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起きてください、しろさん  作者: アメリカンフットボーラーの威を借るオタク
第三章 二学期
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第五十六話 ただただ自然に

第五十六話です。ひょんなことからお月見会開催が決定し、四人で準備していざ挑まん。月見団子を食べ、他愛もない話に花を咲かせる、穏やかなひととき。それでは、どうぞ。

 秋になった。朝晩はすっかり涼しくなり、制服も夏服から冬服へと切り替わる時期が近づいている。ついこの間まで暑さに文句を言っていたはずなのに、今では朝の布団から出るのがつらい。しろに起こされ、朝食を食べ、学校へ向かう。そんな変わらない日常の中で、ひとつだけ変わったことがある。それは、湊がクローゼットを開けるたび、しろの私服姿を思い出すようになったことだ。……衣替えの記憶をいつまで引きずっているのだろうか、この男は。


◇


「えー、では教科書の百二十六ページを開いてください」


 四時間目、国語。教壇に立つ教師は、教科書を開きながら黒板に文字を書き始めた。


 黒板に書かれた文字は、『月』。


「皆さん、秋といえば、何を思い浮かべますか?」


「食欲の秋!」


「スポーツの秋!」


「睡眠の秋!」


「最後のは年中だろ」


 クラスのあちこちから声が上がる。湊も心の中で、睡眠の秋に一票を投じた。できれば一年中、布団から出ずに暮らしたい。


「まあ、いろいろありますね。 では、もう少し季節を限定して、秋の夜に行われる行事といえば?」


「お月見!」


 教室の後ろのほうから声が上がった。


「そう、お月見です」


 教師は満足そうに頷いた。


「旧暦の八月十五日に行われる十五夜は、中秋の名月とも呼ばれます」


「昔から、月を眺めながら収穫に感謝したり、団子やススキを供えたりする風習がありました」


 黒板に「十五夜」「中秋の名月」「月見団子」と書き加えられていく。


「ちなみに、月にまつわる文学作品や言葉も数多くあります。 皆さんも、月を見て何かを感じた経験くらいはあるでしょう?」


「先生、月を見てお腹が空いたことならあります!」


「それは月見団子を連想しただけでは?」


 教室に笑いが起きた。教師は苦笑しながら、チョークを置く。


「まあ、そういうのも感性のひとつです。 文学というのは、同じものを見ても人によって感じ方が違う、というところが面白いんですよ」


 湊は窓の外へ視線を向けた。昼間の空に月は見えない。けれど、夜になれば、そこには月が浮かぶのだろう。


 月を眺める。

 団子を食べる。

 ……団子を食べる。


 結局、食欲の秋に帰着してしまった自分の感性に、湊は少しだけ悲しくなった。


「それから、月といえば、こんな言葉を聞いたことはありませんか?」


 教師が黒板の端に、さらりと書いた。


 ――月が綺麗ですね


「あ、聞いたことある!」


「告白の言葉ってやつ?」


「そうですね。 夏目漱石にまつわる逸話として有名な言葉ですが、実際に漱石がそう訳したと確認できる史料があるわけではありません」


 教師は念を押した。


「それでも、月を眺めながら相手に気持ちを伝える、というのは風情がありますね。 直接『好きです』と言うのとは、また違った趣があります」


「先生、そういうの好きなんですか?」


「国語教師ですから、言葉の奥にある気持ちを考えるのは、嫌いではありません」


「なんか大人っぽい!」


「君たちも、いつか分かる日が来ますよ」


 教室が再び笑いに包まれる。湊は頬杖をつきながら、ぼんやりと考えた。月が綺麗ですね。……なるほど。確かに、悪くない言葉だと思う。ただ、自分が誰かに言う姿を想像すると、どうにも気恥ずかしかった。そもそも、月を見ながらそんな言葉を口にする状況が、湊には想像できない。いや、想像できないというより、想像する相手が、すでに決まってしまっていることに気づきたくなかったのかもしれない。


