第五十四話 体育祭後編
第五十四話です。体育祭、ようやく閉幕!優勝を目指して頑張った湊たち。競技に応援に大忙しだったしろ。そして、いつも以上に騒がしかった優斗とひまり。そんな一日が終わり、朝比奈家に帰ってきた湊としろ。学校ではなかなか口にできない気持ちも、家に帰れば少しは素直に伝えられる……かもしれない。体育祭編、最後のお話です。
最後の種目である保護者参加の徒競走が終わるころには、朝から晴れ渡っていた空も少しずつ夕方の色を帯び始めていた。
「……終わったぁぁぁぁ!」
グラウンドに、優斗の叫び声が響き渡った。
「まだ閉会式が残ってるぞ」
「競技が終わったんだから実質終わりだろ! 俺の中ではもう閉会式だよ!」
「お前の中の体育祭を基準にするな」
湊は呆れながらも、肩を回した。綱引きにリレー、玉入れに騎馬戦。自分が出場した競技だけでも十分に疲れたというのに、朝からずっとグラウンドを駆け回っていたのだ。
さすがに足が重い。
それでも、不思議と嫌な疲れではなかった。クラスのみんなと声を張り上げ、勝って喜び、負けて悔しがった。いつもの授業では味わえない一日だった。
「湊、足大丈夫?」
隣からひまりが顔を覗き込んできた。
「ん? ああ、大丈夫だよ、ちょっと疲れただけ」
「そっか。 リレーも騎馬戦も頑張ってたもんね」
「騎馬戦は結局、帽子取られて終わったけどな」
「それは言わない約束だろ!」
横から優斗が割り込んできた。
「俺たちの敗北をいつまでも掘り返すんじゃない! 男にはな、忘れたい過去の一つや二つあるんだよ!」
「一つや二つどころじゃないだろ、お前の場合」
「湊、お前、今日ちょっと俺に厳しくない!?」
「いつもどおりだよ」
そんなやり取りをしていると、グラウンドの中央に設置された本部席から、マイクの音が響いた。
『生徒の皆さん、先生方、そしてご来場の保護者の皆様。これより、体育祭の閉会式を行います』
ざわついていた生徒たちが、少しずつ整列を始める。湊たちも自分たちのクラスの列へと戻った。その際、湊は観覧席のほうへ目を向ける。そこには、ひまりと一緒にこちらを見ているしろの姿があった。
先ほどの徒競走で一位を獲得した彼女は、今はいつもどおり落ち着いた様子で、ほかの保護者たちと並んでいる。目が合うと、しろは小さく会釈した。湊も、軽く手を振り返す。
「……何ニヤニヤしてんの?」
「してねえよ」
「いや、今のは完全にニヤけてた。 俺は親友だからわかる」
「親友なら黙ってろ」
「ひまりさーん! 湊がまたしろさんと目で会話してまーす!」
「優斗!」
「ほんと仲がいいね、二人とも」
「ひまりまで!?」
そんな騒がしいやり取りも、整列を促す先生の声によって、ようやく収まった。やがて校長先生の挨拶が始まり、続いて体育祭実行委員長からの講評が行われた。そして、いよいよ閉会式の最後のプログラムが告げられる。
『それでは、体育祭の総合順位を発表します』
その瞬間、グラウンドの空気が変わった。疲れ切っていた生徒たちが顔を上げ、あちこちで小さなざわめきが起こる。
全校十五クラス。
一年生から三年生まで、それぞれ五クラスずつが競い合った今日の体育祭。そのすべての競技結果を集計した、最終順位の発表である。リレーや綱引きといったクラス対抗競技はもちろん、個人種目の成績も得点に反映される。そして、今年は保護者参加の競技も例外ではなかった。
つまり。
しろが圧倒的な走りで獲得した一位も、二年C組の総合得点に加算されているのだ。
「……さて、どうなるかな」
湊が呟く。
「俺たちはリレーで一位だったからな。 これは期待できるぞ」
優斗が腕を組んだ。
「でも、騎馬戦は四位だったよね」
ひまりが冷静に指摘する。
「ひまりさん、そういう正論は時として人を傷つけるんですよ」
「ごめんごめん」
