第五十七話 冨山旅行は突然に
第五十七話です。海外で働く両親から、湊としろに届いた一通の手紙。そこに書かれていたのは、二人きりの富山旅行の知らせでした。突然の提案に戸惑いながらも、二人は秋の黒部峡谷へ向かうことになり――。それでは、どうぞ。
十月もすでに終盤に差し掛かり、朝比奈家の庭にも秋の気配が深まってきた。朝晩の空気は冷たくなり、庭木の葉も少しずつ色づき始めていた、そんなある日の夕方。
「……何だ、これ」
学校から帰宅した湊は、リビングのテーブルに置かれた一通の封筒を見つめていた。海外から届いたらしい国際郵便。差出人の名前を見れば、誰からのものかはすぐにわかった。
朝比奈美咲と朝比奈恒一。つまり、湊の両親である。
「ご主人、お帰りなさいませ。 そちらは旦那さまと奥さまからのお手紙でしょうか?」
キッチンからひょこっと顔を出したしろが尋ねる。
「ただいまです、しろさん」
「そうみたいですけど……わざわざ国際郵便で何送ってきたんですかね?」
両親から連絡が来ること自体はそこまで珍しくない。しかし、普段の連絡は電話やメッセージアプリで済ませることがほとんどだった。わざわざ封筒を送ってくるとなると、何か重要な用件なのだろうか。湊は封を切り、中から便箋を取り出した。そこには、両親らしい簡潔な文章が書かれていた。
『湊へ。
最近、ちゃんと休めていますか?高校生活も忙しいでしょうが、たまには息抜きも必要です。そこ
で、しろちゃんと二人で紅葉を見に行ってきなさい。行き先は黒部峡谷。宿も交通手段も、こちらで予
約してあります。一泊二日です。詳しい予定は同封の書類を確認してください。お土産は大丈夫。
母より』
「…………」
湊は便箋を裏返した。何も書かれていない。念のため、もう一度表を見る。
「……しろさん」
「はい、何でしょうか?」
「俺の両親、何企んでると思います?」
「……はい?」
しろは首を傾げた。湊は無言で便箋を差し出す。しろはそれを受け取り、書かれた文章に目を通した。読み終えると、ぱちぱちと瞬きをする。
「……黒部峡谷、ですか」
「そうです」
「一泊二日……」
「そう書いてありますね」
「私と、ご主人のお二人で……?」
「残念ながら、ほかの参加者の名前はありません」
しろは、手紙を持つ指に少し力を込めた。
「……旦那さまと奥さまは、どうしてこのようなご予約を?」
「それがわからないんですよ」
湊は深いため息をついた。両親が息子を気遣ってくれているのは、ありがたい。たまには休めという言葉も、正論だと思う。だが、
なぜ行き先が黒部峡谷なのか。
なぜ一泊二日なのか。
そして、なぜしろさんと二人なのか。
疑問は尽きない。
「電話して聞いてみるか……」
湊はスマートフォンを取り出した。母に電話をかける。呼び出し音が数回鳴ったあと、聞き慣れた声が返ってきた。
『もしもし、湊? どうしたの?』
「どうしたの、じゃないよ。 何だよ、あの手紙」
『ああ、届いたのね!』
母の声が、妙に弾んでいる。
「黒部峡谷って何?」
『紅葉が綺麗なところよ』
「それは知ってる」
『じゃあ、説明は終わりね』
「終わらせるな!」
思わず声を張り上げる。隣で聞いていたしろが、驚いたように肩を揺らした。
『あらあら、そんなに怒らなくてもいいじゃない』
「怒るだろ! いきなり一泊二日の旅行を予約されて、しかもしろさんと二人で行ってこいって!」
『だって、あなたたち、最近ずいぶん仲がいいんでしょう?』
「……は?」
湊の声が止まった。
『しろちゃんにはいつもお世話になってるんだし、たまには二人でゆっくりしてきなさい。 高校生だって、紅葉くらい見に行ってもいいじゃない』
「いや、それはそうだけど……」
『それに、しろちゃんも毎日頑張ってくれているんだから、少しくらい休暇をあげなさい』