「湊、何ぼーっとしてんだ?」


 隣の席から、優斗が小声で話しかけてきた。


「別に」


「今、誰に言おうかなとか考えてただろ」


「考えてねえよ!」


「声がでかい」


「お前が変なこと言うからだろ!」


 教師がこちらを見た。二人は慌てて教科書に視線を戻す。湊は考えるのをやめた。


◇


 昼休み。湊と優斗が弁当を広げていると、ひまりが飲み物を片手にやってきた。


「ねえ、二人とも。 さっきの国語の授業、聞いてた?」


「聞いてたよ、月の話だろ?」


 湊が答えると、ひまりはぱっと顔を輝かせた。


「そう! 月! お月見!」


「……その反応、まさか」


 優斗が箸を止める。ひまりは机に手をつき、二人の顔を交互に見た。


「ねえ、今日、お月見しない?」


「……やっぱりか」


「いいじゃん! 秋だよ? お月見だよ? 月見団子だよ!」


「最後が一番の目的だろ」


「もちろん!」


 ひまりは堂々と言い切った。隠す気が一切ない。


「だって、せっかく秋なんだし、季節のイベントは楽しまなきゃ損でしょ!」


「まあ、それはそうだけど……」


 湊は考え込んだ。


「……一応聞くけど、誰とやるんだ?」


「もちろん、みんなで!」


 湊は視線を弁当に落とした。しろと一緒に月を見る。それ自体は、何もおかしなことではない。家族のように暮らしているのだから、季節の行事を一緒に楽しむことだってあるだろう。

というか、今までそうしてきた。それなのに。先ほどの国語の授業が、頭をよぎる。


 ――月が綺麗ですね


「……湊?」


「えっ、ああ、何?」


「遠い目をしてらしたけど?」


「してねえよ!」


ひまりはなにかに感づいたらしく、まったく嫌な目をしている。


「ふーん?」


「何考えてる」


「お月見、楽しみだなーって!」


「まだ何も決まってないだろ!」


「じゃあ、決めようよ!」


 ひまりは勢いよくスマートフォンを取り出した。


「まずは日程! それから場所! お団子は買う? それとも作る? せっかくだから、ススキも飾りたいよね!」


「待て待て待て、話が早い!」


「何言ってるの、湊! 季節のイベントは準備から楽しいんだよ!」


 優斗が弁当を食べながら、しみじみと頷いた。


「……ひまりのこういうときの行動力には頭が上がらないね」


「でしょ!」


「褒めてないぞ」


 ひまりはまったく気にしていなかった。そして、湊に向き直る。


「ね、湊。しろさんにも聞いてみてよ!」


「……俺が?」


「うん。湊から誘ったほうが、しろさんも喜ぶと思うし!」


「いや、別に俺じゃなくても……」


「湊」


 ひまりが、少しだけ声を落として色のない目をする。


「一緒に楽しみたい人がいるなら、ちゃんと誘わなきゃ」


「…………」


 その言葉に、湊は口を閉じた。ひまりはすぐに、いつもの明るい笑顔に戻った。


「まあ、難しく考えなくていいから! みんなでお月見しようって、それだけ!」


「……分かったよ。 しろさんに聞いてみる」


「やった!」


 ひまりは両手を合わせて喜んだ。優斗も「団子があるなら俺は参加」と勝手に参加を決めている。


 こうして、秋の一大イベントが、昼休みの教室であっさりと企画されてしまった。湊は窓の外を見上げた。昼間の空は、相変わらず青い。ふと、今日の夜空を想像してしまう。しろと一緒に、月を見る。そして、もしも。もしも、あの言葉を口にするとしたら。


「……いやいやいや」


 湊は小さく首を振った。何を考えているんだ、俺は。たかがお月見、団子を食べて、月を眺めて、みんなで楽しく過ごす。それだけの話である。


「湊、どうした?」


「……何でもない」


 優斗に尋ねられ、湊は弁当の残りを口に運んだ。秋の夜は、まだ少し先だ。けれど、その夜が来るのを、ほんの少しだけ楽しみにしている自分がいた。


◇


  放課後。


「いやー、まさか学校で月見の話を聞くとは思わなかったな」


 鞄を肩に掛けながら、優斗が伸びをした。


「国語の授業なんだから、別に不思議じゃないだろ」


「いや、そうなんだけどさ」


「なんかこう、月を見ながら団子を食べるだけでイベントになるって、よく考えたらすごくないか?」


「それを言ったら、クリスマスだってケーキを食べるイベントだぞ」


「クリスマスにはプレゼントがあるだろ!」


「団子にも夢がある」


「団子に夢を見いだすなよ」


 そんなくだらない会話をしながら、三人は校門を出た。湊の隣を歩くひまりが、楽しそうに笑う。


「でも、みんなでお月見っていいイベントと思うんだよね。 お月様を見ながらお団子食べて、秋の夜をのんびり過ごすの」


「まあ、確かに悪くないな」


「でしょ? しろさんも一緒なら、もっと楽しいと思う!」


 その言葉に、湊は少しだけ歩く速度を緩めた。『しろさんも一緒に』というワンフレーズを、思ったよりも素直にいいなと思ってしまったからだ。


「ほら、早く帰ろう! お月見の計画、しろさんに話さなきゃ!」


 その声に、湊は足を速めた。


◇


「お帰りなさいませ、皆様。 お疲れさまでした」


 玄関の扉を開けると、いつものようにしろさんが出迎えてくれた。落ち着いた色のエプロンを身につけ、柔らかく微笑んでいる。たったそれだけの光景なのに、学校から帰ってきたという実感が妙に湧いてくる。