ひまりは笑いながら謝った。もっとも、C組の成績が良かったのはリレーだけではない。綱引きでも勝利を収め、玉入れでも上位には届かなかったものの、まずまずの結果を残している。一方、個人種目には得意不得意があり、騎馬戦では思うような結果を残せなかった。
さらに、ほかのクラスの成績もある。
十五クラスすべての結果を知っているわけではない以上、総合順位は予想しきれなかった。だからこそ、発表を待つ生徒たちの表情には、期待と不安が入り交じっていた。本部席の先生が、手元の用紙を確認する。
『なお、時間の都合上、総合順位については上位三クラスのみ発表します』
その説明に、グラウンドがざわついた。
「トップスリーだけか」
「まあ、十五クラス全部発表してたら時間かかるしな」
湊たちも顔を見合わせる。つまり、ここで名前を呼ばれなければ、今日の総合順位は四位以下ということだ。先生がマイクを持ち直す。
『それでは、まずは第三位――』
グラウンドが静まり返る。十五クラスの生徒たちが、一斉に本部席へ視線と耳を向けた。湊は知らず知らずのうちに拳を握っていた。優斗も、先ほどまでのふざけた表情を引っ込めている。ひまりは静かに前を見つめていた。そして、観覧席では、しろが湊たちのクラスの様子を見守っていた。
朝から始まった体育祭も、いよいよ最後の瞬間を迎えようとしている。果たして、二年C組はトップスリーに食い込めるのか。
◇
『それでは、第三位を発表します!』
体育祭実行委員長の声が、グラウンドに響き渡った。十五クラスの生徒たちが、固唾をのんで見守る。
『第三位――三年B組!』
拍手が起こり、三年B組の生徒たちが互いに顔を見合わせた。惜しくも優勝には届かなかったものの、最後まで健闘した結果に、あちこちから歓声が上がる。そして、残るは二クラス。湊は無意識のうちに拳を握りしめていた。
「……頼む」
隣で優斗も、珍しく真剣な表情を浮かべている。
「ここまで来たら、優勝しかないだろ……!」
「いや、二位の可能性もあるからな」
「そういう冷静なツッコミは今いらない!」
ひまりは二人のやり取りを聞きながら、静かに笑っていた。綱引きで優勝。クラス対抗リレーでも優勝。玉入れは三位。騎馬戦では四位に終わったものの、個人種目でもクラスメイトたちは健闘した。そして何より、保護者参加の徒競走では、しろが圧倒的な走りで一位を獲得している。もちろん、それだけで総合優勝が決まるわけではない。ほかのクラスだって、それぞれの競技で得点を重ねてきたのだ。だからこそ、最後まで結果はわからなかった。
『続いて、準優勝――』
委員長が、手元の用紙に目を落とす。ほんの数秒の沈黙が、妙に長く感じられた。
『二年A組!』
「おおおおおっ!」
グラウンドに歓声が広がった。二年A組の生徒たちは、悔しそうな表情を浮かべながらも、互いに健闘をたたえ合っている。その瞬間、湊は息をのんだ。
準優勝が二年A組。
ならば、残る一クラスはいったい――
『そして、総合優勝は……』
委員長が、ゆっくりと顔を上げた。
『二年C組です!』
「…………」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
「…………え?」
湊が間の抜けた声を漏らした。隣では優斗が、目を見開いて固まっている。ひまりも、口元に手を当てたまま動かなかった。そして、数秒後。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
二年C組の列から、地鳴りのような歓声が上がった。
「優勝だあああああ!」
「マジかよ! 俺たち優勝したぞ!」
「やったあああああ!」
クラスメイトたちが、次々と拳を突き上げる。隣の生徒と抱き合う者。飛び跳ねる者。思わずしゃがみ込んでしまう者。喜び方は人それぞれだったが、誰もが笑顔だった。
「やったな、湊!」
優斗が、湊の肩を力いっぱい叩いた。
「痛っ! お前、力強すぎ!」
「細かいことはいいんだよ! 優勝だぞ、優勝!」
