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起きてください、しろさん  作者: アメリカンフットボーラーの威を借るオタク
第三章 二学期
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第五十八話 覚えていない人、忘れられない人

第五十八話です。富山旅行一日目の夕方、旅館に到着し露天風呂や夕食を楽しむ湊としろ。ところが、お酒の入ったしろが、普段は決して見せない一面を見せ始めて……?そして迎えた二日目。黒部峡谷の美しい景色を楽しみながら、二人は富山旅行の思い出を重ねていく。いつもとは少し違う、二人きりの時間。その中で生まれる出来事にも注目です!少し長いですが、ぜひ読んでってください!それでは、どうぞ。

旅館に到着した二人を出迎えたのは、落ち着いた和の空間と、窓の向こうに広がる黒部の山々だった。


「こちらが本日のお部屋でございます」


 仲居に案内され、湊としろは畳敷きの部屋へと入った。広々とした和室。窓際には椅子とテーブルが置かれ、その向こうには黒部川の流れが見える。


「……すごいな」


 湊は思わず声を漏らした。


「本当に素敵なお部屋ですね、ご主人」


「父さん気合い入りすぎだろ……」


「やはり恒一さまにはあとでお礼を申し上げましょう」


「そうですね……まあ、別の意味でも話は聞きたいですけど」


 息子と二十三歳の住み込みメイドを二人きりで旅行に送り出した父親である。宿の手配が完璧なのはありがたいが、そこにどんな思惑が込められているのかを考えると、少々複雑な気持ちになる。もっとも、今はそんなことを考えるより、目の前の景色を楽しむべきだろう。


「では、お風呂に入って、夕食までゆっくりいたしましょう」


「はい。 せっかく温泉に来たんですから」


 二人は荷物を整理すると、それぞれ大浴場へ向かうことにした。


◇


 露天風呂は、湊が想像していた以上に素晴らしかった。湯船に身を沈めると、目の前には黒部の山々が広がっている。山は秋の色を帯び、谷間を流れる川の音が、心地よく耳に届いた。


「……はぁ」


 自然と、深いため息が漏れる。普段は学校へ行き、帰宅すればしろがいる日常。それが嫌なわけではない。むしろ、湊にとっては大切な毎日だ。しかし、こうして遠くまで来て、誰にも急かされずに湯に浸かる時間は格別だった。


「来てよかったな……」


 湊は空を見上げた。両親の思惑については、いったん忘れよう。今だけは、素直に旅行を楽しむ。そう決めた湊は、しばらくの間、黒部の景色を眺めながら温泉を満喫した。一方、その頃。しろもまた、露天風呂から見える景色に心を奪われていた。


「……綺麗」


 普段、彼女は朝比奈家の中で家事をこなし、湊の身の回りを整えることを当たり前のように続けている。もちろん、それが嫌なわけではない。だが、自分のためだけに時間を使うことには、少しばかり慣れていなかった。湯に浸かり、何も考えずに景色を眺める。それだけのことが、こんなにも心地よい。


「ご主人と旅行に来るなんて……」


 ぽつりとつぶやいて、しろは頬を緩めた。湊が中学生になった春から、朝比奈家で過ごしてきた日々。気づけば、ずいぶん長い時間が経っていた。それでも、こうして二人で遠くへ出かけることは、決して当たり前ではない。今日のことは、きっと忘れないだろう。


「……ふふっ」


 しろは小さく笑った。そして、いつもの仕事のことも、明日の予定のことも、ほんの少しだけ頭の隅へ追いやった。今夜くらいは、ゆっくりしてもいい。そんな気持ちになれたのだった。