「ただいま、しろさん」


「ただいまー、しろさん!」


「お邪魔します、しろさん!」


「皆さま、夕食まではまだお時間がありますので、どうぞごゆっくりお過ごしください」


 しろさんは俺たちの鞄を受け取ろうとしたが、ひまりが一歩前に出た。


「しろさん! 今日は大事なお話があるんです!」


「大事なお話、ですか?」


「はい!」


 ひまりは勢いよく頷いた。そして、俺のほうを振り返る。


「湊、お願い!」


「……俺が言うのか?」


「湊が誘うって話だったでしょ?」


「はいはい」


 湊は一度咳払いをして、しろに向き直る。


「しろさん。 今日なんですけど、俺たち四人でお月見をしませんか?」


「……お月見、ですか?」


「うん! 学校でお月見の話になってさ、せっかくだから、みんなでやろうって!」


 ひまりが横から説明を加える。優斗もすかさず頷いた。


「そうそう。 団子を食べて、月を見て、風流な夜を過ごすわけですよ」


 しろは少し困ったように笑った。それから、三人の顔を順番に見つめる。


「皆さまで、お月見……」


 その言葉を、しろは小さく繰り返した。


「はい。 ご迷惑でなければ、ぜひご一緒させてください」


「やったー!」


 ひまりが両手を上げる。優斗も拳を握った。


「よし、これで参加者は四人! あとは団子を確保するだけだ!」


「まだ何も決めてないだろ」


「団子だけは譲れない」


「お前のお月見、団子が主役じゃないか」


「月は背景だ」


「風流を返せ」


 いつものように言い合う俺たちを見て、しろさんは楽しそうに目を細めた。


「では、皆で準備をいたしましょうか。 お団子のほかにも、何かご用意したほうがよろしいでしょうか?」


「そうですね……お月見だから、ススキとか?」


「いいですね、ひまりさま。 花瓶に飾れば、きっと雰囲気が出ると思います」


「あと、飲み物も欲しいな、温かいお茶とか」


「優斗さま、それでしたら緑茶をご用意いたしますね」


「ありがとうございます、しろさん! さすがです!」


「お前、今の会話で何もしてないのに、一番いい顔してるな」


「しろさんにお礼を言っただけだろ!」


「その顔が問題なんだよ」


 優斗が何を言っても、しろさんは気づかない。……本当に、ある意味すごい男である。


「それでは、買い出しはどういたしましょう?」


 しろさんの問いに、ひまりが元気よく手を挙げた。


「私、湊と一緒に行きたい!」


「……え?」


「すすきとか、お団子とか! 実際に見ながら選んだほうが楽しいでしょ?」


 ひまりはそう言って、俺に笑いかける。


「湊、いいよね?」


「まあ、俺は構わないけど」


「じゃあ決まり!」


「俺も行くぞ!」


 優斗が即座に手を挙げた。


「お前は何を買うんだよ」


「団子の選定には専門家が必要だろ」


「いつから専門家になったんだ」


「今だ」


「自称するな」


 結局、買い出しは俺たち三人で行き、しろさんは家で飾りつけや夕食の準備を進めることになった……と思ったのだが。


「よろしければ、私も途中までご一緒してよろしいでしょうか?」


「え、しろさんも?」


「はい。 お団子やすすきのほかにも、必要なものがあるかもしれませんから」


「じゃあ、みんなで行きましょう!」


 ひまりが即座に賛成した。こうして、結局四人そろって買い出しに出かけることになったのだった。


◇


 近所のスーパーと花屋を回り、俺たちはお月見に必要なものを少しずつ揃えていった。月見団子は、優斗が真剣な顔で選んだ。


「これだ。 やっぱり団子は、このくらいの大きさがいい」


「優斗、さっきから三種類も買おうとしてるけど」


「食べ比べだよ、食べ比べ」


「四人で食べる量じゃないだろ」