「わかってるって!」
湊も、思わず笑みをこぼした。リレーで勝ったときとは、また違う喜びだった。自分たちだけが頑張ったわけではない。クラス全員が、それぞれの競技で力を尽くした。その積み重ねが、十五クラスの頂点という結果につながったのだ。
「湊!」
ひまりが、弾むような声で呼びかけた。
「私たち、優勝だよ!」
「ああ!」
「すごいね! 本当に優勝しちゃった!」
ひまりは満面の笑みを浮かべた。そんな彼女を見て、湊も自然と笑顔になる。すると、優斗が急に真面目な顔をした。
「……いや、待てよ」
「何だよ、今度は」
「俺たちが優勝したってことは、つまり……」
「つまり?」
「今日の俺たち、学校中で一番輝いていたってことだ!」
「お前、今の今まで騎馬戦の敗北を引きずってただろ!」
「優勝したから帳消しだ!」
「そんな都合のいいルールあるか!」
周囲のクラスメイトたちからも笑い声が上がった。それでも、誰も優斗の言葉を否定しなかった。少なくとも今日一日、二年C組は間違いなく輝いていたのだから。やがて、優勝クラスの代表として、湊たちのクラス委員が表彰状を受け取りに向かった。
拍手の中、表彰状が手渡される。
クラス委員がそれを掲げると、C組の生徒たちは再び歓声を上げた。湊は、その様子を眺めながら、ふと観覧席へ視線を向けた。しろはほかの保護者たちと一緒に拍手を送りながら、湊と目が合うと、柔らかく微笑んだ。そして、小さく口を動かした。
――おめでとうございます、ご主人。
声は届かなかった。けれど、何を言ったのかはわかった。湊は少し照れくさくなりながらも、笑顔で頷いた。今日一日、クラスのみんなと競い合い、喜び合い、全力で楽しんだ。そして、その最後に待っていたのが、この結果だった。
優勝。
その二文字は、湊にとって、思っていた以上に嬉しいものだった。
◇
閉会式が終わると、体育祭は本当の意味で終わりを迎えた。……とはいえ、学校行事というものは、優勝したからといってすぐに帰れるほど甘くない。
『各クラス、使用した用具の片付けと、担当区域の清掃をお願いします!』
放送が流れた瞬間、グラウンドのあちこちから、疲れ切った生徒たちの声が上がった。
「ですよねー……」
優斗が天を仰いだ。
「何を当たり前のことに驚いてるんだよ」
「いや、心のどこかで優勝クラスには特別休暇が与えられるんじゃないかと……」
「どこの王様だ、お前は」
「優勝したんだから、もう少し待遇がよくてもいいと思うんだよ!」
「そんなわけないだろ」
湊は笑いながら、近くに置かれた用具のほうへ歩き出した。二年C組の担当は、グラウンド脇のコーンや競技用具の回収、それから観覧席周辺の清掃だった。生徒たちは、疲れた身体に鞭打ちながらも、手分けして作業を始める。
「コーンはこっちにまとめてくれ!」
「玉入れの玉、まだ落ちてるぞー!」
「誰だ、こんなところにタオル落としたの!」
あちこちで声が飛び交う。湊もコーンを重ね、運搬用の箱へと運んでいった。
「湊、そっち持ってくれ!」
「はいはい」
優斗に呼ばれ、二人で長机を運ぶ。机を所定の場所に戻したところで、優斗が大きく息を吐いた。
「……終わった」
「まだ半分くらいしか終わってないぞ」
「嘘だろ……」
「嘘じゃない」
「優勝の感動が、急速に労働の現実に塗り替えられていく……」
「いいから動け」
「はい……」
そんな二人の姿を、ひまりが笑いながら見ていた。
「でも、こういうのも体育祭って感じがするよね」
「まあな」
湊は頷いた。競技をしているときだけが、体育祭ではない。みんなで準備して、競技をして、片付けまでやって、ようやく一日が終わる。少し面倒ではあるけれど、こういう時間も含めて、今日の思い出になるのだろう。そう思いながら、湊は最後のコーンを運んだ。
そのときだった。
「ご主人、お疲れさまです」
聞き慣れた声に振り返る。そこには、しろが立っていた。