◇


 風呂から上がった二人は、部屋に戻ってくつろいでいた。浴衣に着替え、窓際の椅子に腰かけた湊は、冷たいお茶を飲みながら外を眺めている。


「温泉、最高でしたね」


「ええ。 露天風呂からの景色が、本当に素晴らしかったです」


「しろさんも、ゆっくりできましたか?」


「はい、久しぶりに何も考えずに過ごせた気がします」


「それならよかったです」


 湊は笑顔を浮かべた。しろが普段、朝比奈家でどれだけ働いてくれているかは知っている。だからこそ、今日くらいは何も気にせずに休んでほしい。


「しろさん、明日もありますし、今日は思いっきり楽しみましょう」


「……はい。 ありがとうございます、ご主人」


 しろは嬉しそうにうなずいた。その後、二人は窓の外の景色を眺めながら、他愛もない話を続けた。


 今日訪れた橋の話。

 昼食で食べた白えびの話。


 写真を見返して、湊の顔が妙に緊張していたことをしろが指摘し、湊が必死に反論する一幕もあった。


「そんなに緊張していましたか?」


「いつもより少しだけ」


「いや、あれは撮影する角度が悪かったんです」


「そうでしょうか?」


「そうです」


「では、次は私が撮影して差し上げますね」


「……お願いします」


 そんな会話をしているうちに、夕食の時間が近づいてきた。部屋の電話が鳴り、食事の準備が整ったことを告げられる。


「では、行きましょうか、ご主人」


「はい、お腹も空いてきましたしね」


 二人は連れ立って食事処へ向かった。そして、そこで待ち受けていたものを目にした瞬間。


「…………え?」


 目の前には、豪華な夕食が並んでいた。新鮮な海の幸を使った刺身に、焼き物、煮物。富山の名物を取り入れた料理が美しく盛りつけられ、テーブルの上を彩っている。


「……父さん、どこまで本気なんだよ」


「ご主人?」


「いえ、何でもありません。 すごいですね、これ……」


 しろもまた、目の前の料理に感嘆の声を漏らしていた。


「本当に豪華ですね。 こんなにたくさんのお料理をいただけるなんて」


「せっかくですから、思いっきり楽しみましょう」


「はい。 いただきます」


 二人は席に着き、食事を始めた。富山湾の海の幸を使った料理は、どれも絶品だった。


「これ、美味しいですね」


「こちらも、とても美味しいです。 素材の味がしっかりしていますね」


「明日も何か美味しいものを探してみたいですね」


「食べることばかり考えていらっしゃいますね、ご主人」


「旅行の楽しみの半分くらいは食事ですから」


「残りの半分は何でしょう?」


「……景色?」


「今考えましたね?」


「ばれましたか」


 二人は顔を見合わせて笑った。普段の朝比奈家での食事とは違う、ゆったりとした時間。しろも今日は仕事のことを気にせず、目の前の料理を楽しんでいるようだった。そんな食事の最中。しろが、ふと飲み物のメニューに目を留めた。


「……あの、ご主人」


「はい?」


「少しだけ、お酒をいただいてもよろしいでしょうか?」


「…………え?」


 湊は箸を止めた。


「お酒、ですか?」


「せっかくの旅行ですし、少しだけ」


「えっ、しろさんお酒飲めるんですか?」


 しろはきょとんとした。


「ええ、飲めますよ?」


「初耳なんですけど!?」


「そうでしたか?」


「そうでしたか、じゃないですよ! 俺、五年近く一緒に暮らしてますけど!?」


「申し訳ありません。 お話しする機会がありませんでしたね」


「いや、まあ……そうですけど」


 考えてみれば、家でしろがお酒を飲んでいるところなど見たことがない。いつも落ち着いていて、どんなときでも冷静に対応するしろ。そんな彼女がお酒を飲んだら、どうなるのだろう。少し頬が赤くなるくらいだろうか。


「本当に少しだけです」


「わかりました。 無理はしないでくださいね」


「ありがとうございます、ご主人」


 しろは控えめに笑い、食事に合うお酒を一杯注文した。湊は、少しばかり興味深そうにその様子を眺めていた。このときの湊は、まだ知らなかった。しろの酔い方が、まさかあんなにも段階的に変化することを。


◇


 最初の変化は、実にささやかなものだった。


「……ふふっ」


「ん?」


 湊が顔を上げると、しろが口元を押さえて笑っていた。


「どうしました、しろさん?」


「いえ、ご主人が先ほどからとても美味しそうに召し上がっているので」


「そりゃあ、美味しいですからね」


「ふふっ。 そうですね」


 しろは、もう一度くすくすと笑った。頬がほんのり赤くなっている。目元も普段より柔らかく、いつもより少しだけ機嫌がよさそうだった。


「しろさん、なんだか楽しそうですね」


「はい、とても楽しいです」


「それならよかったです」


「ご主人と一緒に旅行に来られて、嬉しいですから」


「…………」


 湊の箸が止まった。


「……しろさん?」


「はい?」


「い、いえ、何でもありません」


「ふふっ、変なご主人ですね」


 しろは楽しそうに笑った。


 普段なら、こういうことを言ったあと、すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻る。しかし、今夜のしろは違った。湊が少し困った顔をすると、それさえ面白いらしく、また笑うのだ。


「……なるほど」


 湊は小さくうなずいた。どうやら、お酒が入ると少し陽気になるらしい。この程度なら、むしろ微笑ましい。そう思っていた。


◇


 第二段階に入ったのは、それからしばらくしてのことだった。


「ご主人」


「はい?」


「こちらに座っていただけませんか?」


 しろは自分の隣をぽんぽんと叩いた。湊は向かい合って座っているだけでも気恥ずかしかったが、しろ本人は至って真剣な顔をしている。


「……こうですか?」


 湊が席を立って横に座りなおすと、しろは満足そうにうなずいた。


「はい。 ありがとうございます」


「……何か用事ですか?」


「いいえ」


「いいえ!?」


「ご主人が近くにいらっしゃると、嬉しいので」


「…………」


 湊は、そっと視線をそらした。


 ――待て


 待ってほしい。これは、普段のしろなら絶対に言わない類の発言ではないだろうか。


「しろさん、酔ってます?」


「そうでしょうか?」


「いや、顔が赤いですし……」


「少しだけですよ」


 しろはにこにこと笑っている。そして、湊を見つめた。


「ご主人は、優しいですね」


「……ありがとうございます」


「いつも私のことを気遣ってくださって」


「いえ、そんな……」


「私、ご主人のそういうところが好きです」


「…………っ!?」


 湊は危うく飲み物を吹き出しかけた。


「し、しろさん!?」


「はい?」


「い、いえ……今、何と?」


「ご主人のことが好きです、と」


「そ、それは、その……!」


「人として、ですよ?」


「あっ、はい! そうですよね!」


 湊は勢いよくうなずいた。別に、変な意味だと受け取ったわけではない。断じてない。ただ、普段のしろからそんなふうにまっすぐ言われたことがなかったので、少々驚いただけだ。そう自分に言い聞かせていると、しろが不思議そうに首をかしげた。