「湊、お前はお月見の可能性を狭めている」


「団子で可能性を語るな」


 最終的に、団子は二種類に落ち着いた。ひまりはすすきを選び、しろさんは果物売り場で梨やぶどうを手に取った。


「秋の果物も、少しあるといいですね」


「いいですね! 私、ぶどう食べたいです!」


「じゃあ、ぶどうも買おう」


「湊、梨も買ってもらおう」


「お前、さっきから食べることしか考えてないな」


 そんなやり取りをしながら買い物を終えたころには、空が少しずつ夕焼けに染まり始めていた。家に戻ると、四人は手分けして準備を始めた。ひまりはすすきを花瓶に飾り、優斗は買ってきた団子を皿に並べる。しろは果物を洗って盛りつけ、湊は居間のテーブルを片づけた。


「湊、そっちのテーブル、もう少し窓際に寄せてくれる?」


「これくらい?」


「うん! そこなら、窓から月が見やすそう!」


「なるほど。 じゃあ、椅子も少し動かすか」


「ご主人、こちらのお皿をお願いしてもよろしいでしょうか?」


「はい、しろさん」


 皿を受け取りながら、湊はふと手を止めた。四人で何かを準備する。それ自体は、これまでにも何度かあったはずだ。夏祭りの準備だってそうだったし、学校の行事だってそうだ。けれど、今日は少し違う気がした。学校でもなく、特別な行事の会場でもない。ここは湊の家で、しろがいて、優斗とひまりがいて、これから一緒に月を見るために準備をしている。その事実に、どこか胸が温かくなった。


「……ご主人?」


「え?」


 顔を上げると、しろさんが不思議そうにこちらを見ていた。


「どうかなさいましたか?」


「いえ、何でもないです」


「そうですか?」


「はい」


 俺は受け取った皿をテーブルに置いた。窓の外では、夕焼けがゆっくりと薄れていく。まだ、月は見えない。それでも、主役の登場が少しだけ楽しみになっていた。来年も、こうして誰かと月を見られたらいい。そんなことを、ほんの少しだけ考えた。


◇


   夜。朝比奈家の庭先には、小さなテーブルが用意されていた。テーブルの上には月見団子に秋の果物、温かい緑茶。花瓶には、ひまりが選んだすすきが飾られている。そして、その向こうにはというと。


「おおーっ! 見ろよ、湊! 月がめちゃくちゃ綺麗だぞ!」


「声がでかい。 近所迷惑だろ」


「お前、風流という概念をどこに置いてきたんだ?」


「お前と話してる時点で、だいたい失われてる」


「ひどくない!?」


 優斗の声が夜空に響き、湊が呆れた顔をする。そんな二人を見て、ひまりはくすくすと笑った。


「もう、二人とも。 せっかくのお月見なんだから、仲良くしようよ」


「俺は仲良くしてるぞ。 こいつが一方的に風流を破壊してるだけで」


「優斗、今日ずっとそれ言ってない?」


「よし、わかった。 俺はこれから一言もしゃべらない」


「それ、十分もつか?」


「十分もたないに一票!」


 ひまりが手を挙げた。


「おい、ひまりまで!」


「だって優斗、絶対しゃべるもん!」


「……くっ、俺の信用がない!」


 大げさに肩を落とす優斗を見て、今度はしろまで笑ってしまった。


「ふふっ。 皆さま、本当に仲がよろしいですね」


「しろさん、こいつとは腐れ縁ですよ」


「おい、湊。 俺たちの友情をそんな一言で片づけるなよ」


「じゃあ、親友」


「……うむ、よろしい」


「何で上からなんだよ」


 再び始まる二人のやり取り。しろは湊の隣でお茶を注ぎながら、楽しそうに目を細めていた。こうして四人で集まるのは、決して初めてではない。けれど、学校の行事とも、夏祭りのような賑やかな催しとも違う。誰かが何かを競うわけでもなく、特別な目的があるわけでもない。ただ、月を見て、食べて、話す。そんな時間が、今夜は不思議と心地よかった。


