第六十話 犯人の帰還
第六十話です。富山旅行から帰ってきた湊としろ。数日後、ついに帰国した湊の両親が朝比奈家に姿を現す。旅行を仕組んだ張本人たちを問い詰める湊だったが、夕食の席はいつしか賑やかな家族団らんに。そして夜、湊が眠ったあと、しろは両親と大切な話をすることになり……?それでは、どうぞ。
富山旅行から帰ってきて、数日が経った。黒部峡谷の鮮やかな紅葉も、宇奈月温泉の心地よい湯も、今となっては少し懐かしい思い出になりつつある。もっとも、湊にはひとつだけ、どうしても納得のいかないことがあった。
「……やっぱりおかしい」
夕食後。リビングのソファに腰掛けた湊は、スマートフォンに表示された旅行の写真を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「どうかされましたか、ご主人?」
食器を片付け終えたしろが、首を傾げる。
「いや、富山旅行のことなんですけど」
「とても楽しかったですね」
「……そうですね。 楽しかったのは間違いないです」
しろは小さく微笑んだ。実際、楽しかった。普段なかなか行けない場所を巡り、美味しいものを食べ、温泉にも入った。しろにとっても、忘れられない旅行になった。ただし。
「なんで、俺としろさんの二人だけだったんでしょうね?」
「…………」
しろの手が止まった。
「両親が旅行を手配してくれたのはありがたいんです」
「でも、普通、家族旅行なら両親も一緒に行きません?」
「……そうですね」
「しかも、行き先も宿も全部手配済みで交通費も宿泊費も支払い済み」
「なのに、本人たちは海外にいる」
「…………」
「どう考えても、最初から俺たち二人を行かせるつもりだったとしか思えないんですよ」
湊はスマートフォンを置き、深々と息を吐いた。
「……帰ってきたら、絶対に説明してもらいます」
「そ、そうですか……」
しろは視線を泳がせた。旅行の最中、酔った勢いでご主人に抱きつき、好きだと告げたこと。翌朝、それをまったく覚えていなかったこと。そして、帰りの新幹線で眠ってしまったご主人の頬に、そっと口づけてしまったこと。あれ以来、しろは湊と目が合うたび、あのときの自分の行動を思い出してしまう。
幸い、湊は何も気づいていない。このまま何事もなかったかのように日常へ戻れれば、それでいい。そう思っていたのだが。
――ピンポーン
玄関のチャイムが鳴った。
「おや、こんな時間に誰でしょう?」
しろの声に反応して湊が時計を見る。午後七時過ぎ。宅配便にしては遅いし、来客の予定もなかったはずだ。
「私が出てまいります」
「お願いします、しろさん」
しろは玄関へ向かった。
そして、扉を開ける。
「ただいまー!」
「いやあ、久しぶりの我が家だな!」
「…………」
そこに立っていたのは、見覚えのある二人だった。ひとりは、明るい笑顔を浮かべた女性。もうひとりは、大きな旅行鞄を手にした男性。
朝比奈美咲と、朝比奈恒一。湊の両親である。
「お久しぶりです、旦那さま、奥さま」
「しろちゃん! 元気だった? 湊にいじめられてない?」
「おいおい、帰ってきて早々それか。 まずはただいまだろう」
「ふふっ、おかえりなさいませ」
しろが微笑むと、美咲は嬉しそうに彼女の手を握った。
「もう、会いたかったわ! 富山旅行、どうだった? 楽しかった?」
「ええ、とても……」
答えかけて、しろは口をつぐんだ。美咲の目が、きらりと光ったからだ。
「それはよかったわぁ。 二人きりの旅行だものね?」
「……美咲さま」
「温泉も入った? 美味しいものも食べた? 夜はゆっくりお話しできた?」
「…………」
「ねえねえ、どんな感じだったの?」
「母さん!」
廊下の向こうから、湊の声が響いた。どうやら玄関での会話が聞こえていたらしい。美咲は、ぱっと顔を輝かせた。
「あら、湊! ただいま!」
「ただいま、じゃないよ!」
湊は玄関までやってくると、両親を交互に見た。そして、腕を組む。