「ご主人、お顔が赤いですよ?」


「しろさんに言われたくないです!」


「ふふっ、お揃いですね」


 しろは楽しそうに笑った。湊は、深く息を吐く。なるほど、お酒が入るといつもより甘えん坊になるらしい。


 それでも、まだ会話は成立している。これなら、何とかなる。湊はそう判断した。判断してしまった。


◇


 第三段階は、唐突にやってきた。


「しろさん、そろそろお食事も終わりですね」


「……はい」


「お部屋に戻ったら、ゆっくり休みましょうか」


「……ご主人」


「はい?」


「私……」


 しろの声が、少しだけ震えた。


「……ご主人のお役に立てているのでしょうか?」


「…………え?」


 湊は、しろの顔を見た。先ほどまで笑っていた彼女の目に、じわりと涙が浮かんでいる。


「しろさん?」


「私……毎日お屋敷でお仕事をして……ご主人のお世話をして……」


「は、はい」


「でも……私なんかで、本当にいいのかなって……」


「……しろさん」


「ご主人にとって、私がいてよかったって……思っていただけているのかなって……」


 ぽろり。しろの頬を、一筋の涙が伝った。


「えええええっ!?」


 湊は慌てて周囲を見回した。近くの席の客が、ちらりとこちらを見ている。そりゃそうだ。隣に座っている女性が、突然泣き始めたのだから。


「ちょ、ちょっと待ってください、しろさん! どうしたんですか!?」


「だってぇ……」


「どこか具合が悪いんですか? 気持ち悪いとか、頭が痛いとか……」


「ちがいますぅ……」


「じゃあ、どうして……」


「ご主人がぁ……優しいからぁ……!」


「…………はい?」


「いつもぉ……優しいからぁ……!」


 しろは、とうとう両手で顔を覆ってしまった。


「ご主人がぁ……いつも私にありがとうってぇ……言ってくださるからぁ……!」


「いや、だって、本当に助かってますから!」


「うぅ……!」


「しろさん!?」


「私ぃ……嬉しくてぇ……!」


 湊は、頭を抱えたくなった。何だこれは。つい先ほどまで、楽しそうに笑っていたではないか。それが今は、感謝を伝えながら涙を流している。しかも、泣いている理由が妙に真面目なのが困る。しろは、いつも自分の仕事をきちんとこなしてくれる。湊が困っていれば助けてくれるし、無茶を言えば呆れながらも付き合ってくれる。だからこそ、そんな不安を抱えていたとは思わなかった。


「しろさん」


「……はいぃ……」


「俺は、しろさんがいてくれてよかったと思っていますよ」


「……ほんとぉ?」


「本当です。 毎日助けてもらっていますし、しろさんがいるから安心できることもたくさんあります」


「…………」


 しろは、湊をじっと見つめた。そして。


「うぅ……ご主人んん……!」


「えええええっ!?」


 再び泣いた。


「いや、今のは嬉しいところですよね!?」


「嬉しいんですぅ……!」


「じゃあ、どうして泣くんですか!?」


「嬉しいからぁ……!」


「嬉し泣きのパターンもあるんですか!?」


 湊は、もはや何を言えばいいのか分からなかった。しろは袖で涙を拭いながら、何度も「ありがとうございます」と繰り返している。その姿を見ていると、からかう気持ちなど起きなかった。むしろ、普段は決して見せない不安を、今こうして打ち明けてくれたことが、少しだけ嬉しくもあった。


「しろさん、今日は仕事のことなんて忘れてください。 旅行なんですから」


「……はいぃ……」


「明日のことも、帰ってからのことも、今は考えなくていいです」


「……ご主人……」


「今日は、しろさん自身が楽しむ日です」


 しろは、しばらく湊を見つめていた。そして、また目に涙を浮かべた。


「……ご主人はぁ……本当に優しいですねぇ……」


「…………」


 湊は、静かに天井を仰いだ。


 ――これは、長くなる。


◇


 食事を終える頃には、しろはすっかり出来上がっていた。普段の落ち着いた姿からは想像できないほど、感情の起伏が激しい。笑っていたかと思えば、突然涙ぐむ。落ち着いたかと思えば、湊の顔を見てまた泣き出す。そして、ついに第四段階へと突入した。