「しろさん?」
「皆さま片付けをされているようでしたので、私も何かお手伝いできればと思いまして」
しろはそう言って、手に持っていた袋を軽く掲げた。
「……それ、何ですか?」
「先生に確認して、回収を頼まれたものを入れています。 ほかにも運べるものがあれば、お申し付けください」
「いやいや、しろさんはもう十分働いたでしょう!?」
湊は思わず声を上げた。今日のしろは、C組のために徒競走へ出場したのだ。しかも、400メートルを全力で走り抜き、圧倒的な一位を獲得している。普通なら、もう休んでいていいはずだった。
「でも、皆さまが頑張っていらっしゃいますから」
しろは、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「私も、少しくらいお手伝いできれば嬉しいです」
その言葉に、湊は一瞬、何も言えなくなった。相変わらず、この人はそういう人なのだ。
頼まれたから走った。
終わったからといって、そこで自分の役目が終わったとは思わない。
周囲が頑張っていれば、自然と手を貸そうとする。
それが、しろという人だった。
「……ありがとうございます、しろさん」
「いえ。 こちらこそ、今日は楽しかったです」
しろが微笑む。その向こうでは、C組の生徒たちがまだ片付けに追われていた。
「おーい、湊! いつまで話してんだー!」
少し離れた場所から、優斗の声が飛んでくる。
「お前も手を動かせー!」
「動かしてるわ!」
「口じゃなくて手を動かせ!」
「ひどくない!?」
湊は苦笑し、しろに向き直った。
「じゃあ、無理のない範囲でお願いします。 前みたいに倒れこまないでくださいよ?」
「はい、ご主人」
しろは嬉しそうに頷いた。そして、二人はそれぞれ片付けへと戻っていく。夕暮れのグラウンドには、競技中のような歓声はもうなかった。代わりに聞こえるのは、用具を運ぶ音と、生徒たちの笑い声。十五クラスが競い合った体育祭は、こうして少しずつ日常へと戻っていく。けれど、二年C組が総合優勝を果たした今日のことは、きっと簡単には忘れられない。そして湊にとっては、クラスのみんなと過ごした時間も、しろと交わした何気ない言葉も。そのどちらも、大切な思い出になっていた。
◇
体育祭が終わった。優勝という最高の結果を持ち帰った二年C組は、最後まで騒がしかった。片付けを終えたあとも、教室では今日の競技の話が尽きなかった。リレーで逆転したこと、騎馬戦で作戦が崩れたこと、そして保護者競技でしろが圧倒的な速さを見せつけたこと。おかげで湊は、帰りのホームルームが終わるまで何度もからかわれる羽目になった。
『朝比奈ぁ、お前のメイドさん、すごかったな!』
『あれ絶対、保護者競技に出ていい人じゃないだろ!』
『最後、ちゃんと受け止めてたのもポイント高かったぞ!』
最後の一言については、全力で否定したかった。別に、受け止めたかったから受け止めたわけではない。転びそうだったから支えただけだ。
……いや、もちろん支えたかったのは事実だが。そんなことを考えているうちに、湊は自分の思考に嫌気が差した。
何を一人で言い訳しているんだ、俺は。
ともあれ、そんな一日もようやく終わり、湊としろは朝比奈家へと帰ってきた。
◇
「お帰りなさいませ、ご主人」
「……ただいまです、しろさん」
玄関で出迎えられることには、もう慣れている。けれど今日ばかりは、いつもの「お帰りなさい」が少しだけ違って聞こえた。朝からずっと一緒にいたはずなのに、家に帰ってきて改めて顔を合わせると、なんだか妙に照れくさい。
「ご主人?」
「いえ、なんでもないです」
「そうですか?」
しろは不思議そうに首を傾げた。その仕草を見て、湊は思わず視線を逸らした。
……今日一日で、何回この人にドキッとさせられたんだろう。
リレーのときも。
昼食のときも。
そして、保護者競技で走り終えたしろを支えたときも。