「……ちょっと、話があるんだけど」
「えっ、何? お土産ならあるわよ?」
「そういう話じゃない!」
「海外のお土産もあるぞ。 ほら、湊の好きそうな菓子も買ってきた」
「父さんも話を逸らさない!」
旅行鞄を置こうとしていた浩一の手が止まった。美咲と浩一は顔を見合わせる。そして、二人そろって笑った。
「……何がおかしいの?」
「いやあ、元気そうで安心した」
「本当にねえ。 しろちゃんと旅行に行ったおかげかしら?」
「だから、その旅行の話だよ!」
ついに、湊の声が一段高くなった。しろは玄関の隅で、そっと両手を重ねた。
――ああ
とうとう、このときが来てしまった。富山旅行を手配し、何食わぬ顔で海外へ旅立ち、帰ってくるなりしろの感想を聞こうとする。この二人は、間違いなく今回の事件の首謀者だ。そして、これから始まるのは。朝比奈家の息子による、両親への事情聴取である。……もっとも、当の両親に反省の色は、まったく見られなかったのだが。
「さあさあ、立ち話もなんだから、リビングに行きましょう!」
「そうだな。 湊、旅行の写真を見せてくれよ」
「なんで俺が見せる側なんだよ! 父さんたちが行かせたんでしょうが!」
「まあまあ、湊、落ち着いて」
「落ち着いてられるか!」
賑やかな声が、久しぶりに朝比奈家へ響き渡った。しろはその光景を見ながら、小さく微笑む。この家は、やっぱり騒がしい。けれど。
――こういう時間も、嫌いではない
そう思った直後。
「ところで、しろちゃん」
「はい?」
美咲が、何かを思い出したように振り返った。
「旅行中、湊に何か変わったことはなかった?」
「…………っ」
しろの笑顔が、ぴたりと固まった。そして湊は、まだ何も知らない顔で首を傾げた。
「変わったこと? 特に何もなかったと思うけど……」
「そ、そうですね。 特には……」
しろは静かに目を伏せた。
――お願いですから、そこは聞かないでください
彼女の心からの願いは、どうやら誰にも届いていないらしかった。
◇
結局、湊の事情聴取は夕食の席へ持ち越されることになった。理由は単純。美咲が「せっかく帰ってきたんだから、まずは家族でご飯にしましょう!」と宣言し、恒一が「そうだな。腹が減っては話し合いもできない」と便乗したからである。そして何より、しろがすでに夕食の準備を進めていた。
「……まあ、食事が終わったら、ちゃんと説明してもらうからね」
「はいはい」
「本当に分かってる?」
「分かってるわよ。 ほら、湊、お母さん、お腹ぺこぺこなの」
「それは俺も同じだけどさ……」
湊は釈然としない顔をしながらも、食卓についた。久しぶりに家族四人が揃った夕食だった。テーブルには、しろが用意した料理が並んでいる。焼き魚に煮物、味噌汁に炊きたてのご飯。海外での食生活が長かった両親にとっては、どこか懐かしい献立だった。
「うわあ……やっぱり、しろちゃんのご飯は最高ね!」
美咲は手を合わせるなり、目を輝かせた。
「ありがとうございます、美咲さま」
「いや、本当に美味い。 海外にいると、こういう家庭料理が恋しくなるんだよ」
恒一も味噌汁を一口飲み、満足そうに頷いた。
「父さんと母さんは向こうでは何食べてるの?」
「そうねえ。 場所によるけど、現地の料理が中心かしら」
「仕事先の人に勧められた店に行くこともあるし、移動が多いときは簡単なもので済ませることもあるわ」
「俺の場合は、取材先で食事をご馳走になることも多いな。 ありがたい話だよ」
「へえ……」
湊は少しだけ表情を和らげた。両親が海外で忙しく働いていることは知っている。母は医療支援の仕事で、父は戦地や紛争地域を取材する仕事だ。簡単に帰国できない事情があることも、理解しているつもりだった。
「……二人とも、ちゃんと食べてるならいいけど」
何気なく口にした言葉に、美咲が目を丸くした。
「えっ、湊? 今、お母さんたちの心配してくれた?」
「いや、普通するでしょ」