「しろさん、そろそろお部屋に戻りましょう」


「……はいぃ」


「立てますか?」


「立てますぅ……」


 しろはゆっくりと立ち上がった。しかし、足元が少しふらつく。


「あああ……大丈夫ですか?」


 湊は慌ててそばに寄り、しろが転ばないように支えた。


「すみません、ご主人……」


「謝らなくていいですから。 ゆっくり歩きましょう」


「……ご主人は、優しいですねぇ……」


「はいはい、ありがとうございます」


「……はいはいってぇ……!」


「えっ?」


 しろの目に、再び涙が浮かんだ。


「私の話ぃ……ちゃんと聞いてくださらないんですかぁ……?」


「違います違います! 聞いてます! ちゃんと聞いてますから!」


「……本当ですかぁ?」


「本当です!」


「……よかったぁ……!」


 しろは泣きながら、湊の袖をぎゅっとつかんだ。


「ご主人……私を見捨てないでぇ……!」


「見捨てませんよ!? 何でそんな話になったんですか!?」


 湊は、今度こそ頭を抱えた。もう何を言っても駄目だ。優しくすれば泣く。少し冗談を言えば不安になる。黙っていれば、怒らせたと思って泣く。そして、安心させれば安心したことに感動して泣く。完全に詰んでいた。


「しろさん、とにかく部屋に戻りましょう。 ここで泣いていたら、周りのお客さんも心配しますから」


「……はいぃ」


 二人はゆっくりと部屋へ戻った。


◇


 部屋に入ると、しろは座布団の上にぺたりと座り込んだ。


「ふぅ……」


「お疲れさまです、しろさん」


「……ご主人」


「はい?」


「私……明日も頑張りますねぇ……」


「いや、旅行なんですから、頑張らなくていいですよ」


「でもぉ……ご主人のお役に立ちたいんですぅ……」


「もう十分立ってますから!」


「…………」


 しろは、じっと湊を見つめた。


「……本当ですかぁ?」


「本当です」


「……私、ちゃんと役に立っていますかぁ?」


「はい。 いつも本当に助けられています」


「…………」


 しろの目に、また涙が浮かんだ。


「ご主人……!」


「またかよ……」


「だってぇ……嬉しいんですぅ……!」


「嬉しいのは分かりましたから! もう泣かなくても大丈夫です!」


「ご主人はぁ……泣くなってぇ……!」


「そういう意味じゃないです!」


 湊は、必死に言葉を選んだ。しかし、何を言っても涙を誘発してしまう。まるで、会話の選択肢がすべて泣きイベントにつながっているゲームのようだ。


「……ご主人」


「はい……」


「明日もぉ……一緒にいてくれますかぁ……?」


「もちろんです。 明日も一緒に旅行するんですから」


「……ほんとぉ?」


「本当です」


「……よかったぁ……!」


 また泣いた。


「だから何で泣くんですかぁぁぁ!?」


 湊の悲鳴が、旅館の一室に響いた。それでも、しろは袖をつかんだまま、なかなか離そうとしなかった。湊は一度深呼吸をして、彼女の目線に合わせるようにしゃがみ込んだ。


「しろさん。 お水を飲んで、今日はゆっくり休みましょうね」


「……お水ぅ?」


「持ってきますから、ここで待っててください」


 湊が立ち上がろうとすると、しろは不安そうに袖をつかんだ。


「……行っちゃうんですかぁ?」


「すぐ戻りますよ。 お水を取ってくるだけです」


「……すぐ?」


「すぐ、です」


「……約束ですよぉ?」


「約束です」


 湊はしろが安心したのを確認してから、水を用意した。しろに少しずつ飲んでもらい、気分が悪くないか確かめる。無理に歩かせず、横になれるように布団も整えた。


「しろさん、気持ち悪くないですか? 頭が痛いとか、苦しいとかありませんか?」


「……だいじょうぶですぅ……」


「本当に? 無理して答えなくていいですからね」


「……ご主人がいてくださるのでぇ……だいじょうぶですぅ……」


「…………」


 湊は、返す言葉を失った。こんなときにまで、さらっと心臓に悪いことを言う。しかし、今は動揺している場合ではない。


「とりあえず、今日はもう休みましょう。 明日になったら、きっと少し落ち着いていますから」


「……はいぃ……」


 しろは布団に入った。けれど、目を閉じる前に、もう一度だけ湊を見上げる。


「ご主人……」


「はい?」


「……今日は、本当に楽しかったですぅ……」


 その声は、先ほどまでよりもずっと小さかった。湊は、穏やかに微笑んだ。


「俺もです。 しろさんと一緒に来られて、よかった」


「…………」


 しろは、しばらく湊の顔を見つめていた。そして。


「……うぅ……」


「えっ、まだ泣くんですか!?」


 湊は思わず叫んだ。しろは、涙を浮かべたまま小さく笑った。


「……ご主人、だいすきですぅ……」


「…………っ!?」


 今度こそ、湊は完全に固まった。だが、しろはそれ以上何も言わず、安心したように目を閉じた。


「……寝た?」


 湊は、そっと声をかけた。返事はない。どうやら、ようやく眠りについたらしい。湊は深いため息をつき、布団が乱れていないか確かめてから、そっと立ち上がった。


「……まさか、しろさんがお酒を飲むと、こんなことになるなんて」


 今日一日で、知らなかったしろの一面をいくつも知ってしまった。


 よく笑うこと。

 普段より甘えん坊になること。

 嬉しいだけで泣いてしまうこと。


 そして――


「……だいすき、か」


 最後の言葉を思い出し、湊は顔を覆った。もちろん、酔った勢いの言葉だろう。普段のしろが同じ意味で口にしたわけではないだろう。それは分かっている。分かってはいるのだが。