「そういえば、しろさんって、お月見したことあるんですか?」


 ひまりが尋ねた。


「はい、以前にも何度か。 ですが、こうして皆さまと一緒にするのは初めてですね」


「えっ、そうなの?」


「はい。 これまでは、窓から月を眺めるくらいでしたので」


「じゃあ、今年は特別ですね!」


 ひまりが嬉しそうに笑う。


「そうですね、皆さまとご一緒できて、嬉しいです」


 しろの言葉に、湊は何気なく彼女の横顔を見た。月明かりに照らされた横顔は、いつもより少し柔らかく見えた。いつも家で顔を合わせているはずなのに、こうして外で、同じものを眺めているだけで、どこか違って見える。湊はその理由を考えかけて、やめた。考えたところで、答えが出る気がしなかったからだ。


「湊、団子食べないのか?」


「食べるよ。 お前が食べすぎなんだよ」


「何を言う、俺は月見団子の普及に貢献しているんだ」


「お前一人が普及しなくても、団子は十分売れてる。 団子の売り上げを心配する高校生、初めて見たわ」


 ひまりが笑い、しろも口元を押さえて笑った。優斗は不服そうな顔をしながらも、結局もう一つ団子を手に取った。


 澄んだ夜空に、月が浮かんでいる。その光は、誰か一人だけを照らすものではない。ここにいる四人を、同じように照らしていた。


「……願いごと、してみよっかな」


 ひまりがぽつりと言った。


「ちょっと待て、お月見は願い事をするイベントじゃないぞ」


「わかってるけど、これだけ自信満々に輝かれてると、なんでも叶えてくれそうな気がしてさ」


「ロマンチストだなぁ」


 優斗が遠い目をして反応する。


「何かあるのか?」


 湊が尋ねると、ひまりは一瞬だけ彼を見た。それから、いつもの明るい笑顔に戻る。


「ううん、秘密!」


「何だよ、それ」


「願いごとは、口に出すと叶わなくなるかもしれないでしょ?」


「それも別に、お月見の決まりじゃないぞ」


「いいの! 私がそう決めたの!」


「無茶苦茶だな……」


 湊は苦笑した。ひまりはそんな湊を見ながら、心の中で小さく願った。来年も、こうして一緒に月を見られますように。そして、できることなら。そのときには、今より少しだけ近くにいられますように。


◇


 談笑を続けているうちに、夜もだいぶ更けてきた。気づけば時計の針がずいぶん進んでいる。


「さて、そろそろ帰るか」


 優斗が空になった湯呑みを置いた。


「そうだね。 あんまり遅くなると、家の人に心配されちゃうし」


 ひまりも頷き、立ち上がる。


「しろさん、今日はありがとうございました! すっごく楽しかったです!」


「こちらこそ、ありがとうございました。 ひまりさま」


「団子もお茶も最高でした! また呼んでください!」


「優斗、お前は団子が食べたいだけだろ」


「違う! 俺は朝比奈家の温かい団らんをだな……」


「団子がある団らん、だろ」


「湊、お前、俺のことを何だと思ってるんだ!」


「団子に人生を捧げた男」


「そこまでじゃない!」


 最後まで騒がしい二人に、ひまりが笑いながら手を振った。しろも玄関まで二人を見送りに出る。


「それでは、お気をつけてお帰りください」


「うん! しろさんも、おやすみなさい!」


「おやすみなさい、しろさん」


「またな、湊!」


「はいはい、またな」


 ひまりと優斗が帰り、玄関の扉が閉まった。静かになった家の中で、湊はふうっと息を吐く。


「……賑やかだったな」


「そうですね」


 しろは微笑んだ。


「ですが、楽しい時間でした」


「俺もです」


 湊は少し考えてから、庭のほうへ目を向けた。


「……せっかくだし、もうちょっと月を見ていきませんか?」


「はい。 私も、もう少し眺めていたいと思っておりました」


 二人は再び庭先へ戻った。テーブルの上は片づけられ、すすきだけが静かに揺れている。さっきまで四人で囲んでいた場所に、今は二人しかいない。夜風が、少しだけ冷たかった。


「もう秋ですね」


 しろが月を見上げながら言った。


「ええ。 ついこの間まで、あんなに暑かったのに」


「時間が経つのは早いですね」


「……そうですね」


 湊は頷いた。しろと一緒に暮らすようになってから、もう何年も経つ。彼女が家にいることは当たり前。


 朝、起こしに来てくれる。

 帰れば出迎えてくれる。

 何気ない話に付き合ってくれる。


 そのすべてが、日常だった。けれど最近は、その日常が少しずつ違って見えることがある。隣にいるしろのことを、ふと目で追ってしまう。笑っていると、こちらまで嬉しくなる。いつかこの時間がなくなってしまうことを考えると、ほんの少しだけ寂しくなる。湊は、そうした気持ちにまだ名前をつけられずにいた。だから、口から出たのは、何の気なしの一言だった。