「大きくなったわねえ……!」
「いやいや、何年も会ってないわけじゃないんだから!」
「でも、昔は『お土産買ってきて』しか言わなかったのに!」
「そんなことないって!」
美咲は嬉しそうに笑い、恒一も目を細めた。しろはその様子を見ながら、静かにお茶を注いでいた。湊は両親に対して、普段は少し素っ気ない。けれど、こうして話している姿を見ると、やはり家族なのだと思う。離れて暮らしていても、互いを気にかけている。そんな当たり前のことが、しろには少し眩しかった。
「そういえば、湊」
恒一が箸を置いた。
「富山はどうだった?」
「……来たね、その話」
「お、待ってました!」
「母さん、楽しそうだね?」
「もちろん! だって、せっかく手配した旅行だもの!」
「やっぱり母さんが主犯なんだ!」
「失礼ね? お父さんも共犯よ」
「自分で言うな!」
湊が頭を抱える。恒一は苦笑しながら、湊の前に置かれた写真の束を指さした。
「まあ、そう怒るな。 写真を見せてくれないか?」
「……写真?」
「せっかく行ったんだ、どんな景色だったのか父さんたちも見たいんだ」
「それは……まあ、いいけど」
湊はスマートフォンを取り出し、旅行中に撮った写真を表示した。最初は黒部峡谷の景色だった。
「うわあ、綺麗ねえ!」
「これは見事だな。 紅葉の時期に行けたのはよかったじゃないか」
「そうなんだよ。 トロッコ列車からの景色がすごくてさ、途中の橋も迫力あったし……」
湊は、思いのほか饒舌に話し始めた。旅行中に見た景色。列車の揺れ。途中で立ち寄った場所。食べた料理。話しているうちに、自然と笑顔が増えていく。
「それで、宿のご飯もすごかったんだよ。 魚も美味しかったし、温泉も気持ちよくて……」
「温泉!」
美咲が、食い気味に反応した。
「二人で入ったの?」
「……は?」
「だって温泉旅館でしょう? 貸切風呂とかあったんじゃない?」
「いや、普通に男女別の大浴場だよ!」
「あら、そうなの?」
「何を期待してたんだよ!」
「別に何も?」
「絶対嘘だ!」
恒一は咳払いをして、話を戻そうとした。
「まあまあ。 旅行そのものが楽しかったなら、それでいいじゃないか」
「父さんも笑ってるだろ!」
「いや、息子が楽しそうで何よりだと思ってな」
「顔がにやけてる!」
湊が抗議する一方、しろは少し離れた席で、控えめに笑っていた。写真には、湊が撮った景色ばかりが並んでいる。しかし、その中には一枚だけ、しろが写っている写真があった。宇奈月温泉の街を散策していたとき、湊が何気なく撮影したものだ。お土産の入った紙袋を両手に持ち、少し困ったように笑っているしろ。本人は撮られたことに気づいていなかったらしい。
「あら……」
美咲がその写真を見つけた。
「しろちゃん、可愛い!」
「えっ?」
「これ、湊が撮ったの?」
「う、うん。 歩いてるときに、なんとなく……」
湊は画面を覗き込み、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「いい写真じゃない? しろちゃん、すごく自然な顔してる」
「…………」
しろは、思わず俯いた。そんなふうに言われるとは思っていなかった。写真の中の自分は、確かに自然な表情で少し楽しそうに見える。普段の自分なら、写真を撮られることなど、あまり得意ではないはずなのに。
「……ありがとうございます、ご主人」
「いや、俺は撮っただけだよ」
「それでも、です」
しろは小さく微笑んだ。
美咲はその様子を見て、恒一と目を合わせる。言葉は交わさなかった。けれど、二人の表情には、妙な満足感が浮かんでいた。
――どうやら、旅行を企画した甲斐はあったらしい
もちろん、湊本人はそんな両親の思惑など知らない。
「……それで」
湊はスマートフォンをテーブルに置いた。
「写真も見せたし、旅行の話もした。 次はこっちのターンだ」
「あら、まだ何かあったかしら?」
「あるよ! むしろ、それが本題だよ!」