「……寝よう」


 これ以上考えると、明日の朝まで眠れなくなりそうだった。湊は自分の寝る準備を整えながら、眠っているしろの様子をもう一度確認した。いつも自分を支えてくれる人が、今夜は自分のそばで安心して眠っている。それだけで、なんだか不思議な気持ちになった。


「……おやすみなさい、しろさん」


 小さく声をかけ、湊は明かりを落とした。窓の外では、黒部川が静かに流れている。


美しい景色。

 豪華な夕食。

 そして、泣き上戸になったしろ。


 湊にとって、忘れられない旅行初日の夜となった。そして、しろが泣き上戸だという事実が朝比奈家に新たな歴史を刻んだ日でもあった。


◇


 翌朝。湊は、人生で久しぶりに「朝が来なければいいのに」と思っていた。別に、旅行が嫌になったわけではない。むしろ昨日は楽しかった。黒部峡谷の景色も、温泉街の散策も、しろと二人で過ごす時間も、どれも忘れがたい思い出になった。問題は、夕食後だ。


『ご主人、だいすきですぅ……』


「…………」


 布団の中で、湊は天井を見つめた。思い出すな。忘れろ。あれはお酒のせいだ。そう、お酒のせい。普段のしろさんなら、あんなふうに甘えたり、泣いたり、あんな言葉を口にしたりするはずがない。わかっている。頭では、ちゃんとわかっている。


 ――それでも


『ご主人のこと、だいすきですぅ……』


「うわあああああ……!」


 湊は布団を頭までかぶった。何度も反芻される言葉に、つい声を出してしまう。幸い、横にいるしろが起きてしまうほどの大声ではなかった。いや、そもそも何をしているんだ、自分は。高校二年生にもなって、好きな人の言葉で悶えているなんて。


「……寝られるわけないだろ、こんなの」


 時計を見る。午前六時二十分。起床予定時刻まで、まだ少しある。しかし、もう眠れそうになかった。昨夜、しろが眠ったあと。湊はしばらくその寝顔を見守り、布団を整え、部屋の明かりを落とした。それから自らも就寝の準備をし、寝床についたのだが、そこからが大変だった。

目を閉じれば、しろの言葉がよみがえる。自分を必要としてくれているか不安だったこと。朝比奈家にいられて嬉しいと言ってくれたこと。そして、最後に告げられた、あの一言。もちろん、酔っていたのだから、普段より感情が表に出ただけなのだろう。それでも。


「……嬉しかった、けどさ」


 ぽつりとつぶやく。しろが自分を大切に思ってくれている。それは、今までの暮らしの中でも感じていた。けれど、あんなふうに真正面から言われたら、意識せずにはいられない。ましてや、あのときのしろは、いつもよりずっと無防備で。


「……いや、だから、もう考えるなよ……」


 湊は枕に顔を押しつけた。結局、まともに眠れた気がしないまま、朝を迎えてしまったのだった。


◇


「ご主人、おはようございます」


「…………おはようございます」


 朝食の時間。しろは、いつもと何ひとつ変わらない様子で湊の向かいに座っていた。顔色は良好。表情も普段どおり。背筋はぴんと伸びていて、朝食の並べ方にもおかしなところはない。昨夜、あれほど泣いていた人物と同一人物だとは到底思えなかった。