その言葉には、確かに一理あった。しろは朝比奈家の仕事を完璧にこなしてくれている。家事全般はもちろん、湊の身の回りのことまで気を配ってくれる。休みの日でさえ、気がつけば何かしら家のことをしているのだ。旅行くらい、ゆっくり楽しんでもらいたい。湊はちらりとしろを見た。しろは電話の内容を聞きながら、どこか落ち着かない様子で立っていた。
「……でも、俺たち二人だけっていうのは」
『あら、何か問題でもあるの?』
「いや、問題っていうか……」
『湊』
母の声が、ほんの少しだけ優しくなる。
『いつも一緒にいる相手と、いつもと違う場所で過ごしてみるのも、いいものよ』
「…………」
『それじゃあ、詳しいことは書類を見てね。 お父さんにも伝えておくわ』
「待って、まだ話は――」
通話が切れた。
「……楽しみやがって」
湊はスマートフォンを見下ろし、肩を落とした。母は昔からこういうところがある。思いついたら行動が早い。しかも、息子が困ることをわかっていて、あえてやっている節がある。そして、もう一人の犯人にも連絡を入れなければならない。湊は父の恒一にメッセージを送った。
『父さん、黒部峡谷の件、どういうこと?』
数秒後、返信が来た。こんなに返信が早いのは珍しい。
『母さんに聞け。 俺は宿を取っただけだ』
「……共犯じゃねえか」
湊はスマートフォンをテーブルに置いた。その横で、しろは手紙を丁寧に封筒へ戻していた。
「ご主人」
「はい?」
「……私は、その……ご一緒してもよろしいのでしょうか?」
その声は、いつもより少し小さかった。湊は顔を上げる。
「もちろんです。 むしろ、しろさんが来てくれないと俺が困ります」
「えっ……?」
「あ、いや、そういう意味じゃなくて! 俺一人で旅行なんて、何をすればいいのかわからないですし!」
「……ふふっ」
しろが小さく笑った。
「承知いたしました。 では、ご一緒させていただきますね」
「……はい」
湊は、なぜか少しだけ目を逸らした。しろもまた、封筒を胸元に抱えながら、ほんのり頬を染めていた。
黒部峡谷。
一泊二日。
紅葉を見に行く、二人きりの旅行。
まだ出発までには時間がある。それなのに、湊の胸の中には、すでに落ち着かない気持ちが芽生え始めていた。なお、このとき二人は知らなかった。同じ頃、地球のどこかで。
『湊たち、ちゃんと楽しんでくれるかしら?』
『宿も列車も予約したんだ、あとは本人たち次第だろう』
『楽しみねえ』
息子の恋路を勝手に応援する両親が、仕事の合間にそんな会話を交わしていたことを。そして、湊の父が母に言われるまま、宿だけでなく景色のいい部屋まで手配していたことも。――朝比奈家の両親は、今日も遠い異国から息子の青春を見守っている。本人の許可を取るという、最も大切な手順をすっ飛ばしながら。
◇
旅行当日。早朝の朝比奈家の玄関には、二つの旅行鞄が並んでいた。一つは湊のもので、もう一つはしろのもの。しろの鞄が一泊二日の旅行にしては、やや大きい。
「……しろさん、それ、何が入ってるんですか?」
「着替えと洗面用具、それから旅行中に必要になりそうなものを少々です」
「少々……?」
「はい」
湊は、しろの旅行鞄を見つめた。どう見ても、少々という重量ではない。
「ちなみに、俺の荷物は着替えと財布とスマホだけです」
「ご主人、それでは少々足りないのではありませんか?」
「一泊二日ですよ?」
「何かあったときのために、予備の衣類や常備薬なども必要かと」
「しろさん、旅行先で何を起こすつもりなんですか……」
「それは行ってみなければわかりませんので」
しろは真面目な顔で答えた。湊は、それ以上何も言えなかった。この人は旅行に行くときまで完璧なのだ。
「じゃあ、そろそろ出ましょうか」
「はい」