美咲はきょとんとした顔を作った。恒一も、何食わぬ顔でお茶を飲んでいる。
「なんで俺としろさんの二人だけで旅行に行かせたの?」
「仲良しだから?」
「答えになってない!」
「湊がしろちゃんと一緒に旅行したら、きっと楽しいと思ったのよ」
「それは……楽しかったけど」
「でしょう?」
「そういう問題じゃないんだって!」
湊は再び頭を抱えた。その横で、しろはそっとお茶を飲む。楽しかった。それは間違いない。けれど、楽しかったからこそ、思い出してしまうこともある。温泉旅館の夕食。酔っぱらって、翌朝、何も覚えていない自分に、湊が心配そうな顔をしていたこと。そして、新幹線の中で、眠る湊の頬にそっと触れたこと。しろは、湯呑みを両手で包んだ。
――あの旅行は、きっと忘れられない
良い意味でも、悪い意味でも。
「……しろちゃん?」
「はいっ」
突然呼ばれ、しろは背筋を伸ばした。美咲が、にこにことこちらを見ている。
「湊との旅行、また行きたい?」
「…………え?」
湊が顔を上げた。
「母さん?」
「だって、楽しかったんでしょう?」
「それはそうだけど……」
美咲は、しろの返事を待っている。しろは少しだけ迷った。そして、いつもの落ち着いた声で答えた。
「……また、ご一緒できたら嬉しいです」
一瞬、食卓が静かになった。次の瞬間。
「だって、湊!」
「聞こえてるよ!」
「よかったわねえ!」
「何がだよ!」
朝比奈家に、再び賑やかな声が響き渡る。しろは困ったように微笑みながら、そっと視線を落とした。
――また行きたい
その言葉は、嘘ではなかった。ただ、次に旅行へ行くときは。もう少し、自分の気持ちを整理してからにしたい。そんなことを考えながら、しろは冷めかけたお茶を一口飲んだ。
◇
夕食が終わる頃には、湊の怒りもすっかり落ち着いていた。結局、旅行を手配した理由について、両親から明確な答えは得られなかった。美咲は「二人に楽しい思い出を作ってほしかったから」と言い、恒一は「親心というやつだ」と笑うばかり。それ以上問い詰めても、まともな答えは返ってこないだろう。湊はそう判断した。
「……もういいよ。 どうせ、何を言っても教えてくれないんだろうし」
「あら、物分かりがいいわね」
「母さんたちと何年付き合ってると思ってるんだよ」
「成長したわねえ」
「それ、褒めてる?」
「もちろん!」
美咲は満面の笑みで答えた。湊は深々とため息をついた。その様子を見ていたしろが、そっと口を開く。
「ご主人、明日も学校がありますし、そろそろお休みになられてはいかがでしょうか」
「あ、そうだった……父さん、母さん、話はまた明日でいい?」
「ええ、もちろん。 久しぶりに会えたんだから、明日もたくさんお話ししましょうね」
「父さんも、しばらくは日本にいる予定だ。 安心しなさい」
「……本当?」
湊の表情が、ほんの少し明るくなった。
「ああ。 仕事の都合で急に出ることはあるかもしれないが、今までよりは家にいられると思う」
「そっか、それなら、よかった」
短い返事だった。けれど、湊がどれだけその言葉を嬉しく思ったのかは、しろにも分かった。美咲は一瞬だけ、息子を見つめる目を柔らかくした。
「……湊」
「ん?」
「いつも、ありがとうね」
「……何が?」
「いろいろ、よ」
美咲はそれ以上、何も言わなかった。湊も、少し不思議そうな顔をしただけで、深く追及することはなかった。
「……じゃあ、おやすみ。 しろさん、明日もよろしくお願いします」
「おやすみなさいませ、ご主人」
湊は階段を上がっていった。足音が遠ざかり、二階の扉が閉まる。やがて家の中が静かになると、美咲はふうっと息を吐いた。
「……さて」
そして、しろのほうへ向き直った。
「しろちゃん。 少し、話をしてもいいかしら?」
「……はい」
しろは静かに頷いた。なんとなく、そうなる気がしていた。
◇