「昨夜はよく眠れましたか?」


「…………まあ、そこそこ」


「それはよかったです。 私はぐっすり眠れましたよ」


「…………そうですか」


 湊は、味噌汁を口に運んだ。しろは何も覚えていない。どうやら、本当に何も覚えていないらしい。あれだけ泣いて、甘えて、最後には――


「ご主人?」


「っ、はい! なんですか!」


「いえ……少し、お疲れのように見えたので」


「もしかすると、昨夜、私のお世話をしてくださったのでしょうか?」


「そ、それは別に! 大丈夫です! 特に何もありませんでした!」


「そうですか」


 にこり。いつもの、穏やかで上品な笑顔。湊は思わず目をそらした。その笑顔を見ていると、昨夜の涙ぐんだ顔や、甘えるような声まで思い出してしまうからだ。


「……しろさん」


「はい?」


「昨日の夜のことなんですけど」


「昨夜、ですか?」


 しろは小首を傾げた。


「はい。 夕食のときから、部屋に戻るまでのこと……覚えてますか?」


「夕食のときから……?」


 しろは少し考えたあと、申し訳なさそうに眉を下げた。


「お酒をいただいたことは覚えているのですが……そのあと、どうしたのかは、あまり」


「…………」


「もしかして、私、何か失礼なことをしてしまいましたか?」


 湊は、箸を止めた。ここで正直に話すべきなのだろうか。昨夜、しろが泣き上戸だったと知ったこと。何を言っても泣いてしまったこと。自分がどれだけ心配したかということ。

そして――


『ご主人、だいすきです……』


「…………いえ」


 湊は、ゆっくり首を横に振った。


「特に、何も」


「本当ですか?」


「本当です」


「それならよかったです」


 しろは、ほっとしたように微笑んだ。その表情には、昨夜の出来事を知っている人間の気配が微塵もない。湊は確信した。この人、本当に覚えていない。


「……しろさんって、お酒に弱いんですね」


「そうなのでしょうか? 自分では、あまり飲む機会がありませんでしたので」


「……そうですか」


「はい。 ですが、ご主人と旅行に来られて、本当によかったです」


「――っ」


 湊の肩が跳ねた。しろは、そんな彼の反応に気づかず、楽しそうに続ける。


「昨日はとても楽しかったですね。 温泉街も素敵でしたし、お料理もおいしかったです」


「今日はいよいよ、黒部峡谷のトロッコ電車ですし」


「そ、そうですね!」


「景色を見るのが楽しみですし、ご主人と一緒にたくさん写真も撮りたいです」


「……はい」


 いつもどおりのしろ。いつもどおりの会話。昨夜のことなど、何もなかったかのように。それがありがたいような、少しだけ残念なような、何とも言えない気持ちになる。いや、残念って何だ。覚えていないほうがいいに決まっている。しろが昨夜の自分の言動を覚えていたら、きっと恥ずかしがるだろうし、下手をすればしばらくまともに顔を合わせられなくなるかもしれない。だから、これでいい。これでいいのだ。


「ご主人?」


「はい?」


「本当に大丈夫ですか? 先ほどから、少しぼんやりしていらっしゃいますが……」


「大丈夫です。 ちょっと寝不足なだけなので、気にしないでください」


「わかりました。ですが、無理はなさらないでくださいね」


「……はい」


 心配してくれるのは嬉しい。ただ、今の湊にとっては、しろの何気ない言葉ひとつひとつが、昨夜の記憶を呼び起こす危険物になっていた。当の本人は、やはりそんな事情など知る由もない。


「朝食が終わり次第出発の準備をいたしましょう」


「……そうですね」


 湊は、もう一度味噌汁を口に運んだ。温かいはずなのに、味がよくわからない。目の前では、しろが幸せそうに朝食を食べている。昨夜のことをすっかり忘れ、今日の予定に胸を弾ませている。その姿を見て、湊は小さく息を吐いた。


 ――まあ、いいか


 昨夜の言葉が、お酒の勢いによるものだったとしても。しろが自分と一緒にいることを喜んでくれたのは、きっと本当だ。それだけで十分だと思うことにしよう。湊は心の中で、固く誓った。


 “今後、しろさんがお酒を飲むときは、絶対に途中で止めよう”


 と。


◇


 朝食を終えた湊としろは、部屋に戻って荷物をまとめていた。


「忘れ物はありませんか、ご主人?」


「たぶん大丈夫です。 財布、スマホ、カメラ……うん、問題ないですね」


 湊はバッグの中身を確認し、最後にスマートフォンをポケットへしまった。今日はいよいよ、黒部峡谷のトロッコ電車に乗る日だ。昨日の温泉街の散策も楽しかったが、旅行の目玉はやはり峡谷の景色である。山々に囲まれた黒部川沿いを、小さな列車で進んでいく。普段の生活ではなかなか味わえない体験だ。


「しろさん、準備できましたか?」


「いつでも大丈夫です」


 しろは荷物を持ち、にこやかに頷いた。昨夜の一件など、まるでなかったかのような清々しい笑顔である。対する湊は、まだ少し寝不足だった。昨夜の言葉が頭をよぎるたび、どうしても意識してしまう。けれど、しろ本人はけろりとしているのだから、こちらだけがいつまでも引きずっているわけにもいかない。何より、今日は旅行の二日目だ。せっかくの機会を、自分の妙な動揺で台無しにするのはもったいない。


「よし。それじゃあ、行きましょうか」


「はい、ご主人!」


 元気よく返事をするしろを見て、湊は小さく笑った。


◇


 チェックアウトを済ませた二人は、旅館をあとにした。外へ出ると、朝の空気が頬を撫でる。温泉街には、散歩を楽しむ観光客や、土産物店の開店準備をする人々の姿があった。


「昨日は、あっという間でしたね」


 しろが、名残惜しそうに旅館を振り返る。


「そうですね。 着いたと思ったら、もう二日目ですから」


「でも、昨日は本当に楽しかったです。 ご主人と二人で旅行できるなんて、少し前までは想像もしていませんでした」


「……俺も、こうして二人で旅行することになるとは思っていませんでした」


 湊は素直に答えた。そもそも今回の旅行は、海外にいる両親が勝手に予約したものだ。父から届いた手紙には、旅館の予約を取ったことと、たまにはゆっくり楽しんでくるようにという言葉が書かれていた。母に電話をすれば、意味ありげに笑われた。今思い返しても、どうにも怪しい。


「……帰ったら、父さんと母さんにお礼を言わないとな」


「そうですね。 素敵な旅行を用意してくださって、本当にありがたいです」


「……まあ、そうですね」


 両親の思惑については、いったん考えないことにした。今ここで考え始めると、余計なことまで意識してしまいそうだったからだ。二人は温泉街を抜け、黒部峡谷鉄道の宇奈月駅へ向かった。駅が近づくにつれて、トロッコ電車を待つ観光客の姿が増えてくる。家族連れや友人同士、年配の夫婦など、さまざまな人たちが出発を楽しみにしているようだった。