普段から一緒に暮らしている相手だ。顔だって、声だって、何もかも知っている。それなのに、知らない一面を見るたびに、どうしようもなく意識してしまう。
「ご主人、お疲れではありませんか?」
「俺は大丈夫です。 しろさんこそ、疲れたんじゃないですか? あのあと片付けまで手伝ってくれましたし」
「少しだけ。 でも、楽しかったですよ」
しろは穏やかに微笑んだ。
「皆さんと一緒に競技に参加するなんて、普段はなかなかありませんから」
「……そうですね」
「それに」
「それに?」
「ご主人が頑張っている姿を、近くで見ることができましたから」
湊は固まった。
「……え?」
「リレーも、騎馬戦も、とても格好よかったですよ」
「っ、いや、騎馬戦は帽子取られてましたけど……!」
「それでも、です」
しろは、迷いなく言った。
「ご主人が一生懸命に取り組んでいる姿は、素敵だと思います」
「…………」
まずい。これはまずい。
今日一日、クラスメイトから散々いじられてきたというのに、まさか帰宅してから本人に直接言われるとは思わなかった。しかも、しろは本心から言っている。冗談でも、お世辞でもないと分かる。だからこそ、余計に困る。
「……ありがとうございます」
湊は、どうにかそれだけ返した。しろは満足そうに頷くと、荷物を置くために廊下の奥へと向かった。その背中を見送りながら、湊は小さく息を吐いた。
心臓に悪い。
この人は本当に、自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。
◇
夕食を終えたあと、湊はリビングのソファに座り、今日撮った写真をスマートフォンで眺めていた。
リレーの前に撮った写真。
昼休みに四人で撮った写真。
そして、表彰式のあと、優斗が勝手に撮影したらしい写真。
画面の中では、優斗が満面の笑みを浮かべ、ひまりが楽しそうに笑っている。その隣で、自分も笑っていた。普段、学校でこんな顔をしているのだろうか。少し不思議な気分になった。
「ご主人、何をご覧になっているのですか?」
「ああ、今日の写真です」
飲み物を持ってきたしろが、隣から画面を覗き込む。
「まあ。 皆さん、楽しそうですね」
「ですね。 優斗なんか、ずっと騒いでましたよ」
「それはとてもいいことですよ」
「しろさんが言うと、なんだかすごく納得できます」
二人で小さく笑った。しばらく写真を眺めていると、湊は昼休みに撮った一枚で指を止めた。四人で並んで撮影した写真。湊の隣には優斗がいて、その反対側にはひまり。そして、少しだけ後ろにしろが写っている。何気ない一枚だ。けれど、これからの自分にとっては、きっと大切な写真になる。
「……しろさん」
「はい、何でしょう?」
「今日、来てくれてありがとうございました」
しろが瞬きをした。
「どうして、改めてお礼を?」
「いや……なんとなく、言っておきたくて」
湊はスマートフォンを伏せた。
「体育祭って、学校の行事じゃないですか。 だから、しろさんが来てくれるのは、当たり前じゃないと思うんです」
「……」
「それなのに、競技にも出てくれて、応援もしてくれて。 俺、結構嬉しかったんですよ」
言いながら、少し恥ずかしくなった。こんなことをわざわざ口にする必要があるのだろうか。でも、今日一日を振り返ってみれば、思い当たることはいくらでもあった。
しろが応援してくれていたこと。
自分の走りを見てくれていたこと。
騎馬戦で負けたあとも、笑顔で迎えてくれたこと。
そして、しろ自身もまた、クラスの一員のように笑っていたこと。
「……しろさんがいてくれると、なんか、頑張れるんです」
言葉にしてみると、思っていた以上に本心だった。
「だから……来てくれて、よかった」
しろはすぐには答えなかった。驚いたように目を丸くして、それから、ゆっくりと表情を和らげた。
「……そう言っていただけると、私も嬉しいです」