湊は鞄を持ち上げ、玄関の扉を開けた。十一月に差し掛かろうとしている秋の朝の空気が、二人を迎える。こうして、朝比奈湊と雪代しろの一泊二日が始まった。
◇
東京駅。
「……人多っ」
新幹線の改札を抜けた湊は、思わず呟いた。平日の朝とはいえ、駅構内は多くの人で賑わっている。出張に向かう会社員、旅行鞄を引く観光客、眠そうな顔で歩く学生。そんな人々の流れを眺めながら、湊はスマートフォンに表示された乗車案内を確認した。
「ご主人、こちらでよろしいのでしょうか?」
「はい、北陸新幹線のホームですね。父さんが予約してくれた切符にも、そう書いてあります」
「ありがとうございます。 新幹線に乗るのは久しぶりですので、少し楽しみです」
「そうなんですか?」
「中学校の修学旅行以来でしょうか」
しろはホームに入ってくる新幹線を見つめた。朝日に照らされた車体が、ゆっくりと停車位置へ滑り込んでくる。その姿を見て、しろは小さく微笑んだ。
「……旅行、という感じがしますね」
「まだ新幹線乗る前ですけどね」
「ふふっ、そうですね」
しろが楽しそうに笑う。湊は、その横顔をちらりと見た。今回の旅行は、両親の突然の思いつきから始まった。宿も交通手段も、すべて両親が手配している。正直なところ、最初は戸惑いしかなかった。何しろ、二十三歳の専属メイドと高校生の主人を、二人きりで一泊二日の旅行に送り出そうというのだ。もう少し、こう……段階というものがあるのではないだろうか。いや、そもそも何の段階なのか。湊は考えるのをやめた。
「ご主人、どうかなさいましたか?」
「いえ。 うちの両親、帰ってきたら絶対に問い詰めようと思いまして」
「……旦那さまと奥さまを、ですか?」
「はい。どうして黒部峡谷なのか、どうして一泊二日なのか、どうして俺たち二人だけなのか」
「確かに、少し不思議ですね」
「少しどころじゃないですよ」
湊が肩を落とす。しろは困ったように笑った。
「ですが……私は、嬉しいです」
「え?」
「ご主人と、こうして二人で旅行に出かける機会は、なかなかありませんから」
しろはそう言って、ホームに停車した新幹線へ視線を戻した。
「ですから、せっかくの機会を大切にしたいと思います」
「…………」
湊は、何も言えなかった。自分だって、嬉しくないわけではない。ただ、それを素直に認めるのが、どうにも照れくさかった。
「……そうですね。 せっかくですし、楽しみましょう」
「もちろんです」
ちょうどそのとき、車内への案内が始まった。二人は並んで新幹線へ乗り込んだ。
◇
東京駅を出発してから、しばらく。新幹線は関東の街並みを抜け、北へと進んでいた。車窓の景色は、ビルや住宅地から、少しずつ広々とした風景へ変わっていく。湊は窓際の席に座り、流れていく景色を眺めていた。横の席には、しろが座っている。
「ご主人、飲み物はいかがですか?」
「ありがとうございます。 いただきます」
しろが差し出したお茶を受け取り、湊は一口飲んだ。
「……それにしても、黒部峡谷ですか」
「紅葉が綺麗なところだと伺いました」
「俺は写真でしか見たことないですね」
「私もです」
しろは窓の外を眺めた。
「どんな景色なのでしょうね」
「さあ……でも、写真を見る限りかなり迫力あると思いますよ」
「楽しみですね」
「はい」
会話が途切れた。けれど、気まずさはなかった。新幹線の走行音を聞きながら、二人は流れる景色を眺めていた。やがて、湊がふと思い出したように口を開く。
「そういえば、しろさん」
「はい?」
「旅行の荷物に、カメラとか入ってます?」
「カメラ、ですか?」
「はい。 せっかく紅葉を見に行くんですし、写真を撮っておこうかなと思って」
「ああ、それでしたら……」
しろは鞄から小さなカメラを取り出した。
「少し小さいですが、こちらを持ってきました」