リビングに戻り、三人分のお茶を淹れなおす。美咲と恒一はソファに並んで座り、しろは向かい側の椅子に腰掛けた。時計の針は、午後十時を少し回っていた。
「まずは、改めてお礼を言わせてちょうだい」
美咲が、いつになく真剣な表情で頭を下げた。
「湊のこと、いつもありがとう」
「……奥さま、頭を上げてください」
「ううん。 これは、ちゃんと言っておきたかったの」
美咲は顔を上げ、しろの目をまっすぐに見た。
「私たちは、どうしても家を空けることが多いでしょう? 湊が小さい頃から、寂しい思いをさせてしまったこともあったと思う」
「……」
「もちろん、私たちなりに考えてきたつもりよ。 でも、親がそばにいられない時間をなかったことにはできないもの」
恒一も静かに頷いた。
「俺たちは自分の仕事に責任を持っている。 それは今も変わらない……が、親として十分だったかと聞かれれば……胸を張ってそうだとは言い切れないな」
「そんなことは……」
しろは思わず口を挟んだ。
「ご主人は、お二人のことを大切に思っていらっしゃいます。 お帰りになるたびに、嬉しそうになさっていますし……」
「ええ。 だからこそ、よ」
美咲は穏やかに微笑んだ。
「湊が元気に育ってくれたのは、私たちだけのおかげじゃない。 学校の先生や友達、それに……しろちゃんがいてくれたからだと思ってる」
「私は、ただ……」
「ただ、何?」
「……ご主人が、困っていらっしゃったので」
しろは少し考えてから答えた。
「最初は、本当にそれだけだったんです」
五年前の春。まだ中学一年生だった湊と、朝比奈家にやってきたばかりの自分。あの頃のことを思い出すと、今でも不思議な気持ちになる。自分は、何も持っていなかった。これからどうすればいいのかも分からず、ただ目の前の一日をやり過ごすことに精いっぱいだった。そんな自分に手を差し伸べてくれたのが、湊だった。
「ご主人は、私に居場所をくださったんです」
しろは、そっと湯呑みに目を落とした。
「ですから、私も……ご主人にとって、少しでも安心できる場所でありたいと思っていました」
「……しろちゃん」
「もちろん、今もその気持ちは変わりません」
そこで一度言葉を切り、しろは困ったように笑った。
「ただ、最近は……それだけでは、なくなってしまったような気もするのですが」
美咲の目が、すっと細くなった。恒一も、何かを察したように妻と顔を見合わせる。
「……そっか」
美咲は、嬉しそうに、けれど少しだけ心配そうに微笑んだ。
「しろちゃんも、いろいろ考えているのね」
「……はい」
「それなら、ひとつだけお願いしてもいい?」
「何でしょうか」
「自分の気持ちも、大切にしてね」
しろは顔を上げた。
「湊のために何かをしてくれるのは、とても嬉しい。 でも、しろちゃん自身がどうしたいのかも、ちゃんと考えてほしいの」
「……私自身が、どうしたいのか」
「そうよ、湊がどう思うか、私たちがどう思うかじゃなくて、しろちゃんの人生は、しろちゃんのものだから」
その言葉は、しろの胸に静かに染み込んでいった。朝比奈家に来てから、ずっと考えてきたことがある。ここにいてもいいのだろうか。自分は、いつまでここにいていいのだろうか。湊が成長していくなかで、自分はいつか必要なくなるのではないか。そんな不安が、完全に消えたわけではなかった。けれど。
「……ありがとうございます、美咲さま」
しろは、ゆっくりと頭を下げた。
「少しずつ、考えてみます」
「それでいいのよ」
美咲は、しろの手にそっと自分の手を重ねた。
◇
それからも、話は続いた。湊の幼い頃の話。中学生になったばかりの頃、しろが朝比奈家にやってきた日の話。そして、ここ数年で湊がどれほど成長したのかという話。
「湊って、小さい頃はもっと甘えん坊だったのよ」
「そうなのですか?」
「恒一が海外に行く前なんて、ずっと後ろをついて回ってたんだから」
「母さん、それは言わなくていいだろ……」
「あなた、昔の話になると急に口数が減るわねえ」
「……まったく」