「わあ……!」


 駅に到着したしろが、思わず声を上げた。ホームには、赤い機関車に引かれた小さな客車が並んでいた。普段、街で見かける電車とはずいぶん違う。開放的な客車からは、山の空気や景色をそのまま楽しめそうだった。


「これがトロッコ電車なんですね」


「写真で見るより、ずっと雰囲気がありますね」


 湊も、興味深そうに車両を眺めた。線路の先には、山々が連なっている。その間を縫うように黒部川が流れ、峡谷の奥へと続いていた。


「ご主人、そろそろ乗車できるようですよ」


「あ、本当ですね。 行きましょう」


 二人は乗車口へ向かい、係員の案内に従って客車に乗り込んだ。席に腰を下ろすと、目の前には峡谷の景色が広がっていた。開放的な車両を吹き抜ける風。木々の間から差し込む朝の光。遠くから聞こえる川の音。まだ列車は動いていないのに、すでに旅の気分は十分だった。


「……いいですね、こういうの」


 湊がつぶやくと、しろも嬉しそうに頷いた。


「なんだか、冒険に出かけるみたいです」


「冒険、ですか」


「そうです。 普段はなかなか見られない景色を、二人で見に行くんですから」


「……確かに」


 湊は、目の前に広がる山々を見つめた。たしかに、少しだけ冒険に似ているかもしれない。いつもの学校や家とは違う場所で、いつもとは違う時間を過ごす。そんな旅だからこそ、普段は気づかないことにも気づけるのだろう。もっとも、昨夜の自分のように、余計なことに気づきすぎるのも考えものだが。


「……ご主人?」


「はい?」


「また、少しぼんやりしていらっしゃいますよ?」


「い、いえ! 景色を見ていただけです!」


「そうですか? ふふっ」


 しろは不思議そうにしながらも、楽しげに笑った。その笑顔に、湊はまた少しだけ目をそらす。


 ――今日は、絶対に平常心で過ごそう


 そんな決意を胸に抱いた、そのときだった。


 ポォォォッ!


 出発を知らせる汽笛が、峡谷に響き渡った。


「わっ!」


 湊は驚いて顔を上げる。やがて、ガタン、と車両が揺れた。ゆっくりと動き出したトロッコ電車は、宇奈月の駅を離れ、黒部峡谷の奥へと進み始めた。


     ◇


 走り始めた列車の窓から、次々と景色が流れていく。緑に覆われた山肌。岩の間を勢いよく流れる黒部川。川に架かる橋。そして、峡谷を渡るたびに変わっていく景色。


「すごい……!」


 しろは、すっかり夢中になっていた。


「ご主人、あちらをご覧ください! 川が、あんなに下に!」


「本当ですね。 結構な高さがありますね……」


 湊も身を乗り出しすぎないよう気をつけながら、景色を眺めた。車窓から見える黒部川は、場所によって表情が異なる。穏やかに流れるところもあれば、岩にぶつかって白い水しぶきを上げるところもあった。山々の間を走る列車は、ゆっくりと、しかし着実に峡谷の奥へと進んでいく。


「こういう景色を見ていると、自然ってすごいなと思いますね」


 湊が言うと、しろは頷いた。


「本当ですね。 人の手では簡単に作れないものばかりです」


「……ですね」


 しばらく二人は、言葉少なに景色を眺めた。会話が途切れても、気まずさはない。むしろ、同じ景色を見ながら、同じ時間を過ごしている。それだけで十分に楽しかった。ふと、しろがバッグからカメラを取り出した。


「ご主人、こちらを背景に一枚撮りませんか?」


「いいですね、撮りましょう」


 湊はしろの隣に並んだ。カメラを構えたしろが、少しだけ肩を寄せてくる。


「もう少し、こちらに来ていただけますか?」


「えっ、あ、はい」


 湊は言われるまま、わずかに距離を詰めた。肩が触れそうな近さ。いつもなら何でもないことのはずなのに、昨夜の記憶がよみがえり、妙に意識してしまう。


「では、撮りますね」


 カシャッ。シャッター音が鳴った。しろは画面を確認すると、ぱっと顔を明るくした。


「よく撮れていますよ」


「どれどれ……本当ですね」


 写真には、笑顔のしろと、少しぎこちない笑みを浮かべた湊が写っていた。背景には、緑の山々と青い空。旅行の思い出としては、申し分のない一枚だ。


「これは、帰ったら大切に保存しておきますね」


「……俺にも送ってください」


「もちろんです!」


 しろは嬉しそうに頷いた。そのあとも二人は、気になった景色を見つけるたびに写真を撮った。川の流れ、山の稜線、橋の上から見える峡谷。ときには、しろが景色に見入っている横顔を、湊がこっそり撮ることもあった。


