたが、やがて、ふわりと表情を和らげた。
「……はい。 こちらこそ、よろしくお願いいたします」
その笑顔を見て、湊も自然と笑顔になった。
◇
夕食の時間。テーブルには、しろが用意した温かな料理が並んでいた。しろは箸を手に取りながら、ふと思い出したように口を開く。
「進路について考えるのは、今すぐ答えを出すためだけではないと思います。 いろいろな方のお話を聞いて、たくさんのことを知って……そのうえで、ご主人が納得できる道を選べたらいいと思いますよ」
「……そうですね」
湊は頷き、料理を口に運んだ。将来のことは、まだわからない。
大学で何を学ぶのか。
どんな仕事をするのか。
どんな大人になるのか。
これから考えなければならないことは、たくさんある。けれど、今は焦らなくてもいいのだろう。少しずつ知って、考えて、自分なりの答えを探していけばいい。そして、いつか自分が選んだ道を歩き始めたとき、今日のこの何気ない会話もきっと思い出の一つになるのかもしれない。
「ご主人?」
「ん?」
「お味はいかがですか?」
「ああ、今日もおいしいです」
「ありがとうございます」
しろは、いつものように微笑んだ。
変わらない夕食。
変わらない会話。
変わらない、帰る場所。
けれど、その当たり前の日常の中にも、少しずつ変わっていくものがある。湊は、そんなことを考えながら、しろの作った夕食をゆっくりと味わった。自分の未来を考えること。そして、自分にとって大切な人の未来を考えること。その二つは、もしかしたら、思っていた以上につながっているのかもしれなかった。
第六十一話でした。今回は、湊たちが自分の将来について考える「進路の日」のお話でした。大学教授による模擬授業ということで、湊は国際関係学系、ひまりは教育学系、優斗は法学系の講義を受けることに。三人とも、それぞれ興味のある分野を選びましたが、同じ高校二年生でも、考えていることや興味を持つものは違います。まだ将来がはっきりと決まっていない湊にとっても、今回の授業は一つのきっかけになったのではないでしょうか。特に、父親が戦争ジャーナリストとして海外を飛び回っている湊にとって、国際関係学は少なからず縁のある分野です。これまで父親の仕事については知っていても、それを自分自身の将来と結びつけて考える機会は、あまりなかったのかもしれません。今回の模擬授業を通して、湊が父親の仕事や、自分の知らない世界について、少しずつ興味を深めていく姿を描いてみました。一方、ひまりは教育学、優斗は法学と、こちらもそれぞれの個性が表れる選択になりました。特に優斗は、相変わらず探偵への夢を諦めていないようです(笑)。果たして彼の夢は、この先どうなっていくのでしょうか。湊たちの進路と合わせて、いつか描けたらいいなと思っています。そして、今回もう一つ描きたかったのが、帰宅後の湊としろの会話です。学校では自分の将来について考えていた湊ですが、家に帰れば、いつもと変わらずしろが迎えてくれます。そんな何気ない日常の中で、湊はしろ自身の将来についても考えるようになりました。しろにとって、朝比奈家は大切な居場所です。そして、湊が安心して帰ってこられる場所を守ることも、彼女にとって大切な願いの一つなのでしょう。ただ、しろにも一人の人間として、自分自身の人生があります。湊がこれから進学し、やがて社会へ出ていくように、しろにもこれから先の時間が続いていきます。そんな二人が、それぞれの未来について考えながら、今の関係を少しずつ深めていく。今回は、そうした一面も意識して書いてみました。将来のことは、今すぐ答えを出さなければならないものではありません。いろいろなことを知り、悩み、時には迷いながら、自分なりの道を見つけていくものだと思います。湊たちも、まだまだこれからです。これから季節が進むにつれて、学校生活にもさまざまな出来事が待っています。そんな日々の中で、彼らがどんなことを考え、どんなふうに成長していくのか。引き続き、見守っていただけたら嬉しいです!最後まで読んでいただき、ありがとうございました。感想、ブックマーク等お待ちしております。それでは次回もお楽しみに。