恒一は苦笑した。
「だが、あいつは昔から、誰かが困っていると放っておけないところがあったな」
「はい。 それは今も変わりません」
しろは、自然と微笑んでいた。
「……私も、何度も助けていただきましたから」
そう言うと、美咲は少しだけ目を伏せた。
「そっかぁ、湊がねえ……」
その声には、母親としての安堵が滲んでいた。湊が誰かを助けられる人間に育ったこと。そして、その相手がしろだったこと。きっと、美咲にとっても特別なことなのだろう。話題はやがて、富山旅行のことに戻った。黒部峡谷の景色。宇奈月温泉の街並み。旅館で食べた料理。しろが買ったお土産。美咲は楽しそうに話を聞き、恒一はときどき補足するように質問した。ただし、二人とも妙に詳しく聞きたがる部分があった。
「それで、旅館ではどんなお話をしたの?」
「……普通のお話です」
「普通って?」
「学校のことや、旅行先のことなど……」
「ほかには?」
「ほかには……」
しろは、困ったように視線を泳がせた。まさか、酔った勢い何かやらかしてしまったであろう話をするはずもなく。いや、話したところで、そもそも自分自身がそのときのことを覚えていないのだ。
「……あまり、覚えていないこともありますので」
「あら?」
「美咲、あまり追及するな」
恒一が口を挟んだ。
「しろちゃんだって困っているだろう」
「あら、私はただ、二人がどんな時間を過ごしたのか知りたいだけよ?」
「その顔で言っても説得力がないぞ」
「失礼ねえ」
しろは、思わず小さく笑った。こんなふうに、湊の両親とゆっくり話すのは久しぶりだった。普段の朝比奈家では、湊と二人で過ごす時間が多い。こうして美咲や恒一と話していると、自分がこの家の一員として迎えられているのだと、改めて感じられた。気がつけば、時計は午前一時を回っていた。
「……あら、もうこんな時間?」
美咲が時計を見て、驚いた声を上げる。
「しろちゃん、ごめんなさいね。 すっかり遅くなっちゃった」
「いえ、私も楽しかったですから」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
美咲は立ち上がり、しろの肩を優しく抱いた。
「これからも、よろしくね」
「……はい」
しろは、小さく頷いた。恒一も立ち上がり、空になった湯呑みを手に取った。
「湊のことも、しろちゃん自身のことも、何かあれば遠慮なく相談してくれ。 俺たちにできることなら、力になる」
「ありがとうございます、恒一さま」
「それと……」
「はい?」
「旅行の件は、湊には内緒にしておいてくれ」
「……え?」
しろが目を瞬かせる。恒一は、いたずらっぽく笑った。
「俺たちがどんなつもりで手配したか、あいつにはまだ早い」
「ちょっと、あなた、何を言ってるのよ」
「事実だろう?」
「……お二人とも」
しろは、呆れたように息を吐いた。けれど、その表情には笑みが浮かんでいた。
「……本当に、ご主人のお父様とお母様ですね」
「それ、褒めてる?」
「さあ、どうでしょう」
しろは珍しく、少しだけいたずらっぽく答えた。美咲は声を上げて笑った。恒一も、満足そうに頷いた。こうして、朝比奈家の長い夜は更けていった。
◇
翌朝。
「……眠い」
「……同感だ」
朝比奈家の玄関で、美咲と恒一はそろって目を擦っていた。時計は午前八時。二人は昨夜、しろとの話が終わったあとも、今後の仕事の予定や家のことについて相談していたらしい。結果、寝不足である。
「お母さん、今日も出かけるの?」
制服姿の湊が、階段を下りながら尋ねた。
「ええ。 ちょっと用事があってね……ふぁ」
「……眠そうだね」
「昨日、ちょっと夜更かししちゃったのよ」
「何してたの?」
「秘密!」
「……またそれか」
湊は呆れたように肩を落とした。その後ろから、しろがやってくる。
「奥さま、旦那さま、お忘れ物はございませんか?」
「大丈夫よ、しろちゃん、ありがとう」