「ご主人? 今、私を撮りましたか?」


「……撮りました」


「ひと言おっしゃってくだされば、きちんと笑顔を作りましたのに」


「いや、今の表情もよかったので」


「……え?」


 今度は、しろが固まる番だった。湊は自分の発言を振り返り、少し遅れて気づいた。


 ――しまった


 今のは、少し恥ずかしいことを言ったのではないだろうか。


「ええと……自然な表情も、旅行の写真としていいかなと思っただけです!」


「……そ、そうですか」


 しろはカメラの画面に目を落とした。その頬が、ほんのり赤くなっている。湊は気づかないふりをして、再び景色へ目を向けた。昨夜のことを忘れようとしているのに、今度は自分の何気ない言葉で、しろを意識させてしまったらしい。旅行とは、なかなか難しいものだ。それでも、列車が進むにつれて、二人の前には新しい景色が次々と現れた。普段の生活では見ることのできない雄大な自然。その景色を、しろと一緒に楽しめている。湊は、素直に嬉しかった。


     ◇


 トロッコ電車の旅を満喫した二人は、宇奈月へ戻ってきた。


「はあ……楽しかったですね!」


 駅を出たしろは、満足そうに息を吐いた。


「はい、思っていた以上に見どころが多かったです」


「写真もたくさん撮れましたし!」


「あとで整理するのが大変そうですね」


「ふふっ。 ご主人と一緒に撮った写真なら、何枚あっても困りませんよ」


「…………」


 湊は、返事に少し詰まった。しろは、またしても何気ない顔で、とんでもないことを言ってくれる。もちろん、本人にとっては旅行の思い出を大切にしたいという意味なのだろう。それはわかっている。わかっているのだが。


「……そうですね、俺も、大切にします」


 湊は、なんとかそう答えた。しろは嬉しそうに微笑む。


「はい!」


 その笑顔を見て、湊も自然と口元が緩んだ。


「さて、お昼にしましょうか。 結構お腹が空きました」


「そうですね! 私もです」


 二人は駅周辺の飲食店へ向かった。午前中はトロッコ電車に夢中になっていたため、気づけば昼時を過ぎようとしている。旅先での食事も、旅行の楽しみのひとつだ。店に入ると、二人は富山らしい料理を中心に注文した。やがて運ばれてきた料理を前に、しろの目が輝く。


「わあ、おいしそうです!」


「いただきます」


「いただきます!」


 湊は箸を手に取り、料理を口に運んだ。


 うん、おいしい。


 旅館の夕食も素晴らしかったが、こうして観光の合間に食べる昼食もまた格別だった。


「ご主人、こちらもおいしいですよ」


 しろが、自分の料理を指しながら勧めてくる。


「本当ですか? じゃあ、これも気になってきました」


「よろしければ、次はそちらも召し上がってみてください」


「そうします」


 そんな他愛のない会話を交わしながら、二人は昼食を楽しんだ。食事を終えるころには、午前中の疲れもほどよく感じられるようになっていた。


「……さて、午後はどうしましょうか」


 湊が尋ねる。しろは少し考えてから、楽しそうに笑った。


「せっかく富山まで来たのですから、お土産も見て回りたいですね」


「いいですね。 家へのお土産も買わないと」


「はい! それに、優斗さまやひまりさまにも、何か買っていきたいです」


「ああ、二人にもですね」


 湊は頷いた。優斗には何を買えばいいだろうか。食べ物なら喜びそうだが、変なものを選ぶと、あとで散々いじられる気もする。ひまりには、何がいいだろう。そこまで考えて、湊はふと気づいた。今、自分は旅行先で、友人たちへのお土産を選ぶことまで楽しみにしている。それもこれも、しろと一緒に過ごしているからかもしれない。


「……いい旅行ですね」


 ぽつりとこぼすと、しろが顔を上げた。


「はい?」


「いえ、何でもありません」


 湊は笑ってごまかした。しろは少し不思議そうにしたものの、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。


「私も、とても楽しいです。 ご主人と来られて、本当によかった」


「……俺もです、しろさん」


 今度は、照れずに言えた。黒部峡谷の雄大な景色も、トロッコ電車の揺れも、旅先で味わう料理も。きっと、あとになって何度も思い出すことになるだろう。そして、その思い出の隣には、いつだってしろの笑顔がある。湊はそう思いながら、食事を終えた店をあとにした。富山旅行は、まだ終わらない。午後もまた、二人の思い出が増えていくはずだった。

第五十八話でした。今回は、富山旅行一日目の旅館での夕食から、二日目の昼食までを描きました。……そして、少し本文が長くなってしまいました(笑)。せっかくの旅行回ということで、旅館での食事や黒部峡谷の観光、ハプニングなど、普段の学校生活では描けない二人の時間を丁寧に書いてみました。特に今回は、しろの普段とは違う一面が見られるお話になっています。いつもは落ち着いていて、ご主人である湊を支える側のしろですが、だからこそ、ふとした瞬間に見せるようになった隙や素直な感情が、二人の関係に新しい一面を加えてくれるのではないかと思います。もちろん、湊にとっても忘れられない旅行になったはずです。……もっとも、しろ本人にとっては、このあとが本当の意味での試練かもしれませんが。そして、旅行はまだ終わっていません!二人がどんな思い出を持ち帰るのか、最後まで見届けていただければ嬉しいです。感想、ブックマーク等お待ちしております。次回もお楽しみに。

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