「……やっぱり、月が綺麗ですね」


 しろが、ぴたりと動きを止めた。


「……え?」


 聞き返した声が、ほんのわずかに上ずる。湊は月を見上げたまま、何も気づいていない様子で続けた。


「いや、思ってたより綺麗だなって。 雲もないし、ほんと今日はよく見えますね」


「そ、そうですね……!」


 しろは慌てて頷いた。頬が、じわじわと熱くなる。


 ――月が綺麗ですね


 その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。もちろん、月を褒めただけなのだろう。ご主人は、そういう意味で言ったわけではない。分かっている。分かっているのに。昼間のひまりの話を、そして今、隣で月を眺めている湊の横顔を思い出してしまう。


「し、しかし、本当に綺麗なお月様ですね!」


「ですよね。 やっぱりいいな、こういうの」


「は、はい……!」


 しろは返事をしながら、湊からそっと視線を逸らした。


 落ち着け。

 落ち着くのです、雪代しろ。

 ご主人は月の話をしているだけ。

 月の話をしているだけなのだから。


 そう自分に言い聞かせても、頬の熱はなかなか引いてくれなかった。一方の湊は、しろの様子に気づくことなく、のんびりと夜空を眺めていた。


「来年も、こうやって見られるといいですね」


 何気なくこぼした言葉に、しろは再び顔を上げた。


「……来年も、ですか?」


「はい。 来年も、みんなで」


 湊はそう言って、穏やかに笑った。しろは胸の奥が、ふわりと温かくなるのを感じた。


「……そうですね。 来年も、皆さまとご一緒できたら嬉しいです」


 今度は、ちゃんと笑えた。月明かりの下、二人は並んで夜空を見上げる。来年も一緒に。それは、まだ約束と呼ぶにはささやかな言葉だった。けれど、しろにとっては、今夜の月と同じくらい、心に残る言葉になったのだった。

第五十六話でした。体育祭が終わり、衣替えを済ませ、今回は秋のイベントとしてお月見をお届けしました。いやあ、いいですね、お月見。秋の夜空に浮かぶ月。月見団子。すすき。そして、何気ない一言にちょっと(ちょっと?)だけ心を揺らすヒロイン。非常にいい。さて、今回のお話には、ひとつ触れておきたいことがあります。以前、物語の中でお月見バーガーを食べたことを覚えているでしょうか?そう、あのお月見バーガーです。当時は季節の風物詩として登場した、何気ない食事のシーン。しかし今回、ついに本物のお月見へとつながりました。……え?伏線?いや、まあ、厳密に言えば、最初から壮大な計画を立てていたというより、過去のエピソードを振り返ったときに「そういえば、以前お月見バーガーを食べていたな」と思い出したわけですが。でも、こういうのも物語の面白いところですよね。そのときは何気なく書いた場面が、後になって別のエピソードとつながる。読者の皆さんに「おっ、あのときの!」と思っていただけたなら、作者としては嬉しい限りです。

 さて、今回の本題。やはり、最後の「月が綺麗ですね」です。国語の授業で聞いた言葉を、湊が何気なく口にする。湊にとっては、ただ月が綺麗だったから出てきた言葉。それ以上でも、それ以下でもありません。ところが、聞いた側はそうとは限らない。言葉というのは不思議なもので、話す側が何も考えていなくても、聞く側にとっては妙に心に残ることがあります。ましてや、相手が普段から気になっている人だったら、なおさらです。しろも、湊が特別な意味を込めて言ったとは思っていないはずです。それでも、ほんの少しだけ考えてしまう。――もしかして?そして、すぐに自分で打ち消す。このくらいの距離感が、今の二人にはちょうどいいのかなと思っています。湊はまだ、自分の気持ちをはっきりと言葉にできていません。しろもまた、湊に対して抱いている感情を、明確に恋だと認識しているわけではありません。それでも、二人の間には少しずつ変化が生まれている。今回のお月見は、その小さな変化を描くお話でした。

 そして、ここで忘れてはいけないのが、「来年も一緒に」というフレーズ。今年のお月見が楽しかったから、来年もまた同じように過ごせたらいい。そんな願いは、特別な告白よりもずっとささやかで、だからこそ大切なのかもしれません。来年の十五夜、湊としろはどんな関係になっているのでしょうか。というわけで、今回はここまで!感想、ブックマーク等お待ちしております。それでは次回もお楽しみに。

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