「……準備よすぎません?」
「旅行の持ち物としては、一般的ではないでしょうか?」
「俺、カメラをで写真を撮るっていう発想すらありませんでしたけど」
「では、私がお撮りしますね」
「え?」
「ご主人のお写真です。 紅葉を背景に撮れば、きっと素敵だと思います」
しろは、ごく自然にそう言った。湊は一瞬、固まった。
「……俺だけでいいんですか?」
「はい?」
「いや、せっかく二人で来たんですから、しろさんも一緒に撮りましょうよ」
言ってから、湊は少しだけ顔を背けた。しろは目を丸くしたあと、柔らかく微笑んだ。
「……そうですね。 では、二人で撮りましょう」
「はい」
窓の外では、山の稜線が遠くに見え始めていた。これから向かう富山には、どんな景色が待っているのだろう。
紅葉に染まる山々。
黒部川の渓谷。
温泉の街並み。
そして、一泊二日の間、ずっと隣にいるしろ。湊は、窓に映った自分の顔を見た。どうやら、自分が思っていた以上に、この旅行を楽しみにしているらしい。
「ご主人?」
「はい?」
「何だか、嬉しそうですね」
「……そうですか?」
「先ほどから、ずっと笑っていらっしゃいますので」
「いや、そんなことは……」
湊は慌てて表情を引き締めた。しかし、しろはくすくすと笑っている。
「大丈夫ですよ、私も楽しみですから」
「……そうですね」
湊は再び窓の外へ目を向けた。新幹線は、秋の景色の中を走り続けている。両親の思惑が何であれ。この旅行が、二人にとって特別な時間になることだけは、間違いなさそうだった。
――もっとも、まだこの時点では、湊は知らない。
この旅行で自分が何度しろのことを意識することになるのか。そして、帰国した両親に旅行の感想を尋ねられた際、どれほど面倒なことになるのか。それは、また別のお話である。
◇
新幹線が黒部宇奈月温泉駅に到着したのは、午前十時半を少し過ぎた頃だった。
「着きましたね、ご主人」
「東京から乗ってきたと思うと、意外とあっという間でした」
ホームに降りた湊は、見慣れない駅の景色を眺めながら大きく伸びをした。東京駅の喧騒とは違い、こちらはどこか落ち着いた空気が流れている。もちろん駅の周辺には旅行客の姿もあったが、都会の駅に比べればずっと穏やかだ。
「それでは、ここから乗り換えですね」
「はい。 まずは新黒部駅まで歩いて、富山地方鉄道に乗ります」
「ご主人、よく調べていらっしゃいますね」
「父さんが送ってきた旅程表に書いてありましたから」
「……なるほど」
しろは、湊が見せてくれた旅程表へ視線を落とした。そこには、列車の時刻や乗り換え方法、宿泊先の情報まで、ずいぶんと細かく記されている。予約した本人が海外にいるにもかかわらず、準備だけは完璧だった。
「恒一さま、本当にこういうことだけは抜かりがありませんね」
「こういうことだけ、ってところは否定できませんね」
「ご主人?」
「いえ、何でもありません」
父親への小さな皮肉を飲み込み、湊は改札へと向かった。
――息子とメイドを二人きりで旅行に行かせる計画を立てている時点で、何かがおかしい。
そんな疑念は、いまだに消えていなかった。しかし、せっかく用意された旅行である。疑うのは帰ってからでも遅くない。今は目の前の旅行を楽しもう。そう考えた湊は、隣を歩くしろへ声をかけた。
「しろさん、まずは宇奈月温泉まで行きましょう」
「はい、ご主人」
◇
富山地方鉄道に揺られることしばらく。二人は宇奈月温泉駅に到着した。駅を出た瞬間、湊は思わず足を止めた。
「おお……!」
山々に囲まれた温泉街。その向こうには、深い緑の山肌が広がっている。都会ではなかなか見られない景色に、湊は自然と目を奪われた。
「綺麗ですね、ご主人」
「写真で見るのと、実際に来るのとではやっぱり全然違いますよ」