「何かあったら連絡してくれ。 しばらくは日本にいるからな」
「はい。 お気をつけていってらっしゃいませ」
しろが丁寧に頭を下げる。美咲は、そんな彼女の手をそっと握った。
「……しろちゃん」
「はい?」
「昨日のお話、忘れないでね」
「…………はい」
しろは、静かに頷いた。美咲は満足そうに微笑むと、恒一とともに玄関を出ていった。
「じゃあ、行ってくるわね!」
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
扉が閉まる。しばらくして、湊が首を傾げた。
「……なんか、二人とも妙に眠そうだったな」
「昨夜は、少し遅くまで起きていらしたようですから」
「へえ。 何してたんだろ」
「……さあ?」
しろは、いつもの落ち着いた笑顔を浮かべた。湊はそれ以上気にすることなく、鞄を持ち直した。
「じゃあ、俺も学校に行ってきます。 夕方には帰りますね」
「はい。 お気をつけて、ご主人」
湊が玄関を出ていく。その背中を見送ったあと、しろはそっと胸に手を当てた。昨夜、美咲に言われた言葉が、まだ心に残っている。
――自分の気持ちも、大切にしてね
「……本当に、困ったご家族」
小さく呟く。けれど、その声はどこか嬉しそうだった。窓の外では、秋の空が澄み渡っている。今日も朝比奈家の一日が始まった。そして、しろの胸の中には、これまでとは少し違う、小さな決意が芽生え始めていた。
第六十話でした。今回は、久しぶりに湊の両親が朝比奈家に帰ってくるお話でした。富山旅行を計画した張本人たちが、ついに登場です!息子と専属メイドを二人きりで旅行に送り出すという、なかなか大胆なことをしてくれたご両親。湊としては、そりゃあ問い詰めたくもなりますよね(笑)。とはいえ、久しぶりに家族がそろえば、自然と会話も弾むもの。旅行の写真を見ながら盛り上がる様子は、朝比奈家らしい賑やかな時間になったのではないかと思います。そして、今回のお話でもう一つ大切にしたかったのが、湊が眠ったあとの、しろと両親の会話です。しろにとって、朝比奈家は単なる職場ではありません。行き場を失っていた自分を受け入れてくれた場所であり、長い時間を過ごしてきた大切な居場所です。その中でも、やはり湊は特別な存在になっているようです。毎日のように顔を合わせ、身の回りの世話をして、何気ない会話を交わす。そんな日々を重ねるうちに、しろの中には、以前とは少し違う気持ちが芽生え始めています。けれど、しろ自身はまだ、その気持ちとどう向き合えばいいのか、はっきりとはわかっていません。そんな彼女に、湊の母・美咲が伝えた言葉。誰かのために頑張ることも大切だけれど、自分自身の気持ちも大切にしてほしい。今回の会話が、しろにとって自分の心を見つめ直すきっかけになればいいなと思いながら書きました。もちろん、だからといって、明日から急に何かが変わるわけではありません。これまで積み重ねてきた二人の日常も、しろが湊を大切に思う気持ちも、すぐに別のものになるわけではないでしょう。ただ、今まで心の奥にしまっていた気持ちを、ほんの少しだけ意識するようになる。そんな小さな変化を、これからの物語でも丁寧に描いていけたらと思っています。……さて、真面目な話はこのあたりにして。今回の一件、そもそもの原因は湊の両親です。息子に問い詰められても、しれっと話をそらし、旅行の写真を見ては楽しそうに盛り上がる。なかなかの強者ですね。しかも、息子が寝たあとは、しろとじっくりお話し。湊がこの会話の内容を知ったら、いったいどんな顔をするのでしょうか。朝比奈家の平和は、どうやら両親が帰国している間も、なかなか落ち着きそうにありません(笑)。最後まで読んでいただき、ありがとうございました!次回からも、湊としろ、そして二人を取り巻く人々の日常を楽しんでいただければ嬉しいです。これからも、よろしくお願いします!感想、ブックマーク等お待ちしております。それでは次回もお楽しみに。