しろは手元のカップをテーブルに置いた。
「私も、今日の体育祭に参加できてよかったと思っています」
「そうなんですか?」
「はい。 皆さんがご主人のことを大切に思っているのが、よく分かりましたから」
湊は少し照れくさそうに頬を掻いた。
「まあ……友達には恵まれてますね」
「ええ。 白峰さまも、ひまりさまも、ご主人のことをよく見ていらっしゃいます」
「……しろさんも、ですか?」
何気なく尋ねたつもりだった。けれど、口にした瞬間、自分の声が少しだけ小さくなったことに気づいた。しろは不思議そうに湊を見つめる。そして、当たり前のことを答えるように微笑んだ。
「もちろんですよ」
「……」
「私は、ご主人のことをいつも見ています」
湊は思わず顔を伏せた。今日だけで、何度目だろう。この人の何気ない一言に、胸の奥を揺さぶられるのは。
「……それ、ずるいですよ」
「え?」
「いえ、なんでもないです」
しろはまた首を傾げた。どうやら、今の言葉の威力を理解していないらしい。それがしろらしいといえば、しろらしいのだけれど。
◇
「ご主人」
しばらくして、しろが静かに口を開いた。
「今日、私もひとつ、嬉しかったことがあるんです」
「嬉しかったこと?」
「はい」
しろは少しだけ視線を落とした。
「競技が終わったとき、ご主人が私のところへ来てくださったでしょう?」
「ああ……あのときですか」
保護者競技で全力を出し切り、ゴールした直後。足がもつれかけたしろを、湊が支えた。思い出すと、今でも少し恥ずかしい。
「しろさん、あれは……転びそうでしたからね」
「分かっています」
「別に、格好つけようとか、そういうのじゃなくて」
「はい」
「……本当ですからね?」
「ふふっ、疑っていませんよ」
しろは楽しそうに笑った。それから、少しだけ声を柔らかくした。
「でも、嬉しかったんです」
湊は顔を上げた。
「すぐに駆け寄ってきてくださって、心配してくださって」
「……ご主人も私のことを、ちゃんと見ていてくださったのだと思えて」
「……」
「私は普段、ご主人のお世話をする立場ですから、ご主人に心配をおかけするのは、あまりよくないことなのかもしれません」
「そんなことないです」
思わず、湊は口を挟んでいた。
「そんなこと、ないですよ」
しろが驚いたようにこちらを見る。湊は少しだけ言葉に詰まった。うまく説明できる自信はなかった。それでも、伝えたかった。
「俺、しろさんに何かあったら嫌ですから」
静かなリビングに、言葉が落ちる。
「しろさんが元気でいてくれるのが、一番いいです。 俺の世話とか、家のこととか、そういうのはもちろん大事ですけど……それだけじゃなくて」
湊は一度、息を吸った。
「しろさん自身が、楽しく過ごしてくれたら嬉しいんです」
言い終えたあと、急に恥ずかしくなった。もっと気の利いた言い方があった気がする。けれど、これが今の自分に言える精一杯だった。しろはしばらく湊を見つめていた。やがて、その頬がほんのりと赤くなる。
「……ありがとうございます、ご主人」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
「私も……ご主人が楽しそうにしていらっしゃると、嬉しいです」
「……はい」
「学校でのご主人も、家でのご主人も、どちらも私にとって大切なご主人ですから」
湊は微笑んだ。今度は、照れ隠しに目を逸らさなかった。
「……これからも、よろしくお願いしますね、しろさん」
「はい。 こちらこそ、よろしくお願いいたします」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。特別な約束をしたわけではない。好きだと告げたわけでもない。それでも、今日一日を通して、二人は少しだけ知ることができた。自分が相手をどう思っているのか。そして、相手もまた、自分を大切に思ってくれていることを。