「本当に。 空気まで違うような気がします」
しろはゆっくりと息を吸い込み、周囲を見渡した。普段は朝比奈家の仕事に追われ、休日であっても家事や買い物に出かけることが多い。こうして遠くまで足を延ばし、知らない土地の空気を楽しむ時間は、しろにとっても貴重なものだった。
「では、少し散策しましょうか」
「お昼まで、まだ時間がありますからね」
二人は温泉街の通りを歩き始めた。道沿いには土産物店や飲食店が並び、温泉地らしいのんびりとした雰囲気が漂っている。温泉の湯を利用した施設や、足湯を楽しめる場所もあり、歩いているだけでも旅行気分が高まっていく。
「あ、しろさん。 あそこ、温泉の湯が出ているみたいですよ」
「すごいですね……!」
「せっかくですし、近くで見ていきましょう」
心なしかしろのテンションも少し上がっているらしい。湊はそんなことを考えながら、温泉の湯が流れる場所へ歩を進める。湯気がふわりと立ち上り、あたりにはほのかな温泉の香りが漂っている。
「なんだか、ほんとに温泉に来たんだなって実感しますね」
「ええ。 ご主人と一緒に来られてよかったです」
「……え?」
湊は思わず、しろの顔を見た。しろは何気なく言ったつもりだったらしい。温泉の湯を眺めながら、穏やかに微笑んでいる。
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ……何でもありません」
――そういうことを、さらっと言うのは反則ではなかろうか
湊は心の中でつぶやいた。しろにとっては、主人と一緒に旅行を楽しめて嬉しいという、ただそれだけの言葉なのだろう。しかし、言われた側はそう簡単に受け流せない。ましてや、普段から彼女の何気ない言動に振り回されている湊である。旅の序盤から早くも調子を狂わされていた。
「ご主人、あちらのお店も気になりますね」
「そ、そうですね。 行ってみましょう」
湊は、やや早口で答えた。しろは少し不思議そうに首をかしげたものの、特に追及することなく、彼の隣を歩き始めた。その何気ない仕草に、湊はまた少しだけ心臓を落ち着かなくさせるのだった。
◇
温泉街の散策を楽しんだ二人は、昼食を取るために店へ入った。せっかく富山まで来たのだから、地元ならではの料理を味わいたい。そう話し合った結果、二人が選んだのは、富山の海の幸を楽しめるという店だった。
「富山といえば、やっぱり海鮮ですよね」
「そうですね。 白えびが有名だと聞きました」
「白えび……名前からして美味しそうです」
「ご主人、名前だけで判断なさらないでください」
「食べ物の第一印象は大切ですよ?」
「それもそうですね」
二人はメニューを眺め、それぞれ注文を決めた。湊は白えびを使った料理を中心に、しろは富山湾の海の幸を味わえる御膳を選んだ。やがて料理が運ばれてくる。
「おお……!」
湊の目の前には、白えびを使った料理が並んでいた。透き通るような色合いの白えびは、見た目からして上品だ。
「それでは、いただきます」
「いただきます」
一口食べた湊は、ゆっくりとうなずいた。
「……美味しい」
「本当ですか?」
「はい。 甘みがあって、すごく食べやすいです。 これは当たりですね」
「ふふっ、よかったですね、ご主人」
しろも自分の料理を口に運び、嬉しそうに表情をほころばせた。
「こちらも美味しいです。 魚の味がしっかりしていますね」
「そっちも気になりますね……」
「よろしければ、一口いかがですか?」
「いいんですか?」
「もちろんです」
しろは自分の料理を少し取り分け、湊に差し出した。
「ありがとうございます。 じゃあ、いただきます」
湊はそれを受け取り、口に運んだ。確かに美味しい。そして、何より。こうして二人で食事をしていることが、妙に嬉しかった。普段の朝比奈家であれば、食事の準備をするしろと、それを食べる湊という関係が基本になる。だが、知らない土地の店で、同じメニューを眺め、どれにしようかと相談しながら食事をするのは、いつもの日常とは少し違っていた。
「ご主人?」
「はい?」
「何か、考えごとですか?」
「いえ」
「美味しいなと思って」
「それならよかったです」
しろは柔らかく微笑んだ。その笑顔を見て、湊もつられて笑った。
――こういう時間が、ずっと続けばいいのに
そんなことを思った自分に気づき、湊は慌てて味噌汁を口に運んだ。熱い。
「っ……!」
「ご主人、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。 ちょっと熱かっただけで」
「気を付けてくださいね?」
「分かってます……」
しろは呆れたように言いながらも、心配そうに湊の様子を見ていた。その気遣いがまた嬉しくて、湊は自分の単純さに少々嫌気が差した。旅行というものは、思っていた以上に危険である。景色が綺麗で、食事が美味しくて、隣に好きな人がいる。それだけで、普段なら何でもないことまで特別に思えてしまうのだから。
◇
昼食を終えた二人は、再び温泉街を歩き、黒部川沿いの景色を楽しむことにした。向かった先は、宇奈月温泉を代表する景観の一つ、新山彦橋。赤い橋が深い緑の山々と黒部川に映え、周囲の自然の中でひときわ目を引いている。
「これは……すごいですね」
橋を目の前にした湊は、しばらく言葉を失った。眼下には黒部川の流れ。その両側には山の斜面が迫り、橋の赤色が鮮やかに浮かび上がっている。都会で暮らしていると、これほど大きな自然に囲まれる機会はそう多くない。
「写真を撮りたくなりますね」
しろが鞄からカメラを取り出した。
「じゃあ、俺も撮ろうかな」
湊もスマートフォンを取り出した。まずは景色を一枚。橋と山々、そして黒部川が入るように構図を調整する。何枚か撮影したところで、湊はふと思いついた。
「しろさん」
「はい?」
「せっかくなので、一緒に写真を撮りましょう」
「……そうですね、ぜひ」
しろは微笑み、湊の隣に立った。スマートフォンを構える湊は、何気なく距離を調整する。
もう少し右へ。
もう少しだけ近くへ。
画面の中で、二人の姿が並ぶ。普段の朝比奈家でも、二人が並んで立つことは珍しくない。だが、こうして写真に残そうとすると、どういうわけか意識してしまう。
「ご主人、撮れそうですか?」
「はい。 じゃあ、撮りますね」
湊は画面を確認した。しろはいつもどおり、穏やかな笑顔を浮かべている。自分は――少しだけ、顔が硬い。
「……あれ?」
「どうかなさいましたか?」
「いや、何か顔が固まっちゃってて」
「そうでしょうか?」
「写真の中の俺、なんか妙にぎこちないんですけど」
しろは画面をのぞき込み、くすりと笑った。
「本当ですね。 いつものご主人より、少し緊張していらっしゃるように見えます」
「やっぱりですか……」
「でも、いい写真だと思いますよ」
しろはそう言って、画面に映った二人を見つめた。
「私は、とてもいい写真だと思います」
その言葉に、湊は再び固まった。
――だから、そういうことを……
何度目か分からない心のツッコミを、湊はどうにか飲み込んだ。
「……俺も、嬉しいです」
今度は、誤魔化さずに答えた。しろは一瞬だけ目を見開いたあと、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます、ご主人」
黒部川のせせらぎが、二人の間を静かに流れていく。その後、二人は旧山彦橋周辺の遊歩道にも足を延ばし、角度を変えながら何度も景色を眺めた。橋を渡る列車の姿を見つけては足を止め、山の稜線を見上げては写真を撮る。しろは景色を撮影する合間に、湊の後ろ姿も何枚か撮っていた。