「……さて、ご主人。 明日も学校ですから、そろそろお休みになられてはいかがですか?」
「えっ、もうそんな時間ですか?」
「はい。 体育祭でお疲れでしょうし」
「……そうですね、今日は早めに寝ます」
湊は立ち上がり、スマートフォンを手に取った。そして、リビングを出る直前に振り返る。
「しろさん」
「はい?」
「今日は、本当に楽しかったです」
しろは一瞬驚き、それから柔らかく微笑んだ。
「私もです、ご主人」
その笑顔を見て、湊も笑った。明日からは、またいつもの日常が始まる。学校へ行き、友達と騒ぎ、家に帰ればしろが迎えてくれる。何も変わらない日々。
……いや。
もしかしたら、ほんの少しだけ、変わったのかもしれない。少なくとも湊は、今日のことを簡単には忘れられそうになかった。
体育祭の優勝も。
友達と過ごした時間も。
そして何より、帰り道の先にある、この家で交わした言葉も。
明日の朝、しろに「起きてください、ご主人」と起こされるとき。自分はきっと、今日より少しだけ、彼女の顔をまともに見られなくなっているのだろう。
……困る。
体育祭編、完結!!いやあ、長かったですね。書いているこっちも「まだ競技やってるの!?」と思いながら書いていました。綱引きにリレーに玉入れに騎馬戦。さらにはビーチフラッグに保護者競技まで。もはや体育祭というより、朝比奈家関係者による体育祭の蹂躙です。来年は駅伝でもやるんでしょうか。いや、やりません。作者が死にます。そして、我らがしろさん。保護者競技で颯爽と走り、圧倒的な実力を見せつけ、最後には湊に支えられるという、ラブコメのヒロインとしてあまりにも隙のない活躍を見せてくれました。……いや、保護者競技でそこまで本気を出す人、普通いないんですよ。周囲の親御さんも、まさか隣のレーンに本格的な陸上選手みたいな人がいるとは思わなかったでしょう。競技前に年齢を聞いて驚き、競技後に走りを見てさらに驚く。しろさん、保護者の皆さんに二段構えの衝撃を与えております。そして湊。リレーでは頑張り、騎馬戦では帽子を取られ、最後はしろさんを支える。勝ったり負けたり忙しい男ですが、少なくともヒロインを支えるという大事な仕事は果たしました。よかったな、湊。作者からも褒めておこう。さて、今回の後半では、体育祭を終えた二人が家で今日一日を振り返りました。告白があったわけでも、劇的な進展があったわけでもありません。ただ、普段はなかなか口にしない気持ちを、ほんの少しだけ言葉にしてみた。恋愛というのは、必ずしも「好きです!」「私もです!」で一気に進むものではありません。相手の何気ない一言が嬉しかったり、自分のことを見ていてくれたと知って照れくさくなったり。そういう小さな積み重ねが、いつか二人の関係を変えていくのだと思います。……という、たいへん真面目なことを書いてみました。普段の作者なら、ここで優斗を乱入させて「お前らもう付き合えよ!」と叫ばせるところですが、今回は我慢しました。ちなみに、今回の体育祭で最も大きな被害を受けたのは、帽子を奪われた生徒でも、騎馬戦で敗れた湊でもありません。おそらく、湊としろの仲が進展するたびに、読者から「もう付き合え!」と言われ続ける作者です。ええ、分かっていますとも。分かっていますが、ゆっくり進めたいんです。ゆっくり進めて、読者の皆様に「早く進めろ!」と言われる。そして進めたら進めたで「もっとじっくり見せろ!」と言われる。ラブコメ(!?)作家というのは、いったいどうすればいいのでしょうか。……答えは簡単です。書くしかありません。というわけで、体育祭編はこれにて終了!応援してくださった皆様、ありがとうございました。次回からは、またいつもの日常へ。もっとも、この作品の場合、いつもの日常ほど信用できないものもありませんが。感想、ブックマーク等お待ちしております。ではまた次回!