「しろさん、今、俺を撮りましたね?」
「はい」
「即答ですね……」
「ご主人の旅行中のお姿も、思い出として残しておきたいので」
「……そ、そうですか」
何も言い返せなかった。本人はごく自然に言っているのだろう。だが、湊にとっては破壊力が高すぎる。この旅行を計画した両親が、もしも今の二人を見ていたなら。きっと、満足げにうなずいているに違いなかった。
◇
午後三時を回る頃、二人は宿へ向かうことにした。今日の宿泊先は、両親が手配した黒部川沿いの旅館だ。旅館へ続く道を歩きながら、湊はふと隣を見た。しろは、先ほど撮った写真をカメラの画面で確認している。時折、気に入った写真を見つけたのだろうか、嬉しそうに微笑んでいた。
「しろさん、写真、気に入りました?」
「はい、どれも素敵に撮れています」
「それならよかったです」
「特に、ご主人と一緒に撮った写真は大切にしたいと思います」
湊は足を止めかけた。しかし、ここで立ち止まれば、また心配される。そう判断した彼は、何事もなかったかのように歩き続けた。湊は前を向いたまま、心の中で叫んでいた。
――誰か、この旅行に恋愛耐性というものを持参する必要があると教えておいてほしかった
もちろん、そんなものを教えてくれる人間は、今この場にはいない。いるのは、何も知らずに楽しそうに歩くしろと、彼女の一言一言に振り回されている自分だけだった。
やがて旅館が見えてくる。黒部川の流れを間近に感じられる、落ち着いた佇まいの宿だった。
「素敵な旅館ですね、ご主人」
「ですね。 父さん、こういうところを探すのは上手いんだよな……」
「浩一さまに、お礼を申し上げなければいけませんね」
「……そこは、そうですね」
湊は苦笑した。父親の思惑はともかく、宿も景色も申し分ない。そして、隣にはしろがいる。旅行はまだ始まったばかりだ。このあと、温泉に入って、夕食を食べて、夜の黒部川を眺める時間もある。そう考えただけで、湊の胸は少しだけ弾んだ。同時に、これ以上しろを意識してしまったら、果たして自分は平静を保てるのだろうかという不安もあった。
「ご主人、どうかなさいましたか?」
「いえ……明日も楽しみですね」
「はい。 明日も、よろしくお願いいたします」
しろは、いつもの穏やかな笑顔でそう答えた。湊もなんとか笑顔を返す。秋の山々に囲まれた宇奈月温泉。美しい景色と、美味しい食事。そして、二人で過ごす特別な時間。両親の思惑に乗せられた旅行だったとしても、今の湊には、素直に楽しみたいと思える理由があった。――こうして、富山旅行の初日は、ゆっくりと午後の時間へ進んでいく。
ただし。
このあと待ち受けている温泉と夕食の時間が、湊にどれほどの試練をもたらすことになるのか。それは、まだ誰にも分からない。
五十七話でした。というわけで、今回は富山旅行編の開幕です!夏休み以降学校行事が続いていた本作ですが、今回は舞台を学校の外へ。湊としろの二人きりの旅行という、いつもとは少し違ったシチュエーションをお届けします。さて、今回の旅行を手配した朝比奈夫妻。息子と、息子のそばにいるしろに、ゆっくり羽を伸ばしてほしい。もちろん、それも本心でしょう。しかし、二人きりで一泊二日。……本当に、それだけが目的なのでしょうか?海外にいながら息子の恋愛事情にまで気を配る両親。もはや国際的な規模で進行する外堀埋め作戦です。というか、この二人の関係に気づいてたんですね。頑張れ、湊。君の知らないところで、君の両親はなかなかに手強いぞ。そしてしろ。どうか旅行中も、いつもの調子を忘れずに。……いや、いつもの調子を忘れたほうが、物語的には面白いのかもしれませんね。感想、ブックマーク等お待ちしております。次回もお楽しみに。




